同じ頃。
ゼンと同様にクライオスもまた葛藤を味わうこととなっていた。
翼騎士団の詰め所、クライオスの執務室に、ティレルがやって来ていたのだ。
「アナスタシアとは行き違いになったな」
「ルーシェン殿下からお前への返送書類を持ってきただけだ。アナスタシアがいないんじゃ、無駄足どころかとんだ損失だ。お前のエセ笑顔なんか見たくもねえのに、わざわざ面を拝みに来たようなモンになっちまった」
「まあそう言うな。俺はお前に会えて嬉しいよ。
それより、アナスタシアから聞いたぞ。先週は休暇を取って二人で旅行に行ったそうじゃないか」
「ああ。ルーシェン殿下の許可を得て、王家直轄領の北の森にな」
「山の中腹に雰囲気のあるロッジがあると聞いているが、そこに泊まったのか?」
「いや。一週間ずっと森の中にいた」
「? キャンプか登山ってことか?」
「そんなしゃれたモンじゃない。ただの野宿だ。アナスタシアの、山野でのサバイバル能力を確かめに行ってた」
「…………………」
クライオスが黙った脇でティレルは上機嫌だった。
「お前、あいつをよくもあそこまで仕込んだな。確かに弓の腕は一級だ。その上、地形の読み方から方位の見方、天気予報や動物の追い方、狩り方、捌き方。野草や樹木の知識。
イシク族も森の民だから、俺も森の暮らしの知識は持ってるが、実践技能はアナスタシアのほうが上なくらいだった」
「………ティレル…」
「ああ、調理だけはイマイチだったな。あいつ、捌くときに臓物を避けて、あとは塩を振って生焼けさえ避けりゃいいと思ってるフシがあった。食中毒はそりゃ野外じゃ致命傷だが、大抵の食材に火を通しすぎて、塩辛い消し炭みたいな食い物を作ってたっけな」
「ティレル」
「それと、今週末から二ヶ月ほど、俺の管理下の職場にアナスタシアを借り出したい。翼騎士団から出向する為の許可はルーシェン殿下から既に得ている。過去に異端審問官の助手として俺が選んで使っていたなら、文官としても確実に有能だろうが、どういう方向にどれだけ地力があるかを確かめておきたい。あいつ地頭はいいのに、どうも感情や集中力にムラがあって、得意不得意が激しそうだからな。
剣技も少し確認したが、体力面ではもう向上はしないだろうな。あとは技能を伸ばすことと、体術のほうを教えてやろうと思う。女だからどうしても、体は小さいし筋力は足りないが、体が軽くて柔らかいのは大きな利点だ。力任せの剣技しか知らない体の硬いお前なんかよりもむしろ、体術はあいつのほうがずっと伸びるだろう。
あとはイシク族の俺が持ってる薬の知識や、人体の構造なんかを教えてやって――――」
「ティレル!」
そこで初めてティレルは語るのをやめた。
「あん?」
「……お前、アナスタシアを一体『何』に育てるつもりでそんなことをしてるんだ? 最強の女スパイか殺し屋でも育成してるみたいじゃないか」
「おお。そんなつもりはなかったが、それを目指すのもいいな。目標を定めると能力を伸ばしやすい」
「ティレル……」
クライオスはデスクの向こうで溜め息をついて、ティレルを諭す。
「俺がアナスタシアに山での狩り、というより殆ど山暮らしの知識を教えたのは、幼い頃にアイツが『強いて』それを会得したがったからなんだ。俺としてはどんな翼騎士であれ、本来はあそこまで知識を入れ込む必要はなかったと思ってる。小さい頃のアイツは体力も無くて、体を鍛える意味でも、山野のサバイバルは当時は相応しい訓練だった。
だが今はそんな必要はないだろう。
なぜそんな山奥でアイツを試すなんてことをしてるんだ。
お前たち二人は恋人なんだから、もっと他にやるべき事があるだろう?」
「――――」
ティレルは真顔で暫くの間黙った後、クライオスからすればとんでもないことを平然と言ってきた。
「暗器の使い方も教えてやったほうがいいってことか? あるいは組み手の寝技とか」
「………アナスタシアに教えるべきことはもっと他にあるだろう!」
思わずクライオスは声を上げてしまったが、ティレルは全く要領を得ないようだ。
「あ? 例えば?」
「例えば、って……」
クライオスの心に強い懸念が生まれる。
こいつは、アナスタシアに教えることがあるとか言う以前に。
まずは恋人として「アナスタシアにしてやるべきこと」をちゃんと果たしてやっているのだろうか。
「ティレル。確認したいんだが。
アナスタシアに、きちんと、恋人としてのコミュニケーションを取っているんだろうな?」
「なんだそりゃ? 飲みに誘うって事か?」
「全然違う! 大体お前は、酒の席でコミュニケーションなんて取ってないだろ。飲んだら酔い潰れるだけじゃないか。アナスタシアに介抱させるなんて以ての外だぞ。
