翌朝、送り迎えの為にアナスタシアの部屋に現れたのはティレルではなかった。
「ゼン」
メイドであるマヤの仕事を奪うが如き起床の手伝いや食事作り・配膳に加え、毎日の送迎までティレルから受けている。その所為で、翼騎士団の詰め所で顔を合わせるクライオス以外、ゼンやルーシェン王子とは近頃滅多に逢わなくなっていた。
「珍しいな」
「ティレルに変わって迎えに来た。何処に行くにせよ恙なくお送りしろ、とよ」
「ティレル様が? ……今日はご本人はいらっしゃらないのか」
昨日の時点では、今日も異端審問官の執務室で退所作業を手伝う予定であった。翼騎士団も昨日と変わらず非番の日だ。
「何でも、おまえに命じられたことがあるから、今日はそれに従うんだと。あいつの行き先は俺が預かってるから、何かあったら呼べってさ」
「……私は昨日ティレル様に何も命令なんかしていない」
「そうなのか?」
私の命令とは、一体何の話だろう。昨日はつい、ティレル様にとても子供っぽい態度を取ってしまった気がする。その所為であの人に気を遣わせたり、呆れられたりしたものだろうか。
「今日もティレル様の執務室に向かう予定だったんだ。でもご本人が異端審問官の執務室にいらっしゃらないんだったら、私一人が行っても意味が無いだろう。……ティレル様は、審問官の仕事を休んで何処に行くとおっしゃったんだ?」
不思議なことにゼンは胡乱げな顔になる。
「あー。最初は巫山戯てんのかと思ったんだよな」
「?」
「動物園に行く、っつってたぜ」
「動物園!?」
なんでそんな処に。
ふっと、アナスタシアの記憶に触れるものがあった。
ゼンにも教えていない、ティレルとの記憶の一端だ。
「ティレル様のご様子が見たい。案内してくれ」
「……お前には来て欲しくなさそうだったが?」
率直すぎるゼンの言葉に思わず体が傾いだ。
だが自分のことなど気にしてはいられない。
己の傷心など。ティレルを案ずる気持ちがいともたやすく吹き飛ばしてしまう。
アナスタシアはもともときつめの眦を更に吊り上げてきっぱりと言い切った。
「ティレル様は私の命令でそこに行ってるんだろう。私は私の意思で勝手にそこに行く。私の命で動いている以上、ティレル様にとっては私のほうが立場が上なんだから、ティレル様は私の行動を阻止はできないはずだ」
ゼンは処置無しと言いたげに天を仰いだ。
「……なんか面倒くせえなあ、お前ら」
お前が行きたいならいいけどよ、と呟いて、ゼンは結局アナスタシアの要求を飲んでくれた。
街の市場の人混みを文字通り広い肩で割り開きながら、ゼンはアナスタシアの三歩先をずんずん先に進んでいく。泣く子も黙る異端審問官の衣裳で人々を遠巻きにさせるティレルとはまた違った印象の道行きだ。
「なあ、ゼン」
「ああ?」
「お前は探偵だから、護衛はあんまりやらないとは思うが。誰かを護衛して街を歩くときに、手は繋がないのか?」
「はあ? 何言ってんだ、お前」
「護衛相手の手を取って歩くのは、普通じゃないのか?」
「ンな訳ねーだろ。寄ってくる奴がいたらぶん殴って追い払う必要があるんだぞ。片手塞がってたら却って殴りにくいだろうが」
「言われてみればそうかもな」
「………」
「でもティレル様は違うのかもな。『猟犬』としての経歴が長いし、イシク族という特異な文化圏の人だから、護衛対象の手を握ることで何か戦闘的に優位になることがあるのかも知れない」
