<其乃九>


 閨の中の空気が冷え始め、時刻が夜更けであることを示していた。
 涙の出がようやく落ち着いた宗三左文字が、歌仙兼定の腕の中からそっと身を起こした。
「…………歌仙兼定」
 掠れた声に静かな決意を乗せて、宗三左文字が二振目を見る。
「僕に対して…………、もう気は済みましたか」
「…………」
 宗三左文字の意図がまだ掴めず、沈黙して相手を見る歌仙兼定に、宗三左文字は重ねて問う。
「夜が明けたら……僕を見放してくださる約束でした。今夜一晩はあなたに隷従する、と…………。夜明けより前に、僕にさせたいことがまだありますか」
「宗三左文字どの」
 二振目は顔に焦燥を浮かべて宗三左文字の肩を掴み治す。
「きみの心も顧みずに、あんな約束をさせてしまって済まなかった。きみを嬲るように抱いた後で、僕にこれを言う資格がないのはわかっているが、約束は反故にさせてくれ。二度ときみに対して無体な真似はしないから、」
「…………いいえ」
 宗三左文字は首を横に振った。
「約束は………、守ってください。自分勝手なのは承知していますが、一振目とそっくりなあなたと顔を合わせて普通に話をすることが、僕には酷く難しいのです」
「宗三左文字どの……、」
 二振目は悔恨の表情を顔に上せて唇を噛む。
「どうあっても翻意はしてくれないのかい」
「ええ」
 宗三左文字は静かに、だが頑なに答えた。
「もう一度あなたに対し体を開けと仰るなら、そう致します。自慰………なるものも。先ほどのやり方で、今の僕が自分で果てられるかどうか、わかりませんが……」
 乾いた精に汚れたままの、萎えた己の竿を見下ろしながら宗三左文字は言った。
「あなたとの関わりは、今宵限りにしたいのです」
「……………………」
 宗三左文字の意思が固いことを知って二振目は口を噤んだ。
 自分で述べたとおり、宗三左文字を残酷に犯してしまった以上、歌仙兼定は明日以降の宗三左文字を手元に留めておく資格を喪っていた。宗三左文字の事情を知った今となっては、支配心や独占欲によって己の情欲を押し通すことも、歌仙兼定には出来なくなっていた。
「…………わかったよ」
 溜め息とともに二振目は状況を受け入れた。
「約束は果たそう。夜が明けたら、城中できみとは疎遠にして過ごしていくことにするよ。僕には辛い境遇だが、こんな事態を招いたのも僕の所為でもあるしね。…………だからといって今宵、きみを手荒に抱くことももうしないよ。ただ……夜明けまで、僕の傍で、この場にもう少し留まっていてくれ」
「…………わかりました」
 宗三左文字は小さく頷いた。
 二振目の歌仙兼定が、関わりを結ぶのをこれきりにしてくれる、と宣言したことに対し、強い安堵と、そして何故か心が沈むのを自覚した。吐く息には安心感より消沈のほうが勝っていて、そんな己を宗三左文字は訝しむ。
 歌仙兼定は微笑むと席を立ち、別室で寝ていた小姓役の子を起こして、湯と布とを持ってこさせた。
 湯に浸した布で歌仙兼定が宗三左文字の体を優しく拭っていく。その手つきは恭しいと呼べるほどで、先ほど宗三左文字を抱いたときのような支配心や横暴さは跡形もなく消え失せていた。
「朝までにはかなりの時間があるな。宗三左文字どの、小腹は空いていないかい」
 宗三左文字とそれから己の体を清め終えて歌仙兼定が尋ねる。
「……小腹…………ですか…………?」
 歌仙兼定の器用な手によって、僧衣までを着せ整えられた宗三左文字が問い返す。
 空腹はそれほど感じないが、何も食べられぬほど胃が重いと言うほどでもない。
「きみはまた痩せたようだね」
 自ら綺麗に拭いた宗三左文字の手を取って、歌仙兼定が観察する。
「僕の献立は口に合わなかったようだね。お小夜から聞いたよ」
