<其乃七>

 ひどく無様な夢を見たものだ。
 微睡みから覚醒した燭台切光忠は顎に片手を当て、眉をしかめ、座した姿勢のまま、無言で夢を脳内で反芻する。
 一期一振の意思を無視し、彼の男性としての体を無理矢理手に入れる夢だった。
「……まったく、恰好がつかないね……」
 女姿の一期一振を抱いたことで、かれに対する支配心と独占欲が生まれてしまったもののようだった。近侍の歌仙兼定が、恋人の宗三左文字を独占しようと周りを厳しく囲み、呆れるほどに嫉妬を飛ばしているのを、自分を含めた城中の刀剣男士は苦笑いして見ていたが、いざ自分が恋を知れば、なるほどその心境にも納得がゆく。
 一期一振は燭台切光忠のものではなかった。恋仲であるあのふたりとは違って。
 そもそも歌仙兼定のように、人目も憚らず思慕や独占欲を表出するのは、燭台切光忠には躊躇われることだった。見栄の強い自分は、歌仙兼定よりもずっと秘密主義のようだ、と燭台切光忠は苦々しく分析する。
 思うところを素直に表出できればそれは楽であろうが。
 隻眼の姿と同様、過去の主であった貞山公の性格をも、自分はある程度踏襲しているのであろうか。北国の覇王であった彼の隠れた内向性、弱さに通じると見られやすい詩情。荒々しい地域の為政者であったが故に、美や優しいものへの憧憬を覆い隠すように、貞山公は見栄を通し、傾奇を貫いた。激情も、勇壮な派手派手しさも、繊細な美意識も、どれも貞山公の本性だ。
 他者に弱みを見せることを恐れる心も。
「…………」
 燭台切光忠は不機嫌に息を吐く。
 一期一振が男の体を取り戻した後も、彼を抱いたことを忘れられず無理にその後を追って、一期一振に振られるような無様な目には遭いたくなかった。
 彼を強引に手に入れることができないなら、向こうが自分を好いてくれるのを待つしかない。
「今後はちぃちゃん次第なんだな……」
 そう呟いてから、燭台切光忠は、傍に一期一振が寝ている筈だったと思い出す。夢の中と同じく時刻は夜が近い頃合いだろう、暗い地蔵堂の中にしかし一期一振の姿は見つけられなかった。太刀を含む一期一振の私物も無く、外への引き戸はつっかい棒が外されていて、彼は外へ出てしまったことを燭台切光忠は知る。
 座ったままうとうとしている間に、どうやら一期一振のほうが先に目を覚ましたものらしい。一期一振が眠りに落ちる直前に彼の体にかけてやっていた燭台切光忠のシャツが、今は自分の肩にかけられている。
 それをしたのは無論一期一振だろう。共寝の間、床代わりに敷いていた燭台切光忠のスーツの上着も折り目正しく畳まれて置いてある。生真面目な一期一振らしい、と苦笑しながら、夢の後味の悪さから気を取り直した燭台切光忠は解いていた軍装を再び纏って、一期一振を探して地蔵堂の外へ出た。

 夕日はすっかり山の向こうに消えた。
 ひんやりとした夜気に当たって、それでも尚体には熱が残る。
 地蔵堂が建つ森の中に独りで立ち、一期一振は溜め息を吐いた。吐息さえいつもより熱が強く籠もっているように感じられる。
 最前まで女だった身は、燭台切光忠に抱かれて既に男の姿に戻っている。目を覚ましてそれを確認したときに安堵と、同時に少し寂しさを自覚した。自分が燭台切光忠の腕に抱かれることはもう無いのだ。肌に受けた愛撫と、彼が体内に割り入ってきた感触、体を結び合って二人で成したような昂揚感を、再び味わう日はたぶんもう来ない。
 いたたまれなくなって逃げるように地蔵堂から出てきたのに、燭台切光忠と距離を置いた今でさえも、体のあちこちに彼の匂いと熱が残っている。女ではなくなったのだから彼に精を撒かれた場所は既に喪失したはずなのに、体内に今も彼の精を抱いているような錯覚に一期一振は陥っていた。
