| ※レイプ表現注意※ |
――――ねえ。
君の望みって、何?
「………………、」
ティレルは驚愕に目を見開き、唇を震わせた。
「ッ、なぜ…、」
眼前に黒い影が立っている。
影なのにそれは、明らかに成人の男の姿をしていると分かった。
破滅の魔女。イシュと呼ばれる男。
力を喪って、永遠にカクリヨに幽閉されたはずだ。
「なぜ、俺の前に現れる、」
異端審問官の執務室に、部屋の隅の影と同じほどの濃さで黒い男が立っている。
男の後ろでシュウシュウと舌で音を立てるのは、
「っ蛇……、」
「んー? ああそうか、これが怖いんだったね」
甘ったるいテノールでイシュは言って、背後の蛇をマントの裡に引っ込めた。
「さ、やり直そうか。――――君の望みって、何?」
「………………」
これが破滅の魔女。これがイシュ。人ならぬ身で、ただ一人現世に遺っていた女神クロムの仕者。
クロムの復活を企み、世界の終末を目指して、次々とヒストリカの国民を『魔女の道化』に仕立てていき、アナスタシアを追い詰めた諸悪の根源。
だが全ては終わった筈だ。ルーシェンとアナスタシアからそう聞いている。
疑念を抱くティレルを隻眼で睨めつけて、男が笑う気配があった。
「気分いいねえ。その怯えた顔。……僕にもまだ魔法の力が残されていてよかったよ。人を出し抜くって、最高の娯楽だよね。相手が僕を負かしたと思ってる間抜けな人間たちの時は特にね」
イシュがティレルに一歩近づく。
「君を僕が絶対に狙わない……、なんて自信があったわけじゃないでしょ? 名を与えたイシクの末裔だからって? クロムを護るどころか偽物の彼女を崇め、偽りの王家を長らく守護してきた間抜けな一族。そんな君を、僕が親切で目こぼししてあげてたと思う?」
「…………、」
「君を『魔女の道化』にすることを僕が避けていたのには二つの理由があって、一つは、僕が望む『魔女裁判』を円滑に進めて貰うには、優秀な異端審問官としての君の手腕がどうしても必要だったからなんだ。他の連中じゃあ、あの子を追い詰める前にうっかり裁判が破綻しちゃうかもしれない。それじゃ困るもんねえ」
片目を赤紫に輝かせ、イシュは聞かれもしないことをぺらぺらと喋り続ける。
「もう一つは、君を『魔女の道化』にすることになんて、今までは何の甲斐も見出せなかったからだね。君ときたら大事なものが何一つない。どんな心の鍵も僕の魔法は外してしまえるけど、君の心の中は空っぽ。あるのは安酒の瓶だけだ。アルカナの樽が全部この世から燃え果ててしまったところで、君、本当は痛くも痒くもないでしょ」
「………、」
「まあそれも仕方ないよね。子供の頃からあのサイコパス王子に仕えてるんだもん。君が大事にしてる小鳥がいたら、目の前でその羽根を毟り取って骨を全部折って、しまいには暖炉に投げ入れて殺すことを君に命じるような男だ。愛するものなんて持たないほうがいいに決まってるよねえ。……君が自分の心を護ろうと思ったらね。だから君は何も愛さない。愛されることもしない。あの王子様に屈したときから、ずっとそうやって生きてきたんだ」
「………、やめろ……、」
「でも、もうその生き方。できなくなったでしょ。あの子の所為だよね。あの子、本当に君に酷いことするよね」
「…………」
「きみのご主人だった男は人に枷をつけるのが好きだけど、君は自分で自分に枷を嵌めてきた。義務と忠誠で鎧のように自分の体をがんじがらめにして、盲目的に王子様に従って、そうして自分を保ってきた。でも今はそれが何もないんだ。アナスタシアは王家の秘密を暴いて、君を無理矢理王族から引き離した。その上自分はクロムなんかじゃないと言い張ってる。本当に身勝手だよね。女神の血を引く王族に仕えてイシク族を再興するのが君の生きる目的だったっていうのに。女神への忠誠を取りあげられたら、君には何も残らないのに。
