春や昔の春ならぬ

 

2020/10/17〜2022/10/10(途中)
歌仙兼定×宗三左文字(二振目)
※一振目破壊注意
全?話(連載中)


 月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして  在原業平
(月は違う月なのか、春は昔の春ではないのか。我が身だけは
変わらぬ元の身のままでいるのに)
    



  <其乃一>


 顕現してすぐに、血と硝煙の臭いに気づいた。
 前身たる刀であった頃から馴染んだ、戦場の臭い。
 初めて地を踏みしめる二本の足は泥と溝板の上にあり、夜なのか辺りは暗く、狭い通りは下々の者たちの家でひしめいている。
「………宗三左文字といいます」
 目の前に、血に塗れた揃いの軍装姿の少年が数人佇立していて、黙然と宗三左文字を見つめてきていた。そのときの宗三左文字が知る由もなかったが、彼らは藍で染めた制服を同じくする、粟田口の短刀の子どもたちだった。
「……あなたも。天下人の象徴を侍らせたいのですか………?」
 夜の闇と藍色の服、飛び散った血と敵の死骸の中で。
 淡紅色に覆われた宗三左文字の姿が、桜の花房の如くに輝いた。
「………宗三兄さん、」
 藍色の服を着た子どもたちの奥から響く、かすかな声が、宗三左文字の耳に届いた。
 背丈は周りの少年たちと変わらないが、ひとりだけ僧形の子どもがいる。
 見上げてくる深い青の瞳が、宗三左文字の青と緑の目と視点を合わせた。
 それが同じ左文字派の短刀だ、と気づきもせぬうちから。
「……小夜」
 宗三左文字の薄い唇を割って声が漏れた。
「………歌仙さん!」
 宗三左文字と目礼もしないままに小夜左文字は声を張り上げて後退り、やがて後方に全速力で走り出した。
「歌仙さん! 宗三兄さんが……、」
「騒がしいぞ。お小夜」
 命じるのに慣れた低い声が小夜左文字の行く手から聞こえてきた。大股で歩いてくる大人の足音が響く。
「雅じゃないことはよしなさい」
 冷たい声。
 月明かりの中に男の姿が浮かび上がった。右手には真っ赤に染まった抜き身の打刀を持っている。
 その足取りからさして怪我はしていないだろうと思っていたのに、その男は血塗れの上に傷だらけだった。軽傷どころか中傷、下手をすれば殆ど重傷に近いほどの怪我をしている。秀麗な顔にも刀傷がつき、殺気走った目には赤い憎悪が滾っていた。
「いったいどうした―――」
 そこまで小夜左文字に言いかけて、その男は宗三左文字に気づいた。獣のように爛々と光る緑の目が宗三左文字の顔に据えられ、男の動きが止まる。
 全ての刻が止まったようなその男の緊張を、宗三左文字だけでなく周囲の少年たち全てが理解し共有していた。
 暫くして。
「―――――宗三左文字どの」
 淀むことなく男の口をついて出た己の名に宗三左文字は瞠目した。
「……僕を御存知でしたか」
「…………………」
 問われて男の体は少しだけ揺らぎ、しかし口では彼は返事をしなかった。
「……歌仙さん……、」
 男の脇で、心配そうに小夜左文字が男の顔を見上げていた。
「………………いや。そうだね。……お小夜」
 心の逡巡をそのまま口に上せて、男は口の端に微笑を浮かべた。
 もう幾年も笑ったことがなかったような、硬い微笑。
「京都市中の随分と奥深くまで来てしまった。ここが引き時だな。皆怪我も疲労もしている」
 そこでもう一度、宗三左文字の顔を撫でるように男は視線をくれて、
「……その上、新たな参陣者を連れ歩いて怪我をさせるわけには行かないね。帰還しよう」
