逆手の呪








 王宮の中庭に、騎士たちを送り出す銅鑼と喇叭、そして太鼓が鳴り響く。
 王が建国の歴史と勳を語り、司祭が武功と生還を高らかに神に祈るその前で、戦地へ赴く騎士たちが頭を垂れている。
 大公の姪で、先頃婚約を交わしたばかりの娘が、回廊の壁際に立っていた。そこは夫を見送る妻たちの群の一番後方で、娘はそこから黙って騎士の一群を見守っていた。
 騎士たちの中には婚約者となった男がいる。その兄も。
 婚約者が戦から帰り次第、婚姻の式を挙げることが決まっていた。
 貞淑な妻たちは一様に、自らの手で織った緋色の女帯を両腕に巻きつけて掲げ、両手の甲を胸の前で合わせている。それは夫の無事を祈る為のまじないだった。娘もまた、婚約者の為に夜を徹して赤い女帯を織り、それを掲げていた。
 娘は夫となる男を捜した。黒い艶やかな髪が見え、それがそうかと思った。だが違った。彼女が目に止めた男は婚約者ではなく、その兄だった。
 目を閉じて頭を垂れるその男のきまじめな顔を見て、娘の心は形容しようのない思いで疼いた。彼には未だ、彼の生還を祈る妻や婚約者はいない。娘自身がその座に収まる筈だったからだ。
 兄の隣に婚約者は立っていた。顔立ちはよく似ている筈なのに、弟のほうが華やかで明るい印象を見る者に与えた。自分が愛し敬うべきは今やあの男のほうなのだ、娘はそう自分に言い聞かせようとした。
 出来るはずもなかった。
 二人並んで立つ兄弟。地味できまじめな兄と派手で陽気な弟。
 仲が良いという噂は聞いたことがない。


            *


 兄弟騎士二人は今年の始め、揃って娘の父と、伯父である大公のもとへ婚姻の許しを願い出た。以来日曜日ごとに、娘のもとには二つの花束が届けられた。
 一つは清楚で可憐な花々の束。もう一つは、あでやかで薫り高い大輪の花々の束。
「どちらの騎士がお気に入りですの?」
 お付きの侍女たちは笑いさざめきながら問うた。そのつど娘は答えた。
「どのみち決めるのは私ではないもの。お父さまよ」
 だが実際は、伯父が決定することを娘は知っていた。大公である伯父は、美貌の姪を実の子以上に可愛がっていた。
 そして娘自身はと云えば、心の底では、きらびやかで浮いた感じのする大輪の花束よりも、控えめにリボンを編まれた小さな花束のほうにときめいていたのだった。
 彼女の心の天秤の傾きは、父にも、大公にも、兄騎士にも察せられていた。そしてまた弟騎士のほうにも。
 母は黙って、兄騎士と娘との婚約の準備を始めていた。


 遅い春の、ある晩。
 窓を伝い、彼女の寝室に押し入ってきたのは誰なのか、娘にはわからなかった。力強い手で口を塞がれ、声を上げることさえ許されずに寝台の上に押し倒され、そこで初めて相手が自分に花束を贈ってきた男であることを知った。兄との婚約の噂を漏れ聞いた弟騎士が彼女を捕らえていた。その瞳に宿るのは狂気の炎、と見え、その口は何かに憑かれたように娘への恋と兄への恨み言を唱え続けた。
 娘は泣き、怒り、何より恐怖し、自分の処女を奪わないよう夢中で男に訴えた。その為に男に接吻を許し、体に触れるのを許し、男の腕の中で怯えながらひたすら夜明けを待った。男のほうでも、そのような切羽詰まった行動に出ておきながら、それ以上彼女に無理強いする勇気は持たなかった。
 男は朝靄と共に消え、娘はようやく安堵の息を吐いてその場に突っ伏した。
 だが日が高く昇る頃には世界は一変していた。男は娘を手籠めにする必要はなく、無論それを計算していた。
 寝室の扉の向こうには不寝番の侍女が控えていた。彼女たちが父や伯父への証言者となった。そしてまた、男を娘の寝室に導いたと同じ侍女が、父に事実として告げた。男と娘が夜に会うのはこれが初めてではないと。

