「……え……?」
ティレルが繋いだままの手を引き寄せて、アナスタシアの体は更にティレルに寄せられる。
ティレルは顔をこちらに向けて、
「……後はお前のその言葉遣いだよな。一生一緒にいる約束までしたんだから、いいかげん普通に喋れ」
「えっ? 何のことですか?」
「……お前な。人をここまで丸裸に脱がしといて、自分は鎧背負ったままってのはねえだろ」
そう言われてもアナスタシアにはさっぱりわからない。
「な、何ですか丸裸って……いやらしいこと言わないでください」
心持ち頬を染めながら言い返すと、
「いやらしいって、……策略的って意味か? それともエロティックってほうか?」
ティレルがニヤリと笑いながら聞き返してくる。
「え、えろ……、い、意味が分からないですっ」
本当に意味が分からなくてアナスタシアは混乱しているのに、ティレルは追い打ちをかけてくる。
「まだ服脱ぎ合うのは早いだろ。今日婚約したばっかりだしな。……お前がそうしたいって言うなら俺のほうはやぶさかじゃないが」
紫の目で見上げながらティレルの片手が伸びて、二本の指がアナスタシアの顎に触れる。
「………ッ」
己の中の見知らぬ何かを煽るようなティレルの指の動きに、アナスタシアは思わず息を呑んだ。
慌ててティレルから離れようと立ち上がると、手を繋いだままのティレルも釣られるように立ち上がってきた。
顎に触れていたティレルの手がアナスタシアの背に回されて、絡め取られるように胸の中に抱き寄せられる。
「ティ、ティレル様……」
耳元にティレルの声が降ってくる。
「ゼンにしてるように喋ってみろ」
「えっ」
思わず至近でティレルの顔を見上げると、
「『様』と敬語。取れンだろ」
「………………」
一瞬、本当に何を言っているかがわからず、アナスタシアは数度瞬きをした。
それからようやくティレルの言葉の意図に気づいて、アナスタシアは酷く赤面する。
「えっ、む、無理です、この言葉遣いは普通ですし、そもそもティレル様はティレル様なので、」
「無理ってこたねえだろ。ゼンには普通に喋ってるんだから」
「だから無理ですってば! あんな喋り方………!」
「ああん? なんで出来ねえんだよ。この上まだ俺との心の距離を開けようってのか?」
「ち、違います……!」
そもそも心の距離を開けるための言葉遣いだなどと思ったこともなかった。アナスタシアは焦りながら、己の心境を説明しようとする。
「ルーシェン殿下やクライオス団長にだって私は同じ言葉遣いじゃないですか!
ゼンが特別なんです! 出逢った当初敵対してるのかと思うほど好戦的だったし、威圧的に喋るしかない時期があって……、だから、仲良くなった今でもあんな口調なだけです!」
「……今のセリフ、わざとか?」
「はい?」
「『特別』だの『仲良く』だの……気を引くために言ってるんじゃなかったら天然なのか。タチ悪いよな。狂言処刑の時にあいつの胸から杭を引き抜かなきゃよかったなあ……」
「な、な、何言ってるんですか! ティレル様!」
嫉妬めかした言い様ではあるが、ティレルの表情を見るに、自分をからかいに来ているのは明白だった。
アナスタシアは混乱して、思っていたことをそのままに喋ってしまう。
「敬語以外は無理です!
だって、私は地で喋ると凄く乱暴で男っぽいから……! あんな喋り方して、ティレル様に呆れられたり、引かれたりしてしまうのが怖いので……!」
「はあ?」
「『死に戻り』前の、王宮に暮らしてた頃ならいざ知らず……直近八年間はずっと、翼騎士団の男子だらけのところで生活してたから、がさつな言葉遣いしかできないんです!
以前の過去で、ティレル様に『赤毛ザル』って言われたことさえあったし、あの時期は、余所からも『イノシシ』呼ばわりされたこともあって……、い、今ティレル様に敬語取って話しかけたりしたら、サルどころかゴリラ扱いされるかも……! それは、さすがに……傷つくので……」
「………………」
途中から呆れたようにただ口を開けて聞いていたティレルが、
「ぶはっ」
遂に噴き出した。
「あはははっ! そんな事気にしてんのか! お前、変なとこ繊細だな……、はははっ!」
「ティ、ティレル様、」
「いや、俺の前で蛇を素手で鷲掴みした時点で、そういうのはもう隠しようがねえだろって」
「! あ、あれは、私なりに、ティレル様を助けようと必死で……!」
「知ってる知ってる、それは最初から伝わってるって。
俺が言ってんのは、そういうとこも俺は好きだから、お前ががさつな赤ゴリラでも赤サイでも気にしねえのにってことだ」
「………やっぱり野獣扱いするじゃないですか! ティレル様がよくても私が気にするんです!」
「分かった、悪かったよ。……これからは思ってもお前には言わねえから」
「………思わないでください!」
惑乱の挙げ句、殆ど怒り出しているアナスタシアを、ティレルは楽しそうに抱き直す。
「馬鹿だなお前は。俺の腕の中に入っちまうような、お前みたいな小っこい女がゾウに見える訳ない」
「動物のサイズ大きくなってるじゃないですか! ティレル様!