 指揮官らしいきっぱりとした口調で言って、その男は改めて宗三左文字に向き直った。
「僕は歌仙兼定。おもに主の近侍を務めている。主の城へ案内するよ、………宗三左文字どの」
 己の名を呼ぶときにのみ、声に苦しげな響きが絡む。
 なぜ、と思いながら、宗三左文字は男の言葉を聞いていた。


 新たに己の主となった者の城には、宗三左文字も憶えのある魔王の佩刀連中が顔を揃えていた。主に挨拶を済ませた宗三左文字が退がってくると、信長ゆかりの者たちが詰めている控えの間では既に酒盛りが始まっていた。
「まぁ座れ。まずはめでてー。うぃっく」
 頬どころか、半ズボンから突き出た膝頭までも酔いに赤く染めながら、不動行光が酒を呷っている。
「不動、飲み過ぎだぞ。いいかげんにしろ」
 傲岸で厳しい気配を隠しもしないへし切長谷部が右脇で睨みつけるのを、恐れげもなく不動行光は酔った赤い眼で睨み返す。
「うるへー、主が長らく寵愛してた宗三左文字の二振目だぞ。こんでちっとはこの陰気な城も明るくなるし、近侍の歌仙兼定だって憑きものが落ちたみたいになるかもしれねー。これが飲まずにいられますかってんだ。ひっく」
「目の前の宗三は何も知らんのだ、余計なことを言うな」
 へし切長谷部が顔を顰めて不動行光を諫めた。
「二振目………? ですか………? この僕が……」
 顕現したときの皆の微妙な反応はその所為だったか、と今更ながらに得心しながら、座した宗三左文字は口を挟んだ。
 へし切長谷部が舌打ちをする。不動行光に対して怒っているのは明白だった。
 へし切長谷部の更に右脇で、不動行光以上に杯をくいくいと空けていた薬研藤四郎が微笑した。似たような年頃の少年姿をしているが、その頬は不動行光とは対照的に一切朱が差しておらず、むしろ青白いほどだ。
「いいじゃねぇか、長谷部、いずれは宗三も知ることだ。そんな訳で予めお前さんに言っとくがな、宗三、一振目はさきの出陣で既に帰らぬ者となっていてな。ふた月ほど前のことだ。刀剣男士が破壊されて消えるのは初めてだったから、それ以来、ずっと城中も大将もふさぎ込んだままになっちまったんだ。だから今日のお前さんの顕現は、城中にとっても大将にとっても喜ばしいことなのさ」
 薬研藤四郎の解説で、不動行光の言葉の半分は納得できた宗三左文字だった。
 残りの半分がふと気になった。
 顕現した京都市中で逢った、歌仙兼定と名乗った男。荒んだ獣のような彼の表情が、宗三左文字の脳裡を過ぎる。
「……歌仙兼定の憑きものが落ちるというのは………?」
 宗三左文字がそう尋ねた途端に、周囲が水を打ったように静まりかえった。
 へし切長谷部が人を殺せそうなほどの鋭い視線を不動行光に突き刺している。不動行光はさすがに失態を自覚してか、酒を盃から啜りながら、居心地悪そうに背を丸くして身を縮めた。
「……これもいずれはわかることだからな」
 やや言いにくそうに、それでも薬研藤四郎が重い口を開いた。
「詳しいことは之定の旦那……歌仙兼定本人の口からしか聞けねえと思うが。俺っちたちを含めた刀剣男士は全員蚊帳の外で、詳細は当人達しか知らなかったからな。之定の旦那には恋人がいたんだ。昔はああいう男じゃなかったんだが、恋仲だった刀剣男士を敵に破壊されてから性格が変わっちまった。で、恋仲だった刀剣男士というのがつまり……」
 薬研藤四郎は先に、城中で初めて破壊されたという刀剣男士の話をしていた。
 一振目の宗三左文字。
 宗三左文字の表情を読み取って、薬研が重々しく頷く。
