山犬の紅椿








 今となっては遠い昔の話である。
 ある呪いによって、山犬に姿を変えられた男がいた。人間であった頃のその者は情薄く、性酷薄で、己以外に大事なものなど何一つなかった。そんな男であったから、山犬の呪いを解くために生きた娘の血が必要だとわかると、即座に里に下りて一人の娘を攫い、これを殺した。
 娘の心の臓の血を山に自生する白椿に降りかけた。そうすれば呪いが解けると、山犬はある仙人から教わったのである。
 血を降りかけられた白椿はこう歌った。
「ちがう、ちがう、そうじゃない。
 おまえを愛する娘の血を
 私にかけるんだ。
 そしたら私は、
 見るもみごとな紅椿になって、
 おまえの呪いを解いてやる」
 山犬は再度里に下り、一人の娘を攫ってきた。これは先に攫った娘のすぐ下の妹だった。
「おまえは俺を愛するか?」
 山犬は娘に尋ねた。
「あなたが私を殺さずに生かしておいてくれるなら」
 娘は答えた。
「もちろん、それは約束する」
「では、私はあなたを愛します」
 聞くが早いか、山犬は娘を殺し、心臓から溢れる血を白椿に振り撒いた。
 白椿はこう歌った。
「ちがう、ちがう、そうじゃない。
 おまえを愛する娘の血を、
 おまえと夫婦になるほどおまえを愛する娘の血を
 私にかけるんだ。
 そしたら私は、
 見るもみごとな紅椿になって、
 おまえの呪いを解いてやる」
 山犬は再度里に下り、また娘を攫ってきた。これは先ほどの二人の娘のさらに下の妹だった。
「おまえは俺を愛するか?」
「あなたが私を殺さずに生かしておいてくれるなら」
「おまえは俺と夫婦になるか?」
「あなたが私を殺さずに生かしておいてくれるなら」
「もちろん、それは約束する」
「では、私はあなたを愛します」
 山犬は娘を殺して血を白椿に振り撒いた。
「ちがう、ちがう、そうじゃない。
 おまえを愛する娘の血だ、
 口先やうわべばかりじゃない、
 真におまえを愛する娘の血だ。
 おまえと夫婦になるほどおまえを愛する娘の血を
 私にかけるんだ。
 そしたら私は、
 見るもみごとな紅椿になって、
 おまえの呪いを解いてやる」
 山犬は再び山を下り、また娘を攫ってきた。これは四姉妹のうちのいちばん下の妹だった。
「おまえは俺を愛するか?」
「私の姉を三人も殺したあなたを、私は決して愛しません」
「おまえは俺と夫婦になるか?」
「私の姉を三人も殺したあなたと、私は決して夫婦にはなりません」
 そこで山犬は途方に暮れて、その娘を殺さず山にとどめおいた。
 娘は山犬のために甲斐甲斐しく働き、ついに山犬にとって無くてはならぬ存在になった。
 白椿は娘に言った。
「おまえを愛する男の血を、
 私にかけるんだ。
 そしたら私は、
 見るもみごとな紅椿になって、
 おまえの姉さんたちを生き返らせてやる」
 娘は答えた。
「私を愛する男なんて、この世にはいません。私が一緒に暮らしているのは山犬です」
「あの山犬はかつて男だったのだ。
 性酷薄で残忍であったために、
 天の不興を買って山犬にされたのだ。
 あの男を愛する者の血が、
 あの男と夫婦になってもよいほどあの男を愛する者の
 心の臓から迸り出る血が、
 私に降り注いだとき、
 あの男の呪いは解けて、
 山犬から人間に戻れるのだよ」
「私が愛しているのは山犬であって、男じゃないわ」
 それきり娘は唇を噛みしめて、黙りこくってしまった。
 山犬は遠くから、よく聞こえる耳でそれを聞いていた。

 白椿は山犬に歌った。
「おまえを愛する娘の血を、
 この私にかけるんだ。
 そしたら私は、
 見るもみごとな紅椿になって、
 おまえの呪いを解いてやる」
 山犬は黙って白椿を見た。
 そこへ娘が短剣を持ってやってきた。
「山犬、私はあなたとは夫婦にはならないわ」
「わかっている」
「あなたが死んで姉たちが甦ったら、姉さんたちはさぞかし喜ぶでしょうよ」
「そのとおりだ」
「だからこの小刀で、あなたの心臓を突くわ」
 山犬はうなだれた。
「好きにするがいい」
 白椿が歌った。
「娘よ、
 おまえを愛する男の血を、
 いまこそ私にかけるのだ。
 私は見るもみごとな紅椿になって、
 おまえの姉さんたちを生き返らせてやる」
 娘は小刀を振るって、振り下ろした。
 娘の心の臓から血が飛び散って、白椿を紅に染めた。
 山犬が喚きながら娘に向かって走った。倒れ込む娘を抱き留めようとしたその前足は、すでに人間の長い腕に成り代わっていた。
「山犬、私はあなたとは夫婦にならないわ」
 娘が震え声で言った。
「なぜなら私はあなたのために死ぬもの。だからあなたとは夫婦になれない」
 娘の骸を抱えるのは、若く美しい男だった。山犬だった男は山犬のように泣いた。

 人間に戻った山犬の男は山を下りた。娘の暮らした里には行かず、山にも二度と帰ってこなかった。
 山の中腹には今も、「山犬の椿」と呼ばれる、見るもみごとな紅椿が、血の色の花を咲かせている。









                                            (了)





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