運命の嵐








「我が城にご招待申し上げる」
 慇懃な口調ながら、絡みつくような視線がねっとりと王妃の肢体を嬲る。王妃は怖気を振るい、瞠目して義理の甥である目前の男を凝視した。彼の周囲に、完全に武装した数十人の兵士達が王妃の一行を取り囲む形で広がっている。
 王妃と数人の侍女達を護衛するのは、年老いて体の利かぬ退役した騎士と、戦で戦士としての職能を永遠に失った傷兵ばかり。隊長である老騎士が毅然として甥を睨みつけているが、彼とて剣を打ち合えば十合と持たず敵に切り伏せられるだろう。
 自分が迂闊であった。花を愛でるため少数の護衛のみで夫の城を出てきたことを、王妃は強く悔悟した。あの男が、夫の留守中は少兵で城門を出るなとあれほど反対したのに。
「我が叔父である今のご夫君とは離縁し、この私と再度婚姻の契約を交わしていただこう」
 王妃は言葉も発せずにただ男を睨みつけた。夫である王は今は遠く他国に遠征中である。頼みにできる者は誰もいない。
 あの男を除いては。
 唐突に、自分の背後で喊声があがった。護衛の老騎士が、槍をしごいて甥をめがけて騎馬を突進させる。無謀だ、と叫ぼうとしたが遅かった。甥の前に進み出た敵方の騎士が、彼の槍を軽々と叩き落として老騎士を騎馬から転落させた。転げ落ちてのたうち回る老騎士に無情な目を向けると、槍でその肩を貫いた。
 王妃の口から悲鳴がほとばしった。老騎士の絶叫がそれに重なる。
「何をするの!」
 王妃の詰問にも、甥は動じない。夫の宮廷にあったときから、その無礼な態度の裏にこの男の劣情を感じ取っていた王妃だったが、身の危険が現実となった今、彼女には為す術もなかった。
 酷薄な、暗い微笑。
「あなたがうんと言わねば、この役立たずの護衛どもを皆殺しにする」
 甥の口調は笑ってなどおらず、本物の殺意を放っていた。
「王妃さま、なりません!」
 老騎士が地の上から声を上げたが、王妃の心は決まっていた。
 王妃はうなだれて諾意を示した。甥の兵士が、王妃の騎馬の口環を捕らえる。
 甥が笑いながら右手を挙げた。王妃はその目に明らかな害意を見、動こうとした。だが遅かった。自分を捕らえた今、護衛達を生かしておく必要はどこにもない。甥の部下達が槍を構え剣を振るって、彼女が連れてきたすべての者たちを恐るべき手際で血祭りに上げた。城を出る前、侍女に飾りつけさせた緑のドレスが、当の侍女達や護衛の騎士達の血で深紅に染められていく。王妃は麻痺した心で、この苦境から逃げ出すことだけを考えた。轡を捕られた乗馬はむろん動かせず、飛び降りたところで甥の部下達から走る逃れることなどできるはずもない。恐慌に襲われ身動きもできぬ王妃の腹に、義理の甥の腕が回された。
「私の馬にお移りいただこう」
 力強い腕で無理矢理に担ぎ上げられ、甥の体の前に座らされた。逃げるためというよりは己の誇りのために抗うことが頭を掠め、体が動きもしたが、その気配を察した甥が、
「閨でなく兵士達の前で犯されたいので?」
 喉奥に笑声を含みながら発したひとことが、王妃の抵抗を萎えさせた。
 体の震えが止まらない。
 甥は満足げに王妃の胴に手を回した。首筋にかかるこの男の熱い息が、不快で堪らない。男の手が腹から這い上がって左胸に至り、掴んだ乳房を強く握られた。
「ご安心を。貴女を傷つけるようなことはしない」
 王妃の髪に顔を埋め、甥が囁く。
「私は貴女を尊重する」
 私に入り用で、私に従順である限りは。
 口によらず心で呟いたその言葉が、王妃には聞こえた気がした。
 遠のきそうになる意識の中で、王妃はその男のことを思った。夫ではない。城を出るときに私を止めようとした、留守居の若い騎士のことだ。
 このようになるなら、あの男の忠告を聞き入れておけばよかった。
 あの男の言葉を聞き、あの男の心を受け止め、あの男を受け入れてやればよかった。
 いずれこのように、夫以外の男に蹂躙される身であったなら。
 今はもう遅い。