「そう。お前さんが顕現する以前、宗三左文字は之定の旦那の恋人だったんだ」


 夕刻、織田の者たちに囲まれた宗三左文字を呼びに来たものがあった。
「部屋の用意、整ったってさー。ソウサモちゃん、迎えに来たぜ」
 青年に達したばかりの年頃と見えるその打刀は、加州清光と名乗った。
 尻尾のように垂らした細いまとめ髪を弄りながら、赤い瞳で、立ち上がった宗三左文字を興味深げに見つめてくる。
「そうしてると全然、前のソウサモちゃんとおんなじだなー。俺と一緒で、ちょっと打たれ弱そうな美人のとことかさ」
「加州清光、不用意なことを言うな。宗三は俺が部屋まで送る。おまえは出しゃばらなくていい」
 眉間に皺を寄せたまま刀を掴んで立ち上がったへし切長谷部が、後方から口を出した。
「どっちが出しゃばりだよ? 俺は主に言われてんの。ソウサモちゃんを案内するように、って」
 加州清光が唇を突き出して反論し、主の名を出されたへし切長谷部は不満げながらも身を引いた。
「んじゃ、ソウサモちゃん、帰ろっか」
 言うなり加州清光は振り返りもせず、すたすたと元来た廊下を戻り始める。
 宗三左文字は彼の後に続き、去り際に残った魔王の佩刀連中に礼をした。
「それでは失礼します、皆さん」
「おーう。まっ、よろしくやれや」
 酔っ払った不動行光が宗三左文字に向かって横柄に手を上げた。
 怒ったへし切長谷部がその手から杯を奪おうとしているのが目の端に入ったが、それ以上宗三左文字は彼らに気を払うことは出来なかった。加州清光に遅れないように急ぎ足で廊下を歩んでゆくその背中に、かつての同僚達の騒がしい声が響く。
「あーッ! なにすんだよ、零れちまっただろ!」
 かしゃかしゃと土器のぶつかる音がする。
「もう飲むな! 第一きさまのような奴に飲ますには過ぎた酒なんだぞ、水でもあるまいし、浴びるように飲むのはやめろ!」
「だからって畳に飲ませんのかよ! この野暮のドケチのしみったれ! 返せぇ、俺の酒! ひっく!」
「なんだと。如水さま譲りの節約法を吝嗇と呼ぶとは何事だ!」
「いい加減にしろお前ら、どっちも野暮の極みだぞ。目出度い酒の席くらい怒鳴らずにだな……、」
 控えの間から続く渡り廊下を二度ほど曲がったところで、喧噪は宗三左文字の耳に届かなくなった。

 城中は思ったよりも人の密度が高く賑やかだ。加州清光の背を追いながら宗三左文字は溜息をつく。
「意外だった?」
 不意に振り返って、加州清光にそう尋ねられた。加州清光の顔には面白がるような笑みが浮かべられている。
 何のことか、と問い返しも出来ずに宗三左文字が彼を見つめていると、加州清光は歩む足を止めて更に微笑を深めた。
「けっこう人がいっぱいいて吃驚したろ? ソウサモちゃん」
 そうさも、という略称で呼ばれること自体に慣れない宗三左文字は、黙って頷くしか出来ない。
「俺はこの城ではめちゃくちゃ古株だからな。もっと刀剣男士が少なくて、寂しいくらいだった頃からここにいるんだけど、その頃とは城の雰囲気も随分変わったんだよ。今は刀工の派閥とか、誰ん家の佩刀だったかとか、そんなんでダマになってられるほど人数が増えたもんなー。ま、打刀で一番古いのは俺じゃなくて、主の初期刀だった歌仙の旦那なんだけど」
「……歌仙兼定………」
 先程聞いたばかりの名を宗三左文字が薄い唇で呟くと、加州清光が探るように赤い眼を眇めてきた。
「……この本丸の打刀は初期刀が歌仙の旦那、二番目が最初の宗三左文字、三番目が俺の順で顕現したんだ。歌仙の旦那と、一振目の宗三左文字の話は聞いた?」
