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その後、ティレルは言葉通りアナスタシアに、翼騎士団が非番の際には彼の密偵としての仕事を手伝わせてくれることが多くなった。
ティレルが現在「裏仕事」と呼んでいるものは、実際には、コンラッドの『猟犬』だった頃の彼の仕事のうちの暗殺以外のほぼ全てと、「義賊」と呼ばれていたニンジャとしての仕事を合わせたようなものだった。捜索対象はコンラッド派や国王ジェームズ派のことが多く、無論のこと、『死に戻り』期の頃とは違い、ルーシェン王子を助けコンラッドを追い落とす為の工作に転じている。
ティレルはアナスタシアの身が危機に陥るようなことは避けて仕事指示を出してくれるので、アナスタシアが関わるのは、ティレルが持ち帰った情報の整理や精査、または、比較的安全な場所での捜査に限定されている。自分がコンラッドの略取対象、と脅しを受けているアナスタシアはそのことにむしろ感謝しながらティレルを手伝っていた。ボアクリフ商館のような危険な屋敷に忍び込むようなことは当然許してはくれず、比較的穏健なコンラッド派の貴族の屋敷などを表敬訪問のような形で訪れて探りを入れる、などの調査が多い。
(『死に戻り』ができた昔の、異端審問官の頃の調査のようだ)
アナスタシアは別の彼が生きていたかつてのことを思い出すが、それを現在のティレルが意識しているのかどうかまでは定かではなかった。
そうして数週間が過ぎた頃、アナスタシアはあることに気がついた。
「……コンラッド派の貴族や商人たちの、私への態度が不可解なのですが」
その疑問をティレルにぶつける。
「敵視、という感じでもなく、私をしげしげ見たり、穿つように眺めたり、果ては『ルーシェン殿下によしなに』のようなことを言って、贈り物を渡してきたり……『女神』と私を同一視する風潮がまだ残っているのか、と思いもしたのですが、それとも違うようです」
「それはな」
やや可笑しげにティレルが教えてくれた。
「宮廷社会の中でお前の存在が『ルーシェン殿下の愛人』と目されてるからだ」
「え……、えぇえっ!?」
言われたことの意味がすぐにはわからず、拍を置いて理解したアナスタシアは驚愕の声を上げた。
「な、何故そんなことに、」
「ルーシェン殿下の手前の人生と、お前のミステリアスな存在感の所為だな」
「ど、どういうことですか!」
「1つめはルーシェン殿下が今まで女性を一切傍に寄せ付けなかったことだ。思い人がいるんだかいないんだかも秘密主義でわからんし、パーカー殿下には効果的だった性上納や贈答品も一切効かない潔癖主義でもあった。それが近頃は、翼騎士団の赤毛の女性騎士が殿下の執務室を足繁く往来して、殿下がその女をもてなすときには上機嫌で下にも置かぬ扱いだ。となると、噂スズメたちが思いつく理由は一つしか無い。恋だ」
「そ、そ……」
「2つめはお前の経歴が貴族達にはさっぱりつかめないことだ。ずっと翼騎士団にいたことくらいは今じゃ知れてるが、その手前は死亡説も流れてたほどに情報がなかったからな。『時すさびの薔薇』に血を流して宝石を生み出したのは誤解だ、と周知されてるが、そのことによってルーシェン殿下を騙してそのお心を掴んだ、と貴族連中からは思われている。王妹エヴェリーナ様の御養女で血統は充分に王子妃の資格ありだが、女だてらに騎士になんかなって、上流階級には寄りつかない奇矯さが、『愛人相当で納得』という下馬評に繋がってるんだ」
「か…か……勝手な……!
だ、だいたい、私にも失礼な話ですが、ルーシェン殿下にも失礼ですし、何よりティレル様に失礼ではありませんか!
