至純








 常に緋色の鎧を纏い、具足・楯・槍の柄までも朱に染めて戦場に在ったその騎士は、その戦には喪章をつけた黒い鎧で臨んだ。
 勇猛と叡知は高く近隣諸国にこだまし、誰もが敵とすることを恐れ味方につくことを望む、そんな騎士だった。
 黒くしたのは鎧だけではなかった。服やマントを黒く染め抜き、玉石で象られた剣の柄や、紋章が誇らしげに描かれていた楯までもタールで塗り潰して騎士は戦場に臨んだ。その戦は、彼が仕える王に命じられた侵略だった。国境と定められた河を越え、騎士は軍勢を率いて隣国に侵入した。
 対する敵は劣勢だった。緒戦から陣形を崩して敗退する醜態を幾度も曝し、その都度騎士の軍は敵国の奥地へ前線を大きく伸ばした。幾度めかの戦いの後、ついに侵入した国の最外郭の城壁を破るまでに達した。
 三日の後、騎士の眼前に敵国の王が最後の軍、あらん限りの手勢を引き連れて姿を現した。
 騎士の頭上で、半旗に掲げられた黒い旗が翻る。
 騎士は鳶色の瞳で鋭く敵軍を見通した。戦意は低く、何より指揮官たる国王自身が怒り、怯えている。数人の使者が双方から遣わされ、丁重な言葉で罵言をやりとりし合った。最後に騎士が送った使者が胴体だけを馬の背にくくりつけられて帰ってくると、その翌日の日の出と共に最後の戦が始まった。
 騎士は戦陣の先頭に立った。
 死への恐怖はなかった。戦の勝敗も、己の手柄もどうでもよかった。騎士は敵兵を屠り、貫き、切り伏せた。敵の本陣近くへ攻め込んだ夕刻頃には、騎士の鎧は夥しい返り血に赤く染まっていた。
 騎士の従者が敵の天幕を引き倒し、王の姿を探す。従者より早く騎士自身の目が、目指す敵の大将を発見した。
 王が騎馬に跨り、騎士に向かってくる。槍と楯とを天地正しく構え、手合いの申し入れを態勢で示している。騎士は槍を振って応えた。
 二騎の周囲から人が去り、遠巻きに円を作る。敵の王が兜を上げた。面に現れるのは、今は強い憤怒の表情だった。この王もまた、歴戦の勇士と名高い。騎士と手合わせをするのは初めてだった。
「儂の妻の情夫を討ち取る機会が遂に来たな」
 王が騎士に怒鳴る。騎士の表情は兜の奥に隠れて見ることができない。
「あの淫売の小娘にきさまの死に顔を見せてやれぬのは無念だが、きさまの素っ首を地に叩き落とし、犬に喰わせてやれる日が来たのは嬉しいぞ。今からでも遅くない、馬から降り地べたに這いつくばって赦しを乞え。両手両足を切り落として見せ物として生かしておいてやる。勿論男根も斬り取って、きさまの舌先にぶら下げてやるぞ」
 騎士は槍を構えた。槍は切っ先から手元まで血に染まっている。
「きさまの卑しさに合わせて己を貶める趣味はない」
 兜の奥から、若々しい騎士の声が響いた。それはひび割れて聞こえた。
「夜までにきさまの命を奪う。それだけだ」
 己の罵声が功を奏さぬと知って、王は策略を変えた。
「きさまの王が押しつけたあの女は忌々しい魔女だ。豚とでもつがう淫蕩な女だ。二度とそんな不埒な真似ができぬように喉を貫いてやったがな。最後にきさまの名を呼んで泣きおった。泣いて赦しを乞うたくせに、兵士達に組み伏せられて歓び悶えたぞ」
 騎士は王に皆まで云わせなかった。憤怒に声も失って槍を構え、突き出した。王は楯で躱し、腕を捻って槍を突き入れてくる。
 騎士は無言でそれを跳ね退けた。距離を置き、相手の間合いを計る。
 草を踏んだ馬蹄の跡が環状に残る。二人は騎馬を巡らせ、攻撃をしかける頃合いを読んでいる。
 今度は王が討って出た。騎士が楯でそれを払い、騎馬に拍車をかけて遠ざかる。
「逃げるか!妹とつがった薄汚れた庶子めが!」
 王が叫んで追った。騎士は騎馬を充分な距離まで駆り立て、馬首を巡らせると、槍を構えて王に向かって騎馬を煽った。
 二本の槍が交錯する。
 王は若い騎士に罵声を浴びせながら心の底では冷徹に、生き延びる打算を巡らしていた。一方の騎士は生き残る気など欠片も頭になく、但し必殺の気魄を槍に込めていた。
 王の槍は騎士の左肩に突き立ち、騎士の槍は鎧の継ぎ目を貫いて王の脇腹を抉った。
 撓められた槍と絡み合った楯同士が二人の戦士の体勢を打ち崩して、二人は揃って馬から落ちる。
 立ち上がったのは騎士が早かった。腰の剣を鞘走らせて王に駆け寄る。王はもがきながら立ち上がり、抜き身の剣を闇雲に突き出した。冷静な騎士の剣捌きは、老いた王の技倆を凌駕した。騎士の刃が王の指を切り裂き、王は剣を取り落とす。
 敗北を察した王が瞠目し、叫ぶ。
「待て!こ‥‥‥」
 降伏する、と云うつもりだったのだろう。繰り出される騎士の切っ先から己を護ろうと左手を突き出し、髭にかたどられた口が唾を飛ばしてその言葉を放つその直前に、騎士の剣が王の左手を貫通して喉笛に突き立った。
 騎士の勢いは止まらない。敵の喉を貫いた剣は王が倒れると同時に大地をも刺し貫いた。次いで騎士の体がその上に落ちかかる。
 王の喉から血が音を立てて溢れた。刮目したままの王の瞳が、信じがたいと言いたげに騎士を見上げる。
「云ってみろ‥‥‥」
 のしかかった騎士の唇からついに言葉が漏れた。
 その声音は低く、しかし熱い。喉から絞り出した呻きは、すぐに絶叫に変わった。
「私の異母妹について、その薄汚れた口からそれ以上言葉を吐いてみろ!云えるものなら!」
 騎士が両手で剣を引き抜いた。傷口から天に向かって勢いよく迸り出る血が、騎士の顔を、髪を、鎧を緋に染めていく。王はすでに正気を失い、その体は己の血を浴びながら痙攣している。
 騎士はその喉に、さらに幾度も剣を突き立てた。
「きさまの妻の不品行を、ありもしない悪評を、立てられるものなら立ててみるがいい!」
 騎士の腕と一体と化した刃は王の顎を打ち欠き、首の骨を砕いた。血と泥にまみれて原形を留めぬほどに破損した敵の頭蓋を見て、ようやくに騎士の怒りは落ち着いてきたようだった。
 荒い息を吐きながら腕を止め、刃の欠けた剣を放り出す。
 王の体に乗りかかったまま血塗れの手で頭を抱え、妹の名を呼びながら嗚咽を漏らした。