サイコパス王子の元を離れて、イシク族である意味も喪い、そうしたら……、君は今この世にいる意味なんか何にもない、ただの空っぽの箱だ。残ってるのは血濡れた手だけ。コンラッドの『猟犬』として、どれだけの人を痛めつけて追い詰めて殺してきたか、忘れてないでしょ? それが全部価値がないどころか有害な行為だったなんて……、僕なら辛くて死んじゃうね。君だって死にたい筈だよ。違うって言える?」
「………、」
破滅の魔女の指摘は逐一ティレルの胸を的確に刺してくる。
「なのに死ねないんだよねえ………君は変わってしまった。
今は。空っぽだった君の心には唯一の希望がしまわれている。異界の神話で言うパンドラの箱みたいにね。でもさあ……希望って、人々が言ってたほどには、いいものじゃないって、思い知ってる最中でしょ。そこも神話と似てるよね。希望ってのは、無知な人間を苦しめる為に、意地悪な神々が贈って寄越した呪いなんだよ。
今の君……前よりずっと不幸なんじゃない? あの子の所為で」
「………!」
ティレルは胸を押さえて立ち竦む。
「怖いでしょ?」
「!」
「昔は知らなくて済んだんだよねえ。大事なものがあるのって、辛いでしょ? 奪われるかも、去られるかも、死なれるかも、盗まれるかも。心が全然落ち着かないよね。どう? あの子のせいで、今、君はそんな目に遭っているんだよ。憎たらしいと思わない?」
「……おまえの策には乗らねえぞ、イシュ……」
「策? 策って? 僕は何も策を持ってなんかいないよ。企みは君に任せよう、そう思って此処に来たんだ。何を思うのかも、どんな行動を起こすのかも、君の頭が考えて君の心が決めることだ。君のほうが、僕なんかよりずっと効果的なことをあの子に為せる筈だよ――――その空っぽな心が、彼女への愛で満たされた今ならね」
イシュは更に近づき、手を伸ばしてきた。
長く伸びた爪が、ティレルの腹の中に食い込んでいく。痛みは全く無い。
イシュは幽霊のようなものだ。実体のティレルと幽体のイシュ。互いに触れ合うことはできない。
だが指を胸に差し込んだイシュの言葉が。
現実の毒となってティレルの耳に響いた。
「――――っ」
断ち切ろう。君を足止めする倫理観を。
ぶち壊してあげよう。君を縛る道徳心を。
消してしまおう。君を苦しめ続ける善良な心を。
――――さぁ。
君はもう、自由だよ。
人々が寝静まる夜の闇が君の味方だ。
思う存分。
君の望みを果たすといい。
時間はさほど経っていないはずだ。
だが永遠と呼んでもいいほどの隔ての感覚が心に生まれ。
ティレルはイシュの魔法によって己が変質したのを自覚した。
イシュの服の袖口から。
先程彼にしまわれた赤い目の蛇が顔を出して、ティレルに向けてしゅうしゅうと舌を出した。
「………………」
ティレルは全く無感動にそれを眺める。
もはや蛇は彼にとって恐ろしいものではなくなっていた。
破滅の魔女がクスリと笑う。
「――――ほら。準備ができたなら行っておいで」
甘ったるい声が最後に響いて。
部屋から異形の気配は消え去った。
「………………」
アナスタシアが目を覚ますと辺りはまだ夜だった。
「お目覚めですか。アナスタシア様」
「ティレル……様」
また寝顔を見られてしまった、とアナスタシアは羞恥を感じ、慌てて起き上がろうとする。しかし頭上に掲げた右腕に違和感があって、体が思うとおりに動かない。
