夜中の薔薇








 初冬の空に、金色の旗が虚しく翻る。
 平和と友好を意味する婚姻の陰にある屈辱と悲壮を、馬車の中の花嫁だけが知っていた。
 栗色の長い髪を美しく巻き上げ、白絹と花々で着飾って、娘は花を戴いた馬車から降り立った。
 その先に、獣の王が立っている。
 艶のない黄色い髪と感情を表さぬ青灰色の目。尖った鼻は森狼を連想させ、実際に狼皮のマントを身に纏っている。
 娘はぐいと顔を上げて、男を見た。男は素っ気無く、一輪の薔薇を渡した。冬の夜気が当たらぬように、温室で丹念に育てられたに違いない花ではあったが、文明の風雅に慣れた娘にとって、その花の形は野暮ったいだけだった。娘は黙って薔薇を受け取り、それで婚姻の儀式は終わった。
 その晩、獣の王は荒々しく花嫁を抱いた。甘い言葉一つ吐くことなく、新床の夜は終わった。破瓜の痛みに喘ぐ娘を打ち捨てて獣の王は寝室を去り、娘は初めて存分に泣いた。

「幾月かの我慢だ」
 公国の領主である娘の父は、そう云って苦しげに顔を歪めた。
「わかっています」
 娘は感情を抑えて父に答えた。自分は父の道具にすぎない。結婚とはそうしたものだし、女とはそうしたものだ。
 人質として北方蛮土の王の妻になる。それによって蛮族の国境侵犯は止まり、蛮族の南下が抑えられる。父が云うように幾月かは、遙か北方の地に蛮族の長の妻として暮らす。父はその間に、蛮族に対抗するために必死で軍備を整え、近隣の諸侯に助けを求めるだろう。手回しがうまく行かねば、あるいは数年がかかるかもしれない。しかしその期間が過ぎたら、父は国を挙げて北の蛮族に叛旗を翻す。国境を侵して敵地深くに攻め込み、王城を包囲して、完膚無きまでに蛮族を叩きのめす。蛮族の旗が父王の兵士たちに泥を塗られる頃までには、娘は蛮族に嬲り殺され、塩漬けの首を父王に送られることになるだろう。
 娘にはわかっていた。父にとって、娘の命とはそのように使うものなのだ。それを隠してさも心配げに自分を送り出すのは、敵地で命惜しさに娘が敵に策略を告げるのを怖れるからだと。
 そのとき娘は泣かなかった。泣いたところで何が変わるわけでもない。表情を殺して、飾られるままに花嫁衣装を着込み、「必ず迎えに行く」という父の空言にもっともらしく頷いて、生まれ故郷を去った。娘には、ほかにどうしようもなかったからだ。

 獣の王には愛人がいた。王と同じ黄色い髪の、居丈高な大柄の女だった。
 女はことあるごとに娘を罵倒した。蛮族の言葉を話せぬ娘を侮蔑し、衆人の前で娘を面罵し、寝室では睦言のかわりに王に悪口を吹き込んだ。王は滅多に娘の寝室を訪れず、娘は妻でありながら愛人の女に小突かれて日を過ごした。
 冬が終わり春が過ぎても、北辺の国に父王の烽火があがる兆しは見えなかった。そのころ、娘は体調の変化に気づいた。月のものは止まり、食の嗜好が変わった。妊娠と知って愛人の女の怒りは頂点に達し、夜ごと娘を打擲した。女は王と数年来連れ添っていながら、いっこうに子ができる気配がなかったのだ。夫たる王はさすがに女に非難めいた言葉を吐き、それがいっそう女の行為を激化させた。ある夜、娘は怒り狂った愛人に階段から突き落とされ、十数段も転がり落ちて、足の間から夥しい血を流した。失血に茫然となりながら娘の耳は、ようやく聞き覚えた蛮族の言葉で女が、自分は汚らしい雌犬から夫の子供が産まれてくるのを防いだと勝ち誇って夫に報告するのを聞いた。夫は終始無言のまま唐突に女を殴り飛ばし、女は壁に頭を打ちつけてそれきり動かなくなった。
「ヌルウェイナ」
 夫が口にした優しい言葉は、娘の名前だった。
 食いしばった歯の間から嗚咽が漏れた。この期に及んで涙をこらえていたことに、初めて娘は気づいた。夫が差し出した手を掴んで、娘は泣きに泣いた。激痛と激情ともっと深い何かが娘の殻を破り、娘は血にまみれたまま、夫の胸に縋りついた。
 娘の体が恢復するには、三月ほどもかかった。夏が去る頃には夫との閨は甘やかなものに変わり、次第に濃密さを増してきた。冬の足音が聞こえる前に娘はまたも身ごもり、今度は夫の庇護があることをじかに感じながら、翌年の夏、男児を出産した。その息子は半年後に熱病にかかり命を落としたが、夫の寵愛は娘の元から去ることはなかった。