 刀剣男士として顕現してからこのかた、あるとも知らなかった愉悦を味わってしまった今、自分がもう後戻りできぬところに追い立てられてしまったことを一期一振は知った。
 だがどうすればいいのかわからない。地蔵堂の板間で、すぐ傍で眠っていた自分を護るように、太刀を抱えて座したまま燭台切光忠はうたた寝をしていた。地蔵堂に戻って彼に自分の気持ちを告げることは、女の身を抱いてくれと彼に頼むこと以上に、燭台切光忠に取って迷惑になるのではなかろうか。
「…………」
 そもそも、彼になんと伝えるべきかも一期一振にはわからない。
 自分の感情を言語化して外に発する術を、顕現して日の浅い一期一振はまだ持っていなかった。
「ちぃちゃん」
 唐突に背後からそう声をかけられて、一期一振は飛び上がる。
「しょ、燭光殿、」
 振り返って頬を赤く染め、肩を強ばらせながらしどろもどろに答えてくる一期一振を、燭台切光忠は失望に似た感情を抱きながら隻眼で見つめた。地蔵堂の中で縮まっていたふたりの心の距離は、今再び、一挙に開いてしまっているもののようだった。
 それでも自分が、一期一振に取って『初めての男』なのは、今後ふたりの関係がどう移ろおうとも変わらない事実だった。燭台切光忠は気を取り直して一期一振に問いかける。
「体調はどう? ……どこか、痛くしていないかい」
 本当は、かれの女身がどうなったかを問い質したかった。
 紺色の粟田口の制服を襟首まできっちりと着込んでいる一期一振の体は、外からでは男に戻っているかどうかは推し量れない。
 一期一振が男の身に戻ってさえいなければ、再び一期一振を抱く口実が生まれる。
 だが一期一振は緊張に琥珀色の目を潤ませて、こう返答してきた。
「だ、大丈夫です。お陰様で、……体も、男のものに戻りました。……燭光殿には、お礼申し上げます」
 硬い口調で、頬を紅潮させたまま、一期一振が軽く頭を下げてくる。淡木賊色の髪がさらりと揺れて形の良い耳に垂れた。手を伸ばしてその髪をかき上げ、頬に触れて、相手の体を己の傍に引き寄せたいという欲求を燭台切光忠は押さえつける。
 夢の中の二の舞になるのは避けたかった。
「それはよかった。……一期くん」
 末尾のその呼び名に、一期一振ははっとしたように顔を上げて瞬間燭台切光忠を見、だがすぐに視線を再び地に落とした。
 礼の他に何かを燭台切光忠に言うべきだ。だが余計なことを言って、燭台切光忠に迷惑をかけたり今以上に心隔てを置かれたりするのを恐れて、一期一振は何も言い出せなかった。
 俯いたまま、燭台切光忠から見えぬところで一期一振は唇を噛む。
 恋人達の時間は終わったのだ。
 近くで野宿しているはずの弟たちの元に戻れば、朝方、城を出立してきたときと同じように、他工派、他家の所蔵刀として距離感を保ちながら今後も彼と接することになろう。
「燭光殿……、」
 言いかけたまま一期一振は黙ってしまう。
 一期一振のつむじを見ながら、燭台切光忠も、消沈を押し隠しつつその場を納めようと苦慮していた。一期一振は何を言いたいのだろうか、それを燭台切光忠なりに思考して言葉を紡ぐ。
「今日のことは誰にも言わないよ。安心してくれていい」
 燭台切光忠の言葉は一期一振には想外の内容で、一期一振は思わず顔を上げて燭台切光忠を見つめる。
 橙色の隻眼が、思慮深く一期一振を見つめ返してきていた。
 それは一期一振には心の遠さを感じさせる視線だった。