…………もう絶対に、敬語取りませんから!」
意固地になって、アナスタシアはティレルの胸の中で叫んだ。
「えぇ……? 頑固な奴だな……しょうがねえか。
んじゃ、もういっこのほうな。せめて『様』は取れよ」
「……ええっ……そ、そっちも無理です」
「なんで」
「なんでって……、は、恥ずかしいので、」
「恥ずかしいって……お前な。
婚約して、結婚して、寝室の中でもお前はそうやって俺を呼ぶ気か?」
「し……しんしつ……」
何故だろう、ティレルは急にそうした事柄をアナスタシアに投げかけるようになってきた。
ティレルの腕に抱かれて互いに体を密着させて、そんな危うい話題をさらりと出されると、緊張して頬が強張ってしまう。
嫌な訳ではなくてむしろ……。
「ぅ………」
「アナスタシア?」
「っ……」
こんなときに名を呼んでくるなんて本当に狡い。
「ティレル、って、呼んでみ。ほれ」
「………………、」
アナスタシアは息を吐いて、吸い、ティレルの腕の中で彼の衣裳の肩布をぎゅっと掴んだ。
いつかもティレル様から同じ言葉を貰った。
あの時も恥ずかしくて『意気地がない』と笑われたけれども、今のほうがもっと呼びにくい。
それほどに。
この人の名前は、私にとって大事なものになっているのだ。
「っ………、ティ…、
ティレル………」
目をぎゅっと瞑って。
祈りの言葉を呟くかのように声に名を乗せる。
――――もう幾度も。
『ティレル様』と呼びかけることすら馴れ馴れしいと相手に言われる、そんな立ち位置での再会を繰り返した。
再会したのは私のほうだけだ。彼からすれば、私はいつも初対面だった。
「ティレル」
こう呼べるようになるまで、長い長い時間を費やした。私だけが。
『死に戻り』最中のことを、記憶ではなく推察で理解してくださった目の前のティレル様は、こんなに短い時間で馴れ馴れしく慕ってくる私のことを、一体どう見ているんだろう?
「――――ティレル………」
ティレルからは全然反応がない。
三度目に名を呼ぶと同時に、耐えきれなくなったアナスタシアは目を開いて、ティレルの顔を見上げた。
「…………………」
アナスタシアを見下ろすティレルの顔は完全に紅潮し、口は半ば開いたままで固まっている。
目の周りが特に赤くなっていて、紫の目は殆どすみれ色に見えるほど潤んで艶めいていた。
薄い唇が上下して、やっと言葉が漏れたと思ったら、
「……お前、本当に、……あぁあ、…クソっ………」
アナスタシアを抱いていたティレルの手は解けて、アナスタシアの顔の脇で、もどかしげに空を掴んでいる。
「ティレル様?」
「……戻すのかよ!」
口ではそう喚いたが、ティレルの声音はあからさまに安堵していた。
「ティレ、」
さらに声をかけようとしたがアナスタシアには果たせなかった。
再度背に手が伸びてきて、掬い上げるようにティレルの傍へと引き寄せられる。
ティレルの顔が己の顔に寄せられて、優しくキスをされた。
「ン、」
唇と唇が触れ合う。
ティレルの熱にアナスタシアの心は震えた。
感謝。気遣い。慕情。親愛。
一言では表せないほど複雑で深い感情が、ティレルのキスから伝わってくる。
「っ……」
接吻を続けながら、アナスタシアはティレルの首に腕を回して縋りつく。
自分の心も、彼に伝わるといい、そう思いながら。
「………、」
ティレルには伝わったようだった。
アナスタシアを支えるティレルの腕はさらに抱擁が深くなり、キスももっと情熱的になる。
「ッ、ぁふ……、」
ティレルが欲しくて唇を開くと、アナスタシアの口腔にティレルの舌が入り込んできた。
「ン、んん、」
力強い舌でゆっくりと、優しく己の舌を愛撫されて、アナスタシアの心は甘く溶けていく。
口中だけではなく、背や頭も、ティレルの手で優しく撫でられる。
その喜び。
幸福。
この人が大好きだ。
アナスタシアは我を忘れてキスに没頭した。
「はっ……、はぁ……、」
「………この辺にしとくか…」
やがて名残惜しげに、ティレルのほうから唇を離された。
「あんまがっつきすぎて接見禁止を言い渡されると後が面倒だからな……あぁクソっ……今すぐお前をもうちっと口説きたいのに……、」
「……? どういうことですか……? ティレル様……」
キスの余韻でぼうっとなりながらも、アナスタシアは尋ねた。
見上げるティレルの顔は苦悩しているように見えるが、……あまりよからぬ事を思案しているようにも見える。
アナスタシアを見つめ返して、気を取り直したようにティレルが苦笑した。
