弔鐘










                       *


 夏の戦場を支配した季節はずれの雪は、やがて氷雨となった。
 白い息を吐きながら、兄が、倒れた弟を見下ろしている。
「ロホトル。兄さん」
 弟が兄の名を呼ぶ。弟の潤んだ目に映る己の姿を見て、ロホトルは息を詰めた。
 辺り一面は雨でぬかるんでいる。弟の体の下を、泥と共に血が流れ出す。
 弟が力なく、手を兄のほうへ伸ばした。ロホトルは泥の中に跪いてその手を強く握った。
「マーロット」
 名を呼ばれた弟は兄に向かってほほえみかけている。目にすることすべてが信じられなくて、ロホトルは瞬きを繰り返した。弟の胴を鋭く抉った槍傷も、弟の血と混ざりながら流れ去ってゆく泥流も、青白い顔の弟が自分に向けて見せる優しい微笑も。
「ごめんよ、兄さん。エーリシャに、よろしく」
 口の端から泡とともに血を吐き出しながら、マーロットは震える声で告げて、それきり口を閉ざし、瞼を閉じた。弟がまだ生きているのは知っている、だが彼が生き延びることなく苦しんだまま死んでゆくことも知っている。ロホトルは黒い目を瞠って、弟の右手を掴んだまま、その場に立ち尽くしていた。
 マーロットが瞼を開いた。その目はもはや笑ってはおらず、兄を責め、強く促すまなざしだった。苦痛と憎悪が相半ばする鬼の形相。力なく開かれた弟の口からは泥と同じほどに濃い血が溢れ出し、それ以上弟を黙って凝視していることができなくなった兄は、ついに行動を起こした。
「エーリシャ・・・・・」
 弟の最後の声を聞いたのだろうか。
 雨が甲冑を叩く音に紛れて、聞き違えたのだろうか。
 ロホトルは弟の両目を左手で覆った。
 弟の心臓に短剣の白刃が呑まれていく。柄を握るのは兄の右手だ。
 弟はびくりと体を動かして、手が力なく土を掻き、それきり動かなくなった。兄は魅入られたかのように、己の短剣が突き立ったままの弟の遺骸を食い入るように見つめ、長いことそうしていた。
 雨がいっそう激しくなり、雷雲が猛る。
 風が泥だらけの敵軍の旗を巻き上げるころ、ロホトルは泥土の中に突っ伏して泣き声を上げた。
 己が殺した弟の体の傍で。


              *


 ロホトルが城に帰還したときには、弟の婚約者はすでに彼の死を知っていた。
 一切の装飾を取り外した喪服に身を包み、氷の瞳で婚約者の兄を見つめる。家族の反対を押し切って、尼僧院に入ることを既に決意していた。
「ご無事でようございました、お義兄様」
 エーリシャのよく通る声が、ロホトルの心を圧する。
「彼はどのように死にましたの?」
 ロホトルは視線を落とした。
「私が手にかけました」
 エーリシャの、息を飲む声が、確かに聞こえた。
「敵からの深手を負い、生きて帰ることはもうできぬ有様でしたので」
「誰がそれを証明しますか」
 エーリシャの声は震えている。
「証明できるものはおりません。誰も傍にはおりませんでした」
「ではあなたは己の勝手な判断で、私の婚約者を殺したのね」
 ロホトルは視線を上げ、目の前の娘を見た。顔がこわばり、青ざめている。
「エーリシャ」
「触らないで!人殺し」
 甲高い声ではけっしてなかった、だがその声は、威圧感を持ってロホトルの動きをとどめた。
「あなたがご自分の為に私の婚約者を殺したのでないと、誰が証明できますの」
「証明はできません。私以外には」
「当事者は保証人にはなれませんわ。それくらい、おわかりのはず」
 エーリシャの低い声がロホトルを糾弾する。それはロホトルにとっては辛いことだった。弟を亡くしただけでなく、自分が誠実な男であるという印象もこの娘の心から抹消されていく。
 エーリシャはロホトルの妻となる筈だった娘だ。
 だがマーロットが、策略を用いてエーリシャを奪った。兄と張り合う心を常に持つ弟だった。マーロットは人生の大半を兄との競合に費やした。大公の姪を婚約者に射止めたとき、そしてそれがロホトルが心から慕っていた姫であったとき、マーロットは兄との競争に勝ち、兄を打ち負かした。
 そして彼は死んだ。だがエーリシャはロホトルの元には戻らない。マーロットが奪ったものは、永久にマーロットのものだ。
「彼を憎んでいたから、彼を殺したのではありませんの?」
 冷酷な声がロホトルの耳を打つ。ロホトルは顔色を変えてエーリシャを睨め付けた。
「弟を憎むことと弟を殺すこととは全く別のことです。私は彼を殺したいと思ったことはないし、生き延びる手だてがあるならどんなことでもしたでしょう。だが手はなかった。あなたを未亡人にしたくて弟を手にかけたわけではありません」
 死ぬ間際の、弟の優しい笑みが脳裏に甦った。
 そして目の前で、恐ろしい言葉を言い放つ美しい娘を凝視した。
「自分の行為で、弟以上のものを失うことになると、私にはわかっていた。あなたは美しいが氷の心を持つ残酷な女性だ。今、それがわかりました」
 エーリシャは目を怒らせてロホトルを見た。そのような表情にさえ花があるということに、彼女が気づいているかどうか。
「私を残酷とおっしゃるの。あなたの気持は知っています。あなたの弟、私の婚約者の気持ちも私は知っていました。私という賞品を賭けて、兄弟同士で勝手に競っておきながら、ずいぶんな言葉をくださるのね」
 強い口調で発せられた言葉は怒りを込められてはいたが、奥底にあるのは悲しみだった。そのことがロホトルを打ちのめした。エーリシャが伝えた言葉は、語弊はあるが間違いではなかった。
「弟の気持ちは存じません。ですが、私があなたに焦がれた事実は変わらない」
「云わないで」
 エーリシャが押しとどめる。
「そんなことを、今更。逃げ口上にしかならないわ」
「わかっています」
 ふたりは同時に床に目を落とした。
 手を伸ばせばエーリシャの心に触れることができる。そのことが、ロホトルにはわかっていた。弟が愛でなく競争心でエーリシャを手に入れたことを、今では彼女も知っている。
 だが最後に、弟が自分に告げた言葉もまた真実だ。
 自分に対する謝罪。婚約者への真摯な気遣い。
 だからロホトルは動けなかった。エーリシャが待っているのを知っていても。
 城の教会で、弔鐘が鳴った。
 張りつめた糸のような緊張感が綻びた。エーリシャは肩を小さくゆすり、ロホトルを見つめる。
「もう行きます。彼のために、祈ってください」
 ロホトルは、己に与えられた最後の機会が去ったのを知った。大公の姫に向かって一礼する。「弟と、あなたの為に祈ります。御身に幸いと祝福のあらんことを」
 エーリシャがふっと笑った。苦く重く、哀しげな笑み。
「神の御加護を。あなたにも」
 踵を返し、エーリシャが歩み去る。
 ロホトルは黙って、その後ろ姿を見送った。
 弔鐘が鳴り続ける。
 ロホトルは滲む目をしっかりと見開いて、恋する者の後ろ姿を目に焼き付けた。


 ロホトルは領地に戻り、エーリシャは尼僧となった。
 二人が会うことは、二度となかった。









                                            (了)





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