「………ごくおおまかに、ですけれど」
 宗三左文字は頷く。
「うん。ま、顕現したばかりのソウサモちゃんには、あんま関係ないって思えるかもね。でも、歌仙の旦那は、一振目のソウサモちゃんが破壊されてからおかしくなっちまったからさ」
「……どういうことでしょうか………?」
「歌仙の旦那はさ、短気で嫉妬深かったけど、近侍としては気の利いたまとめ屋でもあったんだよね。城の庭から部屋割りから部隊の編成から、主は全部歌仙の旦那に任せっきりだったし。まあだから、ここは殆ど歌仙の旦那が管理する城みたいなもんだったんだ。……歌仙の旦那はしきたりに五月蠅くて美意識も高くて、その所為で俺たちの城はわりとかっちり回ってたんだけど………、一振目のソウサモちゃんがいなくなってから、あの旦那はそういうことには興味を無くしちまった。旦那の身の回りには小姓代わりに何人か短刀の子がついてたんだけど、みんな暇を出して他所にやっちまって、今じゃサヨサモちゃんだけを傍に置いてるんだよ」
 加州清光の与える情報を、宗三左文字はやや必死に脳内で反芻する。
「……さよさもというのは……小夜のこと……ですか………?」
「そっ。まさかあの二人が同衾してるとは思わねーけどさ。いくらソウサモちゃんの弟で、旦那と同じ肥後細川の所有刀で、所縁が濃いっつってもさ」
「……………………」
「サヨサモちゃんは復讐の化身みたいなとこがあるからな。修行から帰ってきて極とかいうのになって、益々殺気が強くなっちまった。歌仙の旦那がサヨサモちゃんを手放さないのはその所為だと思う。歌仙の旦那は……、サヨサモちゃんと一緒になって、敵に復讐して回ってるんだ。昔なら雅だ歌だと口癖みたいに言ってて、戦いはわりとそこそこって感じだったんだけど。今は昼夜を分かたず出陣して、鬼神みたいに敵を斬りまくって、自分が傷ついてボロボロになるまで城には帰ってこない。城を空けてることが多いから、いきおい城中が荒れてきちまってるんだ。燭台切光忠って伊達の旦那が代わりにあれこれ気を回してるけど、どの刀剣男士だって、歌仙の旦那ほどのきめ細かさは持てねーもんな。しょーがねーよ。……俺としてはさ。二振目のソウサモちゃんが来て、ちっとは歌仙の旦那も落ち着けばいい、と願う気持ちはあるんだよね。城の連中はみんなそうだと思う。歌仙の旦那ととりわけて仲がいいってわけじゃなくても、長いこと一緒に戦ってきた戦友だからね」
 それは不動行光の喋っていたことと符牒が合う気がする。
 だが宗三左文字はそれについて反応することは出来なかった。
「……………僕は………」
 戸惑う宗三左文字に加州清光は破顔して、わかっているというように爪先を赤く塗った片手を振った。
「ああ、いいんだぜ。あんたにとって歌仙の旦那は見知らぬ赤の他人だし、ソウサモちゃんはソウサモちゃんで、この城とはまた別の事情を抱えてるだろうしな。ただまあ覚えといて。………歌仙の旦那とあんたをくっつけようとする圧力は、この城ではけっこう高いかもだから」
 加州清光の言葉は宗三左文字にとっては情報が煩雑に過ぎ、半分ほども意味が取れなかった。
 そもそも自分が人間の男と同じ体に成ったことにすらまだ馴染んでいないのだ。
 加州清光は再び廊下を歩き出し、本丸を出て刀剣男士達の屋敷がある次の丸へ宗三左文字を案内しながら、あの林の奥が厩、あの門の向こうが鍛錬所などと逐一説明を加えつつ、ひとつの棟へと宗三左文字を連れてきた。