「一緒に来た弟くん達には勿論、薬研くんにも黙っておくよ。僕のほうではね。きみの体の変化や、地蔵堂の中でのことは、全てを忘れたことにして、城の誰にも秘密にしておくほうがいいだろう」
「…………左様、ですね……。わかりました…………感謝いたします」
 一期一振は小さく返事をした。
 燭台切光忠は、ふたりで睦み合った記憶は、余波も残さず捨て去ってしまうつもりのようだった。
 相手がそのつもりでいるなら、一期一振はそれに従うしかなかった。
 向き合ったまま、ふたりは暫く無言だった。
 やがて夜の森の中に、頭上から鳥の鳴き声が一声聞こえてきた。
 燭台切光忠は眉を上げて声の響いたほうを見やる。
「時鳥かな。たぶん北への渡りの途中なんだ」
「…………燭光殿……」
 琥珀色の目を見開いて、一期一振は燭台切光忠を見つめる。
 鳥のことなどどうでもいい、と思ったが、それを指摘する勇気が一期一振には無かった。
「『啼かせてみせよう時鳥』……という有名な語句があったっけね。如何にも秀吉公の言いそうな台詞だけど。一期くんは、秀吉公がそう言ってるのを聞いたことある?」
「……いいえ」
 燭台切光忠の問いに、一期一振は首を横に振った。
 三人の天下人の性向を現したと言われる高名な時鳥の歌だが、そもそも、あの三人が信長の生前、並列してあのような歌を詠んだことなどあるはずもなかった。後世の創作なのは間違いない。
「そうだろうねえ」
 燭台切光忠はそう言って破顔する。常の通りの、穏やかで人好きのする、だが隠された力強さを感じさせる微笑だった。
「さて、帰ろうか。薬研くんが出歯亀よろしく僕らの様子を見に戻ってくる前にね。今からきみの弟くんたちと合流できれば、日が変わる前に城に帰還できるだろう」
「……左様ですね」
 燭台切光忠はもう自分に触れてこようとはしない。
 それは当然なのだ、と一期一振は思い込もうとしながら、燭台切光忠と肩を並べて、野宿している弟たちを探しに地蔵堂の建つ森を無言で抜けていった。

「ようお二人さん。首尾はどうだった?」
 野営地に二人が姿を現したのを見て、薬研藤四郎が訪ねた。
 敵や現地の者に見つかるのを警戒してか、火も焚かず、四人の藤四郎は固まって窪地に座り込んでいた。
「上々だよ。もう城に帰還できるよ」
 燭台切光忠は薬研の問いにそう答える。
 薬研には意味が通じたようだった。
「そりゃよかった。伊達の旦那も一兄もお疲れさんだったな。一兄、城に戻った後で俺っちに経過を聞かせてもらえるか?」
 一期一振が何かを言う前に、燭台切光忠が口を挟んだ。
「その必要は無いよ。結果が全てでそれ以外は報告する意味が無い」
 薬研藤四郎が医学興味以上に、性的興味でもって経緯を知りたがっているのは燭台切光忠にはよく理解できていた。詮索されたくは無いので燭台切光忠は先手を打つ。
「一期くんも口を噤んでいたい筈だよ。武勇伝でもあるまいし、人に言いふらすようなことでも無いだろう」
 平素笑みをはいている燭台切光忠の口元は全く笑っておらず、隻眼は瞬きもせずに薬研を睨めつけていた。一期一振は燭台切光忠の語勢の強さに面食らって彼の顔を見上げたが、薬研藤四郎には燭台切光忠の意図するところはよく伝わったらしい。
「わかったわかった。旦那はそっちの武勇はひけらかす趣味じゃ無いんだな」
「プライバシーとデリカシーの問題だね。そんな話を大っぴらにするのは男として恰好がつかない」
「そう。相手が大事なら尚更な」
 白い面に笑みをのぼせながら、少年らしからぬ低い声で意味ありげに薬研藤四郎が言ったので、燭台切光忠はますます不機嫌になった。周囲に悟られぬようにそれを表情から押し隠している間に、薬研藤四郎は立ち上がって他の兄弟達を急き立てる。
