<其乃二> 翌早朝。 天には青空が広がり、春が来たかと思えるような麗らかな日だった。 執務室で筆を執り、書き物をしている歌仙兼定のもとへ、にっかり青江が顔を出した。出陣の用意があるのか、昨日の作業着ではなく腰に刀を差し、軍服の上に白装束を肩に掛けている。 「お早う、歌仙の兄さん。昨日のその後の顛末、聞きたいかい?」 歌仙兼定は筆を止め、にっかり青江を横目でじろりと睨む。 「報告は不要だよ。そちらで勝手次第にしてくれ」 「やれやれ、つれないねえ」 大仰な素振りをしながらも、にっかり青江は図々しく部屋に上がり込み、歌仙兼定の前に座り込む。 「僕の撃墜マークが表と裏のどちらに付いたのか教えてあげようと思ったのに」 「聞きたくないと言っただろう。僕は忙しいんだ。畑でも厩でもいいから、此処じゃないどこかへ行ってくれ」 「ズオくん、馬番させると馬糞を投げてくるんだよねえ」 首を振りながら鯰尾藤四郎のことをそう評しているところを見ると、にっかり青江は連日厩番であるらしい。 「で。小烏丸の父上から尻尾を巻いて逃げ出した歌仙の兄さんは、今何をしているのかな?」 愉しげに、いちいち気に障る物言いをしながら、にっかり青江が歌仙兼定の手元を覗き込もうとしてくる。 「やめたまえ。畳の縁から指が出ている。不躾に他人の領域を侵すものじゃない」 礼儀にうるさい歌仙兼定がぴしりと指摘した。 にっかり青江は気にかける素振りもない。 「はいはいっと。本当に歌仙の兄さんはうるさ型だねえ。仕事もしないで落書きなんかしているくせに」 にっかり青江が覗き込む歌仙兼定の前の文机には、絵図面が広げられている。歌仙兼定はそこに自ら筆で図画を描き込んでいるもののようだった。 「仕事に決まっているだろう」 不機嫌に歌仙兼定が応酬した。 「主に進言して三の丸を増築する。その為の縄張りを図面にしてるんだ。僕や宗三左文字どのの住居棟とは一番離れた場所に縄張りして、亀甲貞宗と小烏丸の父上とにっかり青江を住まわせる」 「……おいおい、そんな烏賊くさそうなところに僕を押し込まないでくれないかい」 「臭いを撒き散らしている元凶が贅沢を言うんじゃない。生臭いものどうし、周りを気にせず好きに暮らせばいいだろう。そうだ、生臭ついでに、浦島虎徹が 「酷いねえ」 口でそう言いながらもにっかり青江はそれほど傷ついた様子はない。 「まあ僕はどこで寝てもいいよ。ウバクニくんの傍に住まわせてくれればね。あんまり遠いと夜這いが仕掛けづらくなるから、彼も三の丸とやらに連れてきておいてくれ」 「………山姥切国広か」 にっかり青江が孤高の打刀である山姥切国広の尻を追いかけ回しているという噂は、歌仙兼定も聞き知っていた。 「あんな 呆れたように歌仙兼定が呟くが、にっかり青江は嬉しそうだ。 「だから楽しいんじゃないか。難攻不落と謳われるところを、正門、搦手、あれこれ工夫して攻め落とすのがね」 「理解できないね」 「そうかい?」 にっかり青江が、人目に晒しているほうの黄色い目を挑発的に眇めて見せた。 「そう言っているところを見ると……、きみの大事な 「……誰が宗三左文字どのの話をしている」 途端に歌仙兼定の視線が氷の如くに冷たくなった。 「いいや? 別にソウサモくんに粉をかけるという話はしていないよ?」 その言い様が歌仙兼定を怒らせるとわかっていて、にっかり青江は平然と答えた。 「ただ、昨日みたいに目を離して、平気で遠征に送り出すなんてねえ……きみの傍で美しく咲いている桜を手折ってみたいという不埒な輩が出ないとも限らないのに。悠長だなあと思ってさ」 「宗三左文字どのに手を出すんじゃない」 「だから、そんな話はしてないったら」 笑みを絶やさず答えながら、にっかり青江は挑発的に顎を上げて見せた。 「山城攻めに疲れたら、桜の下で休むのもいいなあという一般論だよ」 「嘘をつけ」 歌仙兼定は厳しく決めつけ、筆を置いてにっかり青江に向き直った。 