「…………」
アナスタシアの頭の二つ半上で、ゼンが「マジか」とでも言いたげな呆れた表情を見せた。
「お前、毎日お手々引っ張ってもらって出かけてんのか。…おままごとかよ」
「なぜままごと呼ばわりされなくちゃならないんだ。私は一人で歩けるといつも言っている。納得してくださらないのはティレル様だ」
「……マジかよ……あいつがなぁ…。まあ意外というか、一度溺れたらとんでもない深みにはまりそうな奴ではあるが」
「誰も泳ぎの話なんてしてないぞ」
「酒の飲み方でわかるだろ。奴は頭が回って毒舌家で仕事もできて、誰もがあの悪魔みたいな外面に騙されるが、責務から外れたところでは相当な不身持ちもやらかす。考えようによっちゃ、自制の効くルーシェンよりガキだ。あいつも短気だが、すぐに反省して軌道修正できるからな」
達観したところのあるゼンは、アナスタシアとは違う視点を持っている。
ティレル様とルーシェン殿下を比較しようなどとは、アナスタシアは考えたこともなかった。外見も年齢も仕種も、ルーシェン殿下のほうがずっとお若いし、ティレルは仕事に関しては老成していると呼べるほど完璧にこなしている。
「………私はティレル様の酒は、自暴自棄なんだと思ってた」
「どっちだって似たようなモンだろ。あいつは人生全てを義務で埋めて、自分で自分を縛り上げて、そうすることで己を保ってる。その枷が外れたら外れたで、楽にはなるが、今までの生き方が百八十度変わっちまうんだ。自分が何をしたらいいか、わからなくなってんのかもな」
ゼンの分析は的確だ。
三人でつるんでいても、ティレルとより仲の良いのは翼騎士団団長クライオスのほうだ。だが『死に戻り』全ての時間の記憶があるゼンは、ティレルをよく理解している。
ルーシェン殿下とティレル様。
目に涙を溜めることがあっても、「生まれつき涙腺が緩いだけ」と言い張って、常にその先へと自らを鼓舞し物事を進めていくルーシェン殿下。
ティレル様が泣くところも幾度か見たことがある。アナスタシアは思い出す。
普段は冷静なティレルが取り乱すほど感情を揺さぶられるのは、決まって強いストレスを浴びた時だ。発露はルーシェン殿下と同じでも、その後が違う。
涙と共に、自分の中の抑圧が殻を割って体外に溢れ出し、凍ったように固まって、ティレルは全く動けなくなってしまう。
動けなくなる……。
「急ごう」
アナスタシアはゼンを急かす。
自分の思い過ごしならいい。
だが危惧が的中していたら。
ティレルは今、相当な危難にはまりこんでいることになる。
動物園へは程なくして着いた。
「ここで待っていてくれ」
ゼンを動物園の入り口で待たせて一人で入る。
ゼンに見られることをティレルは喜ばないだろうと見越してのことだった。
ティレルを捜して一人、園内を歩いて行く。
友人同士、恋人達、小さな子供を連れた夫婦。
(……日常が、ここにはあるんだな)
檻の前で立ち止まり、楽しそうにさざめく人々。
自分とは違う人々だ。
壁にかけられた壁画の如く。中に自分が入り込んでその役柄を演じることはできない。
(せいぜい休みの日に、マヤと一緒に来るくらいか。……いや)
復讐を捨て、『死に戻り』の力を捨て、イシュとの長い戦いも終わったのだ。
(自分にも…資格ができたのか……?)