「! ………」
手首に手枷が嵌められて、ベッドの桟に右手を括り付けられていた。
寝かされている場所も自分の寝室ではない。全く見覚えのない場所に自分がいると気づき、アナスタシアの顔色が変わった。
「ここ…は……、」
「俺だけが知っている秘密の場所だ。……寒くないか?」
ティレルはいつもの異端審問官の服ではなく、ニンジャや『猟犬』だったときの黒装束を纏っていた。
どこかから隙間風が吹いてくる。確かに少し冷える。
横たえられたベッドの縁にティレルが腰を掛け、その指でアナスタシアに触れてきた。
「………、っ……!」
頬、顎、鎖骨。更にその下にまで指は及ぶ。
己の服が胸元近くまではだけられていると、触感でアナスタシアは初めて気づいた。
「ティ、ティレル様、……やめて! 私を解放して下さい、」
ティレルは表情も変えず、何かを確かめるように、アナスタシアの肌に触れ続ける。
「……すぐ体は温まる。少しだけ、我慢してろ」
いつの間にかティレルの言葉遣いからは敬語が消えている。
――――どうしてこんなことに。
アナスタシアは必死で記憶をかき集める。
日中なのに夜と紛うほど暗くなり、先の如く『魔女の道化』が選ばれることを知った。今夜は眠らぬと決めて、いつもの翼騎士団服のまま、自分の部屋で待機していた筈だ。
(眠りの魔法で眠ってしまったのか? ……いや、)
深夜二時よりよほど早く、部屋に人影が現れた。
今と同じ恰好のティレル様だ。その後の記憶がアナスタシアにはない。
アナスタシアが何故混乱しているかを、敏いティレルは見透したらしかった。薄く笑って、ティレルはアナスタシアから指を放す。
「薬で眠らせて、ここまでおまえを運んできた」
自らの腰に下がった小袋から紐のようなものを取り出しながら、ティレルは言い下ろしてきた。
「ここは誰も知らない俺だけの秘密の場所だ……コンラッド殿下も、この部屋のことは御存知ない」
ティレルの右手の中で紐がくねくねと動いた。
「蛇……」
森の藪の中に住む小型の蛇だ。大人しいが、牙に弱い毒がある。
「ティレル様、……どうして、」
なぜティレルに蛇が掴めるのだろう。本来は、視界に入っただけで体が震えて動けなくなってしまうほど苦手だったはずなのに。
「森の民のイシクには、幾つか、蛇の体や牙を利用した薬法がある。ガキの頃俺が潜んでいたのは、本来は、イシク族が肉を取る為に村の傍で飼育していた蛇の巣なんだ。この蛇とは別の種だがな。蛇の使い方は知識としては持っていたものの、俺が苦手な所為で、蛇毒を使ったイシクの技は途絶える寸前だったが……今ならこうして扱える。俺にも」
その言葉の通り、ティレルは右手で器用に蛇の顎を捕らえ、無理矢理に大きく口を開かせていた。
口の中から二本の牙が覗いている。
その牙を、ティレルはアナスタシアに近づけてきた。
「――――少し、痛むぜ」
「…! 何を……!」
自分を蛇に噛ませる気だ。
ティレルの意図を知って、括り付けられたベッドの上で暴れようとするアナスタシアを、ティレルは左手で顎を掴んで容赦なく抑えつけた。
「そう怯えんな……安心しろ、殺しはしない。――おまえのことはな」
そのままアナスタシアの顎を蛇と反対側に向け、白い首筋を露出させる。
その手は力強く無慈悲で、体を鍛えているアナスタシアが左手で阻止しようとしても、びくともしなかった。
「ッ………!」
ティレルの右手と蛇の口が喉首に当てられ、ブスリと牙が突き通った。
ティレルが宣言した通り、首に痛みが走る。
「いや……!」