「わざとがましく宗三左文字どのの話をするのは止せ」 「話題に上げるのすら禁止しようってのかい?」 にっかり青江が大仰に眉を上げる。 「呆れた独占欲だよね。きみ以外の刀剣男士が、妄想でソウサモくんをどんなふうに口説くか考えることまで禁止しそうな勢いだね。できるものなら止めてみればいいんだよ。僕が彼の耳朶に口を寄せてあの白い鎖骨に手を滑らせ、淫らな言葉を耳に吹き込みながら信長公の刻印を指で探して、桜色の枝垂れ髪をつまぐりながら服の裾を……」 「そこまでだ」 いっそ冷静に聞こえるほどの低い声で歌仙兼定が遮った。 二藍の頭髪が逆立ち、にっかり青江を睨みつける緑の目には激怒の赤が散っている。 まったく無駄のない動きで歌仙兼定は刀掛けから愛刀を外して鞘を掴み、立て膝に座していた。 「そんなに死にたいなら手伝ってやる。次にきさまがちらりとでも宗三左文字どののことを思考に上せたら、即座に斬る」 歌仙兼定の居抜きの構えを受けて、にっかり青江の笑みが深くなった。こちらも攻撃を受ける体勢を整えながら、前髪に隠れた赤い目を炯々と光らせて歌仙兼定を睨み据える。 「石灯籠より斬り甲斐がありそうじゃないか。いいよ。僕が勝ったら、きみは脇差に刀種変更してもらおうか」 刀身が自分より少しだけ短い歌仙兼定に向けて、大脇差のにっかり青江は、最大級の挑発をして見せた。 「ああでも。油断してるとコロしちゃうかもね?」 歌仙兼定は答えない。 完全に臨戦状態に入り、にっかり青江の微細な所作にのみ意識を払っていた。 にっかり青江が顎を引き、猫のように背を丸める。 周囲の空気の緊張が極限まで高まったとき、 「何をしているのです、ふたりとも」 聞き覚えのある高雅な声が響いて、即座に歌仙兼定が動いた。 抜刀した歌仙兼定の刀身が煌めいて、にっかり青江が跳ね上げた白装束を一刀のもとに斬り裂く。にっかり青江の本体はその下にはなく、身を転がして刃を避けたにっかり青江は立ち上がりながら抜刀し、歌仙兼定の膝を狙う。歌仙兼定は跳び退り、袴の裾の切れ端がにっかり青江の刃先に舞った。 歌仙兼定の足袋を履いた足がにっかり青江の右手首を踏み、刃の向きを逸らしてにっかり青江から攻勢を奪った。 歌仙兼定の殺気は、にっかり青江の頭上に刀を振り下ろす直前まで殆ど揺らぐことがなかったが、 「歌仙兼定! やめてください!」 恋人の声が辺りに響いたところで殺戮を諦め、歌仙兼定の刃はにっかり青江の頭頂の毛髪の先を十本ほど斬っただけで、にっかり青江の頭上で止まった。 「何事ですか、いったい………」 廊下から続く執務室の入り口に立ち尽くして、青い顔で宗三左文字が二人を見つめている。 歌仙兼定は舌打ちを隠して刀を引き、にっかり青江の上から退いた。 「今のは引き分けだろう、歌仙の兄さん」 手放してしまった刀を拾って立ち上がりながらにっかり青江が笑って言うのへ、 「何を言う。どこからどう見ても僕の勝ちだ。宗三左文字どののお陰で命拾いしたことを感謝するんだな」 刀を腰に戻しながらひくりとも微笑まずに歌仙兼定は否定した。 にっかり青江は死にかけたことなどおくびにも出さぬふうで、 「ソウサモくんの声を聞いて本人を考えるなというのは無茶な話じゃないか。だいたいきみの座していた位置だと、僕の後背からこの部屋に向かってくるソウサモくんが見えていた筈だろう。ズルしてたくせに勝ちを誇るのは、雅じゃないんじゃないのかい?」 事実を指摘されて歌仙兼定が忌々しげににっかり青江を睨んだ。 「いったい何があったのですか。城中で二人して刀を抜くなど……」 さりげなくにっかり青江と歌仙兼定の間にその細い体を割り入らせながら、宗三左文字が二人に尋ねた。 「なんてことはない、雄犬どうしのじゃれ合いさ。僕が桜が綺麗だと言ったらそれが歌仙の兄さんの気に障って、喧嘩になっただけだよ」 自らも刀を収めたにっかり青江が、韜晦するように宗三左文字に向けて微笑んだ。 「……今は秋ですよ」 納得したふうでは無く宗三左文字が答える。 「歌仙くんの傍にはいつも綺麗な桜が咲いているじゃないか。