一次創作小説創作小説【中編】

不死なる王の森【5】

【4】【5】【6】



 ついに塔の入り口に辿り着き、娘は手をかざして日の光に目を眇めた。
 周囲には黄昏が忍び寄っていた。
 娘の視野の中央に、土人形たちを従えて黒い影が立っている。不死の王その人だった。
「私、やったわ!」
 娘の顔に、初めて満面の笑みが浮かんだ。
「あなたの心臓を取り戻したの!呪いが解けるのよ!」
 不死の王が黙って歩み寄ってくる。その表情は影になって読めない。
「見て!」
 娘は懐から慎重に、運んできた心臓を取り出した。娘の熱に暖められてすっかり息を吹き返した心臓は今や赤く色づき、しっかりと脈動している。
 心臓が発する赤い光が不死の王の白い顔を照らす。その黒い瞳には、さすがに緊張の色が走っていた。
 不死の王が手を伸ばした。
 心臓が光を増した。脈動も。
 不死の王の手が心臓に触れた刹那、閃光が迸った。娘は光に吹き飛ばされて、再び目の力を失った。
 ようよう甦る視界のうちに不死の王が佇んでいた。右手を胸に当て、心臓の鼓動を確かめている。
「動いている」
 驚愕に見開かれた黒い瞳が、やがて娘に据えられた。
「私の体に心臓が戻った。おまえは私の心臓を取り戻してくれたな」
 心が戻ったはずのその表情に、ふと寂寥がよぎった。
 娘にはその意味が掴めなかった。
 唐突に、周囲の木々がざわめいた。緑の葉が擦れ合う音ではなく、朽木が踏みしだかれて砕け散る音によく似ていた。
 娘は周囲を見渡して息を飲んだ。春を謳歌していたはずの不死の王の庭が、音を立てて萎え枯れていた。虫が死に、鳥は羽ばたくのをやめて地に落ち、人形はものも言わずに土に還っていく。枯死した木々が乾いた朽ち葉ごと地に崩れ、干からびていった。
「どういうことなの、これは……」
「私と私の周囲を縛る呪いが解けた。数百年の歳月が今ひとときに押し寄せるのだ」
 その嗄れた声に娘は振り返った。
 不死の王の背は丸く曲がっていた。娘の見ている前で王の黒髪が伸び、たちまち白く色褪せる。その陰に殆ど隠された顔には、いまや深い皺が刻まれていた。
 娘は悲鳴を上げて夫だった老人に駆け寄った。娘の差し伸べた手を掴む不死の王の手は、伸び放題の爪が醜く歪み、皮膚に染みが浮いていた。
「これが我が身に負うた呪いの本質だ」
 王の瞳だけは、せんと変わらず、いまだ黒い色に煌めいていた。
 周囲に夕闇が迫る。
「私を己以上に愛する者だけが我が心臓を取り戻し、我が心が愛に触れた瞬間に、私は老いて滅びる」
「うそよ!」
 娘の嘆きが迸った。
 否定などなんの役にも立たなかった。夫はもはや老いさえ超越し、生ける死骸となりつつあった。娘は涙の溜まった目を瞠って、不死の王の手を強く握り返した。
 娘の掌の中で乾いた音がして、夫の手は脆くも折れた。娘の喉から喘ぎが漏れ、娘は弾かれたように手を離した。
 そのまま娘は膝を折ってその場にくずおれた。
「ごめんなさい。知らなかったの、知らなかったの」
 もはや泣きじゃくることしかできずに、顔を手で覆い、娘は必死で夫に赦しを乞うた。
 ふいに、項垂れる娘の額に、不死の王の乾き切った額が触れた。
「感じるか。まだあたたかい」
 涙に詰まった娘は返事もできなかった。死にゆく夫の肌は確かに温かかった。
「おまえの献身のおかげだ。おまえが持ってきた心臓のおかげで、おまえの愛が私にも感じられる」
 かつて男であったものが、娘の肩を枯れ木の腕で抱いた。
「嘆かずともよい。心を持たずに生きた数百年より、感情を得た今一瞬のほうが幸せだ」
 不死の王の口が横に広がった。
 表情は娘の目には見えなかったが、王の吐息からそれと知れた。
 王は笑っていた。
「おまえが私の傍にいさえすれば満足だ。私の命の火は消えても」
 娘が思わず顔を上げた。
 夫の微笑が見えるかと思った。だが叶わなかった。
 そこにはもはや不死の王の顔はなく、老い乾いて皮膚の貼りついた頭蓋骨があるばかりだった。両眼が燐火を残して落ち窪み、やがて火も消えた。下顎が開き、地に向かって外れ落ちたと見る間に砕け散った。骨も服もまたたく間に塵と化し、黒い森より吹き込んだ冷たい突風に吹かれて舞い上がった。
 夫であった塵のすべてが、風に乗っていずこともなく散逸していった。
 娘は枯れ野となった地に突っ伏した。言葉もなにもかも失って、大声を上げて泣いた。
 娘に答えるものはなかった。
 宵闇が訪れ、娘の肩に、髪に、北風が吹きつけた。
 この数百年、不死の王の庭に吹いたことのない冬の風だった。
 乾いて落ちた枯葉も倒れた木々も、鳥も虫も何もかもが骨と塵になって消え失せ、闇の中には古びた塔と館と娘だけが残っていた。
 やがて風が止むと、黒い森に積もると変わらぬ雪が空から舞い降りてきて、周囲を白く覆っていった。
 時の止まった庭に、季節が甦ったのだった。

 娘は待った。
 己の身に異変が起こるのを、祈るような気持ちで。
 数百年の時が我が身にものしかかり、不死の王のように死を迎える瞬間を。庭の生あったものたちのように壊死する時を。
 だが何も起こらなかった。
 呪いの外から来た娘には、不死の王の呪いはとうとう及ばぬままだった。
 娘はついにそれに気づいた。
 やがて娘は洟を啜りながら身を起こした。肩に積もった雪の幾ばくかが滑り落ちた。
 娘はがちがちと歯を鳴らしながら、寒さにかじかんだ手を吐息で暖めつつ館への道を歩んだ。流れる涙が冷え、娘の頬にしもやけを作った。
 不死の王の腕に抱かれていたときのほうがあたたかかった。体ではなく心が。
 途中幾度も躓いて雪の中に転びながら、娘は歩いた。
 処女雪の積もる広野に、娘の足跡だけが点々と続いた。

【6】(完)