首を捩って蛇の牙から逃れようとするが、ティレルの手によって、更に強い力で抑え込まれるだけに終わった。
「暴れると……、牙で傷口が広がって神経が傷つくぞ……、じっとしてろ」
「ッ……、」
首に打ち込まれた蛇の牙から、毒が体内に染みこんでいくのが自覚される。痛みが一瞬強くなり、そして鈍痛が、傷口から体内に広がっていく。
「う……、ぅ…、」
痛みと、力ずくで従わされる屈辱にアナスタシアが呻くのを、ティレルは同情もなく見下ろしていた。
ややあって、ティレルは蛇の牙をアナスタシアから引き抜く。
「! うぁッ、」
体の中で牙が動いて、再び痛みが鋭くなる。
蛇だけでなく、体を押さえつけていた手からもアナスタシアは解放された。
ティレルは立ち上がり、蛇を床に落とす。そのまま躊躇いもなく靴裏で蛇の頭を踏みつけ、殺してしまった。
その強烈な違和感。
頭を潰された蛇の体が、死んだ後も石床でうねっている。
ここから逃げ出さなければ。蛇毒が自分の体にどんな害をもたらすかはわからないが、ティレルの様相から、自分が危機に陥っていることは理解できた。
「く……」
汚れた血を体外に絞り出そうと、アナスタシアは痛みにも構わず、自由になる左手で傷口に触れてかきむしろうとする。
だがその手はすぐにティレルに阻止された。
「触るな。傷が広がるし、ベッドが血で汚れちまう」
短く言ってアナスタシアの左手を捕らえ、動きを封じられてしまった。
ティレルは左手を掴んだままアナスタシアの上にのしかかり、傷口を確かめる為に首元を覗き込んできた。
紫の目はぞっとするほど平静で。
そのくせどこかに狂気と冷酷を孕んでいた。
ティレル本人が、爬虫類かなにかになってしまったかのような目つき。
その目に何故か見覚えがある。
瞳の色は記憶と違う。誰か別の者が、そんな目を自分に向けてきたことがあるのだ。
「毒が強すぎてもよくないな。後遺症が出ると後々まで体に痺れが残る。……少し吸い出しておくか」
ティレルの薄い唇が笑う形に吊り上がった。
何を、と思う間に、ティレルの頭が近づいてきて、蛇が牙を立てた場所に唇が押し当てられる。
「ッ………!」
びく、とアナスタシアの体が震えた。
肌に吸いついたティレルの唇が、そのままアナスタシアの傷から血を吸い上げる。
薬を飲ませる為にいつか唇に受けたキスとはまったく逆の行為だ。
「いや……!」
痕がつくほど強く、ティレルはアナスタシアの首を口で吸い上げた。
傷口から、アナスタシアの血とそれに混じった蛇毒がティレルの口中に含まれていく。
鈍い痛みと厭悪。そしてわずかな淫靡。
「っ…やめて……ティレル様……!」
思わず声を上げた。
その声に呼応したわけでもないだろうが、ティレルはアナスタシアの喉から唇を離した。
身を起こし、再びアナスタシアを見下ろしてくる。
笑う唇の端に、アナスタシアの血の名残が赤く滲んでいた。
まるで吸血鬼の如くに。
「………、」
汚れた血を唾と共にティレルは床に吐き出して、唇に残った血を布で拭き取り、捕らえたままだったアナスタシアの左手に目を落とす。そこについたアナスタシア自身の血を、ティレルは同じ布で拭っていった。
血の移った布を放り捨てて、ティレルは、再びアナスタシアの上に半身を覆い被せてくる。
「首の出血も止まったか。よかったな。―――血塗れの初夜なんか、興醒めだろ?」
「………? …し…初夜………?」
ティレルの言葉の意味が分からず、アナスタシアは困惑の内に言葉を繰り返す。
アナスタシアの赤い瞳を見つめて、ティレルは再び微笑した。
「これからたっぷり教えてやるよ」
