井蛇伝せいじゃでん








 その夜。
 周囲を支配しているのは絶望と悲壮感だった。

 壁一枚を隔てて、敵兵たちの凱歌が聞こえる。城内ではおそらく、勝利に酔った兵士たちによる惨殺と略奪が始まっていることだろう。
 壁にかけられた篝火に、男たちの纏う鎧が煌めく。女たちは身一つでその場に集められ、泣き崩れていた。
 彼らが護る場所はもはや、城の最奥部の砦とその奥の、四方を城壁に囲まれた小さな中庭だけだった。
 中央に立つのは、即位したばかりの年若い王だ。父王の死より半月を経ずして城は隣国に攻められ、今まさに落城と自決の時を迎えていた。
 女たちの一団の中心に、幼いと云ってもよい齢の娘が座っている。高く結い上げた黒髪には鮮やかな青色をした長い絹布が被せられ、冷たい石床へ湖の如く広がっていた。
 娘は黙って王を見上げた。銀かんざしの房が揺れ、鈴の触れ合うような音が王の耳に届いた。
 娘は王の婚約者だった。
 まだ父王が生きていた三月の昔に、輿に揺られて砂漠を渡ってきた異国の姫だった。
 歳のわりにも小さく、上質の絹にくるまれた様は、まるで繭に守られる蛹のようだった。
 人形のように整った顔で茫洋とした碧の瞳をして、それでもその美しさは、若い王の心を捕らえた。
 婚姻の儀を明日に控えたこの日。侍女たちにかしずかれ王の前に座して、姫は、最期の時を待っていた。
 姫を残して自決することはできぬと王は知っていた。今しも城のそこここから、逃げ遅れた女官たちの悲鳴が響き渡ってくる。敵の手が迫る前に姫自身の命を絶ち、その骸が辱められぬように敵の目から永遠に隠さねばならない。
 砦の奥に続く庭はその為の場所だった。庭の隅には、水の出ぬ井戸がある。
 姫は泣きもしなかった。生きるとはどういうことか、死ぬとは何か、知っているとも思えぬほどに若かった。すべての決定を王に預け、信頼しきった目で、未だ枕を交わしたこともない王をただ見つめていた。
 それがいっそう王の哀れを誘った。
「姫。よいか」
 それだけ言って、王は姫の前に立った。
 姫は黙って立ち上がった。
 その時初めて、王は姫が、婚礼用に用意した衣裳を死装束として選んでいたことに気がついた。
 王は思わず姫の顔を見た、だが姫の目と口は既に閉ざされて、王は表情をはかることはできなかった。
 姫の両手が迎える形に上げられ、その背が反らされた。痛いほどに白い喉首が王の目に飛び込んでくる。
 紅を差した唇が、わずかに震えていた。
 王は帯剣を抜いた。左手で姫のうなじを抱き、刃先を姫の胸元につけた。
 姫に触れるのはこれが初めてだった。
 侍女たちの啜り泣きに混じって、王の背後からも、近臣たちの忍び泣きが漏れ聞こえた。
 王は歯を食いしばって衝撃に備え、姫の体を勢いよく貫いた。
 鈍い音と共に刀身が姫の体内へ呑み込まれた。姫の瞳が激痛に見開き、喘ぐかのようにその唇が開かれ、だが決して声が漏れることはなかった。
 彷徨う視線が王の面を捉えて緊張がほんの少し緩んだ。
 まなざしがぶつかると見えてしかしすぐに、姫はこときれた。
 青い絹布の海に黒い染みが飛び散っていた。婚礼の衣装にも。
 くずおれる体躯は、小鳥のように頼りなく軽かった。
 王は黙ってそのなきがらを抱き上げ、中庭に姿を消した。
 数人の部下が、彼に従った。




 夜明けを待たずして、城の最奥部の砦から火が起こった。城を侵略した兵士たちは、敵の大将がその場所で自決したことを知った。火が消えるのを待つ間、彼らは城内で暴虐の限りを尽くした。転がる遺体からは服を剥いて裸にし、部屋部屋からあらゆる装飾を剣で削り取って我がものとし、凌辱されてなお命を失わなかった女たちや子供たちを、奴隷として売り払うために虜にした。
 日が昇り沈むころ、ようように火の手は収まった。兵士たちは新たな獲物を求めて砦の中になだれ込み、ほどなく中庭へと続く出口に気がついた。中庭には、見るからに急拵えで土を被せられた井戸があった。敵の王が、決して奪われたくない宝をそこに埋めたに違いなかった。
 井戸はすぐさま掘り起こされた。数人の兵士たちが嬉々として掘り進むうち、ひとりが、悲鳴を上げて地に突っ伏した。足の脛に紐のようなものが巻きついていた。それは見慣れぬ種の蛇であった。
 大きさはさほどでもなかったが、黒々とした鱗は銀の光に濡れ、目には篝火のごとき炎が宿っていた。剣の鞘でもって蛇を叩いたふたり目が、確かに潰したはずの蛇に手首を咬まれた。男の顔はたちまちどす黒くなり、激痛にうめきつつ口から泡を吹いてその場に倒れた。蛇は間を置かずに次々とその場にいた男たちを襲った。まるで井戸の中に埋められたものを護るかのように。
 怯えた兵士たちは逃げ出し、遠巻きに蛇を眺めた。ひとりが松明を投げつけ、その火が蛇の体に燃え移った。
 蛇は死ななかった。
 その身を炎に包まれながら、蛇は平然と埋められた井戸の上に陣取り、兵士たちに向かって威嚇の素振りを見せた。兵士たちは蛇を怨霊だと信じ込んだ。彼らはたちまち庭から逃げ出して、庭には幾つもの兵士の死体と、ただ一匹の蛇が残された。

 敵の将は、中庭で起きた兵士たちの報告を手を振って一蹴した。
 みずから砦に乗り込み、井戸を掘る指揮を執ろうとさえ云ってみせた。
 彼は焼けた砦の中から王の骸を探そうとしたが遂に果たせなかった。砦に到着して黒炭と化した燃えがらを取り除かせるうち、足首の痛みに気づいた。見慣れぬ蛇が巻きついてその足に牙を立てていた。将は見る間に血の気を失い、その場に倒れ、二度と立ち上がらなかった。蛇は満足げに赤い舌をちろりと出して、土の中に消えた。
 井戸は結局掘り返されぬままに捨て置かれ、戦に勝ったものの指揮官を失った軍隊は故郷に引き上げて、そして再び戻ってくることはなかった。
 王の城はそうして、歴史の舞台から姿を消した。





                     *



 砂漠を渡る隊商の間で、それは呪われた城とされていた。
 どんな噂にも火種はある。
 どんな廃墟にも興亡の歴史があるように。
 だが隊商の者たちは、その城が戦で滅ぼされたということしか知らなかった。
 城の奥には井戸を護る蛇がいるという。
 それは城を攻められて自害した王の化身で、今もなお、井戸の底に眠る財宝をひとり護っていると伝えられている。









                                            (了)





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