「さて、帰ろうぜ。伊達の旦那のお陰で、今夜も布団で眠れそうだ」




 帰城する頃には夜はとっぷりと更けていた。
 城門前で簡単に申し合わせをして部隊を解散し、部隊長の燭台切光忠だけが、首尾報告を待つ主の元に伺候する。
 主からの労いの言葉を受けて謁見の間を下がり、己の居館へ向かう道すがら、手入れ部屋の前で、見知った者が別の刀剣男士と押し問答をしているのが燭台切光忠の隻眼に映った。
「軽傷状態でいつまで城内をうろついているつもりだ。いいかげんにしろ」
 大倶利伽羅が珍しく五文節以上を喋っている。浅黒い肌の同僚に腕を捕まれている白皙の美少年は、一期一振の弟でもある脇差の骨喰藤四郎だった。一期一振と同じく豊臣蔵刀として名の知れた刀剣男士で、伊達家蔵刀の大倶利伽羅とは少し異色の組み合わせだ。
「まだこのままで戦える。放っといてくれ」
 無表情ながらも鬱陶しそうな様子の骨喰藤四郎の声が、人気の無い廊下に響いた。
 大倶利伽羅と同様、骨喰藤四郎も無口で無愛想なことで有名だった。見るところ、以前の出陣で怪我をしたままになっている骨喰を、大倶利伽羅が腕を掴んで強引に、手入れ部屋の前まで引きずってきたものらしい。
「生存値の低さを考えろ。そんな傷だらけの恰好で出陣できるか。おとなしく手入れされてこい!」
 これまた珍しく城内で語気を荒らげ、大倶利伽羅は空いていた手入れ部屋の一つに、骨喰藤四郎の華奢な体を無理矢理押し込める。
「大倶利伽羅!」
 骨喰藤四郎が声を上げたが、大倶利伽羅は躊躇うこと無く骨喰藤四郎を手入れ部屋の中に突き飛ばして、入り口の引き戸を勢いよく閉めてしまった。
 中から一、二度、骨喰藤四郎が戸を叩く音がしたが、大倶利伽羅は手で戸を押し塞いで、骨喰藤四郎が出てこられないようにしていた。
 一度入室してしまえば、傷がきれいに治るまでは、どのみち手入れ部屋から退室することはできない。
 諦めたか骨喰藤四郎はそれ以上抵抗せず、戸を叩くこともしなくなって、手入れ部屋の中は静かになった。
「まったく……」
 毒づくように小さく言葉を吐いて、大倶利伽羅が振り向くと、そこに燭台切光忠が立っていた。
「………………」
 同僚に見られていたことに気づかなかったのだろう、大倶利伽羅は気まずそうに眉を歪め、浅黒い肌を燭台切光忠にしかわからぬ程度に赤らめた。
「見るところ……」
 革手袋をはめた左手を顎に当て、大倶利伽羅を眺めながら燭台切光忠は隻眼を細める。
「貞山公の年下美形趣味は、伽羅ちゃんが持ってっちゃったってことでいいのかな?」
 成程人の恋路は面白い。先ほどの野営地での薬研藤四郎の面白がるような顔つきが燭台切光忠には不愉快だったが、あの表情の理由が少しだけ理解できた燭台切光忠だった。
「………知るか。奴が竜王寄せする体質なだけだ」
 大倶利伽羅の眉根の皺が深くなり、色黒の頬がますます赤らむ。照れてるけど否定はしないんだなぁ、と燭台切光忠は興味深く同僚を見やった。いやそれとも。あれで隠しているつもりなのだろうか。まったく誤魔化せていないのに。
 伊達家佩刀以外の者に興味関心の薄い大倶利伽羅が、骨喰藤四郎に対してここまで親切にしていることそのものが、彼の骨喰への執着を如実に現している。いや伽羅ちゃんは、と燭台切光忠は思い直した。自分の行動が他人からどう見えるかについて、僕ほど気を遣わないと言うだけなんだろう。獣のような性格から来る一種の純粋さで刀剣男士として日々を過ごしている大倶利伽羅に対し、燭台切光忠は羨望に似た感情を自覚した。
「……そっちはどうなんだ」