「……か、歌仙兼定、」
 より正確には口に合わなかった訳ではなく、あまりにも一振目の味付けと似ていたが故に食べきれなかった小豆粥のことを思い出して、宗三左文字は狼狽した。
「あれは…………、」
「此処で少し、待っていてくれ」
 二振目はそう言って再び立ち上がり、部屋から姿を消した。
 四半刻も立たぬうちに、歌仙兼定は寝所に戻ってきた。
 両手に捧げ持った盆の上には蓋の付いた漆塗りの汁椀と匙が乗っている。
「この屋敷には水屋もあるんだ。これも一振目の歌仙兼定の差配なんだろうが。本丸の台所は燭台切光忠どのの管轄だから、僕が独りで何か作るときには、こちらをよく使うんだよ」
 そう言いながら、二振目は宗三左文字の前に汁椀を差し出した。
「味見してみてくれないか。試作品だが。味付けを前とは変えてみたんだ」
「歌仙兼定……、僕は……、」
「まだ夜明けじゃないよ。今宵限りは、僕の言葉を聞いてくれる約束だろう」
 悪戯っぽい微笑で躊躇いを制されて、宗三左文字は気乗りせぬながら汁椀の蓋を開けた。
 汁の色は茶色く濁り、具に何が入っているのか全く窺えない。京風の透明さや色の薄さを好む歌仙兼定の調理にしては珍しいものだった。
 椀を手にし、中の汁を匙で掬うと、茶色の液体の中に米と葱、崩した豆腐などが沈んでいることがわかった。以前小夜左文字づてに作らせた小豆粥を改変したものだろう。それにしても色が濃い。
 宗三左文字が匙で掬った粥をそっと口に入れるのを、歌仙兼定は固唾を呑んで見つめている。
 味も、京風の味付けではなかった。
 口に含んだ途端に広がる、滋味深く懐かしい味わい。
 食べたことはないものなのに、この味を知っている、と宗三左文字は思った。
「これは…………、」
 粥を飲み込んだ宗三左文字が驚いた表情で椀の中を見つめる。
「口に合うかい?」
 目の前に座る歌仙兼定はやや嬉しそうだ。宗三左文字の様子から、それが好みの味であることを察したようだった。
「尾州や遠州で食されていた豆味噌を使ったんだよ…………天下人となったきみの代々の主が豆味噌を愛用したと聞いたからね」
 宗三左文字は目を瞠る。
 生前、宗三左文字を得意の料理でよくもてなした一振目の歌仙兼定は、京風の己の味を決して崩さなかった。
「僕の為に…………ですか…………? わざわざ…………」
 宗三左文字の問いに、二振目の歌仙兼定は微笑んだまま深く頷いた。
「気に入ってくれたなら、お小夜に作り方を教えておくよ。僕から離れようとなんだろうと、きみはもっと健康でいなくちゃいけない」
「…………僕は、あなたの世話になることも、今後は避けたいと…………」
 困惑して狼狽しながら宗三左文字が言うのへ、
「言ったろう。まだ夜だよ。そして明日以降は、きみの為に粥を作るのは僕じゃない」
「………………」
 言いくるめられた恰好になって、宗三左文字は口を噤む。
「食べて。冷める前に」
 二振目に促され、宗三左文字はもう一度、匙で粥を口に運んだ。
 味わうほどに風味は懐かしく腹に優しくて、宗三左文字は久しぶりに空腹を自覚した。
 高雅な手つきで、ゆっくりとながら着実に粥を食していく宗三左文字を見やりつつ、歌仙兼定が独り言のように喋っていく。
「僕の見知った味噌と比べたら随分と色が濃くて、匂いも違っていたから、風味を整えたり、塩梅を掴むのに難儀したよ。伊勢出身の村正派や豊臣・徳川御物だった刀剣男士たちに色々聞いて回っても、埒があかなくて。刀剣男士の中でも、僕や燭台切光忠どののように、献立に詳しい者はごく少ないようだね」
「………………」
 二振目が、自分の為に、見えぬところで骨を折っていた、と知って宗三左文字の眉が歪められる。