どんな匂いがするのかなと思って、兄さんに聞いてみたのさ」 歌仙兼定と同様、己の体からも挑発的な気配を完全には抜くことができず、にっかり青江が挑むように宗三左文字の顔を見据えながら言ったが、宗三左文字にはまったく通じなかった。 「………? 歌仙兼定。あなたの居室の庭に、四季桜など植えてありましたか?」 「……………宗三左文字どの。頼むから口を差し挟まないでくれ。もう喧嘩は終わりにするから」 真顔で尋ねてくる宗三左文字の初心な反応が最初から想像できていた歌仙兼定が、ばつが悪そうに顔を赤らめ、にっかり青江への毒気をすっかり抜かれた態でそう返答する。にっかり青江は面白そうにそんな恋人たちを観察していた。 宗三左文字はほんの短い時間考え込むように口を噤んだ後、 「………でしたら、にっかり青江に謝罪してください。歌仙兼定」 「謝罪?! どうして」 心底嫌そうに歌仙兼定が応酬する。 「彼に斬りつけて、もう少しで死なせるところだったのですよ」 「僕は謝らないぞ。挑発してきたのはにっかり青江だ。向こうが謝罪するのが筋だろう」 歌仙兼定は頑なに言って口をへの字に曲げる。 脇からにっかり青江が混ぜっ返した。 「僕は構わないよ、ソウサモくん。歌仙の兄さんが謝ろうと謝るまいと、僕の 「まだ死にたいようだな、きさま」 再び怒りを滾らせて、歌仙兼定が佩刀に手をかける。 「………歌仙兼定」 脇で宗三左文字が柳眉を立てて歌仙兼定を牽制し、その声を受けた歌仙兼定は、強く鼻息を吐いて無理に気を落ち着かせ、ようやく刀から手を離した。 「………ま、ちょっと悪ふざけの度が過ぎたかもね。そこは謝罪しておこう」 未だ自分を睨みつけてくる歌仙兼定ではなく、その傍に立って如何にも箱入り刀らしく、事態が掴めずにいるままの宗三左文字を見つめながら、にっかり青江が先に折れた。天下人の刀として長らく過ごしてきた優雅な立ち居振る舞いの宗三左文字には、血の気の多い刀剣男士の気勢を削ぐ雰囲気が確かに備わっている。彼を出汁にして歌仙兼定を挑発したことが、にっかり青江には引け目に感じられたのだった。 「……僕も反省している。くだらない奴のくだらない挑発に乗ってしまったのは、僕が浅慮だった」 頭を下げるのが嫌いな歌仙兼定が、堪えるように両目を閉じて、歯の間からそのように言葉を絞り出した。 「……ソウサモくん、どう思う? 今の、謝罪に聞こえるかい?」 にっかり青江がおどけて問うと、宗三左文字は困ったように身じろぎする。 「歌仙兼定……」 「この話はこれで終わりだ。……二度と妄想はするなよ、にっかり青江。僕の桜に触るな」 歌仙兼定が目を開けて、相変わらず赤を散らした緑の目でにっかり青江を睨みつけた。ちっとも収束してないじゃないか、とにっかり青江は面白げに唇を笑みの形に吊り上げる。 「……まあ今後は、きみの刀の届く範囲できわどい台詞を吐くときは、マウントポジションを取ってからにしようかね」 斬り裂かれた白装束を再び肩に掛け直して、にっかり青江はそう言った。 「残念だねえ。鐔章に脇差マークの付いた歌仙の兄さんを見てみたかったものだけど」 「………………」 歌仙兼定の瞼がぴくりと震え、宗三左文字がさすがに眉を曇らせたのを見て、にっかり青江は引き際を悟った。 「ちょっと厩を覗いてから、出陣してこようかな。そうそう、小烏丸の父上だけど、けっこう頑張って疲れさせてあげたから、昼頃まで起きてこないと思うよ」 それだけを言って、にっかり青江はさっさと執務室から引き上げる。 残された恋人二人は暫く無言でにっかり青江の去った廊下を眺めていたが、やがて、 「……いつ遠征から戻ってきていたんだい」 ようやく怒りと緊張を解いて、歌仙兼定が宗三左文字にまずはそう問うた。 「今朝方早くですよ。皆はまだ寝静まっていた時間でしたので、あなたの元へは寄らず、先程主に挨拶と報告をしてきたところでした」 「そうだったのか。出迎えに行けず済まなかったね」 「いえ。