「着いたぜ。俺の案内はここまで。身の回りの世話には前田って藤四郎が付く筈だから、内向きのことはそいつに聞いといて。色々疲れたろうから今日はもう休んだほうがいいぜ。んじゃ」
「……案内をありがとうございました」
 頭を下げて優雅に礼を述べた宗三左文字に、加州清光は笑って見せた。
「なるべく早く城に馴染んでくれよな。歌仙の旦那だけじゃなくて、俺たちみんな、ソウサモちゃんがいなくなって気落ちしてたからな。俺も、あんたが顕現してくれて嬉しいよ。じゃあな、ソウサモちゃん。また明日」
 立ち去った加州清光と入れ違いに、棟の奥から短刀の子どもが姿を現した。
「宗三左文字さまですね。前田藤四郎と申します。主君に命じられて、僕が宗三左文字さまに従持することになりました。宜しくお願いいたします」
 子どもらしい澄んだ声で生真面目に挨拶されて、宗三左文字も笑みをはき、鷹揚に返事をした。
「こちらこそ宜しくお願いします、前田藤四郎。……僕は顕現したばかりで右も左もわかりませんから、あなたを頼りにしますよ」
「はい! 僕も鍛錬されて七日ほどの新参者ではありますが、精いっぱい不足なきようお仕えいたします!」
 前田藤四郎は頬を紅潮させて嬉しげに答えた。
 前田と名乗ると言うことは、魔王のもとで赤母衣衆であった前田利家の系譜に連なる加賀藩の蔵刀だった短刀なのだろう。こうした縁の者を小姓に付けるというのは、主かあるいは、それに近しい者の気配りであるに相違ない。
 打刀であった前世と同じように、自分は大切にされている、と感じる一方で。
 顕現して半日も経たぬ己の心に、暗い澱のように倦んだものがわだかまる。
 吐息をついた宗三左文字を、疲労していると取ったのか、前田藤四郎が気遣うように声を掛けた。
「どうぞ、こちらへ。まずは軍装を解いて、おくつろぎください。そのうち夕餉の支度が調います」
 客間、居室、その奥の寝所へと導かれて、宗三左文字は促されるままに鎧を放ち、軍装の腰帯を解いた。
 僧衣の下から人間の男の体が現れる。
 自分でも初めて見る、刀剣男士としての己の皮膚。白い素肌。
 替えの服を持って目前に控えていた前田藤四郎が、何かを目にした途端にはっと息を飲んだ。
「………その紋様は………それが宗三左文字さまの茎に打たれた、信長様の銘でございますか?」
 礼は失わないが昂奮した面持ちの前田藤四郎に言われて視線を落とすと、左胸に、魔王の用いた平家紋に似る蝶の刺青が刻まれていた。
 刺青を認めて眉間を曇らせた宗三左文字の表情には気づかず、前田藤四郎は目をきらきらさせて言上してくる。
「それが天下人の刀の証なのですね。僕は初めて見ました。信長様、太閤様、東照権現様と続けて天下人に所有された御刀は、この城でもごく珍しいです。昔の主の縁の深い宗三左文字さまにお仕えできて、僕は幸せです」
 前田藤四郎の喜びに水を差すのも気が引けて、鷹揚に頷くことしか宗三左文字には出来なかった。
「お茶を淹れて参ります。少しお待ちください」
 前田藤四郎の手を借りて着替えを終えた後、主座に座した宗三左文字にそう告げて前田藤四郎は退がった。やっと独りになって宗三左文字は息を吐き、慣れぬ事ばかりで強ばりきっていた体を脇息に預け、ようやく少しずつ、緊張が解けていくのを自覚する。
「………………………」
 長い睫毛の下で、黒目がちの瞳が翳りを増す。
 知らず、右手を左胸に当てていた。
 服の下に再び隠された魔王の刺青。永遠の所有と略奪の証。
 魔王の気配が強い社の奥に安置されていた刀身であった前身。桶狭間で捕らわれ、数百年を経たというのに、相変わらずこの体には魔王の所有の印が刻まれている。刀剣男士として顕現し、人の身の姿を得た今でさえも。