 考え事をしている間に大倶利伽羅がこちらに切り返してきている。
「おまえは政宗公から何を貰ったというんだ。今日、部隊の帰りが遅かったことと関係があるのか」
 大倶利伽羅は関心が無いようでいて、燭台切光忠の気がそぞろになっていることにしっかり気がついているらしかった。
「僕は……そうだねえ。貞山公から貰ったのは、桃山の美に憧れる気持ちかな」
 柔らかな淡木賊色の髪と卵形の顔に宿る琥珀の両眼、形の良い桜貝色の唇、黄金色の錦糸を刺繍された粟田口の制服などを思い返しながら、燭台切光忠はそう返事をした。
 絢爛な障壁画の桜の如く匂い咲く、華やかな存在。
「確かにこの手に触れたのに、幻のように消え果ててしまったよ。……いっときだけの恋人だなんて、恰好つけた台詞を言うんじゃなかったねえ……」
 これから暫くは夜が辛いな、と燭台切光忠は考えていた。
 独り寝所に横になる度に、腕に抱いた一期一振の感触を思い出して、人知れず情欲に身を疼かせることになるだろう。
 隻眼を閉じて溜め息をついた燭台切光忠を、寡黙な大倶利伽羅は怪訝そうに見ていた。

 帰城したときには夕餉の時刻は過ぎていたので、一期一振は空腹のまま、自らの居室に戻った。
 天下人の太刀に相応しく専用の居館を主から与えられてはいるが、部屋付の短刀は乱藤四郎、平野藤四郎といった近頃顕現したばかりの弟たちだし、加えて毎夜、戦場で心が落ち着かなくなった幼い弟たちが毛布やぬいぐるみを抱えて寝室に忍んでくることもあって、一期一振の館はどちらかというと粟田口屋敷の様相を呈している。
 今宵も、一期一振が、戦場と地蔵堂の中にいた所為で泥と埃に汚れた紺色の制服を脱いでいる間に、寝所から内庭へと続く板戸が開いて、毛布を被った五虎退が虎の子を抱いて姿を現した。
「あ、あの、いち兄、」
 おどおどと怯えたように身を竦ませながら五虎退が近寄ってくる。
 一期一振は長兄らしく鷹揚に弟に声をかけた。
「今日は朝方に出陣していたのだったな」
「は、はい、頑張りました、」
 そうは言いながら五虎退は唇をわななかせ、虎の子をぎゅっと強く抱き締める。
「て、敵を……三度くらい、刺しました……五度くらい、避けられちゃいましたけど」
「頑張ったな。怪我などしていないか」
 一期一振は微笑んで、五虎退に向けて手を差し伸べる。
 五虎退は縋るように一期一振の手を掴んできた。
「怪我は、だ、大丈夫です……体は……どこも……。ふ、震えが、止まらなくて、ひとりで眠れないだけで、」
「おいで」
 五虎退は戦場に出るには幼すぎる。だが主の作戦に異を唱えることは一期一振には許されていない。一期一振は小さな弟の体を引き寄せて、両の腕の内に抱き込んだ。
「……………、」
 兄の体温に触れて安心したのか、五虎退が震えを止め、深く吐息を吐いた。
「こ……こわかったです……戦……」
「安心しなさい。おまえは生きて帰ってきた」
 弟の小さな背をさすりながら、一期一振は優しく声をかける。
「おまえの心と体が育てば、やがて恐れも薄れていくであろう。おまえの虎の子が、おまえを護ってくれる」
「……ぅ、」
 しゃくり上げるのを必死でこらえる五虎退を一期一振は腕の中で宥める。
「よしよし」
 日常の通り、五虎退を撫でている間に、昼間の出陣先での記憶は非現実なものとして遠退き、一期一振もまた弟と同様に安堵を感じる。
 と、五虎退の手に抱かれたままの虎の子が低く唸りながら身動きをして、五虎退が怪訝な顔をした。
「……あの、と、虎が、言ってます。いち兄から奇妙な匂いがするって」
「におい?」
