竜の婚姻











 風に乗って世界を飛び回る竜があった。
 形は小さいが、もう世に生まれてから幾世紀もの齢を重ねた竜であった。
 竜は母親と共に、風の生まれる西の果ての雲の中に棲んでいた。ときおり世界を縦横に飛び回っては、人家と家畜を焼き、人肉を食んだ。
 竜は母親から人間を憎むこと、屠ることだけを教わってきた。



 ある夜、常の通り雲に紛れて風に乗り、肥沃な広野の上空を渡りつつ、竜は、地虫のごとく散らばる人間の民家をどこから焼き滅ぼしてやろうと思案していた。
 そこへ、横合いから流れてくる風が、いとも妙なる響きを乗せて竜の耳をくすぐった。
 竜は風上へ頭を向けた。
 高く低く響く歌声が流れてくる。
 そのたぐいまれなる美声が、竜の気を引きつけた。
 夜目の利く竜の金の眼が、声の主を捜し当てた。
 夜空に突き立つ尖塔の天辺、窓の縁に腰掛けて、年若い娘が風に乗せて歌を放っている。
 そこは近隣に威を放つ王の離宮だった。塔が囚人を幽閉するための場所だとは竜にわかるはずもない。竜は翼を広げて尾をうねらせ、塔へと向かった。
 娘の歌声が近くなる。
 娘は暗い夜の中で、星のように輝いていた。
 編まれてもいない長い髪は白く、なめらかな肌もまた白く、柔らかくふくらんだ唇と頬、指の爪先だけが、ほのかな赤に色づいていた。身に纏う麻の服は、罪人が纏う粗末なものだったが、煤けたその暗い色が却って、その裡で息づく娘の美しさをいっそう際だたせていた。
 その部屋に、娘のほかに人間の気配はなかった。
 竜は威圧感をもって音高く舞い降り、頑丈な爪で塔の外壁と窓枠に取りついた。
 風と音とに娘が振り向く。
 こちらを見た淡い青の双眸は、うっすらと濁っていた。
 竜は制圧者の目で娘を睨め付けた。耳障りな悲鳴を上げたら、その白い喉笛を喰い千切ればいい。軟らかな肉に歯を突き立てるさまを想像し、満足げに娘を見たが、娘のほうは怯えも見せず、ただその場に呆然と突っ立っていた。
「・・・・だれ?」
 ついに娘が言葉を発した。なんの緊張もなく。
 茫洋とした青い瞳は焦点が合っていない。
 竜は不満げに唸った。常ならば人は誰もが悲鳴を上げ、恐慌に陥り、こけつまろびつしながら少しでも己から遠ざかろうとするものを。
 竜は窓枠から脚を伸ばして、塔の床の上に滑り入った。
 きしるような音を立てて爪が石床を掻き、鱗に覆われた尾が鈍い音で床を打つ。
 娘はほんの少し後退り、だが逃げることはなかった。たよりなげなしぐさで、音を立てた竜に向けて白い細い手をゆっくりと伸ばす。
 娘の手が、竜の鼻先の硬い鱗に触れる。竜が満足げに鼻息を吐いた。今度こそ、娘の心に恐怖が湧き上がる、はずだった。
 だが娘は怯えなかった。ただ無言のまま、首を傾けた。
 娘は盲目であった。
 虚空を覗き込むその双眸に、あどけないと云ってよいほどの表情に、竜は思わず引き込まれた。
 娘は竜に触れ続ける。娘の手が竜の顎を伝い、頬を撫で、瞼をまさぐる。
 娘の予想外の無邪気な反応に、また一瞬とは言え娘に魅せられた己自身にも腹を立て、竜は低い唸りを上げながら娘の腹に頭を押しつけた。
 竜の額に娘の柔らかな両の乳房が当たる。
 長い鼻面は娘の下腹部に当たった。服の内から娘のにおいが立ちのぼる。
 竜の身の裡に唐突に、ある情動が湧き起こった。
 竜の頭が力強く動いて娘を後ろに押し倒す。娘はあっけなく頽れて、仰向けに倒れた。
 粗末な衣服の裾がめくれ上がり、白い太腿が露わになる。
 竜は息を吐きながら娘の体の上にのしかかった。娘は抵抗を見せず、ただ竜を見上げて、再び竜に白い手を差し出した。
 繊細な指が、涎を垂らす竜の口と、その内側に突き立つ牙を撫でる。
 竜は娘の顔を見下ろした。
 茫洋とした焦点の娘の目もまた、竜を見上げた。
 瞬間、視線と視線が交差する。
 竜の姿を見ぬ娘の青い瞳が、もっと奥底の深い何かを見つめた。娘に見通されて竜は悟った。
 これは自分の母親と同じ目を持つ女だ。姿形の本質ではなく、魂の本質を見通す巫者の目。
 竜の喉から新たな唸り声が漏れた。威嚇の声ではなく、娘の意を迎えようとするかのような、媚びにも似た低い声が。
「……はい」
 やがて娘は歌っていたときと同じく、よく通る美しい声で竜に告げた。
「私は貴男に応えます」
 娘が陶然と微笑む。
 粟肌が立つほどに美しい笑みだった。



