一次創作小説創作小説【中編】

不死なる王の森【6】(完)

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 数日の間、娘は雪に閉ざされた館の中で陰鬱に時を過ごした。土人形もすべて崩れた今、自分で火を起こし、食を取るほかなかったが、娘はそうしなかった。館の中にも時間の呪いは及んでいた。蜘蛛の巣がかかり、埃にまみれた、朽ちかけたベッドで娘は多くの時を過ごした。堪え切れぬ時は暖炉に火を入れもしたが、大概は寒さに震えながらベッドの中で丸くなるだけであった。白い息を吐きながら不死の王と共に寝た夜を思い出し、凍えた夜を懐かしく思い出した。いっそこのまま凍死してもよいとさえ願っていた。不死の王に献辞をもらうことは叶わないが、後を追うことはできるではないか。
 娘は涙のうちにそんなことばかりを考え、夢とも現ともつかぬ浅い眠りの中に日を過ごした。
 魔術に疎い娘は気づかなかった。
 不死の王が彼にあらん限りの優しさで、娘の為に最期のまじないを施していたことを。


 床の中で、娘は、ふとなにかの気配に呼び戻された。
 目を瞬いて涙を払い、耳をそばだてる。
 気配がする。この部屋ではない、遠くから、音がする。
 声。人の声。
 男の。
 娘は寝台から転げるように飛び出した。服を纏うことも靴を履くこともせず、声の方向へ必死に走った。
 不死の王の名を心で呼びながら。
 蝶番の外れかかった扉を乱暴に押し広げて広間に出ると、そこに男がいた。
 娘に向けている背中は広く、牛馬のように頑丈そうだった。
 不死の王ではないと娘が気づくと同時に、男が振り向いた。
 数年間見ることのなかった、農夫の顔をしていた。
「姉さん!」
 男が張り上げたその声には聞き覚えがなかった。だが言葉の意味が耳に浸透すると同時に、丸い輪郭の中の荒削りな顔立ちに、確かな既視感を感じた。
 それは生き別れになった小さな弟だった。
 娘の顔がくしゃりと歪んだ。弟の名を呼んで歩み寄り、両手を伸ばす。土仕事に荒れた大きな手が娘の両肩を引き寄せ、強く抱き締めた。
「生きてるなんて思わなかった」
 弟の吐息が娘の頬を暖めた。
「だけどここ数日、姉さんが一人で泣いてる夢を立て続けに見たから、気になって来てみたんだ。もっと早くに迎えに来なくてごめんよ」
 溢れ出した安堵が娘の緊張を一瞬に追い払い、娘は弟の腕の中でくずおれ、その場にへたりこんだ。
「大丈夫かい?姉さん」
「大丈夫じゃないわ」
 娘はようやっとそれだけを、涙のうちから絞り出した。
「私の夫が死んだの」
 不死の王の本質を知らない弟は困惑の表情を見せた。
 だがこの場では、姉に問い質すことはしなかった。弟はつぎはぎだらけの上着を脱いで娘に着せかけた。
「とにかく服を探して、靴を履きなよ。こんな陰気なところはさっさと出なくちゃ。屋敷の外に驢馬を繋いでる。それに乗って、帰ろう。町へ」

 そして娘は生まれた町へ戻った。
 去り際、一度だけ、不死の王のいなくなった館を振り返った。
 雪に閉ざされて生の気配なく佇むその姿は、娘が見知った館とはまるで違って見えた。



 娘は町で三つの季節を過ごした。
 彼女を不死の王に捧げた町長は既に亡く、弟は彼の娘を妻に娶り、その家に住んでいた。娘はかつてこき使われていた家で義姉として迎えられ、弟家族の中に次第に馴染んでいった。
 そして秋の始めに一人の子を産んだ。
 黒い髪と黒い瞳の、男の赤子だった。赤子の相を見た町の占い師は、極上の才能と強運を生まれ持った子に違いないと母親に告げた。
 赤子はよく泣き、よく笑った。その小さな胸には心臓が宿り、肌は熱を帯び、母の腕に抱かれて喜びの声を上げた。
 男の子はすくすくと成長し、母親の心はそれによって大いに慰められた。
 町にふさわしからぬ整った顔立ちの男の子が、町の人々から神童と呼ばれて一目置かれるようになるにはそう時間はかからなかった。十二の年、少年は帝都から来た裕福な商人に才を見込まれて、町を離れ都に奉公に出た。それから十余年が経ったころ、少年だった男は王室付き書記官として爵位を得、故郷の地を封ぜられて、美麗な馬車と妻となった貴族の娘を連れ、護衛の兵士たちに護られて帰郷した。
 母親と共に、今は町長となった叔父の一家が彼を出迎えた。

