<其乃二>


「国広、ちょっとこっち来い」
 その晩遅く。
 内番を終えて帰宅した堀川国広に、和泉守兼定が声を掛けた。
「? 兼さん?」
 何も知らない国広が歩いて近づくのへ、畳の上に胡座をかいた兼定がその腕を引っ張って引き寄せる。
「こっち来て座れ」
「? はいはい、」
 兼定のすぐ隣に正座しようとする国広を遮って、兼定は国広の尻を無理矢理自分の膝の上に乗せさせた。
「ッ、ふわぁっ、兼さん、なにすんの!」
 仰天して顔をばっと赤らめた国広が大声を上げてすぐに膝から退こうとしたが、兼定は国広の体を強引に引き寄せて離さない。
「うるせえ耳元で大声出すな、あと暴れんな! 俺だってやりたくてやってんじゃねーんだよ!」
 国広ほどではないが兼定も頬を赤く染めている。
「おめーの目を治すためなんだからしょうがねえ」
「………め、め………?」
 何のことか全く話が見えず、国広が緊張した震え声で繰り返す。
「………そんなに体を固くされたら抱きにくいだろーが。もっと弛緩しろや」
「……む、無理だよ、」
 暴れることこそ諦めたが、膝の上に抱っこされている理由がわからず、国広は狼狽する一方だった。
 兼定の大きな手が国広の細い腰をがっちりと掴んで、逃げる隙を奪っている。
「か、兼さん、あの、」
 兼定に脇腹を触れられてくすぐったいが、それ以上に下腹部に強い熱が流れ込んでくることが気になって、国広は声を上げる。兼定の躊躇を無視して押しかけ女房的に兼定の居室に住み込んでいる国広だが、自分から兼定に艶っぽいことを仕掛けたことはないし、無論兼定から国広に触れてきたこともない。過去にこの部屋で兼定とこんなに密着したことはなく、兼定の体熱と香混じりの体臭に包まれて、国広の密かな熱はどんどん上昇していってしまう。
「按配悪りぃな。俺の首に腕回してろ」
「ふぇえ、なんでそんなことさせんの、兼さん、」
 国広の心を知ってか知らずか兼定がもっと体を密着させるように命じてくる。行為自体は望ましいが兼定の雰囲気からは色めいたものは全く察知できず、性的な様相が無いことは明白で、そうとなれば兼定に密着しているのは国広にとっては拷問にも似た事態なのに、それでも兼定に逆らうことは国広にはできなくて、国広は心を千々に乱れさせながら、結果的に人形のように固まったまま兼定の首に縋りつく格好になっている。惑乱した頭で国広は、一体何がどうなってこんな目に遭っているのかを必死に思い返し、記憶を掘り起こそうとした。
 自分が内番に出ている間に、何が起きたのだろうか。
「か、兼さん……何かあったの………?」
「清公が、こうしてりゃおまえの目が治ると言ってたからな」
「め………って、目のこと? 僕の目の何処が具合悪いって……」
 国広には無論、自分の視力が衰えたという自覚などない。
「おめー、昨日、俺の褌と手拭いを間違えて頬ずりしてただろうが」
「ひぇッ」
 あっさりと指摘された内容に国広は震え上がった。夕べ、欲求不満から来る昂奮が抑えきれずについしてしまった行動を、まさか兼定が背後から見ていたとは思いも寄らなかったのだ。
「み、見てたの………?」
 青ざめると赤らめるを同時に同じ面に上せながら、国広は恐る恐る兼定に尋ねた。
「おうよ。薄暗がりん中で、目が効かねーからあんな行動に出たんだろ。おめーの目が治らねぇと、夜戦とか困るだろうが。清公によれば、おまえを俺が抱いてやったらおまえの奇矯な行動は収まるんだとよ」
「ッ、だ、抱くって、抱くって…、」
 清光の指摘の意味を完璧に理解して、国広は顔から蒸気が出るほどに赤面した。
 下腹部の熱は今にも破裂しそうなほどに強い。
「そーいうこった。そんで今、お前を抱いているってわけだ」
「……………、………………え………?」