ティレルはアナスタシアの上に覆い被さって、両手でその頭を優しく撫でる。
蛇を噛ませてきたときとは全く違う、甘い手つき。
撫でながら、ティレルはアナスタシアの顔をうっとりと覗き込む。
「…ティレル様……」
明らかに様子がおかしい。こんな行動に出る人ではなかった。
おかしいと言えば自分の体も。つい今し方まで少し寒いくらいだったのに、今は熱く火照っている。
目が潤んで、頭の芯がぼうっとしてくる。
ティレルに触れられること以外、何も考えたくなくなってくる。
考えなくてはいけないのに。
「…蛇の毒が回ってきたか。もう痛みはないな?」
「………はい……」
問われて、アナスタシアは素直に答える。
首筋の痛みが消えているのは本当だった。
「寒さも? 消えたか?」
「………はい。むしろ、温かいくらいです」
ティレルの手に撫でられたところから、熱と、甘い痺れがアナスタシアの全身に伝わっていく。
横たわった自分の体の上に覆い被さっているティレルの脚が、自分の剥き出しの腿に触れていることに、そのとき初めてアナスタシアは気づいた。
「っ………、」
もぞ、と下肢を動かすと、ティレルの微笑が深くなる。
わざとだろう、ティレルの腰がいっそう己の体に寄せられる。
初めて知る異性の熱。
異性への熱。
赤くなった両頬をティレルの手に包まれて、アナスタシアは自分を捕らえた男を見上げる。
「ティレル様……」
ねだるような声が自分の喉から漏れたことにも、自覚はなかった。
頭を両手で優しく捕らえられたまま、ティレルの唇が近づいてきて、今度は口にキスをされる。
「! っ……、ン……」
ティレルの唇に、幾度か唇の先をついばまれる。
まるで焦らすように。
浅いキスを受けて、アナスタシアは却ってティレルへの欲求を深くした。
「…んぁ、」
頭を捕らわれながら、求めるように唇を中空に向けて開くと、ゆっくりとティレルの口が押し当てられてきた。
嫌悪感は一切なく、アナスタシアは素直にティレルの深いキスを受け入れる。
「ン……ん」
ティレルの舌が口中に割り入ってくる。自分とはまったく異質な触感の力強い男性の舌が、優しく唇の内側に触れる。
「ふぁ、」
体中が甘く痺れたようになって、思わずアナスタシアは声を漏らした。
手や、脚、舌、唇。密着した胴。
ティレルが触れている全ての場所から、熱が毒のように体中に巡っていく。
「ンん……ん、」
口全体をティレルに捕らえられ、ティレルの舌に己の舌を絡め取られた。
体の奥が熱い。
ティレルの舌は意図を持ってアナスタシアを煽ってくる。アナスタシアはそれに逆らう気も起きず、それどころかもっと翻弄して欲しくて、頭を寄せて自らも舌と唇でティレルに応えた。
自由になる左腕でティレルの体にしがみついて腰を寄せ、アナスタシアはキスに酔う。
ティレルの手がアナスタシアの背に回り、襟元から忍び入って、肩甲骨に直に触れる。
「ふぁ、…っン…ん」
抱き締められ、抱き締めて、冷えた夜気に二人の熱が溶け合っていく。
「……まずはおまえを完全に俺の手の中に収めてやる。おまえを取り巻く俺以外の奴ら全てを潰しに行くのは、その後だ」
アナスタシアの衣服を半ばまで脱がせ、ティレルが情欲に掠れた声を漏らした。
「っ、……? どういう、意味……ンぁ、」
両腿を割ってその内側を撫でさすってくるティレルの手に体を任せながら、アナスタシアが問うた。
ティレルはアナスタシアの顔に優しいキスを浴びせつつ、笑顔のままで、ぞっとするようなことを言ってのけてきた。