 その若い騎士を、王妃は避け続けてきた。
 厳然とした態度を取るでもなく、無視するでもなく、ただ遠くにあろうとし続けた。
 なぜ彼女がそのような態度をとったのか、宮廷の誰にもわからなかった。夫たる王でさえ、王妃の仕打ちはその騎士にとって不憫なものでしかないと感じていた。
 騎士もまた、王妃に対し慇懃だが距離のある態度で接し続けた。それをいぶかしんだ戦友達も、年月が経つに及んでも変わらぬ二人の距離に、いつしかそれが普通なのだと思うようになっていった。
 若い王妃は王の三人目の妻だった。王は主君の娘の女婿となることで玉座を手にしたのであり、それだけに他の男が妻を見る目に神経を尖らせた。王が老いて以後ますますその傾向は強くなり、王が自分の遠征に際してこの騎士を留守居役に任命したのは、彼ならば王妃を奪うことはあるまいと吟味した末の決定だった。
 その判断が誤りであることを、騎士も王妃も知っていた。
 思いを告げられたとき、王妃はむろん拒んだ。その上で彼を自分から遠ざけた。発覚を怖れた騎士もその行動にあえて逆らわず、むしろ自分から王妃との距離を置いていた。その結果が現在の状況を招いたわけで、それは皮肉と言えば言えた。
 朝、王妃は城を出るとき、留守居の若い騎士はあえて護衛につけず、年老いて剣を握れぬ老騎士を警護の隊長に任じた。彼女の思考では、危ないことは何も起こらないはずだった。留守居の騎士が珍しく強硬に王妃に反対したが、結局王妃は押し切った。自分に恋心を言いかける若い男の言うことなど聞く耳持たぬといった態度を、彼だけにわかるように見せびらかしながら、肩をそびやかして城門の外へ出ていった。数人の侍女と十数人の騎士、それも戦を引退した怪我人や老人ばかりを引き連れて。
 留守居を任ぜられた若い騎士のもとには情報があった。王の甥が王妃の財産と美貌に野心を燃やしているという情報が。だが確実なものではなく、故に王妃に告げるわけにはいかなかった。自分は護衛を禁ぜられた騎士は、かわりに自分の従士を密かに送り、王妃の一行のあとを付けさせた。火急の事態が起こったときに、即座に対処できるように。
 老王の甥は、果たして機会を伺っていた。まだ若い王妃は美しく、しかしそれ以上に彼女の夫という立場に付随する王権が彼の心を動かした。甥は素早く軍を仕立て、王妃の一行を捕捉し、皆殺しにして王妃だけを連れ去った。
 一刻の後、王妃の一行を尾けていた従士が馬を跳ばして帰城し、留守居の騎士は自分の懸念が最悪の形で現実と化したことを知った。


 甥は自分の城へ帰り着くなり王妃を引きずって塔の階段を昇り、貴人用の牢へ連れ込んだ。
 王妃を寝台に押さえつけ、力ずくで王妃の服を剥いでいく。その動作は手慣れていて、女を強姦するのが元来の習性であることを匂わせた。抵抗する王妃を殴りつけて大人しくさせると、甥は笑いながら王妃の中に侵入してきた。
 嫌悪と苦痛に身悶えする王妃を、甥は思うさま嬲った。王妃は目を固く閉じて歯を食いしばり、屈辱の時間が過ぎ去るのをひたすら待った。閉じた瞼の上を、甥の舌が這い回る。のしかかる甥の、影になった肩の稜線が夫とそっくりなのを発見して、王妃は必死で吐き気をこらえた。
 夫は力ずくで王妃を手に入れた。すでに権力者であった夫はさらなる権威を欲して、斜陽の時代を迎えつつあった当時の王の娘に言い寄った。正確には己の軍隊を餌に、父王に向かって媚びたのである。ある朝目覚めると娘は嫁ぐことが決まっており、ある夜花嫁として新床を迎えた。初老の男を瑞々しい体に受け入れながら、王妃となることが決まった娘は、激痛から来る吐き気を必死で飲み下していた。
 夫と血の繋がった男に組み敷かれながら、王妃はそのことを思い出した。それがほんの数年前で、自分はいまだ権力に嬲られる小娘に過ぎないことを。
 甥の体の動きが激しくなる。
 王妃は心の中で絶叫しながら、男に助けを求めた。
 心の奥で発せられたそれは、夫の名ではなかった。