誰かと共に穏やかな時間を過ごすために、遊興の場に出かける。
そんなことができる日が来るかも、などとは、可能性すら考えたこともなかった。
今までだって、そんな穏やかな時間を過ごしたことはない。
いや。一度だけある。
(『死に戻り』の合間に、クライオス団長に申し込まれて、一度だけデートをした)
クライオス――彼との記憶は他の過去も呼び起こす。
(そうだった。……やっぱり私には、資格はないな)
アナスタシアは寂しく笑った。
(私の手は、汚れている)
クライオス団長を殺したことがある。
手を下したのは自分でこそないが、同じことだ。ただ殺害するよりもっと悪い。無実とわかっているクライオスに『魔女の道化』の汚名を着せて糾弾し、地獄の炎に突き落とした。
――――殺人を犯した『魔女の道化』は自分だったのに。
クライオスだけでなく、いつの過去でも自分を慕ってくれたマヤも。
破滅の魔女に勝つ為に、必要な犠牲だと、その時は言い聞かせた。
(だが殺される側にしてみれば――――ただの言い訳だ)
時を戻しても。過去がなくなっても。自分の手についた血と罪が消えるわけではない。
私は罪人だ。
ティレル様を『リスター審問官』と呼んで彼の下で働いていたときは、まだそのような罪は負っていなかった。
私は今よりもずっと無邪気でいられた。
(私は)
(あの頃のティレル様に戻っていただくことで、当時の自分の心を思い出したいだけなのかもしれない)
俯き加減になった気持ちは、園内にティレルの姿を認めた途端、胸から吹き飛んだ。
トカゲや小型のワニなど、主に爬虫類を集めた一角。
「蛇さんとのふれあい広場」と看板が掲げられ広めにスペースが取られた檻の中に、ティレルがいた。
背の高い痩身は異端審問官の衣服ではなく、目立たない黒服に替えられている。
ティレルは檻の中で硬直し、床にへたり込んでいた。
「っ……」
左脚に、一メートル程度の長さの蛇が巻き付いている。
「ティレル様!」
アナスタシアは声を上げて檻の中に跳び込んだ。
「………、」
強く身を震わせ、過呼吸に陥りかけているティレルに走り寄って、迷いもなく蛇の頭を鷲掴む。更に体の中程を握って自分への巻き付きを封じ、ティレルの脚から蛇の体の全てを引き剥がした。
(どこにでもいる中型の蛇。大人しい性質で毒はないし、牙も抜かれてる。動物園で触る蛇だから当然だけど)
一瞬の判断でそこまで冷静に把握して、アナスタシアは檻の中にあるティレルからやや離れた場所の木へ蛇を移す。
「ティレル様、」
「ッ…、う……、」
戻ってきて声をかけるが、ティレルはアナスタシアに気づいた様子もない。
「ティレル様!」
肩を掴んで揺さぶると、頼りなげに紫の目が揺れて、ようやくこちらを見た。
その時、ティレルの右手にも子蛇が絡んでいることにアナスタシアは気がついた。
長さは二十センチ程度。先ほどの蛇よりさらに大人しい種だ。
アナスタシアは左手で蛇を掴んでティレルの手から引き剥がし、少し遠くへ放り捨てた。
「とにかく檻から出ましょう。ティレル様、立って下さい!」
「…ッ、は……、ぅ…」
まだ呼吸は荒いが、ティレルはアナスタシアの声がけと、両手で体を引っ張り上げられたことに呼応して、ようように立ち上がった。
動物園の飼育員が心配そうに近寄ってくる。
大丈夫、と視線で制して、ティレルの二の腕を己の肩に担がせながら、アナスタシアは檻から彼を引きずり出した。
蛇を乱暴に扱って悪いことをした、と心で詫びながら。
ティレルを休ませるため、人気のない場所まで彼を引っ張っていった。
「…………」
ベンチに座らせて暫く経ち、ようやくティレルの呼吸は落ち着いてきたようだ。
「ティレル様、」
「……アナスタシア様……」
まだ恐怖が引かないのだろう。ティレルは青ざめた顔でアナスタシアを見上げてきた。
現国王の放った兵に全てのイシク族を殺されて、虐殺から逃れるためにたった一人で三日間、噛まれ続けながら、多量のヘビが住む巣穴に籠もっていた。六歳の身で。