私たちはきちんと婚約発表までしているのに!」
ティレルは面白そうにアナスタシアを眺め、皮肉げな笑みを唇にのぼせた。
「そここそがお前は『変な女』だと思われてる所以なんだ」
「へ……ヘンって……、」
「侯爵令嬢には殿下以外にも愛人がいる。異端審問官だった罪人の息子、しかも少数民族という特異な見た目の平民だ。令嬢はルーシェン王子の愛人なのにも関わらず、そいつと婚約発表までしてる。『婚約』自体が一つの遊びか、ルーシェン殿下への挑発だ。あるいはもっと品のない奴らの見立てでは、二人纏めてルーシェン殿下のベッドに呼ばれてるから、殿下は気にしないんだ、とかな」
「な……な……!」
アナスタシアは恥辱と怒りで肩が震え、開いた口が塞がらなくなった。ようやく気を取り直し、
「情報の頭から尻尾まで全部ウソと間違いじゃないですか!
ティレル様は別に罪人の子でもありませんし、私の愛人でもなく、歴とした婚約者なのに!
ル、ルーシェン殿下の寝室に私とティレル様が一緒に呼ばれるなんて、そんなこと、絶対にあり得ないのに、どうして……!」
「そう憤慨すんなって。
俺なんかを侯爵家の娘が真面目に婚約者に据える、そっちのほうが奴らから見たら非常識すぎて理解不能なんだよ。
俺たちが婚約するときだってそういう話は散々しただろうが」
「で……ですけど!」
ヒストリカの貴族社会の、どこまで行っても「人」を「人」と認識しないような感覚に全く馴染めなかったことを、今更ながらアナスタシアは思い返していた。自分が火刑に処せられる、『死に戻り』以前の頃の記憶だ。
「ティレル様は腹が立たないんですか!? 一番侮辱を受けているのは貴方なのに!」
ティレルは怒りに燃え上がる赤い瞳を見つめて笑った。
「俺はその辺りは平気だ。他人は気にしないと婚約前にお前が言ってくれたからな。俺が信を置いてるのはお前の言葉であって世間じゃない」
「…あ………」
「俺とお前が婚約したって世間はまともに受け止めないのは明白だった。事前に、『お前の貞操の評判は地に落ちるぞ』と言ってあっただろ。それでも俺たちは婚約を選んじまったわけだから、今の状況はむしろ順当なんだ」
「………そんな…」
アナスタシアは言葉を失う。
確かに他人からどう見えようと気にしないと思ったし今もそう思っているが、こんなことになるとまで予測した上であの言葉をティレルに言った訳ではない。ティレルは今の状況になることが見えていたから、あの時婚約に乗り気ではなかったのだ、とようやくアナスタシアは理解した。
アナスタシアの現在の懸念は、当時のものとは全く別のところにあった。
自分と結婚することで、イシク族のティレルを、ヒストリカの貴族社会に強制的に組み込んでしまうことになる。平民出身のティレルは結婚後も、貴族社会で今のように後ろ指を指されるかも知れない。自分でも好きではない場所にティレルを呼び寄せることとなってしまった。アナスタシアが感じているのはそうした後悔だった。
落ち込んでいる恋人に、ティレルはだが笑ってみせる。
「あの時俺に言ってくれた言葉をお前に返してやろう、アナスタシア。俺は他人がどう言おうと気にしないぜ。お前が俺を信じると言ってくれたからな。
俺がどの国のどの位置にいるかも俺にはどうでもいい。お前と同じで、隣にお前が居てくれればそれで充分だ。
元来俺は、自分にとって大切な奴以外が俺をどう評価しようと気にしない性質なんだ。
だがお前のために、今後はそういうところもちょっとは気を遣おうと思ってる。
ヒストリカの貴族社会なんかに俺を認めさせるのはそりゃ手間だが、お前がここで生きるなら、俺たちが暮らしやすくなるように俺は手を打つだけだ」
「……手を打つ、って……」
どうやって。
「表向きはもうルーシェン殿下の秘書になってるから、そこで功績を重ねていく。
コンラッドを追い落として、ルーシェン殿下を王位に就けて、善政を敷く手助けをして、リンゼル侯爵家の平民の婿が王家とヒストリカの存続に有用だということを示せばいい。まあ二十年くらいかかるかも知れないがな、気長にやるさ。