「始めにクライオスを殺す。奴が一番目障りだ。いつもお前に向けているムカつく作り笑いが永久にできないようにしてやる。それから王宮に行って、ルーシェン殿下を暗殺してくる。ゼンだけは殺せないが、頭を一発殴った後で石と一緒に樽に詰めて湖にでも沈めてやれば、暫くは平穏になるだろうさ。それからマヤ・カークランドも殺そう。あの女は俺たちの邪魔ばかりするからな」
「っ、ま、まって、ティレル様、」
ティレルの喉から出た言葉が信じられず、アナスタシアは目を瞠ってその顔を覗き込む。
「そんなこと、本当に、」
与えられた情欲の波もひといきに引いて、アナスタシアは顔を青ざめさせる。
「なぜ、皆を殺すなんて……、」
「俺の心の枷が完全に外れたからだ」
「枷……?」
「俺を縛っている全てのものから俺は自由になった。もうイシク族も王族への奉仕も異端審問官も女神も関係ない。蛇への恐怖もない。……俺が自由になることは、おまえの望みでもあっただろ? アナスタシア」
「…………、そ、そう、ですが、……それって…、」
確かに、ティレルがしがらみを振り捨てて自由に羽ばたくことはアナスタシアが長らく志してきたことだ。
だがそれは。
断じて友人を殺して回ると心決めすることではない。
アナスタシアが知っているティレルはそんな事を口にする人間ではない。
絶対に。
強力な自己肥大。他者への加害心。恐怖心の欠落。良心の多大な欠如。自己正義性の強さと、それに相反する苛烈な他責性――――。
深夜を境に全く変わってしまう人格。
「ティレル様……、まさか、」
違和感と共に、ある強い危惧がアナスタシアの喉元にまでせり上がり、ついに声となった。
「『魔女の道化』…に……、」
アナスタシアが掠れ声で呟く間に、ティレルの首に赤い鎖が現れ、巻き付いた。
アナスタシアの目が大きく見開かれる。
その驚愕を認めて、ティレルが笑った。
「そうだ。破滅の魔女が言ったんだ――――俺はもう、『自由』だと」
「! ………ぁ、あ、」
アナスタシアの赤い目が恐怖を湛えてティレルを見つめる。
「『自由』と言われたところでな。魔女の奴に首枷を嵌められるまでもなく、俺はずっと鎖に繋がれていた……俺自らも望んで繋がれてた鎖だったってのに、イシュはそれを取っ払っちまいやがった。
心の枷を『破滅の魔女』に全部取り払われて、俺は今空っぽだ。心の中に残っているのはたった一つ。おまえだけ……」
ティレルの腕が伸びて、まるで縋るかのようにアナスタシアの体を抱き締める。
「…………、ティレル、様、」
ティレルの胸の中で。
アナスタシアが呆然としていたのはごく短い時間だった。
脳が事態を把握した途端、そこから逃れる為にアナスタシアは身を捩り出す。
「離して! ティレル様!」
「大丈夫だ、おまえは何も考えなくていい……、俺に任せとけ。全ていいようにしてやるから」
アナスタシアを捕らえたまま、ティレルの手が再び動いて、アナスタシアの肌をまさぐり出す。
アナスタシアの熱はたちまち蘇った。
「! ンぁっ、………や、だめっ…」
アナスタシアの腕から力が抜けて、頭の脇に落ちる。
これは蛇の毒の所為だ。
アナスタシアはうっすらと悟った。
体は鈍く、重いのに、ティレルがもたらす触感だけは苛烈なまでの快楽となって全身を駆け巡る。
「あっ、はぁ……やっ…、ティレル様っ……、」
「俺の腕の中で、俺だけを見ていればいい。他の奴らのことは全部忘れろ」
ティレルの手で服をはだけられ、剥き出しになった胸を触れられて、アナスタシアの体はピクピクと震える。
「こっちも吸ってやる」
「! ひっ……!」
「ふ……。気持ち、いいだろ?」
「やぁ……!」
敏感な場所に幾度もキスを受ける合間に、支配的な口調でティレルに言い下ろされる。