俺が訊きたいのは、デートをしたり、手紙や花束のプレゼントを渡したり、時節や必要に応じた甘い言葉を贈ってやったりしてるのかってことだ」
ティレルは腕組みをして呆れたように眉を顰めた。
「人生に必要かあ? そんなもんが」
「当然必要だ。アナスタシアだけじゃない、如何なる女性にも、敬意と真心を示す為の継続的アプローチは必要不可欠だ」
「出たよ、作り笑い野郎の打算的人心掌握術。いや、計算的操縦術と言うべきかな。そのやり口で、翼騎士団に向けてどんだけ多額の寄付を毟り取ってきたんだ?」
「ティレル。俺は誰にだって誠意を持って接しているし、時宜も弁えている。その言い方では、見たところ、お前はアナスタシアに何もしてやってないな」
「俺の話聞いてたか? このティレル様が忙しい合間を縫ってあんだけ技能を仕込んでやってるんだぞ。あれ以上何をしてやるって言うんだ」
「………………なんてこった……」
クライオスは呻く。
まずいことにティレルは本気だった。
「仕事の仕方だったら、ある程度は翼騎士団でも教え込んでやれるんだぞ、ティレル。無論剣技もだ。そこには男女付き合いは関係ない、俺だって教えてやれることなんだから。
お前、アナスタシアと付き合うようになってから、一体何回あいつとデートしたんだ?」
「…………」
ティレルは考えるような表情を見せ、
「それって職場はカウントに入れないんだよな?」
「入れるわけないだろう」
「こないだの野宿は」
「入れない」
「ルーシェン殿下に二人で呼び出された後で、会議室で打ち合わせしたりとかも?」
「入れない」
「互いの部屋に出入りするのは?」
「……そっちのほうはしっかりやってるのか。だがそれだけではデートとは呼べないな。二人で濃密で甘い時間を過ごしたかどうかが重要だ」
「じゃあ二人揃ってベッドインした日はデートでいいんだな?」
「…………………そんな状況でベッドインなんて……、
まさか本当にやってるのか!? 公園もレストランも観劇もショッピングもナシでいきなり!? アナスタシアに!?」
「何が問題なんだよ?」
「……………お前にアナスタシアを任せるんじゃなかった……!」
クライオスがデスクに突っ伏しているのをティレルは不思議そうに見ている。
「ティレル……!
あいつは十歳の時から翼騎士団にずっといて、年頃の女性らしいことは何もしてきてないし知らないんだぞ。目的の為に今まで必死に生きてきて、それが果たされた今、ようやく晴れて女性らしい人生を謳歌できるようになったんだ。
あいつの実家があの為体だから、その方法を教えてやれるのは男の側だけだっていうのに……!」
「――――それはアナスタシアがやりたいことじゃなくて、『お前がアナスタシアにやりたいこと』だろ。このムッツリスケベ団長が」
「こっちが教えてやらなくちゃ、デートだってドレスを着るのだってあいつが『やりたいこと』か『やりたくないこと』かどうかも判断できないじゃないか。
お前は試してさえいないんだな、つまり。
デートもプレゼントも全然していない。
なのにいきなりベッドだなんて。
もう性交渉は済んでしまってるんだろうが、まさか無理強いや、騙すような真似はしてないだろうな。ゼンは確か、グルーミングとか言っていたが。
まだ十八歳のアナスタシアをお前に都合よく誘導して、男側が最低限の労力で体を開かせたりするなんて、最低の行為―――」
「人聞きの悪いことを言うな。そっちの意味ではまだ寝てない」
「は?」
「性的搾取されてるとしたらそれはアナスタシアじゃなくて、俺のほうだ」
「――――」
クライオスが笑顔のまま固まった。
「空耳だったかな。ティレル。俺は今何か、とてもショッキングなことを聞いたような気がするが――――」
「俺はあいつを満足させてやってはいるが、あいつに手を出してないんだから、俺からは性搾取しようがねえだろ」
「……………………寝てないって、まさか、セックスはしてないって意味か?」
クライオスはそろそろ笑顔さえ浮かべられなくなりつつあった。
「さっきからそう言ってるだろうが。耳まで悪くなったのか?」
「……ベッドは一緒、なのに…?」
「あいつはまだバージンだぞ」
「! ………………」
愕然としたクライオスが、あんぐりと口を開いた。
「なんてマヌケ面だよ。いつものエセ笑いに戻らねえと、顎が外れるぞ」
「………………」
呆れたようにティレルに言われてようやく、クライオスは自分の手で顎を持ち上げ、口を閉じることに成功する。
混乱するクライオスの頬は酷く紅潮していた。
思考はいっそう混沌を極めている。
「……………それはイシク族の伝統文化とかそういう類のものなのか?」
「あ?」
「二人で同じベッドに入っても、男女でセックスはしないという………、