今やってるニンジャ仕事は、その為の作業の一環だな。
ルーシェン陣営に加わって分かったが、コンラッド派に比べると情報収集と調略に格段の能力差があるから、まずはきちんとした諜報部を立ち上げて、それを表裏共に強化する予定だ。探偵やってたゼンにも協力してもらう。街中の動向は奴のほうが詳しいからな。
コンラッド陣営の切り崩しもだいぶ進んできた。お前が調べてくれてる貴族や商人連中の中には、日和見や寝返りの見込みがある奴も大勢居る。今後はそいつらをどう味方につけるか、もしくはせめて敵対しないところまで持っていくか、だが、……」
すらすらと目算を語るティレルの表情は生き生きとしている。
それを見て、アナスタシアはようやく心の憂いを少し解いた。
よかった。
どんな場所であれ、ティレル様が自ら望んでお力を発揮できるような現在に辿り着けたのなら。
それは自分にとっても望ましい結末、掴みたかった未来のはずだ。
脳裡に、共に未来を歩むことのなかった『彼』の姿が蘇る。
『何だ、その言い方。国外逃亡勧めてるみたいじゃねえか。……まぁ、それも悪くないか。忠誠を誓う主もいなくなったことだしな』
『……俺が誘ったら、お前はついてきてくれるか?』
『お前、ちょっとは自信持てよ。
敵以上に、味方がいる。お前を愛してくれる人は山ほどいる。そのことを忘れんな』
居るべき場所を見失い、命を絶ってしまった『彼』の、最後の姿が。
「……おい、聞いてんのか? アナスタシア」
「は、」
目の前の彼に呼ばれて、アナスタシアは我に返る。
「すいません、ぼうっとしてました」
「まったく…もう一回言うぞ。コンラッド派からもらった菓子や酒、香水なんかは食ったり使ったりすんなよ。中身に何が仕込まれてるかわかったもんじゃないからな。風通しよくしたトイレに流して捨てろ。花束は室内に持ち込まず、表に出しておけ。菓子はゴミに出すこと」
「え……そこまで気を遣わねばなりませんか。折角の貰い物なのに、勿体ない気がしますが」
「だから頂き物リストだけ几帳面につけておけ。次逢ったときに礼が言えるようにな。ルーシェン殿下の調略が効いてきてコンラッド派は焦ってきてるからな、そろそろなりふり構わぬ手段に出る時期だ。だから奴らが寄越す物に手は出すな。……貰い物の中で欲しいものがあるんだったら、俺が同じものをお前に買ってやる」
「……え……」
「なんだよ」
「いえ。申し訳ありません。ティレル様が、私に何かを下さるというのが珍しくて、少し驚いてしまって」
「……クライオスのエセ笑い野郎がな」
ティレルは苦々しげに語り出す。
「もっと恋人らしいことをしろとずっとせっついて来やがってたんだ。しまいには『お前がアナスタシアに贈り物をしないなら俺がするぞ』なんぞと脅してきやがった。服だの宝石だの花だの香水だの……あとはデートだとよ。お前、プレゼントとか、いるか?」
「え? 私ですか? ええと……特には。欲しいものがあれば翼騎士団のお給金で買いますし、行きたいところも自分で行きます」
「だよな。あのウソ笑顔野郎の言うことなんか信用できねえよな。ただ、奴からお前にプレゼントが渡るくらいなら、俺が同じ物をお前に贈ってやるほうがずっといい。……何か無いか?」
「え……欲しいもの、ですか…。
今日訪問した、コンラッド派のギルド長からいただいた花は、捨てるのが惜しい気がしましたけど」
「花束か。あれ何の花だった?」
「ランですね。ギルド長は『カトレア』と呼んでいましたから、そのような種類かと」
「クライオスが言うには花の種類によってそれぞれ『花言葉』とやら言うものがあるらしい」
「え……『ハナコトバ』……ですか…? 私の知らない語です。
……それは、花が言語を持っていて人のいないときに喋り出す、とかそういう意味合いなのでしょうか?」
「俺が知るかよ。花が喋ってるとこなんか見たことも聞いたこともないぞ」
「私も知りませんね……異国には、『音を立てて種子を飛ばす実がなる木』が生えている、と聞いたことはありますが。でもそれは果実であって花ではないですよね……あ!