こんな無理強いを、ティレルから受けたことはない。
喋り方もそうだ。
瞬間慇懃で、自分を尊重しているかのように聞こえる物言い。だがその影には、己への侮りと強い支配心、時には嗜虐さえ透けて見える。
常のティレルの言いっぱなしの毒舌とは、全然質の違うものだ。
「お前は何も考えず、素直に俺に従っていればいい……」
唐突に。
アナスタシアは、ティレルが口にする台詞が誰に似ているかを思い出した。
世間知らずの自分を冴えた視線で見下ろす、クラウド・ブルーの瞳。
「――――コンラッド…………!」
この世でもっとも厭う男の名だ。
自分を幾度も絶望に追いやり、大事な人を陥れて死なせ、その都度アナスタシアが憎しみを増幅させてきた男。
そして長らく、ティレルを『猟犬』として繋ぎ止め、暗殺や密偵の汚れ仕事に従事させてきた男。
コンラッドの名を出されて、ティレルは動きを止めた。
「……そうだな。コンラッド殿下も真っ先に殺さなくちゃな。奴は『猟犬』を抜けた俺を恨んでいるし、ルーシェン殿下を後押しして『時すさびの薔薇』を咲かせたお前のことも憎んでいる。コンラッドは俺たちには一番邪魔な障害物だ」
少しだけ顔を離して、ティレルがアナスタシアを覗き込んできた。
「察してるかも知れんが、俺には、特定の女がいたことはない。蛇以外に新たな弱味をコンラッドに握られるだけだからな。それでも、長らく奴の『猟犬』だったお陰で、女の悦ばせ方は知っている。……こんなふうに」
「! ……あっ…!」
ティレルの手が下腹部に及び、アナスタシアは思わず身を捩った。
「ぃ……やぁ、あぁ……、」
体内に打ち込まれた蛇の媚薬と、ティレルの手練にアナスタシアは翻弄される。
それをティレルは満足げに見下ろしていた。
「コンラッド殿下には感謝もしてるんだ。欲しいものを手に入れる一番巧い方法を、俺に教えてくれたからな」
ティレルの手が、再びアナスタシアの頬に触れた。
「………っ」
「どうしたらお前が、一生逃げ出すことなく俺に囚われていてくれるか……。奴のやり口を真似ればいい」
「――――!」
ティレルが本気で言っているとわかり、アナスタシアの目には涙が滲んだ。
アナスタシアの心を尊重する気など、今のティレルにはないのだ。
コンラッドの手法を、アナスタシアは己の身で嫌と言うほど思い知っている。
他人の自尊心を踏みにじり、嘘と悪意で洗脳して孤立させ、心を折ることで己に従わせる。
外面はあくまでも平静で美しく、しかし秘された場所で、他者の心身を傷つけることに愉悦を感じる真性のサディスト。
幾度もの『死に戻り』の間、あの男の我欲に翻弄されてきた。
そもそも最初に、『死に戻り』を決意するほどの苦痛と屈辱をアナスタシアの魂に直接与えてきたのはコンラッドだ。
そのコンラッドの手法をティレルが真似てくる、ということは。
「……いや……!」
体と心を支配され、奪われることを意味していた―――他ならぬティレルに。
過去、自分を尊重し、慰め、叱咤し。
ヒストリカの階級社会で、生きて仕事をする方法を教え導いてくれたティレル。
殆ど他人であったときから、いつも、助けを求めればそれに応えてくれたティレル。
ティレルの手引きで自分がコンラッドの手に堕ちたときでさえ、『殿下の賭けに乗る振りをして国外へ逃げろ』と勧めてくれた。
そのティレルに。
コンラッドにされた如くに囚われる。
「俺がお前にこんなことをするのは、俺が悪いんじゃない。悪いのはお前なんだぞ…アナスタシア」
「ッ、」
「お前は俺から、俺が今まで生きてきた理由を全て奪った」
