竜の婚姻











 偏西風に乗って竜は飛び続けた。
 その合間にも鱗が、一片一片と中空に剥がれ落ちていく。
 翼の感覚はもはや痛みすら弱まり、思う通りに動かない。やがて肩から剥がれ落ちるのも時間の問題と思えた。翼が風に圧されてみしみしと鳴るたびに竜は肝を冷やしながら、かろうじて裏切られることなく、東へ飛び続けた。
 やがて竜はあることに気がついた。風のにおいを読めなくなっている。
 生まれてから地理に迷うことなど一度もなかった。己を運び、通り過ぎる空気の流れが、どこで発生しいずれはどこに至るのか、どこで強まりどこで弱まるのか、竜は即座に知ることができた。それが今、まったくわからなくなっている。以前風に感じていた信頼は完膚なきまでに失われていた。これでは、娘がいる場所すらも読み取れないに違いない。
 夜になり、極天星が昇るに至って、竜は自分が本来の進路から随分外れていることに気がついた。風に流されるまま、目指す空路よりかなり北上している。
 自分が何処にいるかもわからない。竜は完全に迷っていた。
 焦燥と困惑の唸りが喉から上がる。
 極天星を中心に、星々が無慈悲に巡り続ける。月が沈んだ。もう間もなく、東の空が白み始めるだろう。
 竜は吼えた。
 答えるものが誰もいないと知りながら、虚空に向かって怒りと嘆きの咆哮を幾度も繰り返した。
 風の中に見開いた金の目の、下瞼から水滴が湧き上がる。塩気を多く含んだその水は風に弾かれ、玉となって後方に流れ飛んだ。
 涙の意味を、生まれて初めて竜は知った。
 恋した娘の流した涙が思い起こされた。
 脳裡に娘の泣き顔が甦る。頽れる体、迸る声。
 竜の身の己が受けた拒絶と歓迎。
 娘の歌声。
 それらがすべて絶望の糧となって、ぎしぎしと軋む体内を駆けめぐる。
 不意に竜の翼が風に下滑りし、体が下方に傾いた。
 上昇を試みるが果たせない。落ちるように滑空しながら、地面がぐんぐんと近づいてくる。
 今、地に降り立ってしまったら、この翼はもう二度と風を掴めなくなるだろう。
 竜は焦って体を立て直そうとした。地面すれすれのところで、水を含んだ風を捕まえた。翼がぐっと張って空気を掴み、どうにか墜落を免れる。
 体の下を流れる風が強くなる。竜の体は高度を取り戻した。
 新たに巡る風の中で、聞き覚えのある歌声が響いていた。
 竜は目を瞬かせた。娘の声に似ている。
 始めは空耳かと思った。母親から与えられた薬を飲んで以来、耳もめっきり利かなくなっている。
 だが聞こえる。鉄を呼ぶ磁石のように、己を引き寄せる妙なる声が、東南東から。
 東の地平線がぼんやりと闇を後退させている。
 竜は翼をひときわ強く打った。風に煽られて鱗が飛び散る。尻尾からは腐った肉片が剥がれ落ちた。
 娘が歌っている。自分を呼んでいる。恐らくは「呼ぶ」という自覚すらなく、自分を恋う歌を、風に乗せて飛ばしている。
 竜の心から迷いと絶望は消えた。
 東の空が明るさを増してくる。
 竜は痛む体に鞭打って、東南東をめざした。



 やがて夜は白々と明け始めた。
 娘は数年ぶりに塔の外へ出ていた。周囲を屈強な兵士たちが囲み、両手は縄で後ろ手に縛られている。
 叔父でもある王の離宮の中庭に、娘は立たされていた。白麻の下着のみが与えられ、靴も取り上げられていた。中庭まで裸足で歩かされたため、欠けた石畳を踏んで、白い柔らかな足は疵だらけになっている。
 娘の目の前には火刑台が造られていた。据えられた柱の傍に兵士達が薪を積み上げている。
 娘と火刑台の周囲を篝火がぐるりと取り囲んでいる。その外側には更に多くの兵士が配置され、竜の急襲に備えていた。
 やがて用意は調った。娘の二の腕を一人の兵士が掴んで、火刑台に向かって歩き出す。
 目の見えぬ娘にも、周囲の音とにおい、兵士たちの態度から、己の最期が感ぜられていた筈だった。