………ところで」 情報を整理しようというように少しだけ宗三左文字が顔を俯け、 「小烏丸の父上とはどなたですか、歌仙兼定」 再び白い面を上げて、歌仙兼定が忘れていたかったことを尋ねてきた。 「……あぁ、ああ」 昨日の顛末が思い返されて、歌仙兼定はうんざりとする。 「昨日、きみが留守の間に新たな刀剣男士が城に来たんだ。顕現がごく珍しい一振りなんだが……、きみは挨拶に行かなくていいよ。というより、挨拶に行くのは是非やめてくれ」 「………珍しいですね。あなたがそうまで礼儀を無視するとは……」 宗三左文字が淡紅色に烟る睫毛を二度ほど瞬かせる。 「……外見はほんの少年なんだが。少し、というか大分特殊な刀剣男士でね。にっかり青江みたいな色事師かあるいは彼を統制できる主に任せて、頼むから、きみは小烏丸には近づかないで欲しい」 歌仙兼定が本心で言っていることを悟って、宗三左文字は困惑しつつも頷いた。 「あなたがそこまで仰るなら、その通りにいたしますが……」 外側からは自信家で楽天的に見える歌仙兼定には実は、内面深くに突き立つ楔のような弱点がある。愛するものを失うこと、奪われることに度を超した危惧と怖れを抱くのがそれだった。歌仙兼定とつき合いが深く、そのことをよく知っている宗三左文字は、自分が譲れる範囲でならば常に歌仙兼定に従うことにしていた。 宗三左文字の返事を受けて歌仙兼定はようやく安堵し、目に見えて肩の力を抜いた。 「よかった。……遠征の最中に、妙なことは無かったかい?」 「? 妙、とは?」 「危ない目に遭ったり、僕以外の男に口説かれたり」 「杞憂ですよ、歌仙兼定」 宗三左文字はやや呆れたようにあっさりと答えた。 「僕を魅力的だと言ってくださる刀剣男士はあなたくらいのものです」 そんなことがあるものか。 歌仙兼定は先ほどのにっかり青江の図々しい妄想を思い出して不機嫌に黙り込む。 にっかり青江が指摘した通り、歌仙兼定の傍で微笑む宗三左文字は、春の中の樺桜のごとく優美に咲き匂っていた。にっかり青江どころか小烏丸だって、宗三左文字を目の前にしたら、何と言い出すかわからない。 遠征だろうと出陣だろうと、本当は、人目に触れる場所に宗三左文字を出したくはなかった。昔の主だった細川忠興が奥方にしていたように、屋敷の内に厳しく閉じ込め、どんな男とも逢わせず、自分だけが触れられる場所に隠し置きたい、と、歌仙兼定は常にそう思っていた。 それをしないのは、ひとえに、宗三左文字自身がそれを望んでいないからだ。天下人の象徴として長らく蔵にしまわれてきた宗三左文字は自らを籠の鳥と卑下して、刀剣男士となった今も、城に留め置かれることを快く思わない。 宗三左文字の意に反することを無理に押し通すことは、歌仙兼定にはできなかった。 「城の外で、山の紅葉が綺麗に色づいていましたよ。山の錦は蔵の中の屏風絵では見たことがありましたけど……本物を自分の目で見るのは初めてでした」 頬を紅潮させて、嬉しげに宗三左文字が報告してくる。青年の姿をしていても世間知の低い宗三左文字にとっては、刀剣男士として味わう外の世界の全てが新鮮に目に映るものらしい。 それが風流を愛する歌仙兼定の感性とはよく合致していた。 宗三左文字が袂から紅葉の枝葉を取り出した。 「あまりに鮮やかで、つい拾ってきてしまいました。歌仙兼定、あなたに見ていただきたくて」 宗三左文字の白く長い指から燃える炎のような色合いの楓の葉を受け取り、歌仙兼定は自分の顔に近づける。宗三左文字が保持していた紅葉からは、彼の香の匂いがした。 「あなたと一緒なら、もっと素晴らしかったでしょうね。紅葉を眺めながら、そんなことを考えました」 素直で直截な宗三左文字の言葉が、歌仙兼定の心を温かく満たす。 「紅葉狩りも風流だね。せっかくだから、主の許可を得て、一緒に遠征にでも出かけようか。日の高いうちに」 歌仙兼定は恋人に向けて微笑する。 宗三左文字も笑みを返して、先程の緊張が嘘のように、執務室は穏やかな空気に包まれた。 |