 兼定の言葉の意味が理解できず、国広は顔を真っ赤に染めたまま怪訝な顔になる。
「だから暴れんな。俺に抱っこされたままでいろ。何のまじないか知らねえが、俺がお前を膝の上に乗せてるだけでお前の目が治るんなら、安いもんだろ」
「………………………………………」
 兼定が勘違いしていることをようよう理解し始めて、国広の心は昂奮から徒労感へと変じ始めた。
「………兼さん。僕をこうやって抱っこしてれば、僕の目が治るって、本気で清さんの言葉をそんなふうに信じたの……………?」
 無駄に高まった下腹部の欲求のやり場がなくて、国広は困惑と同時に軽い怒りすら覚えながら兼定を見下ろした。
「奴はそう言ったぞ」
「………………清さんは……」
 清光へ怒りを溜めるのは間違っている。それは国広にもわかっていたので、国広は口ごもった。
 性的に無知で、自分が国広に惚れられている自覚すらもない兼定に、清光はろくでもない助言をしてくれた、とは思うが、そもそも兼定の精神状態が外見よりずっと幼いことを知っていながら他の三人に黙ってきたのは国広なので、清光がそのことを知らないからと言って国広からは彼を責められない。
 だがそうなると国広の怒りは、目の前で何も知らずに勘違いしたままの兼定に向けられていってしまう。
「………兼さん……清さんの教えたことは、嘘とまではいかないけど、間違いだよ」
「………………なんだと?」
 国広を抱っこするのすら気恥ずかしかった兼定が、唸るような声を上げて国広を睨み上げた。
「僕の病気は、『抱っこ』されるだけじゃ治らないんだ……抱っこじゃ薬にならないんだよ、兼さん」
「……じゃぁどうすりゃいいって言うんだ。教えろ」
 この先、自分の企みを推し進めるのがかなり図々しい行為のように思えて国広は気が引けたが、鈍感が過ぎる兼定への怒りがその良心を心の奥へ追いやった。
「あのね。口と口を、くっつけないと……な、治らないんだよ……多分」
 頬を真っ赤に染めて、緊張しながら国広が嘘を吐くと、兼定が露骨に嫌な顔をした。
「伝染んねーだろうな? そんなことして……総司の労咳みたいによぉ」
「う、うつったりしないよ、伝染病じゃないもん、」
 兼定が騙されていると全く気付かぬことに、安堵と焦りの双方を感じながら国広は反論する。
「本当だな? 嘘はねぇな?」
「う、う、うん、」
 見当違いの方向に兼定から念を押されて、国広はどぎまぎしながら辛うじて頷く。
「よし。……んじゃ、やってみろ」
「………や、やるって、僕から……?」
 至近から、兼定の青い目でまっすぐに顔を覗き込まれて、国広の顔は更に紅潮していった。
「おうよ。そら」
 兼定が顎を上げて国広の前に口を突き出す。
 情緒も何もあったものではない。
「か、兼さん………目、閉じて、」
 心臓の鼓動がうるさいほど鳴るのを聞きながら、国広は震え声で指示を出した。
 目も閉ざさずに接吻を仕掛けるなど、国広にとって恥ずかしすぎる。
「なんで俺が目ぇ閉じんだよ、」
「だ、だって、き、気恥ずかしくて近寄れないよ、」
 互いの息がかかるほどの距離で情けないやり取りを繰り返しながら、国広が泣き言を言うと、
「ええい、ゴチャゴチャうるせぇな!」
 焦れた兼定のほうが、国広の項を大きな手でぞんざいに掴み、その顔を寄せてきた。
「ンっ、……!」
 唇と唇が触れた途端に。
「ふぁ…ぁ、ンぁふっ」
 国広は腰が砕けたようになって、背骨から力が失われた。
「ンぁ……、」
 兼定の膝の上から滑り落ちそうになったところを、項を掴んだ兼定の手と、肘に背を支えられて、国広は兼定の腕の中で殆ど忘我の境地に達した。
「ッ……」
 力が抜けて顎が緩んだ国広の口が開くと、そこへ兼定の大人の唇が侵蝕してきた。
「! ン、ふぁ、う、」
 横暴とも呼べる力強さで兼定の舌が国広の唇に絡んでくる。