もしかして薬効のことではありませんか? イシク・ルクフラムスのように」
「カトレアの薬効……? そっちも心当たり全然ねえな」
「ラン科自体は種属が膨大ですから、色んな薬効が存在します。でもカトレアに限定された場合は私も詳しくは知りません。球根か、それにつく土中菌が薬になる可能性もありますね」
「あとはそいつにつく虫とかな」
「蜜の可能性もありますね。後で図書館で調べておきましょうか。明日出かけて探りを入れる孤児院は図書館の近くにありますから、ついでに寄っていきます」
「そうだな。孤児院に行くなら手土産持ってけよ。女が行って贈り物でもすりゃ、気の緩んだ男共がペラペラ情報提供してくれるぞ。知りたい情報はここにリストアップしてあるからさりげなく世間話のフリして聞いてこい。孤児院の道行きは一緒についてってやるよ。それがデートでもういいだろ。
それから、……」
脇でクライオスが見ていたら卒倒しそうな恋人達の会話ではあったが、当人達は至って真面目に、また幸福に、彼らなりの蜜月を楽しんでいたのであった。
***
蜜月の一時的な危機はその一月後に訪れた。
「――――ティレル様! ……私に土下座してください!」
王宮に設けられたティレルの新しい執務室にアナスタシアが駆け込んで来ていた。
本日付の号外新聞を片手に握りしめ、全身を怒りで震わせている。
二日前。ヒストリカ王族として建国以来初めての外遊に出たコンラッド王子がそのまま異国に亡命、ヒストリカ王国で完全に失脚したとの見出しが踊っている。
「ああん?」
「この記事! これ! ティレル様は当然御存知でしたよね! というよりむしろ、ティレル様が情報源ですよね!?」
記事の中には、数ヶ月前から、コンラッドが亡命先の王家傍系の娘婿になるべく調整を重ねてきたことが書かれてある。
別の過去で異端審問官であった頃と同じく、昵懇にしている新聞記者に、ティレルが情報をわざと漏らしたに違いなかった。
「コンラッドが前々から異国のお姫様と結婚する気だったと、ハッキリ書いてあります。
だったら!
私との結婚を目論んで、コンラッドが私を攫おうと狙ってたはずはないですよね!?
――――私を騙しましたね!!」
アナスタシアの怒りにティレルはまったく動じなかった。
それどころか、デスクの向こうで腕組みをして白々しく嘆いて見せる。
「おいおい。俺を疑うってのか?
お前にとって俺は、聡明で頼もしくて責任感があって清廉で、お前を陰日向に正しい場所に導く、素晴らしいティレル様なんだろ?
俺は悲しいぞ、アナスタシア。いつからそんなに疑り深くなった?
色仕掛けも口説き落としも駆け引きも苦手で、言葉の裏も読めなくて、思い込みが強くて騙されやすくて、俺から鍋を三十個も買ってくれるお前は何処へ行っちまったんだ」
言ってる間にティレルは自分でも可笑しくなってきたらしい。
最後は、笑いを堪えきれぬように唇を歪めながらアナスタシアをからかってくる。
アナスタシアは顔を真っ赤にして声を上げた。
「な、鍋三十個は盛りすぎです! いくらなんでもそんなに買いません!