『死に戻り』の過去の中で知った、ティレルの凄絶な生い立ち。過酷な体験はティレルの心に強いトラウマを残した。今のティレルは、蛇を見るだけで身が竦んで動けなくなってしまう。
「………………」
なのに自らの足で蛇だらけの檻の中に入るなんて。
檻の中にいたのは大人しい蛇ばかりだったし、噛まれた形跡もない。
無事で良かったけれど、それにしたって、
「もーーーーっ!」
ティレルへの怒り、としか言いようがない初めての感情が爆発して、アナスタシアは声を上げた。
「どーーしてあんなとこ行くんですかっ! ティレル様!」
怒りながら地に膝をついて、ベンチに座り込んだままのティレルに己の顔を近づける。
「蛇を見たら動けなくなるのは、誰よりご自分が良くおわかりの筈でしょう!」
ティレルは驚いた顔を見せ、
「………御存知でしたか。……不覚でした。俺の弱点を貴女に悟られているとは気づきませず」
「そっちじゃないですっ!」
血の気が引いたままのティレルの手を掴んで、アナスタシアは更に顔を寄せて言い募った。
「っ、」
ティレルが息を呑むのにも構わず、
「なんで蛇の檻なんかに入ったんですかっ!」
頬を紅潮させて怒るアナスタシアに気圧されたように、ティレルは目を泳がせ、血の気が引いた眉間を少し歪めて、やがて顔を背けた。
「……アナスタシア様がおっしゃるように、俺は義務感一辺倒で生きてきましたので。自分にとって『好きなもの』というのは、酒くらいしか理解できません」
言い訳めいた口調でティレルは続ける。
「特にここ暫くは心が痺れたようになっていて、あまり感動もないのは自覚していました。好悪感情の『好』の部分はどうにもよくわからないので、とりあえず『悪』を見つめることで、己の心を分析してみようかと」
「…………」
「おっしゃるとおり蛇は嫌いですから、寄って、見るでもすれば、何か心に変化が起きるのではないかと考えまして………」
「…………、」
呆気に取られたのはほんの三秒ほどの間。
アナスタシアはすぐに、声を荒らげる為に大きく息を吸った。
「どうしてそうやって、望んで嫌いなものに近づくんですか! 自己破滅型も大概にしてください!」
「自己破滅……俺が……?」
アナスタシアを見つめて眉を顰め、まったく心当たりがないと言いたげにティレルが繰り返した。
……ああ、この人は。
本当に無自覚なのだ。
気の毒なことに。
蛇からティレルを救い出せた安堵と、ティレルへの憐憫で、アナスタシアの目には涙が湧いてきた。
「イヤだと思うものからはできる限り遠離って下さい! 蛇とかコンラッドとか! 避けるのが当たり前で普通だし、そうでないと人は心が保てないんです! イシク族や忠誠や義務や、そういうのはその後の話です! あんなに蛇が怖いのに、わざわざ動物園にまでやってきて、よりによって檻の中に入るなんて! ……恐怖で心臓が止まってしまったらどうするんですかっ…!」
最後のほうは嗚咽が混じってしまい、アナスタシアは最後まで言葉を続けられなかった。
アナスタシアを見つめるティレルの紫の瞳に、それまでとは違う揺らぎが現れた。
「………アナスタシア様……」
ティレルの左手を強く握ったまま、その膝に縋りついて泣きじゃくるアナスタシアの頭に、ティレルがそっと右の手を置いてきた。
……『死に戻り』前の、以前の過去でも。
私が泣くと、ティレル様はその都度、触れてきて慰めてくれたっけ。
「私は、ティレル様に、生きていて欲しいんです……!」
僭越で、あまりに直截に過ぎて。
躊躇いが強すぎて言えなかった言葉を、遂に言ってしまった。
ティレルの手がゆっくりと、アナスタシアの髪を撫でる。
アナスタシアが自ら発した言葉に困惑と後悔を覚える脇で、しかしティレルはまったく別の感慨を抱いたようだった。
「……アナスタシア様。俺なんかを心配して、俺の為に、泣いてくださることはないんですよ……その膝を、汚すことも」
ティレルの手が伸びてきてアナスタシアの両脇を掬い上げ、ベンチの上、自分の左隣に座らせた。