「ッ…んふぁッ」
 それに応えるように国広が歯列を開いて舌先を唇の外へ出すと、兼定の舌が襲い掛かるようにそれに絡み、兼定の口が、食いつくように国広の両唇を侵してきた。
「ンっ! ぅ…、ふゥ、ッむ、」
「ッ…ふ、」
 口中に乱暴に兼定の舌が押し込まれてくる。
 細い顎を押し開かれて口じゅうを蹂躙され、国広は苦しげに声を上げた。
 食われる、という表現が正しいほどだったが、国広の体は兼定の横暴に恐怖ではなく情欲を強め、兼定から与えられた熱は国広の体中を駆け巡って、すぐに腰の中央へと固まっていった。
「ンん、んぁ、ふぁふっ…、」
 口の中で舌の根まで兼定の舌に絡め取られて、国広は恍惚として口中を犯されていた。
 少年の腕を兼定の長い髪ごと巻き込んでその逞しい首に回し、体は兼定の腕に預けて、情欲に酔ったままその身はずるずると畳の上に頽れる。
 接吻を続けるままの兼定の口が国広の顔を追いかけてきて、畳の上で、頭だけを兼定の手に支えられて浮かせながら、国広は兼定のものと混ざり合った唾液を啜り、舌を絡め、唇を食み合って、長いこと口づけを繰り返した。
「ンっ……、ンふ…っ、ふ、ぅ……、」
 国広の顔の両側に、兼定の長くしなやかな黒髪が滝のように流れていく。
 服越しに兼定の胸板に圧迫されて、鼓動が激しく鳴っている。
 国広の下腹部に凝る熱はズボンの中が狭く苦しいほどだった。
「っぷぁっ、はっ、…か、兼さん……」
 ようやく口を解放されて、国広は息をつき、情欲と幸福に茫然とした表情で頬を赤く染めて兼定を見上げた。
 長らく接吻を続けていた兼定の頬も、国広と同じくらい紅潮している。獲物を逃さぬ獣のような青い目が潤んで煌めきながら国広を見下ろしていて、その瞳には国広だけが映っている。
「……俺が見えるか? 国広……」
 少しだけ顔を離し、熱い息を国広の顔に吐きかけながら兼定が問うてきた。
 目には兼定の顔を映し、畳の上に押し倒されのしかかられて、鼻腔からは兼定の香混じりの体臭を嗅いでいる。
「兼さん……、兼さん、」
 涙すら湧くほどに感情を揺さぶられて、国広は掠れ声で兼定を呼んだ。
「何言ってんの……兼さん、僕は、ずっと前から、兼さんしか見えないよ……今だけじゃなくて、顕現した最初から……、」
「そうか」
 兼定の大人の声が国広の顔に降ってくる。
 兼定は国広の顔にかかる己の長い黒髪を払いのけて国広の頬に手をやり、国広の目を半ばまで隠す国広自身の癖っ毛を指で優しく掻き上げた。
「よし」
 次に起こるのは何事か、国広は切ないほどの情欲を身に抱えながら期待していたのに、
「目に異常はねえな? 治療成功だな!」
 大きく骨ばって荒々しくはあっても、意外に器用な手で兼定は国広の瞼をくるりと捲って眼球の充血具合を確かめると、
「こっ恥ずかしくて敵わねえと思ったが、口と口をくっつけた甲斐があったな! よかったな、国広!」
 屈託の一切ない男らしい微笑でそう断言して、手の甲で唾液に濡れた唇を拭いながら身を起こした。
 兼定の熱と存在感が急激に自分から失せるのを、国広は横たわったまま呆然と見守る。
「え………、え……?」
 いつも国広が洗濯している手拭いを懐から取り出して己の口を拭きながら、兼定が笑って言った。
「いつまで寝てんだ国広、目ぇ治ったんならさっさと起きろや」
「め………、め…、って………、」
 顔を真っ赤にしながら国広は呟き、ようよう兼定の言いたいことを理解し始める。
 つまりは兼定は、徹頭徹尾誤解し騙されているままなのだ。
「おまえの病気、本当に伝染んねぇんだろうな? ベロとベロまでくっつけちまって……人間のコロリだったら一発で死ぬとこだぞ」
 眉根を寄せながら兼定はそう言って、手拭いをごしごしと口に擦り当て、国広との接吻の名残を跡形もなく拭き取っていく。