 寝台に打ち捨てられ、王妃は涙に打ち震えながら体を掻き抱いている。
 甥に強いられた不快そのものの情交は終わった。室内には寝台の他に簡素な家具が置かれている。妻とする女を迎える気配にはほど遠い。つまりは王妃を長く生かしておく気などなく、婚姻の手続きが済めば侍女や護衛の兵士達と同じように、いともたやすく息の根を止められることになるのだろう。
 怒りとも悔しさとも絶望ともとれる涙が、あとからあとから溢れ出てくる。王妃は歯を食いしばり、ここから生きて出る方法を必死に考えようとした。自分が受けた仕打ちにショックを受けるのは、生き延びた後でいい。そう言い聞かせながら、体の震えをとどめようと躍起になる。
 不意に、壁の向こうで喊声が上がった。
 甥の怒りの怒号が聞こえる。何者かがこの甥の持ち城に攻撃を仕掛けているのか。王妃は頭を巡らして、窓の向こうを覗いた。下着だけを手早く整える間にも、体中につけられた痣が厭でも目に入って、王妃はまた涙を落とした。
 緑の広野に、馬に乗った騎士と歩兵達が散開している。叫声と怒号が響き、剣と槍がぶつかり合う音が次いで聞こえてくる。迎え撃つのは甥とその部下達であった。王妃の目は、甥に敵対する一軍の指揮官に吸い寄せられた。
 夫から留守居役を仰せつかった、年若い騎士。
 自分がこの数年避け続けてきた、かつて恋を語られたことのある男。よほど急いで後を追ってきたのだろう、ろくに武装も整えていない。
 頬がかっと火照るのを、王妃は自覚した。
 あの男が来てくれた。
 今しも甥の騎士を落馬させ、槍で突き通している男。ふたりめの騎士の槍を楯で防ぎ、撥ねのけ、首筋に自分の槍を叩き込んだ男。秀麗な眉目が今は怒りに猛り、憎悪に盛っているのを王妃は一目で見て取った。普段は冷静な男が、まるで狂ったように、がむしゃらに兵を進めている。
 その理由を王妃だけが知っていた。
 男がこちらを見た。城の塔の一室に幽閉された自分を。
 男の黒い目が、光の矢のように強いまなざしが、王妃の肢体を貫いた。
 体奥で燻っていた炎が爆発した。蹂躙されたばかりの体が、再び熱を浴びて燃えさかる。
 熱い涙がとめどなく流れた。それを拭うこともせず、王妃は一心に男を見つめた。
 一度は男を拒んだ。おそらく次も、拒もうと思えば拒むことができるだろう。二度、あるいは三度くらいまでなら。
 だがそれ以上は、永遠に拒み通すことは、もう王妃にはできまい。あの男が求め続けてきたら、いずれは受け入れざるを得なくなる。
 そしてその日は遠からずやって来る。
 王妃の頬を流れるのは、絶望の涙だった。
 自分は老いた王の国に、争乱をもたらす火種となる。今ではなく、今後これから。
 男は槍を失い、剣を握って戦っていた。手勢の少なくなった甥が城に駆け込もうとするのを遮って、剣で斬りつけている。応戦した甥はいともたやすく打ち負けて、剣が手から滑り落ち、それを目で追う間もなく、一閃した騎士の剣が首と胴を切り離した。
 あの男が勝った。
 握りしめて食い込んだ爪が手を傷つけていたが、その自覚も王妃にはなかった。
 男が再度こちらを見る。馬を城門の中へと走らせながら。
 その瞳に、王妃の姿を見たことへの安堵と不安とが同時に交錯した。拒まれた自分のことなど微塵も考えていない、若くて真摯な心。
 王妃の喉が、深く深く空気を吸った。
 次の瞬間には、男の名が王妃の喉から迸り出る。涙と共に。
 男はそれに応えた。
 王妃は床にくずおれて、激しく嗚咽を漏らした。体の痛みなど、もはや気にもならない。
 騎士が馬を乗り捨て、城内の階段を駆け上がり、王妃の閉じこめられた部屋へと駆け足で近づいてくるのが目に見えるようだ。その距離を思って、王妃の体が燃える。
 閉じられた扉の掛け金が騒々しく鳴った。鍵を手に入れていないのか、男の罵声がそれに重なる。幾度か扉に体当たりする音がして、さらに男が怒号を吐いた。
「王妃!」
 その声を拒む理由は、もう王妃の中にはなかった。
 扉が向こうから大きく叩かれる。何か重いものを打ちつけているようだ。二度、三度。五度目で扉の掛け金が外れ跳び、壊れかかった戸が乱暴に押し開けられた。
 強烈な日差しと共に、男の姿が影となって浮かび上がる。
 王妃は目を見開いて、己の運命と対峙した。
 髪を振り乱した若い男。夫ではなく、甥とも違う、自分を欲していながら求めることを一度は諦めた男。
 王妃は声を絞ってその騎士の名を呼んだ。
 男が走り寄り、王妃をその腕に抱き抱える。その必死の形相に、王妃の心は満たされた。無事を喜び、身を案じるかのように王妃を強く抱き締めた後、男ははっと息を飲んで、おずおずと遠ざかろうとした。王妃に拒まれた記憶がようように甦り、理性が頭をもたげてきたのだろう。
 緩められた腕を、しかし王妃は逃さず、強く強く握り返した。せき上げる思いが喉を封じて、声を作ることもできない。泣きじゃくりながら男に縋りついて、ただ涙を流した。
 おそるおそる王妃を抱えていた男の腕に、次第に力が込められる。男のほうも、王妃と同じ嵐を身の内に抱えているのだ。王妃自身より、もうずいぶんと長いこと。今それが一息に表へ現れ出ようと、体内で荒れ狂っている。王妃の吐く熱い息が男を強く刺激して、ついに男の中の理性の糸が綻んだ。男は改めて王妃を抱き寄せ、荒々しく王妃の唇を己の口で塞いだ。
 王妃は泣きながらそれに応え、ふたりはお互いを貪り合った。体内で逆巻く波がついにふたりを飲み込み、ふたりは揃ってそれに溺れた。
 それが身の破滅とは知りながら。
 王妃の中でそんな言葉が脳裏を掠め。
 やがて、すべては何もわからなくなった。









                                            (了)





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