「お前は色んな奴から愛されてるからな。お前を欲しいと思ったら、くっそしつこい姑一匹舅三匹と戦わなくちゃならねえ。禁止令なんか破るために作られたようなもんだが、さすがに言われてすぐ破るんじゃ向こうの面目潰しちまうからな……面倒くせえな。
――――おまえとつき合うより、拷問や暗殺してるほうがずっと楽だ」
よく分からないが、最後はなんだか物騒なまとめ方をされてしまった。
「……………?」
姑、とはティレルが度々そのような悪態をついているマヤのことだろうが、舅三匹とは誰だろう。
首を傾げているアナスタシアの背に、ティレルが腕を回した。
「戻るぞ。お前、まだ書類残ってるんじゃないのか」
「あ! そうでした! 続きに取りかからないと……」
そのまま、二人並んで歩き出す。
暫く歩いたところで、アナスタシアは、ティレルの体が横に密着して、己の背に彼の腕が回っていることにようやく気づく。
「……あの、ティレル様、これ……」
「婚約者ならこっちだろ。手繋ぎはもう卒業な」
「っ………」
確かに、腕を取ったり、腰を抱かれるほうが、貴族の婚約者同士や夫婦としては一般的な連れ添い方ではある。
「で、ですけど、」
こんな恋人めかした行為にティレルが出るとは、思ったこともなかった。
急に恥ずかしくなって、顔が真っ赤になり、アナスタシアは俯いてしまう。
それを認めたティレルが気遣わしげに覗き込んでくる。
「なんだ? 具合悪くなるか? ……宮廷儀礼が過ぎるか?」
コンラッドを思い出すのか、と暗に聞かれている。
「いいえ……、いいえ」
自らの意思を示すため、アナスタシアは自分もティレルの背に腕を回した。
「……嬉しいです」
そう。
ティレルに腕を回されて、面映ゆいような、だが幸福な気持ちになる。
自分が愛している相手に、されることならば。
何でも楽しめるし、受け入れられるような気がしている。
「……プロポーズ、楽しみにしてますね」
顔から火が出る程恥ずかしかったが、今は偽らざる心境としてアナスタシアはそう表明した。
「おう。近いうちジュエリーショップ行くからな」
そ、そんなことまでティレル様が? まさか私も一緒に?
「お前がいなきゃ好みとかサイズとか似合うとか決めらんねーだろ」
聞いてもいないうちから、臆した心を読まれてしまった。
「……私、ティレル様が今日くださった指輪でもいいですけれど……でもこれは、ネックレスにするんですものね」
左手をかざし、人差し指に填まった指輪をアナスタシアは見つめる。
「ふふ。この指輪。
今はイシク族を女神が護るんじゃなくて、イシク族が私を護ってくれる指輪になったんですね。
……本当に、まるでティレル様のことみたい」
アナスタシアにとっては当然の思考だったのだが、そう言われたティレルは少し驚いた顔をした。
それから彼は笑って、
「……そうか。そうだな。価値観の転換って奴だ。
指輪なのは変わらないが、その意味するところは変わる――――誰がつけるか、誰が渡したかによって。
……確かに、俺と同じだな」
「ティレル様?」
「……俺は女神に仕えるイシク族で、お前は女神の生まれ変わりだが。外面からは同じに見えても、本当はそれとは全く違う理由で、今後俺はお前の傍にいるからな。
その意味は…………、わかってるな?」
腰を抱かれて、唇を耳元に寄せられ、囁かれる。
そのこそばゆさ。
アナスタシアは微笑んで、ティレルの顔は見ないままで答えた。
「わかってる、と思います。ティレル様は、私を愛してくださっている、ということですよね?」
「………………、チッ…」
沈黙、のち舌打ち。
図星だったようだ。
「ふふ」
きっと今、彼の顔は耳まで赤い。
負け惜しみのようにティレルの言が続く。
「…………俺を選んだことを絶対、」
「絶対後悔しません」
皆まで言わせず。
アナスタシアはきっぱりと言い返した。
別の過去で聞いたことがある。
『後悔しない選択とは。己の糧となるものを選び出すことだ』
『赤毛。俺を選んだことを、絶対後悔させてやる』
照れ隠しと、自信と、親切と、天の邪鬼の入り交じった、真意のわかりにくい彼の言葉。
あの当時は、「後悔なんて絶対しない」と返すことはまだ出来なかった。
「信じてます。ティレル様」
アナスタシアの声を乗せた風がティレルの耳に届き、更に空へと流れていく。
背に当てられたティレルの腕の力が、少しだけ強くなる。
そうして二人。
足取りを揃えて、王宮へと戻っていった。