いや、もしや、アナスタシアが女神の生まれ変わりだから? 一生手を出さずバージンで過ごさせるとか? そんな過酷な男女関係が強要される価値観でもあるのか?」
クライオスはティレルの体に刺青があることや、彼が「ノイシュバーン家に滅ぼされた少数民族」の出身であることは昔から知っていた。だがその民族が「イシク族」と呼ばれることや、「女神とその類縁を守ることがイシク族の存在意義」であることはごく最近、リンゼル家からアナスタシアが救出されて以降に知ったことだ。
イシク族の習俗への理解を持つ人間は、ヒストリカ王国には存在しないと言っていい。恋人となったアナスタシアへのティレルの接し方は、クライオスからすればあまりに異常で、自分の知らない文化習慣が原因だと思い込むほうがはるかに気が楽だったのだが、
「何言ってやがるんだ。そんな訳ねーだろ」
当のティレルにあっさりと否定されてしまった。
「女神を見たイシク族ってのは太祖のシキしかいない。後はアナスタシアを知ってる俺だけだ。
だいたい女神クロムは、神話じゃルキウス・ノイシュバーンと婚姻して子を成したことになってる。処女縛りなんてあるわけねえだろ」
クライオスは頭を抱える。
「……だったらどうして、そんな不可解なことになってるんだ……!」
そこで初めて、ティレルはようやく気まずそうな表情を見せた。
「………………」
黙ったままのティレルに対し、クライオスの繰り言は続く。
「本当だったら、あいつがもっと年若いうちから、俺が教えてやりたいことがたくさんあったのに。俺が致死性の病気だった所為で、アナスタシアに期待や誤解をさせるようなアプローチもできず足踏みしている間に、破滅の魔女がヒストリカに出現して、あいつは翼騎士団を俺に無断でやめて出奔してしまって……
全てが終わったら、『死に戻り』の経験を得たあいつは俺の知らぬ間にお前のことが好きになっていた。……あいつは本当に、男女のことは何も知らないんだ。それでも俺はお前のことを信頼していたから、俺の気持ちは押し殺して、アナスタシアをお前に任せたのに……」
「お前の言うデートやプレゼントが、全ての男女に必須の恋愛事項って訳じゃねえだろ」
「そこもそうだが、今や問題はそこだけじゃない」
「あ?」
「ティレル。お前の行動は俺に限らず、どんな男から見ても多分に非常識だぞ。お前はかなり特殊な環境下で子供時代を過ごして、コンラッド殿下の『猟犬』として裏の汚れ仕事に関わっていたから、恋愛に必要な基礎教養が俺ほどには身についてないのは当然なのかも知れないが……
俺と同い年ってことは、もう二十六歳だろう?
いくら何でも、今までに恋人の一人や二人はいただろう。彼女たちと甘い時間を共に過ごしたことがある筈だ。彼女たちと一体どうやって…」
「いねえよ、そんなもん」
「は?」
「恋人なんかいたことねえって言ってんだ」
「―――――」
「そんなもん作ったところで、コンラッドの野郎に奪われるか嬲られるか人質に取られるか……俺も相手もロクな目に遭わねえのを知ってたからな。
長いこと『猟犬』をやってた俺には親しい奴なんかいない。女でも男でもな。
お前にだって近づいたのは最初は情報利用と政治的懐柔が目的で、もうちょい後には、剣の腕が立つ上に病気持ちのお前にはコンラッドの脅しが利かねえから、付き合うのが気楽だったから酒屋でつるんでたってだけだ。
だからいくら信頼がどうこうとか歯の浮くセリフ言われようが、俺はお前とは別に友人でもなんでもなくて――」
しかしクライオスはティレルの言葉の後半部はまったく耳に入っていなかった。
顔を青ざめさせて、信じがたい生き物を見る目でティレルを見上げる。
「まさかティレル、お前はまだ童貞――――」
「おいおい、一気にそこまで行くなよ。極端な奴だな。
俺みたいに享楽的な奴が、そんな修道僧じみた節制なんかするわけねえだろ。
酒場の姉ちゃんや娼婦の姉ちゃんに相手してもらって、そこら辺はクリアしてる」
「………よかった……いや、誠実性の意味ではわりとグレーだが、今はその遊びをしていないならまあ問題ない。……アナスタシアには黙ってておいてやるよ」
「ゼンの世界では、俺みたいなのは『恋愛童貞』と言うんだとさ」
「……言い得て妙だが、言い当てられたところで複雑ではあるな。
―――――つまり、こういうことだな?」
眩暈を感じつつも、ようやく考えを纏められるようになってきたクライオスだった。
「お前は人生で恋人を作ったことがなくて、アナスタシアが初めての恋人だ、と」
「そうなるな」
「デートも今までしたことがない。アナスタシアが、ではなくティレル、お前自身が」
「アイツとベッドで寝るのがデートなら――――」
「デートじゃない!」
デスクをバンと叩いてクライオスが遮った。
「そんなものをデートと呼ばれてたまるか!