 だが今、娘は小声で歌を歌っている。恐怖に狂ったのではないかと、娘を抱える兵士は顔を見下ろした。
 白い面の横顔には何の感情も読み取れない。罪人として処刑されるこの娘は巫者でもあると専らの噂だった。何か自分達凡庸の者には見えぬものでも見て、それに心でも飛ばしているのだろうか。
 数日前の竜の襲来も、娘の歌が発端だったと聞く。兵士は娘の二の腕を揺すって、歌を止めさせた。
 そこで初めて娘は兵士を見た。焦点の合わぬ瞳が兵士に振り向けられる。
「火に気をつけて」
 言葉を自分に向かって発したのだと知るのに時間がかかった。
 火刑に処されようとしているのに。この娘は気が触れている。
「あなたの背後に炎が見える。命は取り留めるけど利き腕の手指を失うわ」
 濁った青の瞳が確かに兵士を見通した。
 兵士は身震いしてすぐにその恐怖を打ち消した。盲目の娘に「見られた」と思うなど、己の妄想に過ぎない。
 火刑台への階段を上がりつつ、娘を乱暴に引きずり上げる。目の見えぬ娘は段差に足を取られ、台の上に倒れ込んだ。
 兵士は娘の腰に手を回して強引に抱き上げる。服の裾が兵士にからげられ、娘の下半身が露わになる。見物している周囲の兵達から、野卑な歓声が上がった。
 娘が柱にくくりつけられる間に、別の兵士が松明を持って壇上に上がってくる。
 火のぱちぱちと爆ぜる音が、周囲にひときわ大きく響き渡った。
 城壁から東を見ていた兵士が日の出を告げる。刑の指揮を執る兵長が、松明を掲げた兵士に視線を向け、合図を送ろうとする。
 そのとき。
 壇上に大きな肉塊が降ってきた。
 娘と兵士二人を乗せた火刑台は衝撃に打ち壊され、大きく傾いた。
 松明を掲げ持っていた兵士がそれを取り落とした。周囲に撒き散らされた薪に忽ち火が燃え移り、娘の長い髪が風に煽られる。
 肉塊が身動きする。金の瞳が煌いた。身を半ば腐らせた竜だった。
 竜は火の中に飛び込み、娘を縛り付けた柱に牙を突き立てた。柱は竜の顎でたやすく噛み砕かれたが、同時に竜の歯茎からも歯が数本抜け飛んだ。竜はそれには構わず娘を柱から引き剥がし、娘の服に燃え移った火を口に含んで消し止めた。
 盲目の娘の手が竜の前脚に触れた。剥がれかけた鱗とその下の、人の肌のような感触の皮膚。
 泥と煤に汚れた、強ばった娘の顔がほころぶ。
 歓声を上げて、娘は竜の首に縋りついた。
 背に残っていた逆立つ鱗の縁が娘の肌を切り裂いた。だが娘は手を離さず、いっそう強く竜にしがみついた。
 娘を殺されかけて竜は怒り狂っていた。咆哮が周囲の空気を圧し、雷鳴を呼んだ。竜の襲撃に備えていたはずの兵士達は恐慌に陥った。竜が打ち壊した火刑台からこぼれた薪の火は、今や周辺に飛び火している。竜の尾が篝火を引き倒し、魚油を中庭に撒き散らした。飛び散った火の粉が兵士達の衣服に被る。幾人かの兵士が火だるまになり、絶叫を上げて転げまわった。そのうちの一人は、娘を火刑台に引きずり上げた兵士だった。
 竜は大きく口を開いた。喉の奥から薪の火など比べものにならぬほどの熱と威力を持った炎がせり上がる。
「駄目よ!」
 殺戮の衝動に駆られる竜の顎の下で娘が叫んだ。
「もう殺さないで!血に汚れたら、竜の姿の魔法が新たに結び直されてしまう」
 娘の声は恐怖に震えている。
 竜は即座に娘の言葉の意味を悟った。
 兵士達の幾人かが槍を構えている。この場から逃れるより他に娘を護る術はない。竜は娘を抱えたまま、痛む体を引きずって走り、城壁に取りついた。
 ほぼ垂直に切り立った壁を這い上がるたび、三つ又の爪から血が流れる。
 竜は苦痛に拘泥しなかった。ただ首に縋りつく娘の熱を感じ、それが自分の欲する全てだと自覚した。
 長い尾の残骸が、地に落ちていった。