「最終的には家康公御物の包丁藤四郎を捕まえて、豆味噌の使い方を教わったよ。京菓子の作り方をこちらが教授するのと引き換えにね。……豆味噌というのは、一度コツを掴めば、なかなか汎用性のある調味料だね。以前、燭台切光忠どのが勧めてきた『うすたあそおす』やら『けちゃっぷ』やら言うのと風味が似ている気がするな。僕には馴染みが無いが成程、ソース味を好む刀剣男士が多いわけだよ」
「…………歌仙兼定……、」
 粥を食べていくうちに、やがて宗三左文字の目尻から涙が湧き、頬を伝い落ちていっていった。
 それを認めた歌仙兼定が驚いて緑色の目を瞠る。
「どうしたんだい? 粥になにか異物でも入っていたかい?」
「…………、いいえ………、」
 堪えようとしても涙は後から後から溢れてくる。宗三左文字は椀を置いて俯き、袖で顔を覆ってしまった。
「宗三左文字どの」
 一振目と同じ、二振目の優しい声が己を気遣う。
 自分を心配した二振目が寄ってくる気配があって、それが、宗三左文字をいっそう涙の海に沈めた。
「…………あなたに、離れて欲しいと言ったのは僕なのに…………、」
 声を詰まらせながら宗三左文字は嘆いた。
「あなたが、いざ離れてくださるとなったら…………、こんな時でも、僕を気遣ってくださると知ったら…………、あなたとこれきりになるのが辛くて、涙が止まらないのです……、」
 二振目に対して自分の心を隠し通すことも出来ず、惑乱のままに、宗三左文字はそう告白した。
「…………きみが混乱するのは当たり前だよ。僕もそうだ」
 歌仙兼定が再び宗三左文字の肩にその手を触れた。
 泣き続ける宗三左文字はそれを振り払うこともなく、歌仙兼定の手に背を撫でられる。
「この城で……、あなたに、近づくのも、遠ざかるのも……安心と、気鬱と、悲嘆を覚えずにはいられないのです…………。申し訳ありません、歌仙兼定…………僕が、あなたの気持ちをもっと考慮できたら、あなたの心を傷つけたりせずに済みましたのに、」
「―――いいんだ。宗三左文字どの」
 二振目はそう言って、涙を流す宗三左文字を両の腕で抱き寄せた。
「人間は一つの心で色々なことを思うものだ。僕もきみに対して、愛情と憎しみの双方を抱いてきた。………きみは、やはり僕を、一個の刀剣男士として好いていてくれるんだね。一振目の形代として僕を見ているだけなら、二振目の僕の気持ちを、そうも汲み取ってはくれないだろう」
 二振目を好きなのだ、と本人から指摘されて、そうかも知れないと宗三左文字は思った。
 二振目の腕に抱かれながら。
「…………あなたはずっと、僕に親切にしてくださいましたから………」
 一振目とよく似た、しかし違う部分もある二振目の歌仙兼定。
 だが、二振目の気持ちに応えることは、宗三左文字には難しかった。
「ただ、もう……どうしたらよいか、僕にはわからないのです…………。恋人は、僕を守って死んだ一振目ひとりと、思い定めていましたのに、」
「心は理屈じゃないんだよ。宗三左文字どの」
 一振目と同じ体温。同じ香混じりの、同じ体臭。
 同じ声。
「こうあるべき、こうしたい、と頭で考えても、どうにも心の整理がつかないことがある。千々に乱れて、傍にいたい、突き放したい、と同時に思うことがね。…………きみに、一振目の代役と思われても、記憶にある歌仙兼定とは違うと思われても、僕は不満を覚えるだろうね。それでも。きみが全てを僕に対して明らかにした後で、それでも尚、僕はきみが好きだよ。きみを見放して、いずれきみの心傷が癒えたとき、きみがほかの男のもとに行くかもしれない、と考えるだけで腸が煮えくりかえる。―――僕はきみの傍にいたいよ。宗三左文字どの」
「……………………歌仙……、」
 なんと答えたら良いかわからず、宗三左文字は抱き込まれるままになっている。