 王が死んだ敵の軍は総崩れとなり、解体した。
 騎士は傷の手当てもせずに、敵の王城に軍を率いて乗り込んだ。その姿は常と同じく、緋の装束に包まれていた。黒い塗料の上を覆う夥しい血がそのように見せていた。
 敵の旗は引きずり降ろされて兵士達に踏みにじられ、火にくべられた。その代わりに、騎士の父の旗が半旗に掲げられる。
 騎士は王城の中央部に踏み入った。彼の背後には血の跡が点々と続いた。
 玉座の間の壇上に、王妃が仰向けに横たわっていた。淡い色の瞳が天井を見上げている。短剣が胸に突き立っているが、衣服の乱れはない。
 誰が彼女を殺したかは問うまでもなかった。
 騎士は妹に近寄って跪き、短剣を胸からゆっくり引き抜いた。
 その瞼に手を当てて、そっと目を閉じさせようとした。
 だが王妃の体は硬化が始まっており、目蓋は動かず、虚空を見つめるばかりだった。
 騎士が手を止めて、黙然と死者の顔を見下ろす。
 諦観に満ちた、穏やかな表情だった。
 騎士の左肩の傷から止めどなく流れる血が腕を伝い、石床と死んだ妹の衣装とを汚していく。
 騎士の顔からは血の気はすでに失せていた。騎士は傍に控える従者を呼び寄せた。
「おまえが証人だ」
 その声に悲嘆はない。目の前に横たわる女と同様、騎士も死の世界を覗き込んでいた。
「私が妹に触れるのは、これが最初で最後だ」
 成人前の従者が目に涙をためて、言葉もなく頷く。
 騎士は女の手を取り、己の額に当て、そして優しく口づけた。その冷えた唇にも。
「葬礼の銅鑼を鳴らせ。妹の遺骸を戴いて帰国する」
 騎士の言葉が朗々と城内にこだました。
 そして騎士は立ち上がり、倒れた。

 騎士はその晩、己の天幕の中で死んだ。
 その脇には、隣国の王に嫁いで殺された異母妹の遺体が棺に横たえられて在った。


 王女と王の庶子の騎士は、祖国の王家の墓所に葬られた。
 吟遊詩人がこの二人を歌にした。その結びにはこう歌われた。
 清い契りにてこの者たちは我らが世界にかつて在り、常春の神の国にてその心をなお強く結ばれたり、と。









                                            (了)





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