 問い質すより早く、五虎退が入室したのとは別の襖を開けて、部屋付の小姓である乱藤四郎が一期一振の寝室に姿を現した。
 乱藤四郎は字義通りの紅顔の美少年だ。その乱が五虎退を見た途端、綺麗に整った眉を吊り上げた。
「あーっ、五虎、ずるい! また一兄と一緒に寝るつもり!? 僕も、乱も一緒に寝るぅ!」
 甘ったるい喚声を上げて、乱は寝室になだれ込み、一期一振と五虎退の間に無理矢理割り入ろうとしてきた。
「い、痛い、小兄、虎が潰れちゃいます、」
「乱、布団を敷いて一緒に寝るのは構わないが、五虎退の体を押しのけるのはやめなさい」
「一兄は五虎を甘やかしすぎなの! 一兄と一緒に住んでるのは乱と平野なのに! 五虎は自分の部屋で寝て、おねしょでも何でもすればいいじゃない!」
「ふぇ、うぇえええん」
 少しだけ兄である乱に夜尿癖を詰られて五虎退は泣き出した。
「弟を虐めるのはよしなさい、乱、」
 そろそろ本当に雷を落とさねばなるまいか、と一期一振が危惧している間に、乱も先ほどの五虎退と同様に怪訝な表情を見せた。一期一振の服の傍に顔を寄せ、乱は鼻をひくつかせる。
「……一兄の体から別の人の匂いがする。これ、ほかの兄弟の香じゃないよね」
 ぎくり、と身が強ばるのを一期一振は自覚した。
 乱は少年姿ながら色の道に関しては、一期一振よりむしろ知識が豊富なくらいだ。藤四郎短刀の中では、乱と薬研がそれぞれ別の方向に、もっとも性知識が発達している。
「この香、どこだっけ、どこで嗅いだかな。覚えがあるんだけど。うーん……あ。伊達のお兄さんがこれ使ってない? 厨房で嗅いだ記憶がある!」
「乱、」
「えーなんでなんで? なんで伊達のお兄さんの匂いが一兄についてるの?」
「え、ど、どういうことですか、いち兄」
「……今日、出陣先で少し具合が悪くなって、世話をしていただいたのだ。ほかの編成者はみな藤四郎短刀ばかりで、私を支えるにも力が足りなんだから……」
 己が嘘を言うのは苦手だと一期一振は自覚していた。脇の下に脂汗をかきながらどうにかそれらしい言い訳を述べ立てるのに成功する。
「えー、伊達のお兄さんに抱いてもらったの?」
「! ッ、み、乱、」
 幼い弟の前でなんたることを言うのか、と一期一振は赤面して思わず声を上げた。
 乱は一期一振の反応を意に介さない。
「いいなぁ、お兄さんの胸板、逞しくてすり寄りたくなっちゃうよね。ふふ。一兄はお姫様抱っこ、してもらった?」
「………? お姫………?」
 話が見えず一期一振は瞬きして乱を見た。
「背中と膝をね、こう……山型になるようにして運んで貰うのをお姫様抱っこって言うんだよ。一兄、伊達のお兄さんにそうやって抱いてもらったんじゃないの?」
「……、ああ、」
『抱く』の意味が違うと言うことにようやく気づいて一期一振は安堵する。
「いや。抱き上げられた訳ではないのだ。腰を支えていただき、肩を貸していただいたのだ」
 嘘ではないので一期一振はすらすらと答えられた。
「なぁんだ、そっかぁ。でも伊達のお兄さんに触れてもらったんだよね。どうだった? ドキドキした? 頼りがいのある大人の男士ってさ……、傍にいるとちょっとコーフンしない?」
 放射状の睫毛を瞬かせて水色の目をきらきらと輝かせながら、乱は臆面もなく尋ねてくる。
「……………、」
 乱の問いは、言葉を発した弟の意図よりも遙かに深いところを的確に突いた。
 一期一振は言葉を失い、頬を紅潮させて黙り込んだ。乱や五虎退の注視を受けていることがいたたまれなくて無意識に顔が俯く。
 その様相から、色恋に敏感な乱は何かを察知してしまったようだった。
「あー、一兄、もしかして、伊達のお兄さんとなにか……」