ティレル、お前の課題が分かったぞ。
アナスタシアの職業技能をどうこう言ってる場合じゃない。
俺は当然お前がアナスタシアをリードして一般的な恋人同士のあれこれを教えてくれると思っていたのに、当のお前が恋愛未経験者の所為で、ヒストリカで当たり前に行われている恋人同士の行為が全然お前たちは進んでないんだ」
「…………………それが本当にそうだとしても余計なお世話だろうが」
ティレルが苦虫を噛み潰したような顔になる。どうやらさすがに気まずいらしい。
クライオスは、自らの思考に必死で集中するあまり、ティレルの心境を拘泥できなかった。
「いいや、言わせてもらうぞ、ティレル。ここまできたら俺は殆どアナスタシアの保護者代わり、兄代わりだからな。
聞いたところ、別の世界線で俺はアナスタシアとデートしたことくらいはあるようだが、今の俺がアナスタシアにデートの仕方を教えてやることは出来ない。
となると、この世界線での俺の役割も自ずと決まってくる。
ティレル。俺がお前をアナスタシアに相応しい恋人に仕立ててやる。
デートの仕方やプレゼントのタイミング、エスコートの作法など、俺の知識の全てを一から教えてやるぞ」
「はぁ!?」
紫の目を瞠って驚愕したティレルに向けて、クライオスは更に提案を続ける。
「そうと決まればまずはプレゼントからだ、一番無難なのは花束だな。それとデートのアポイントメントだ。
花言葉辞典と呼ばれるものがブックショップに売っているから、最初にそれを入手するんだ。アナスタシアの誕生花と、『愛情』や『敬意』を示す花々を、フラワーショップで見繕ってもらって――――」
「いーいかげんにしろ! 飯の種にもならねえそんなモンに関わってる暇があったら、残業でもしたほうがマシだ!」
うんざりした顔で反駁したティレルに対し、クライオスはまったく退かない。
「恋人達の時間をないがしろにする残業なんか論外だ。そういうところが思慮が足りてないんだぞ! これはかなり大がかりな意識変革が必要だ……先が思いやられるな」
「思いやんなくていーんだ! 作り笑い野郎が、ナンパ思考のお節介働かせて気色悪いことすんな! 俺は王城に戻るぞ。アナスタシアを迎えに行く!」
「ティレル! 待て!」
最後は辟易して、ティレルはクライオスの執務室から逃げるように去ってしまった。
ティレルを追おうとクライオスがデスクから立ち上がったところで、執務室のドアが音高く閉じられ、友人の姿は消える。
「………………」
ティレルの体を掴み損ねた状態で、クライオスは伸ばした腕をいつまでも中空に浮かせていたが、頭の中はぐるぐると混乱した思考が巡り続けていた。
「由々しき事態だ……ゼンに相談しないと………」
ティレルとクライオス、共通の友人がゼンだった。公平で欲の無い性格を反映して、その立ち位置も中立に近いが、昨今ゼンがティレルに対して風当たりを強めていることは、クライオスも察している。
原因もハッキリしている。アナスタシアだ。
アナスタシアの昔馴染みであるクライオスやルーシェンではなく、『死に戻り』後に殆ど初対面の状態であったティレルが彼女に選ばれたことが、ゼンの不満の理由であるらしい。
そうは言ってもゼンは善人だ。ティレルとアナスタシアのことに関して相談すれば、異世界人としての見識と百年の齢を重ねたが故の経験値で、何か別の知見を与えてくれるに違いない。
クライオスはそう期待した。