 歳月のうちに、町も森も変質していた。
 不死の王の所有でなくなった黒い森は人の手によってすっかり開かれ、陽の当たる麦畑がどこまでも広がっていた。不死の王の館は石壁が建材として持ち去られ、残骸となり、牧童が羊を連れて草を食ませる場所となっていた。
 新しい領主はその場所に館を建てることにした。
 数年の時を経て新しい館は完成した。領主は妻と、町で叔父のもとに住んでいた母を館に呼び寄せた。
 それは春の盛りの頃だった。
 馬車を降りた母親は杖をついて立ち、感慨深げに新しい館を眺めた。栗色だった髪には白いものが多く混じっている。
「風に草のにおいがするわね。花の香りも」
 そう言って息子のほうを振り仰いだ。
 不死の王と瓜二つの男がそこに立っている。
 女は息子に手を伸ばした。
「お願いがあるの。抱き締めてくれる?」
「もちろんだよ、母さん」
 息子は素直に応じて、母を腕の中に抱きとめた。
 その体は温かく、胸では心臓が鼓動していた。
 羽虫が音を立てて飛び、鳥が上空で鳴いている。
 母親は息を深く深く吸って、ゆっくりと吐き出した。
「苦しいのかい?」
「ええ」
 息子が顔を覗き込む。
 皺の刻まれた母親の頬を涙が伝っていった。
 その口からなにごとかの呟きが漏れる。
 それが自分の父の名前だと、息子が知ることはついになかった。




 晩春は例年になく肌寒かった。
 天を雷が貫き、土砂降りの雨が幾日も降り続いた。
 領主の母となった後も以前と変わらず、貧しい庶民だった頃と同じように働いていた女が外仕事の最中に雨に降られ、風邪を引いた。
 息子の領主はすぐに医者を呼んで薬を与え、滋養のある食事を摂らせた。誰もが女の風邪はすぐに治ると思っていた。
 だが女は日に日に衰弱した。熱に冒されうわごとを繰り返し、幻覚でも見るのか、自分の傍に夫が立っているなどと言うようになった。
 領主の母が夫を持っていたことは皆知っていた。だがその姿を見た者は誰もなく、領主の父について語ることは館では禁忌となっていた。
 珍しく雨が上がって太陽が顔を出した日、小康を取り戻した母親は息子を呼んで言った。
 館の裏手の、樫の若木の辺りを掘り返して欲しい。そこに古い塚が埋もれているはずだからと。自分が死んだらそこに遺体を葬ってくれ、とも母親は云った。
 息子は母親の言葉を信じたわけではなかったが、弱った母親を慰めるために人を使って樫の若木の周囲を掘り返した。小高く盛り上がった丘の土中から崩れてばらばらになった石組みが現れ、さらに掘り進むと、文字の彫られた割れた大理石や人骨の破片などが現れた。
「碑文を二つ彫ってね」
 病床から弱々しい声でそう頼む母親が、若返ったように見えることに息子は気づいた。
「ひとつは私、ひとつはあなたのお父さんに。あのひとは骨も残らなかったから」
 熱に潤んだ瞳で母親は微笑んだ。恋する娘のような表情だ、そう思った息子は総毛立った。
 母を喪う予感に唐突に襲われたからだった。
「あのひとの心に触れて、あのひとの子を遺した。私は幸福だわ」
 横たわる女の小康は去りつつあった。再び高熱を発した母のために医者を呼び、よく休むように言い聞かせて息子は母の部屋を去った。
 それが生きた母親を見た最後だった。
 夜半、どうやったものか医者や侍女たちの目をくぐり抜け、女は寝間着ひとつで館を抜け出した。折しも外は嵐が訪れていた。雷鳴が轟き冷たい雨が打ちつける中、女は笑い声を上げ、裸足で庭を走り回った。空に向かって両手を伸べ、誰かに応えるように微笑み、そして草の中に倒れ、それきり動かなくなった。

 嵐と共に夜の闇が去った翌朝、庭を見回りに来た庭師が彼女の骸を見つけた。
 水に濡れた女の肌は、十代の娘のように若々しかった。顔の皺はすっかり消え、髪も往時の色と艶を取り戻していた。
 瑞々しい唇には夢見るような微笑みが浮かび、半眼に開かれた瞳は雲の晴れた青い空を映して、どこまでも美しく輝いていた。



 女の亡骸は生前の言葉の通り、掘り返された塚の中に納められた。息子は母の願いに従って碑文を二つ用意した。塚の前に立ち、黒い喪服を纏って黙然と佇む姿は父たる者によく似ていたが、それを知っている者はもはやこの世にひとりもいなかった。
 若返って死んだ領主の母親のことは町の其処彼処で噂された。一定以上の齢の者はその不思議を聞いてもさして顔色を変えなかった。彼女が誰に嫁いでいたか知っている者たちだった。老いた彼らはそのことについて硬く口を閉ざし、町の秘密を自身の墓にまで持っていった。

 月日は巡り、幾度も春が訪れる。
 領主の血は続き、彼の館に人の気配が絶えることはなかった。
 かつて娘が遊んだ庭に、今は名残も残さぬ北の塔の瓦礫の上に、次第に朽ちて忘れられゆく二つの献辞を持つ塚に、昔と変わらず羽虫たちが飛び交い、小鳥が歌う。
 そうして。
 娘と不死の王の恋の物語を知る者は誰もいない。



(了)