 日の登り切らぬ時刻、二人の侍女がいつものように、それぞれ水桶と冷えた食事の入った籠を抱えて、塔の階段を娘の牢の前まで昇ってきた。
 侍女たちが異変を感じたのは扉の前に立ってからだった。
 娘を閉じ込める頑丈な樫の扉の向こうで、話し声が聞こえる。侍女たちは目を合わせて訝んだ。
 部屋に娘の他に人がいるはずはなかった。娘の父を殺して王位を簒奪した国王は、謀反を恐れて姪たる娘を長らくこの塔に幽閉してきた。世話をする当の侍女たち以外に、娘と会うことを許された者はいない。
 話す声は男のものに似ていた。語る中身までは侍女たちには確と知れない。鈴を振るような美声の娘の声はときおり男の声に従順に答えるだけで、それはまるで閨の睦言のように聞こえた。
 二人は信じがたい思いで形ばかりのノックをし、鍵を差し込んで錠を開け、扉を開いた。
 北向きの窓からは日光が差し初めたばかりだった。部屋全体はいまだ暗く、四隅に闇が沈んでいる。
 部屋の奥の、寝台に横たわった娘の白い体の上に、なにかが覆い被さっていた。
 侍女たちが瞠目した。
 娘の裸身が仄暗い中に浮き上がっている。その上にのしかかる黒い大きな影は人のようでも獣のようでもあった。黒い影の頭部は首を振り向けて侍女たちを見据えており、顔の中央で、縦長の瞳孔を持つ二つの黄色い眼が侍女たちを射た。
「ひっ」
 言葉にならぬ悲鳴がひとりの侍女の口から漏れる。手にしていた水桶が床に落ちて甲高い音を立て、水が床に勢いよく撒き散らされる。
 後ろにいたもう一人の侍女は籠を放り投げ、階段に向かって走って逃げ出した。
 黒い影から咆哮が漏れた。茫然としたままの、手前にいた侍女に竜が襲いかかる。
 侍女の喉から絶叫が上がった。
 竜の歯がその喉笛を抉り、一噛みで首の骨をへし折る。鈍い音を立てて床に頽れた侍女の死体など一顧だにせず、竜は扉の向こうに逃げたもう一人の侍女を追いかける。
 螺旋を描いて下へ続く階段は傾斜がきつい上に狭く、四つ脚の竜には降りられなかった。塔の重心を支える柱の向こうに、駆け下りてゆく侍女のスカートの裾が見え、そして消えた。憤った竜は鼻腔の内に空気を溜め込み、口を大きく開いたかと思うと階段に向けて勢いよく炎を吐き出した。
 階段に、侍女の断末魔の悲鳴が響き渡った。枕木が黒く焦げ、生物が燻される臭いが煙と共に立ち込める。
 侍女の絶叫は階下の衛兵達の耳にも届いた。黒焦げの死骸も階段を転がり落ちて行ったに違いない。異変に色めき立った男たちの声が、研ぎ澄まされた竜の耳に届いた。もう程なく、兵士達は武器を取って階段を上がってくるだろう。狭い塔の中で多勢を迎えるのは分が悪い。
 竜は踵を返して、娘が幽閉されていた部屋に戻った。開け放しの扉にほど近いところで、娘がかがみ込んでいる。娘は昨夜のまま一糸も纏わぬ姿で、竜の牙にかかって殺された侍女の死体に触れていた。
 娘の白い膝が、石床に広がる侍女の血に赤く染まっている。
 娘の手が、侍女の首に大きく開いた竜の牙の痕に触れ、その口から喘ぎが漏れた。
 竜は鼻を鳴らして娘に近づき、危険を喚起しようとした。
 竜の緊迫になど構わず、娘の手が竜の口に伸び、昨夜も触れた、竜の牙に触れる。
 そこは侍女の血に濡れていた。
 娘が恐怖に見えぬ目を見開く。
「あなたが……!」
 青い瞳から涙が溢れ出した。
「あなたが、この人を!」
 叫んで娘は竜の鼻面を強く叩く。
「ひどいわ!」
 娘は竜を両手で叩き続ける。
 竜は昨夜とは打って変わった娘の拒絶に面食らった。
 階下で人の騒ぎ声が聞こえる。剣と盾がぶつかり合う金属音も。
 迷っている暇はない。竜が娘に向かって吼えた。
 共に来いと誘うように。
 だが娘は立ち上がり、竜から後退った。首を強く横に振ると、白い髪が宙にうねった。
「私は行けないわ……貴男と一緒には……」
 虚空を見つめる青い瞳から止めどなく涙が溢れる。
「生きる世界が違うの……貴男を愛しても、私には、貴男の世界に住むことはできない……」
 兵士たちの重い足音が、ようやく娘の耳にも届き始める。
「……行って」
 娘が竜に言った。
「逃げて……私のことはいいから……!」
 竜は窓へと走る。階段から剣のきらめきが見え、「竜だ!」と叫ぶ兵士たちの驚愕と怒号が聞こえた。
 竜に向けて投げ槍が二、三本飛んでくる。それらは皆鱗にはじき返されて甲高い音を立て、石床に転がった。弩が放たれる。一本の矢が、窓に取りついた竜の首の鱗の間に突き立った。
 竜が吼える。
「逃げて!お願い!」
 娘は両手を絞って叫び、床に頽れた。その絶叫は兵士たちの怒号のうちに響き、竜の耳を打った。
 竜は娘に背を向けて窓枠に取りついた。中空へと飛び出し、勢いよく翼を広げた。
 広がった柔らかな翼に、後背から新たな矢が突き立つ。
 竜は苦痛と怒りの声を上げた。
 塔の周囲を旋回し、気流に乗って上昇する。翼に受けた矢のせいで風をうまく捕らえきれず、竜は、完全に風に乗るのに時間を要した。
 竜の視野の端に、兵士たちに取り押さえられて床に引き倒される娘の姿が映った。
 竜の心が怒りに煮えたぎる。だが窓からは弩を構えた兵が竜を狙っている。
 翼をうまく扱えぬ現状では、娘を取り戻す術はなかった。
 竜は未練げに幾度か塔の上空を旋回し、太陽に背を向けて、西へと飛び去った。









                                            

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