「…………!」
「お前が言うとおり、今の俺は空疎だ。王族に仕える理由を失い、イシク族再興のきっかけも無くし、何より、イシク族が女神の偽物も見抜けない無能の役立たずだとお前は証明しちまった。
そしてお前は……、イシク族が護ってきた女神の血の証、『時すさびの薔薇』を咲かせられるのはお前だけだというのに、女神として俺に仕えられることさえ拒否する。唯一のイシクとして生きてきた俺から、仕える相手を奪い、そのまま滅べと言ったんだ……」
「っ…! ぅ、そんな…、違う、私は、」
ティレルから立て続けに胸を刺すような言葉を投げつけられて、アナスタシアは明らかに萎縮した。
ティレルが自由になることをこそ望んだのに。
「そんな、つもりでは……!」
「俺の女神になる気がないんだったら。大人しく俺の言うことを聞いて、俺だけの女になれ」
「………な、何を言って、」
「ルーシェンやクライオス、ゼンとはもう付き合うなって言ってんだ。俺の人生を壊しておいて、自分だけのうのうと三股も四股もするのは不公平ってもんだろ」
「……っ! そ、そんなこと、してません…!」
「鈍いな。俺にそう見えたらそうなんだよ。だから全員殺してやる。俺が腹が立つのは、どうやったって俺より奴らのほうがお前と過ごした時間が長くて深いって事だ。もともとの縁が俺より強い奴らが、お前の回りをウロチョロしてんのを見ると虫酸が走る。
―――お前が選んだのは俺だってのに」
「……! い、いつ、そんな、」
隠してきたつもりの、ティレルへの恋心を暴かれてアナスタシアが硬直する。
「お前は俺に惚れてるんだろ?」
「! ………、」
「だったら。全部受け止めて見せろ。俺の、忠誠と、義務と、悲願を奪った代償を、お前自身で俺に払う。単純で、簡単なことだ」
ティレルの手がアナスタシアの衣服を引き剥ぎ、膝を割る。
「っ……ぁ、や……、嫌……! ティレル様……!」
惑乱して、何が悲しいのかもわからず、アナスタシアは泣いた。
ティレルが変わってしまったことか。ティレルが『魔女の道化』に選ばれてしまったことか。己がこれからティレルに蹂躙されることか。
それなのに体が、快楽の側に無理矢理に流されていくことか。
「やめて……ティレル様……! っン、」
「ふ……、」
悲鳴はティレルの接吻で塞がれた。
キスを続けながら、ティレルの男性の手がアナスタシアを煽っていく。
ティレルの手つきは的確で、アナスタシアには全く逆らえなかった。
「ぁあ……、あ、ぁ……!」
口から出る喘ぎは拒否なのか、愉悦なのか、アナスタシアにももはや判然としなくなっていた。
ティレルの腰がアナスタシアの下肢に寄せられる。
「っ、う」
「く………」
両腕で半身を絡め取られて、更に近くに引き寄せられ、体が密着する。
説得を諦め、全身からも力が抜けて、アナスタシアはティレルが自分に食らいつくのを泣きながら受け入れた。
右手をベッドに繋ぐ枷がカチャカチャと揺れる。
闇の中に聞こえる、シーツの衣擦れの音。
「お前が俺をおかしくさせたのが悪い」
「あ…、うぁ…、」
支配の毒がアナスタシアを冒していく。
ティレルの体の下で、アナスタシアはその身に屈辱を刻み込まれる。
「あぁ…っ、ティ、ティレル、さま、」
切れ切れに名を呼ぶと、全身にキスをしてくるティレルの唇が笑みの形に口の端を吊り上げる。
対照的に、アナスタシアの目からは滂沱の涙が流れ出ていた。
手錠と蛇の毒、そしてティレル自身の情欲。
望まぬまま、それらにアナスタシアは完全に屈して、ティレルの腕の中で、絶望に心身を食い尽くされていた。