雪野原










                         *


「イレイン」
 声はもはや娘に届かない。
「今年最後の花だ」
 肌を刺す冷気の中を、白い呼気が声をのせて漂う。
 棺の中の、服の裾からのぞく小さな手は、胸の上でやわらかく組まれている。
 夜気で色を失った遅咲きの花が、その手の上に舞った。
 閉じられた目と口をもってしてなお、娘は美しかった。
 少女と呼んでもよい齢でさえある、白い肌と黄金の髪を持った娘。その体にふさわしく、小さな棺の中に収まって、土をかぶせられるのを待っている。
 青年は黙然と佇んだ。左手は手袋をはめて皮兜を抱え、右手は素手である。厚いマントの奥には胸甲が見え隠れする。花茎の霜に触れた名残で、青年の右手には水滴がついている。
 前線への出立を前にして、子を胎に宿したまま死んだ妻に、花を摘んで贈ったのだった。
 この地方には珍しく、全般に肌寒い年だった。
 雲はどんよりと重たく曇り、湿った空気があたりを這い回っている。数十年ぶりの、雪の前触れと言われた。
 このような天気を、 青年は妻の出身地で幾度となく経験した。



                     *


 降り始めた雪の上に残る足跡を踏んで、娘が歩いてくる。
 フードに遮られて顔は見えずとも、青年には、その歩調や背の高さや身振りから、誰が自分の後を追ってくるのかわかっていた。
 彼は南の国へ帰るのだ。冬を迎えても雪を持たない、暖かい緑と雨の世界へ。彼が去ろうとしている土地は今しも雪にうっすらと覆われる、白く美しく幻想的な世界だった。
 後を追ってくる娘、彼が置いていこうとしている娘がそうであるように。
 ついに青年は振り向いた。ひらりひらりと舞う雪のカーテンの向こうで、彼の足跡を追いかけてきた娘も、フードの奥から顔を上げて青年を見た。
 ちりばめた氷のような、淡い蒼の瞳。白磁の肌と、フードからこぼれる蜜の色の髪、咲き初めの薔薇のような、淡紅の唇。
 そして何より、そのまなざしの奥に強く深く根づく、自分への思慕。
 青年が捨て難く思いつつ捨て去ろうとするすべてのものが、娘の形をとってそこにあった。
 彼は言葉を失って立ちつくした。娘も、また。二人の周囲で風がゆるやかに舞い、粉雪を散らしてゆく。雲は次第に重く暗くなり、雪もじわじわと本格的に降り始める。
 娘のまなざしと沈黙が意味するものの重みに負けて、ついに青年が口を開いた。
「来てはいけないと、言ったはずです」
 娘の額に輝く金糸で編まれたティアラ。対する青年の身なりは貧しいと言ってもいい。
 青年が追われるようにこの国を出る理由は、ここにあった。
 白い呼気が娘の周囲を漂う。何といって反論するか、その為に呼吸を整えているように見えた。
「かならずおそばに参ると、約束いたしました」
 その約束は青年と娘との間に交わされた約束ではなかった。去りゆく青年に対し、娘が一方的に誓った言葉だった。
 それでも娘の笑みは確信に満ちていた。自分が愛されているという自信から、青年が拒めまいと知っている微笑だった。
 青年の心の壁が崩れた。
 音もなく、声もなく、どちらからともなく走り寄って、ふたりは強く抱き合った。
 娘の小さな手が青年のマントをぎゅっと握り締める。青年の腕が娘の体をのみこんで、 強く強く捕らえた。
 そのまま時間は制止した。
 ふたりの間で、永遠とも呼べる数瞬が過ぎた。
 やがて、
「……あなたを連れてゆくわけにはいかない」
 青年の中の、理性の最後の片鱗が、かろうじてそう言わしめた。
「あなたをこの国から奪うことなど」
 北国の国王の一人娘。国の宝を、今しも自分は攫おうとしている。
「…いいえ」
 娘が囁いた。
「いいえ」
 いま一度。少し強い語調で。
「連れていって」
 蜜色の髪を振り立てて、娘は哀願する。
「連れていって。今なら」
 青年の腕に強く縋りながら。
「今なら、雪が私たちの跡を消してくれる」
 少しく前に激しさを増した雪が、娘の言葉を保証していた。

 そうしてふたりは、その国を出奔し、青年の故国に向かったのだった。



                  *



 戦闘は凄惨のうちに幕を閉じた。
 ここかしこに打ち倒された兵士たちの屍骸が散らばり、夜盗どもが現れては遺骸から鎧を剥ぎ取ってゆく。
 青年はぼんやりと空を見上げていた。四肢の感覚は既になく、手に握ったままの長剣も柄まで血に染まり、今やなまくらと化している。
 あのときもこのような、どんよりした空だった。妻の埋葬の日を思い出し、青年は瞬きをした。
 身体が動かない。出血が多量に過ぎた。目の前がうっすらと暗くなる。横たわったままで、なかば目を閉じようとしていた青年の鼻梁に、冷たいものが当たった。
 ひとひらの雪。
 まぶたがゆっくりと開き、青年の黒耀の瞳が、暗い空を映し出した。
 曇天から、羽毛のような雪がひらりひらりと舞い下りてくる。
 青年の視線が何かを探すようにさまよった。
 青年の枕上に夜盗が立つ。その動きには、青年は気づかなかった。
「ああ……」
 舞い下りる雪の中に何を見たのか。
 青年はゆっくりと微笑んだ。
「そこに、いたのか…」
 青年の喉元に、夜盗の剣が突き立った。
 血飛沫が一瞬にして広がった。
 凍った地面に流れ出した鮮血の中に、降ってきた雪が融けてゆく。
 青年の脳裏には、愛しい娘の笑顔が浮かんでいた。
 血の流れが勢いをなくす頃には、青年はこときれていた。


 処女雪の野原に残る、ふたつの足跡。
 ひとつは大きく、ひとつは小さく。
 青年と少女の笑い声が、降りしきる雪の中にはじけて、消えた。









                                            (了)





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