「ティレル様、」
涙の引かないアナスタシアの顔を見て、ティレルがその肩を抱き寄せてくれる。
自分に恋してはいなくても。
ティレル様は、弱った人にはいつも優しい。
「俺が蛇が苦手なことは、別の俺との関わりで御存知になったのだと察しますが。……当時の俺も、貴女の涙を見るのは堪えたでしょうね」
今と同じで。
ティレルが口の中でだけ唱えた言葉に、アナスタシアが気づくことはなかった。
ティレルの右手を己の両手で掴み、ティレルの左手に肩を撫でさすられながら、アナスタシアはようやくに嗚咽を弱めていく。
震える喉から、アナスタシアは声を絞り出した。
「お独りだけで、苦しいことを抱え込んで、辛い場所に飛び込んだりしないでください。……どうしても蛇嫌いを克服したいなら、私が森で蛇を捕まえてきて、ヘビ弁当でもヘビ酒でもお作りしますから」
「へ…ヘビ弁当……」
思いもよらぬことを言われて新たに怖気を振るったティレルに、
「お願いですから。苦手だとわかってるものに、ティレル様一人で立ち向かおうとしないで。必ずお助けしますから」
ティレルの右手を固く握りしめながら、アナスタシアは懇願した。
アナスタシアの頬から滴った涙が、ティレルの手の甲に落ちる。
「………心に刻みます。アナスタシア様」
ふ、と頭の上でティレルの唇が笑う気配があった。
―――聞き入れてくれた。
ティレルの言葉を聞いて、ようやくアナスタシアはほっと安堵の息を吐いた。
「……手ぇ繋いでるだけだって、聞いてたんだけどな」
紫煙をくゆらせながらゼンがごちた。
「うるせえなあ。俺の具合が悪いからアナスタシア様が支えてくださってるだけだ」
言い返すティレルのほうも、ゼンに対しては遠慮がない。
動物園の入り口で待っていたゼンの前に立つ二人は、ティレルがアナスタシアの肩を抱く恰好になっている。
まるで恋人同士だ。
ティレルの顔色がとんでもなく悪いことを除けば。
「大丈夫か。茄子みてえな顔色だぞ」
何があった、とは聞かないのがゼンであった。
「平気だ。もう歩けるしな」
多少足元はふらついて見えるが、ティレルはとりあえず自分の足で立っている。
「ティレル様。もしかしたら小柄な私より、ゼンに支えて貰ったほうが安定するのではありませんか」
親切心、あるいは天性の鈍感さでアナスタシアが提案する。
だが、ゼンのほうが、首を横に振ってきた。
「いや、俺の肩よりおまえの肩にしがみつくほうが、ティレルは元気が出そうな気がするぜ。だが…そうだな。護衛は片手を塞いでおく必要があるんだっけ? 俺と手を繋ぐか? アナスタシア」
ゼンからの呼び捨ての声とほぼ同時に。
常から険の強いティレルの目が、ゼンに向けていっそう眇められた。
アナスタシアの肩を抱くその手に、ほんの少し力が加わる。
「平気だ。ティレル様を支えながらおまえと手を繋ぐのは却ってバランスが悪い」
あっさりとアナスタシアは断り、ゼンは苦笑して手を引っ込める。
「そうだな。護衛も実は必要なさそうだ」
赤い目でからかうようにティレルを見るところへ、
「ああ。本来は私の護衛自体が不要だと思う。最近は見かけた市民から女神呼ばわりされることも減ってきたし、翼騎士団見習い服の今の私の出で立ちなら、あまり目立つことはないはずだ」
アナスタシアが謹直に答えたのでゼンは毒気を抜かれたようだった。
「そういう意味で言ったんじゃねえんだが……そうだ。ルーシェンが近々王宮に来て欲しいって言ってたぜ」
「殿下が? どうして」
「例の人身売買の件な。おまえの継母のエヴェリーナ様の関連が疑われているらしい。それで、殿下サイドの調査が入るとリンゼル家が騒がしくなるだろうから、長子のお前に予め話を通しておきたいんだと。当主のリンゼル侯爵は健康不安で、人前に出る事自体が難しそうだからな」
「そうか……リンゼルとは縁は薄まっているが、そういうことなら仕方ないな。状況もお聞きしたいし、ルーシェン殿下の近況も覗いたい。登城することにしよう」