 一方。
「…………………………」
 兼定との深い口づけの跡を唇と口中に残したまま、状況を理解した国広は、無言でむっつりと起き上った。
 口を開いたら、兼定に対し、怒りを露わにしてしまうのを抑えられそうになかった。
「夜更けにはまだ早ぇな。大太刀連中んとこで酒でも飲んでくるか。……国広、おまえはどうする?」
「…………僕は行きません」
 語尾が震えるのを隠すために珍しく兼定に対し敬語になってしまったが、兼定は異常に気づいた素振りもない。
「そーかよ。んじゃ留守番頼むぜ。先に寝てていいぞ。あ、でも俺の布団は敷いとけよ。んじゃな」
 言うなり振り返りもせずに、下駄をつっかけて庭先から屋敷の外へ出て行ってしまう。
 文字通り風のように、兼定は去って行った。
 後には、起き上っただけの国広が畳の上に残された。
 国広の口が少しずつ開く。
「…………………か……」
 独りになってようやく、国広の口から本音が漏れた。
「兼さんの馬鹿!!」
 キスが目に効くと最後まで騙されている純朴さにも程があるし、「口と口をくっつける」としか言っていないのにディープキスをかましてくる図々しさにも程がある。
 その上に。
 接吻で自分はあんなに性的に反応してしまったのに、兼定ときてはそれに気づきもせず、兼定自身がキスで国広に情欲を感じることもなく、平気な顔でさっさと出かけてしまった。
「…………酷いや、兼さん……」
 兼定とのキスで、国広のズボンの中で下腹部が未だにずきずきと圧迫されている。
 いや一番馬鹿なのは、一本気で融通の利かない兼定を騙して情欲を果たそうとした自分なのだ、と国広は反省して、膝を抱えて泣きたくなった。
 後刻、兼定に言われたとおりに兼定の布団を敷き整えながら、国広はまたも泣きたくなった。
 兼定の香混じりの体臭が残る布団。
 体を火照らせる熱に促されるままに、布団の上に身を投じてそのまま自慰に耽ってしまおうかと思ったが、そもそもそうして羽目を外し兼定の褌に触れていたところを兼定本人に目撃されたが故に今の事態に陥ったのだ。
 国広はあらゆる欲求をぐっとこらえ、涙をのんで兼定の寝所を整えた。



 次郎太刀や日本号など、大柄な飲兵衛連中の居館は、新撰組佩刀詰所などの打刀たちの居室からは離れたところに置かれている。無礼講や騒がしいのを嫌う近侍の歌仙兼定が主に押して、本丸以外の屋敷を増築するときにそのように縄張りしておいたものだ。
 月に照らされた夜道を、下駄の足音高く大太刀連中の館へ向かいながら、和泉守兼定は口を押さえて独り考えていた。
 口と口をくっつける、と言われただけなのに、なぜ国広に対し口中に舌まで押し込んでしまったものだろうか。
「……………」
 あの後国広と二人きりで己の部屋にいるのが気恥ずかしくていたたまれなくなってしまい、兼定はつい逃げるように部屋を出てきてしまった。布団を敷いとけ、とは言ったものの、今宵は多分もう部屋には戻らないだろうという予感があった。
 国広の反応がいけねえんだ、と兼定は恨みがましく相手の所為にする。
 女みたいな声を上げて、くたくたと俺の手の中で頽れやがって。
 あいつの体が女だったらやっちまうとこだ。目的は奴の目を治すことだってぇのに。
 主の城下にも、幕末の京都のように遊郭でもあればいいのに、と兼定は下半身の疼きを自覚しながら考えていた。
「しょーがねえ。飲んでるうちに治まんだろ」
 兼定の独り言を、涼しい夜風が吹き上げる。
 噛み合わない情欲は夜気の中に散っていくばかりだ。
 風がもう一度起こり、兼定の長い黒髪を吹き流していった。


                                             (了)




後書