……ティレル様! 私をティレル様のニンジャ仕事から遠ざけたくて、コンラッドのことについて、私に大嘘をつきましたね!!」
指摘を受けて、やっとティレルは認める気になったらしい。腕組みを解いて、人の悪い笑みをアナスタシアに振り向けてくる。
「あー、あん時、多少脅して大人しくさせられればいいと思ってデマカセ言ってみたが、面白いほど巧くいったな。
お前があんまり怯えるから、可愛くて気の毒になってつい優しく慰めちまった。
あの後は俺の危険な仕事についてきたがることはなくなったから、余程効果があったよな」
「……酷いです! あのとき、すごく怖かったのに……!」
だが今思えば、随分と綺麗に纏まりすぎる話でもあった。話した後のティレルの態度も違和感があった。確かに彼は、怯えるアナスタシアを随分優しく宥めてくれた。コンラッドの話が本当だったなら、ティレルの性格なら、あの場ではむしろもっと釘を刺してきたことであろう。
アナスタシアの気づきを、ティレルのほうでも察したらしかった。
ティレルがはデスクを回って、アナスタシアの傍に寄ってくる。
「……怯えさせて悪かった。だが後悔はしてない。お前を深夜にうろつかせない為には必要な嘘だったと判断してるからな」
「…………、」
確かに自分の行動変容に効果のあった嘘だったので、アナスタシアは黙り込む。
「話者が俺、話の中心人物がコンラッド。どちらもお前に影響力のある人間だったから、話の内容を論理で精査する前に、心理がそれを信じちまった。もともとお前には、コンラッド殿下に対する恐怖や嫌悪がある」
「………その通りです」
この嫌な気持ちが消えることは多分一生無いだろう。彼への復讐を諦めはしても、憎しみまでが昇華されるわけではない。
「俺のほうでも、お前をコンラッド派から遠ざけておきたかったからな。コンラッドがお前を視野に入れなくても、コンラッド派の中にはお前を『女神』として扱い、利用しようとする輩は存在する。コンラッド本人が失脚した今でもだ」
「…………」
「だからお前には。ニンジャや過去の『猟犬』に相当するような危険な仕事には関わって欲しくなかった。ニンジャだって『義賊』と言えば聞こえはいいが、見つかれば逮捕される違法行為であることに変わりは無い。お前には、そんなもんに近寄って欲しくないんだ」
「……でも、ティレル様は……」
「俺は昔からの仕事だからな。これでも殺人をやめたから随分穏当になった。それにニンジャからもそろそろ足を洗うつもりだ。今は婚約者として家族になるお前がいるし、コンラッドも国を出た。ルーシェン殿下の元で立ち上げる諜報機関が巧く回り出せば、危険な仕事を俺が担う必要もなくなる」
家族。
ティレルからの言葉に、アナスタシアは顔を上げて彼の顔を見つめた。
「――――ティレル様……」
「あ? なんだよ」
赤い瞳が潤んでいるのをティレルは不審に思ったらしい。
「……私たち、家族になるのですか……?」
「はぁ? 何言ってんだ、今更、」
呆然と呟かれてティレルのほうが狼狽える。
「婚約してんだから当たり前だろ。
お前この期に及んで俺との結婚を拒否する気か? そんなことしやがったら、俺はイシュも裸足で逃げ出すほどのストーカーと化してお前を付け狙うぞ?」
……とんでもないことを真顔で仰っているが、きっと冗談のつもりだろう。
そう思いつつ、アナスタシアは脳裡で別のことを考えていた。
「……想像力が及ばなくて……、『結婚』が、『新たな家族を構築すること』を意味すると、今まで全く思い至りませんでした」
「……おいおい」
呆れたようにティレルが言い下ろしてくる。