「乱、憶測はよしなさい。私は答える気はない」
 それ以上を探られたくなくて一期一振は弟を遮る。
 琥珀色の目は潤んでいるし頬は真っ赤なままだが、乱に昼の状況を見透されるわけにはいかなかった。
「私と一緒に寝たいのなら口はもう噤んでいなさい。五虎退を虐めるのもやめるように」
「えぇえ。ぷー」
 乱は不満そうに頬をかわいく膨らませ、それでも長兄の命令に従ってそれ以上喋るのを止めにした。
 乱の追及が収まったことにほっとしながら、一期一振は制服を脱いで乱に手渡していった。乱が手際よく制服を畳んでいくのを横目に見つつ暗色のシャツをはだけようとして、燭台切光忠が舌を這わせた乳首が、男のものに戻っていても尚、やや赤く腫れていることに気がつく。
「………、」
 乱に見顕されはしないかと緊張しながらシャツを脱ぎ、世話役の弟に渡す。乱はちらりと一期一振の裸身を見て、
「………なんか……。いつもより、一兄の体が艶っぽい気がする」
 赤い唇から率直に感想を漏らした。
「乱。黙って。私はいつも通りだ」
 敢えて怖い顔を見せて一期一振は強弁した。
「はぁい」
 何を感じたにせよ、乱は口を閉じた。
 頬が赤く染まっているのは目敏い弟には知れてしまっているだろう。
 乱から夜着を受け取って着替え、体が弟たちから見えなくなってから、一期一振はようやく息をついた。

 深夜。布団を数枚並べて敷いて、中央の最も厚い布団に一期一振が横たわり、その両脇で弟たちが寝入っている。
 結局あの後、主の前で犯した粗相を近侍の歌仙兼定に叱られて、消沈した秋田藤四郎が大きな目に涙を溜めて屋敷に姿を見せた。一期一振を含め都合四人が、一期一振の寝所で眠っている。
 弟たちの規則正しい寝息を聞きながら、一期一振は、今日の出陣先での事について思い返していた。
 粟田口の弟たちに囲まれたこの時この場所では、燭台切光忠に抱かれたことはまるで白昼の夢のような出来事だった。実存感が無い、と言うよりは予想外の事態に過ぎて、自分の身に起きたことだというのを飲み込みづらいのだ。
 だが覚えている。
 燭台切光忠が手袋手で自分に触れたことを。
 彼の唇に接吻をしたことを。
 手袋を外し、眼帯も外し、彼が最も覆い隠したいと思っている部分を自分にさらけ出してくれたことを。
 長く逞しい腕に自分を抱き込みながら、「きみが好きだ」と言ってくれたことを。
「…………」
 一期一振は黙したまま、寝所の天井を眺めていた。
 弟の藤四郎たちに囲まれて、自分の居場所に帰ってきたと思うのに。
 どうして燭台切光忠の腕の中を恋しいと思うのだろう。
 もう女の体は消えてしまったのに。
 一期一振は目を閉じ、燭台切光忠が触れたように己の指で己の体を辿ってみる。往事の触感は全く得られなかったが、記憶が勝手に当時の愉楽を反芻し、心拍が上がって、体の中央が奇妙な熱を帯び始めた。
「……っ、…」
 目を覚ました乱などに見咎められてはまずい。
 一期一振は慌てて燭台切光忠との記憶を脳裡から追い払い、努めて平静を保ち、眠ろうと試みた。
 こんなに困惑と昂奮を感じていては眠れぬかも、という危惧は杞憂だったようで、一期一振はやがてとろとろと眠りに陥りかける。
 寝入りばなに。
 心に強く焼き付いた、燭台切光忠のこちらを見て微笑む顔が、一期一振の瞼の裏に浮かんだ。
 ―――光殿。
 恋人としての名を口の中で呟いたことを自覚もせぬうちに、一期一振もまた弟たちと同じように、眠りの中に引き込まれていった。


                                          (了)




後書