 火を浴びて再刃を受けて尚、天下人の手に触れた刀として、蔵の中に幾世紀も閉じ込められてきた籠の鳥。
 ――――自由になりたい。
 刀剣男士として顕現したことは、ひとつの籠から別の籠に己が身を移されただけに過ぎなかった。
 城に現れた途端に、こうも「宗三左文字」としての己の有り様を周囲から押し固められることになるとは思いもよらなかった。刀であった前世と変わらずに外側から縛られる窮屈さに、息が詰まりそうだ。もっともそんな感情も、人間の身を模した刀剣男士となって初めて獲得した「心」が、ここ数刻のうちに感じ始めたこと、と言うに過ぎない。
 一振目の宗三左文字は、どんなふうに己の心の中の虚無とつき合ったのだろう。
 宗三左文字は瞬きをして考えに沈んだ。
 一振目が消失した空の籠に、二振目の己が入ることになった。ただそれだけのことなのだろうか。
 一振目のことを思うと、自然と別の刀剣男士にも意識が及ぶ。
 歌仙兼定。
 刀であった頃には逢ったこともなかった、一振目の宗三左文字の恋人。
 彼は城へ自分を案内し主と引き合わせた後、自分には構うこともなくどこかへ去ってしまった。よそよそしく冷たい気配を隠すことすらしなかった。隣にいた小夜左文字はやや気がかりなように此方を見ていたが、やはり歌仙兼定に従うことにしたらしく、彼の後をついてすぐにいなくなった。歌仙兼定は今後どんなふうに自分に応対するだろうか。自分はどんな応対を、彼に為すべきなのだろうか。
 額の辺りが重くなり、視界が少し暗くなった気がする。日没とは無縁であろう。眩暈、という言葉が宗三左文字の脳裡に浮かんだ。
 いまだ不慣れな人間の身と心。
 顕現した先のこの城の状況は、世慣れぬ宗三左文字が受け入れるにはあまりに荷が重すぎた。


 日付が変わる頃。
 重傷に近い怪我をしていた歌仙兼定が手入れ部屋を出ると、寝静まった城の廊下に小夜左文字が黙然と立っていた。歌仙兼定の手入れが終わる時間を見計らって、迎えに来たものらしかった。
「………先に寝ていなさいと言ったろう」
 笑み一つはくことなく歌仙兼定が言う。
「ごめんなさい。でも」
 そう言うばかりで小夜左文字は後は黙った。
 京都市中の戦場では短刀が最も優位になる。酷い手疵を負った歌仙兼定に比べて、極まで果たした小夜左文字は掠り傷ひとつつけられることなく帰城してきていた。
「明日も出陣する。朝は早いんだぞ。子どもの体は大人より睡眠を要するのに」
「………僕は平気です。………それに、どうせ眠れなかったから」
 逡巡するように、小夜左文字が爪先に視線を落とした。
「……宗三兄さんが、もう一人現れるなんて」
 宗三左文字の名を出された歌仙兼定は苛立ったように目を眇めたが、俯いていた小夜左文字にはその表情は見えなかった。
「どう考えたらいいか、わかりません」
 正直に告白した小夜左文字に、歌仙兼定の荒んだ瞳が少しだけ険を失った。
「………あれは『彼』ではないんだよ」
 小夜左文字にではなく、己に言い聞かせるように歌仙兼定は告げた。
「それはわかっています。でも………」
 小夜左文字の混乱と困惑は歌仙兼定の裡にも存在するものだ。
 夜の路地の中に顕現した宗三左文字の外見は、歌仙兼定が馴染んだ一振目と何もかもが同じだった。
「彼」が帰ってきた、と心に湧いた歓喜はだがすぐに、それが思い違いであると理性が認識してあえなく萎んだ。一振目と二振目を見違えた自分自身に、歌仙兼定は怒りすら抱いた。顕れたばかりの二振目と、長く濃い時間を共に過ごした一振目は、自分にとって全く違う存在でなくてはならぬ筈なのに。