「お前、そんな程度の覚悟で俺との婚約を決めたのか?」
「いえ……覚悟がなかったわけではないです。でも……私にとって『婚約』は、お互いの関係性と環境を変える、ただそのことしか認識していなかったかも知れません。……少なくとも、昔、『死に戻り』前の私は、その程度の理解で婚約していたんです」
「……コンラッド殿下と婚約してた時期の話か」
「はい。……あの時期の彼は、リンゼル家で虐げられていた私にとって、家から助け出してくれる救い主のような存在でした。リンゼル家を出るために彼との『婚約』が必要だったからそれを結んだ、ただそれだけの意味しか持っていなかったんです。彼と家族になることについては……当時私は検討したこともありませんでした」
「………それはそれで随分歪でガキくさいものの見方だな」
「ええ。私もそう感じます。私はコンラッドに無礼を働かれたとずっと憎んでいましたが……私も彼に対して無礼だったのですね。今思うと。
出遭った時から彼は『王子』で、私は彼の内面をまずもって見ようとはしなかった。彼に見下されるのも当然だったかも知れません」
「……ま、世間知のない小娘を婚約者に迎えるんだから、侮られてても仕方ない面はあるよな」
「はい」
「……わかってると思うが。
俺は違うからな」
「……ティレル様………」
「俺はお前の内面をよく知っている。その上で、お前と結婚して、一つの家族になりたいと思ってる。
……そこはわかるな?」
「はい。わかってます」
アナスタシアは顔を上げて、ティレルの紫の目を見つめた。
家族。
それは特別な言葉だった。
六歳のときに虐殺を受けて天涯孤独になったイシク族のティレル。
かつて継母エヴェリーナが父と再婚してから、ずっと使用人ぐるみで虐待を受けてきた自分。
『死に戻り』の最中、誰かと家族を作ることなど考えたこともなかった。それは長らく『猟犬』として過ごしてきたティレルも同様であろう。
そんな自分たちが。結婚して家族となり、新たな家庭を作る。
「私も。ティレル様と家族になりたいです」
アナスタシアの微笑の上に、幸福が花開く。
それを見るティレルの顔にも、同じ笑みが浮かんだ。
ティレルが迎えるように両腕を広げて、アナスタシアはその中に己の身を預け、二人で抱き締め合う。
互いの幸福を確かめ合うようなキスの後、
「仲直りでいいな?」
「あ――――」
偽情報で騙したことについて、巧く誤魔化されてしまった。
「……まさか、今までの一連のお言葉も嘘だったりはしないですよね?」
一抹の不安から確認をしてしまうアナスタシアに、
「あぁ? どうかな」
至近でティレルが人の悪い笑みを浮かべる。
「『人間は信じたいように信じる』――ってのは、女神クロムの仕者がお前に言ったセリフなんだろ?」
「……ティレル様。いい加減にしないと怒りますよ」
「わかったわかった」
アナスタシアの背を撫でながら、ティレルは笑う。
「どっちにしろ、お前は人を信じやすすぎて間諜や密偵は向かないんだ。今回の件でもそこはよくわかったろ。
この次お前がくノ一ごっこをしたくなったら、他の男は抜きにして俺だけがお前に付き合ってやるよ。ベッドの上でな」
「……! や、やりません」
ティレルのからかいの意味を理解して顔を真っ赤にしながらアナスタシアは拒否の声を上げた。
「くノ一衣装、取っといてあるぞ。ちゃんと俺もニンジャ装束を着てやるし、縄も使ってやる」
「やりませんてば!」
「そうか? 残念だな。
お前が俺を縄で縛るのはどうかと思ってたんだが…」
「……え?」
(ティレル様を…縄で……縛る……?)