 竜は城壁を昇りきった。血の色のような朝日と、腐臭を吹き飛ばす冷たい風が竜の体に当たる。城壁の上で数人の兵士が竜を待ち構えており、剣と槍を突いてきた。鱗を殆ど失った竜の皮膚に刃が突き刺さる。竜は激痛と怒りに身を震わせた。
 最後の力を振り絞って、軋んだ翼を広げた。翼の飛膜に穴が開き、肉は削げ一部は骨が剥き出しになっている。
 竜は城壁から飛び出した。少しでも城から遠くに逃れ、娘を護るために。
 翼は風に耐えた。
 竜と娘は空に舞い上がった。兵士達の怒号が見る間に遠ざかる。
 娘は竜にしっかりとしがみついていた。その腰を支える竜の前脚は、もはや完全に人間の男の腕に変じていた。鈎爪は剥がれ落ち、柔らかな五本の指が左右から、娘の体を抱きかかえている。
 竜の胴体から、突き立った槍や剣が肉片と共に削げ落ちていく。竜の翼は丘を幾つも渡り、森を通り過ぎ、さほど高くない山の峰を越えようとしていた。
 力を強めた太陽が、竜の行く手から二人を照らしていた。
 峰を越えた途端、風向きが変わった。竜の翼はもはやそれに対応できない。
 右の肩から生える翼が、峰に繁る松の木の枝に掛かった。
 凄まじい音がした。広がった翼からではなく竜の肩から。
 右翼が付け根からもぎ取られた。もう痛みはなかった。竜は飛行する力を失って、娘もろとも墜落した。
 峰を越えた向こう側は、急な傾斜を持つ森林だった。
 娘と抱き合ったまま傾斜を転がり落ちる。かろうじて残っていた左翼が木の幹に当たり、音を立てて肩から剥がれ落ちた。
 森が切れた。傾斜は緩やかになり、草地が広がっていた。二人は乾いた河床に投げ出され、そのまま動かなくなった。
 清冽な空気と太陽が二人を照らす。柔らかな草の生えた河床で、男は、ついに護りきった娘を腕の下にして見下ろしていた。
 茫洋とした、娘の青い瞳の中に己が映る。縮れた金色の髪の毛を垂らした青年の姿。
 人を食む竜の姿はどこにもなかった。
 やがて娘が瞬いた。
 男は娘に触れ、娘の顔を見下ろした。
 視線と視線が交差する。
 娘の曇りなき青の瞳が、男の姿を確と捕らえた。男の奥底の深い何かではなく、男の顔そのものに娘の焦点が結ばれた。
「……貴男が見えるわ」
 娘の手が迷いなく男の頬に伸ばされる。細い指が男の唇に触れ、その内側に触れた。
 そこにあるのは牙ではなく、白い人間の歯だった。
 娘が微笑んだ。
 青い目に涙が湧いた。
「人間の姿の貴男が見える。……私のために、こちら側の世界に来てくださったのね」
 娘のたおやかな唇が青年の唇に触れる。娘の目は光を取り戻していた。
 男は、母親が娘に何を贈ったかを知った。
 金の瞳から涙が湧き上がる。青年は娘に口づけ、唇を貪った。
 竜から人に変じたばかりの青年は素裸で、娘の上に覆い被さっていた。
「名を教えてくれ」
 青年の喉から漏れたのは、唸りや咆哮ではなく、娘の心を蕩かす柔らかな声だった。
「はい」
 娘が青年の耳元に唇を寄せ、自分の名を囁く。
 男は娘に口づけながら幾度もその名を呼んだ。
 男の脇で娘の膝が立てられる。煙に煤けた麻の服がめくれ上がって、太腿が露わになった。
 その腿に男の手が触れる。
 娘が陶然と呟く。
「私は貴男に応えます。貴男は私の良夫」
 その後は、もはや言葉は必要ではなかった。
 もつれ合う恋人達が息を喘がせる。時折娘の喉から、歌うような声が上がった。
 太陽が中天にさしかかる。
 山の峰を渡る風が、青年が捨て去った世界を跡形もなく吹き飛ばした。
 草木に吹き寄せられる空気の其処此処に、甘い涙が凝っていた。









                                            (了)





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