 愛した男の姿をそのままに映す二振目に、歌仙兼定は触れたくなかった。
「………いっそ、主が彼を刀解してくれていればよかったんだが」
 小夜左文字が驚いたように面を上げ、怯えた視線で見つめてきたので、歌仙兼定は、己の身勝手な願望が口をついて漏れ出ていたことを自覚した。
「………いや。主の意に背くつもりはないよ。今のは愚にもつかぬ独り言だ。忘れてくれ」
「………………はい」
 用心深く小夜左文字が返答してくる。目の前の子どもを安心させるには、まだ言葉が足りぬようだった。
「僕にとっては二振目の宗三左文字どのは他人だが。お小夜にとってはどちらも大切な兄上だろう。顕現したては誰しも不安に思うものだから、彼のことは、お小夜が気にかけてやりなさい。……僕のほうは、多少疎かになっても構わないから」
「………ですが…」
 小夜左文字の表情は目に見えて緩んだが、新たな危惧を幼い顔に上せた。
「僕は歌仙さんも心配です。……戦い方とか。今日も………」
 小夜左文字の視線を受けて、歌仙兼定はむっつりと黙り込んだ。
 結局小夜左文字は、歌仙兼定が傍に置きたいから手元にいるだけではなく、小夜左文字自身が歌仙兼定を案じて、自らの意思で歌仙兼定の傍にいるもののようだった。
 自らの危険を省みず敵陣に斬り込んでいく歌仙兼定を、見るに見放せずにいるのだろう。戦場慣れした子どもの気遣いが、好ましいと同時に歌仙兼定には煩わしかった。
 戦によって恋人を喪った今、自分には復讐しか残されていない。たとえそれによって己の身が傷つき、あるいは滅んでも。
 その感覚を歌仙兼定の自暴自棄、と案じた幾人かの刀剣男士が自分を諫めようとしてくるのも知っているが、歌仙兼定は彼らの提言を受け入れる気にもならなかった。
 宗三左文字の死によって自分の人生は色褪せ、戦い続けるほかに何の楽しみも無くなってしまった。
 歌仙兼定が戦場だけでなく、夜も小夜左文字一人を手元に置いているのはその為だ。怨讐で敵を屠るには、血に濡れた復讐譚を前身に持つ小夜左文字の波長は、傍に置くに最適だった。破滅に向かう気性を身の内に抱え、それを持て余しながらも陰鬱さを手放さない小夜左文字の様相は、兄の宗三左文字にも共通するものがある。少なくとも破壊された一振目はそうだった。
 新たに来た二振目も、恐らくそれは変わらない。
 彼もまた。自らの破壊を密かに心待ちにしつつ戦場に立つのだろうか。
 そう思い至って、歌仙兼定の心は錐が突き立つようにつきりと痛んだ。
 一振目と同じように宗三左文字の面倒を見るべきだろうか。歌仙兼定は躊躇する己を自覚する。
 ……恐らく余計な世話だろう。歌仙兼定はそう考え直した。
 一振目が顕現したときと違って、今の城には多くの刀剣男士がいる。織田の刀、左文字の刀、豊臣の刀、徳川の刀。
 彼らに二振目を任せても構うまい。自分は彼に関わりたくないのだ。
 宗三左文字の姿を思い起こすだけで目の奥が痛くなる。
 歌仙兼定は唾を飲んで涙をこらえた。
 怒り続けていなければ悲しみの海にただ溺れてしまう。
「帰ろう。お小夜」
 宗三左文字の淡紅色の髪が脳裡に広がるのをようやく意識の外に追いやって。
 明日もまた敵の血に汚れるはずの佩刀を手に、歌仙兼定は小夜左文字と共に廊下を歩き去って行った。




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