「クライオスも一緒にな」
「わかった。団長には明日私から伝えておく」
「そんじゃな」
用事は終わったとばかりにゼンは踵を返す。
「……我々と一緒には帰らないのか?」
背中にアナスタシアが声をかけると、ゼンは半身だけ振り向いて手を振ってきた。
「デートの邪魔だろ。……おまえ騙されやすいから、気をつけろよ、アナスタシア。イシュと同じレベルの病的な嘘つきに、あんまり振り回されないようにな。そいつ手も早いぜ」
そのままゼンは歩き去ってしまった。
その背を見送りながら、アナスタシアは呆気に取られる。
「デートって……誰と誰がデートするって言うんだ。……イシュと同じくらいの嘘つきって、誰のことだ?」
「……戻りましょう、アナスタシア様」
心持ち足元がしっかりしたように見えるティレルが声をかけた。
「貴女のお住まいまでお送りしますよ」
「……それだと貴方が帰りがけに独りになってしまいますよ、ティレル様。むしろ私がティレル様の宿舎までお送りしたほうがいいのでは?」
「その必要はございません。歩いている間に、回復していくと思います。御存知のように、俺のは精神的なものですから」
「………」
結局ティレルに押し切られてしまい、アナスタシアは自らの部屋まで肩を組んだ状態で送られることになってしまった。
「ティレル様。送って下さってありがとうございました。見た感じ、回復したようですが、帰ったらよく休息して下さいね」
「ええ。必ず」
朝に見せる常の笑顔もなく。
昔の鉄面皮の表情で正面に立ち、ティレルはアナスタシアを見下ろしてくる。
「………? ティレル様?」
「………………アナスタシア様。失礼」
言うなり、ティレルの顔と肩がアナスタシアに寄せられてきた。
「???? ……?」
状況を理解するのに暫くの時が必要だった。
アナスタシアは抱き寄せられて、ティレルの長い両腕の中に抱き込まれていた。
「ティ、ティレル様……」
鼓動が跳ね上がる。
首筋に、ティレルの息がかかる。鼻腔からティレルのにおいがアナスタシアの中に入り込んだ。他の男達は使わない、珍しい香りがする。ティレルの執務室ではよく嗅いでいたものだが、あるいはイシク族独特の香なのかも知れない。ティレルの体臭と混じり合ったその香がアナスタシアの脳に達すると、くらくらと酔ったような気分になる。
自分の背を覆っている腕と、触れ合っている胸から。
ティレルの熱が伝わる。
泣いているところを慰めて貰った先程より、今のほうが遙かに密着している。互いの鼓動が聞こえるほどだ。
「ティレル様……、」
掠れながら囁いたその声に。
「………、」
耳のすぐ傍でティレルの吐息が漏れて、その腕が更に強くアナスタシアを引き寄せた。
(なんだろう……、すごく不思議な感じ……温かい)
アナスタシアの体から力が抜けて、紅玉の瞳が半眼に閉じられる。
ティレルの触感、熱と匂いで甘く溶けていくアナスタシアの脇で。
ティレルは眉を寄せて歯を食いしばり、何かに必死で耐えていた。
己の腕の中の小さな存在。
剛直で、敵と見れば牙を剥き、しかし他者の為に泣き、人を助ける為に我が身を顧みずに危険の渦中に飛び込んでいく。
霊体や神のような高位の者ではなく、肉と血を持つ普通の存在だ。
「………………、」
思い切るように、一度だけ強く息を吐いて。
ティレルは自分をアナスタシアから引き剥がした。
「失礼しました。肩に、ごみがついておりましたので、お取りしました」
「………? はい……、」
頬を真っ赤に染めて、アナスタシアは邪意もなく頷く。
ティレルがアナスタシアに見せる顔は平静に戻っている。
「……今日はこれでお暇します。本日はお見苦しいところを見せてしまい、申し訳ありませんでした。助けていただき感謝しております。――――では」
一礼して、ティレルは退出した。
「………………」
後には、ティレルとの熱の名残に、ぼうっとしたままのアナスタシアが取り残された。
その日の夜。
ティレルの元に悪夢が訪れた。
| 【3】※レイ○表現あり |