 娘の涙と嘆願は誰に聞き届けられることもなかった。
 伯父は以来あからさまに彼女に冷たくなり、おまえを信じていると云った父でさえ、その瞳に軽蔑の眼差しを込めていた。母だけは娘に同調して泣き、だがその言葉が彼女をいっそう打ちのめした。
「おまえの言葉は真実だろうとも。でも同じことなのよ。おまえが生娘だといって、誰がそれを証明してくれるの?」
 そのとき、娘は喪ったのは純潔ではなく名誉であることを知った。
 そして後者を喪う方が、前者を喪うよりよほど大きな損失であることも。
 弟からの花束は相変わらず届いたが、兄からの花束は二度と届けられることはなかった。


             *


 婚約の式を済ませて戦地へ行く男を、娘は頑なな瞳でただ見つめた。
 夫となる男の行為が愛ではないことだけはわかった。吟遊詩人たちが歌う愛とは、もっと甘いものであるはずだ。
 あの男が帰ってきたら自分はその妻になる。それは揺るがしようのない事実だった。娘はそれで構わなかった。今では公の場を歩くたび、自分が誘惑に負けて男に体を差し出した、と人々に陰口を叩かれている気がした。その居心地の悪さから逃れるためなら、どんな変化も喜んで受け入れる気になっていた。男の妻に収まり、夫人として屋敷に籠もりきりになれば、心ない噂とも縁を切ることが出来る。
 娘が願うのはただそれだけだった。
 娘は古くからのしきたりの通りに、女帯を絡めた手を甲を合わせて胸に掲げている。このときに手の向きを掌で合わせることは、夫の死を願うことになる不吉なまじないと怖れられていた。
 娘は帯の絡まる自分の手に目を落とした。
 かつて忍び入られた晩に、男に口づけられた手を。
 男の手が服の上から体を這った感触と、口の中に無理矢理割り入れられた舌の感触を思い出した。恐怖と屈辱に震えながら一夜を過ごした、あれがあの男ではなくその兄だったら、果たして今もこのようにおぞましい思い出として反芻せねばならない記憶となっただろうか。最後の一線を超えさせることを許さずに夜を終わらせられただろうか。
 娘にはわからなかった。
 ただ、忽然と湧き起こった名状しがたい激情に突き動かされ、人の目を盗んで素早く掌を合わせた。ほんの一瞬だけ。
 娘は目を閉じ、開いた。
 視線の先には婚約者が立っていた。
 そしてその隣にはその兄が。



 婚約者は戦場で死んだ。
 報せを受けたとき、娘は背後で扉が閉ざされる音を聞いた。涙は出なかった。
 娘は己の行動によって、自分の人生の扉を自ら閉ざした。誰が知らずとも自分でよくわかっていた。自分は罪人だと。
 まじないを行った代償を自分は支払わねばならない。
 それから十日ほどが過ぎた弔礼の場で、娘は自分の義兄になるはずだった男と再会した。
 きまじめな顔は憔悴し、弟の死を心から嘆いているとわかった。それを見て初めて、娘は自分のためでなく他者のために憐憫をもよおした。
 清楚な花束を寄越した目の前の男を哀れみ、豪華な花束を寄越した死んだ男を哀れんだ。
 死者を悼む鐘の音が、天の尖塔から降ってくる。
 娘は告げた。
「もう行きます。彼のために、祈ってください」
 空疎な矜持だけではない。
 この男への淡い思慕もまた、己のうちに無傷のまま残されている。
 そしてそれで充分なはずだった。余生を尼僧院で過ごす自分には。
 兄騎士は一礼し、云った。その目は赤く潤んでいる。
「弟と、あなたの為に祈ります。御身に幸いと祝福のあらんことを」
 娘は微笑んだ。兄に向かって。
 終始自分で覆い続けた固い殻は、今はもうなかった。
「神のご加護を。あなたにも」
 娘は身を翻してその場を去った。

 娘は尼僧院で、己と婚約者とその兄の為に終生祈り続けた。









                                            (了)





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