「きみを憎んでいるときでさえ、きみの体調が僕は心配だった。きみが僕を遠ざけても、その部分はきっと変わらないだろう。だったら。葛藤はあっても、きみの傍にいて、きみの体の具合をあれこれ見張っているほうが、僕にとっては幸せだよ」
「しあわせ…………」
 しあわせ。幸福。
 生前の一振目は宗三左文字の傍にいるとき、よくその言葉を使った。
「……ですが……あなたの傍にいても…………、あなたを傷つけてしまうかもしれません…………、僕は…………、」
 最初に体を結んだときのように、一振目と混同し、一振目を思慕するように二振目を呼ぶかも知れない。
 あるいは。一振目と共に過ごした本丸での記憶を持たぬ二振目に違和感を感じ、独り喪失感を強め、二振目に対し心を隔ててしまうかも知れない。
 脳内の困惑が堂々巡りをしている宗三左文字の体を抱き直して、二振目が、宗三左文字の顔を覗き込んできた。
「難しく考えるのは止すんだ、宗三左文字どの。頭ではなく、心で考えてくれ」
「………………、」
 泣きはらした宗三左文字の目を、若々しい緑の目が見つめてくる。
「僕はきみの傍にいたい。きみは僕と離れるのが辛い。『今』を支配している感情はそれだけだろう」
「………………、歌仙兼定……、」
「一緒にいよう。宗三左文字どの。きみの困惑も、嘆きも、僕とその前にいた歌仙兼定によって引き起こされているものなのは理解できる。きみと一緒にいたいと思うから、僕はそれを受け入れるよ」
「………………、僕、は、」
 そうまで言われても宗三左文字は身の振り方を決めかね、困惑を解かない。
 無理もない、と思いつつ、二振目はふと別のことに気がついた。
 歌仙兼定が腕を解き、宗三左文字の右手を掴んで掌を覗き込む。
 宗三左文字の白い手に残る赤い筋。
「この傷痕は…………、一振目が遺したものなんだね?」
「………………そうです……。破壊された彼の刀身を、素手で掴んだときに…………」
「彼のきみへの愛情の証と言うより、きみの彼への愛情の証なんだな。これは」
 二振目が嫉妬混じりの苦笑を見せた。
「僕にとっては。この傷痕は、きみの胸に刻まれた信長公の刻印と同じものだ。僕がきみと出会う前に、きみの人生の中に存在した男の証だ。独占欲の強い僕としては腹は立つが、これらの痕が今のきみをきみたらしめているのも事実だ。―――そして」
 宗三左文字の右手を伏せさせて歌仙兼定は顔を寄せ、手の甲にそっと唇を押し当てた。
「僕が好きになったのは『今』のきみだ。刀剣男士に成る前と成った後、全ての『過去』をその身に内包して僕の目の前に座っている、きみこそが。僕が顕現する以前のきみを僕は知り得ないし、でもだからこそ今のきみを思慕しているんだよ。それはわかってくれるだろう。宗三左文字どの」
 歌仙兼定の唇から彼の熱が宗三左文字の肌に伝わる。
「歌仙兼定…………」
 名を呼ぶほかになんと答えたら良いかわからず、宗三左文字は眉を歪めた。
 ただ、二振目の歌仙兼定に掴まれて、口づけられているその右手は。
 相手から離れたくないというように、握り返すがごとくに歌仙兼定の指を掌に包んだ。
 それを受けて、二振目の緑の目に静かな喜びが浮かんだ。
 宗三左文字の表層的な感情ではなく、その奥に隠された真情を悟ったが故の希望の光だった。
「夜が明けても。僕と一緒にいてくれるだろう?」
 優しいばかりの歌仙兼定の声。
 それを断ることは、もはや宗三左文字にはできなかった。
「………………、ええ…………」
 答えながら宗三左文字は堪えかねたように目を眇める。
 もう今宵、幾度湧いたかもわからぬ涙が、再び色違いの目から溢れ出た。




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