瞬間、それがどういう絵面になるかをつい想像してしまったアナスタシアだったが、
「お、興味あるか? じゃあ今度試してみるか。
言っておくが、俺がお前の捕縛を縄抜けした場合は、お前を縛り返してやるからな。
こないだよりもっと恥ずかしい姿態で縛り上げて、もっとずっと恥ずかしいセックスを教えてやるよ」
「ッ……! ……や、やらないって言ってるじゃないですか! ティレル様!!」
腕の中で暴れ出す小さな赤い猛獣を、ティレルは可笑しそうに抱き締めて動きを封じてしまう。
そして、
「お前は俺にとって、幸福そのものだ。アナスタシア」
「………………、」
「お前がもし死んだら。俺はその後の世界を生き延びるつもりはねえからな」
「! ……、ティ、ティレル様!」
軽口のように言い遂せるが、それが本気だとアナスタシアにはわかった。
「ダメです! 生きていただくために今まで頑張ってきたのに、」
「そう。……お前の『死に戻り』の功績でな。ただ俺は、如何にお前から自由を貰おうとも――――自分で望んでお前の傍にいてお前に縛られる、それ以外の生き方は送るつもりはないんだ。
生まれついての社畜みたいなもんだな。
お前に出逢う前は王族の社畜、そうでなかったらイシク族の社畜。
今俺は望んでお前の社畜になってて、それが今までで一番幸福なんだ」
「ティレル様………」
「だからお前は生きていろ。最悪俺の傍でなくてもいいから、お前こそが死なずに、安全に、この世界線で生き延びろ。その為に、俺はお前を全ての危険から遠ざける。お前に嘘をついてもお前に嫌われてでも。
俺は勝手に、お前のこの小さな肩に、お前の命だけでなく俺の命まで預けちまってるんだ。
あの時、お前は自分の非力を嘆いたが、俺にとっては常に、お前は最大級の『力』がある――――俺を生かす力がな」
「……ティレル様………」
一見してふてぶてしく、また享楽的なところもあるティレルの、隠れた弱い部分。
かつての『彼』、『猟犬』であることを強いられていた『彼』が持っていた希死念慮は、今目の前で自分を抱き締めてくれる彼にもまだ残っている。
「ティレル様」
アナスタシアは己の腕でティレルの体を抱き締め返す。
「それが貴方が納得する選択なら。
貴方が求める『自由』なら。
私もそれを受け入れます。
――――貴方を愛しているし、私も、貴方に生きていて欲しいから」
「うん」
ティレルの、アナスタシアを抱く腕の力が少しだけ強まった。
「一緒に生きていきましょう。一つの家族になって」
「……うん」
頷くティレルの返事は声がくぐもっている。
もしかしたらティレルは、泣いているかも知れない。
アナスタシアはそう思った。
かつての『彼』が自分に幾度か見せた涙を、目の前の彼が見せたことはないけれども。
変わるものもあれば、変わらぬものもある。
王宮の執務室のデスクの上には。
アナスタシアが怒りにまかせて叩きつけた新聞の号外と共に、異端審問官の執務室にあったときと同じように、イシク・ルクフラムスが黄色い花を咲かせていた。
(了)
後書
やっと終わった…長かった
やはりラブエッチ系は却って時間がかかる
書き始めた当初は独立色の強い、お笑いえっちになる予定でいたんだけど、【甘い罰】と【二つ夢の果て】を書き終えた段階で徒花ティレルへの総括が始まってしまい、結局【祝福の庭】の完全な続編但し『エロネタ寄り』になってしまった
ティレルに関してはそろそろ妄想も打ち止めで、FDをプレイするか、別キャラの考察二次創作に行くかという感じになってきた
ニンジャティレル、と言いつつもテン魔女にニンジャの描写は殆ど無いので半分くらいは『猟犬』期の後始末話みたいになっている
『猟犬』を思い出す為に改めて『徒花Ⅳ』をプレイしてみた
久しぶりだったんだけどああこれは死ぬキャラ…と納得してしまった
『猟犬』立ち絵から既にティレル様は泣きそうかつ死にそう
徒花Ⅲ途中までのふてぶてしいティレル様を返してくれ
『猟犬』と『ニンジャ』はヒストリカの暗部を説明するティレルの中でも最大級の闇の部分なので、本来はもっとずっと荒っぽい&禍々しいのが本質なのではないかと思っている
本家もそういうとこ、あまり書かないように苦慮してるんだ…コンラッドはアナスタシアを殴ってもいいけどティレルは殴らない、とか
自分の中で未消化だった『猟犬』『ニンジャ』周りは今回でだいぶ消化できた気がする