 獣の王に嫁いで三年目の春、ついに南の国境で娘の父が兵を挙げた。近隣二国と同盟を結び、援軍を引き連れた上での侵攻だった。獣の王は迎え撃ったが手ひどい敗退を喫し、残ったわずかな手勢を率いて王城にこもった。娘の父から使者が送られ、娘を無事に父のもとに引渡し、降伏すれば獣の王の命は保証すると口上を述べた。王城の貴族たちは条件を飲むか否かで激しく言い争ったが、獣の王の腹はすでに決まっていた。義父である男の約束とはどんなものか、王は身をもって知っていた。ただ娘には、おまえが望むなら父のもとへ戻れと告げた。娘は首を振って、それをきっぱりと拒否した。
「私はあなたの妻です。ここが私の城です。私はどこへも行きません」
 獣の王は無言で娘を見つめた。娘も黙って見返した。最後の一夜、獣の王は娘を荒々しく引き寄せ、腕の中に包み込んだ。王はすすり泣きながら幾度も娘に口づけた。娘も涙に濡れながら、黄色い髪の王の頭を抱いた。獣の王より、娘の覚悟のほうが強かった。死は怖くなかった。獣の王の孤独と悲痛を感じ取って、娘は涙したのだ。庭から薔薇の花の香りが漂う夜中、王は何度も娘の名を呼び、娘はそのつど王に答えた。夜は瞬く間に過ぎ去り、朝がやってきた。

 朝、王が娘に与えた麦酒には、薬が盛られていた。
 王の涙が真に意味していたことを、娘は取り違えていたのだ。

 獣の王の死を、娘は父の軍の幕舎で知った。
 娘は涙を見せなかった。父王がやってきて、夫の死を報告すると同時に、おまえを同盟国のうちどちらかの王に嫁にやると告げた。娘は父に答えなかった。今は一人になりたいと言い、願いはかなえられた。それでも娘は泣かなかった。椅子に座ったまま、ぼんやりと俯いていた。その視線が胸元の花に留まった。野暮ったい花弁の薔薇はいまにも萎れていこうとしている。それが獣の王の庭で摘まれ、ほかでもない夫の手により自分の胸に飾られたことを、娘は即座に悟った。涙は堰を切って溢れ、とどまるところを知らなかった。何者をも寄せ付けず、涙に溺れ尽くし、娘の時間はそこで止まった。
 それから後、父の王城で、枯れた薔薇を握り締めて夜毎城内を徘徊する娘の姿が頻々と見られるようになった。自分の親族、貴族、陪臣、会う者すべてを敵と呼んで罵り、泣いた。とくに父王への憎悪はすさまじく、姿を見ると奇声を上げて掴みかかった。父王はそれでも娘を嫁がせたがったが、気の触れた妻を欲しがる王などいなかった。娘は嫁がず、秋が来るころには、心の病は癒えぬまま、娘の腹は大きくせり出してきた。臨月には娘は修道院に預けられ、そこで涙に狂いながら、娘を産んで死んだ。遺骸は修道院に葬られ、生まれたばかりの獣の王の遺児は修道院に預けられたままで成長していった。
 蛮族の王国は崩壊し、父王の公国を含む三国がかの地での覇権を相争った。しかし父王の病没後、公国そのものが分裂し、内乱に次ぐ内乱が起こり、国内は長く荒れた。王族は淘汰され、他国の干渉を受け、複数の傀儡政権が現れては倒れ、倒れては現れ、ついには王族はこぞって粛清され、血統は絶えたと言われて久しくなった。
 それからさらに暫くの後、王族の遺児を名乗る若者が綺羅星のごとくに現れ、幾年にも渡る主導権争いの波を乗り切り、ついに公国の領地を配下に治めることに成功した。黄色い髪をし、どこか異国の風貌を感じさせるその青年は、薔薇の名前を家名に冠し、花を象った紋章旗を国旗とした。修道院で匿われて育てられた母の名が薔薇に由来するからだと云われているが、この新たな王がなぜ薔薇に縁が深いのか、確かなところを知る者は誰もいない。 
 薔薇の名前の一族は、今もまだ公国を治めている。









                                            (了)





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