「ッ、………………!」
息も継げぬ程に動転して、ティレルは横になったソファから飛び起きた。
「…………、」
息を荒らげながら、かきむしるようにして首に触れ、『魔女の道化』あるいは『被告人』の証である赤い鎖がそこに無いことを確かめる。
「っ、く……、」
首に回した手に触れるのは異端審問官の衣裳だけ。首枷はついていない。
安心はしたものの、まだ混乱していて、ここが何処かもわからない。
周囲は暗い。まだ夜明け前だ。
視界の隅に入ったデスクの上で、黄色い小さな花がほんのりと周囲に光を放っている。
ようやく頭が目覚めてくる。
ここは異端審問官官舎の己の執務室だ。
夕刻前にこの部屋にやってきて、夜まで撤収作業を続け、そのうちに、ソファで寝入ってしまったらしい。
「ッ、クソ……、夢かよ……驚かしやがって……」
息を整えながら目を瞑り、酷い動揺によって目尻に湧きかけた涙をやり過ごした。
―――『魔女の道化』に堕ちて、『猟犬』やコンラッドの手法を用いてアナスタシアを苛むなど。
例え夢であっても己に許せることではなかった。
「………」
首から胸に手を下ろしてソファから身を起こし、ティレルは、改めて己と周囲を確認する。
デスクの上に咲く、黄色い小さな花。
悪夢を見るきっかけを己に与えたのは、この花に違いない。
誰もこの花のことを知らないとずっと思っていた。だが、
『あっ! イシク・ルクフラムス! 綺麗に咲いてますね!』
数日前の、アナスタシアの明るい声がティレルの耳に蘇る。
『以前、コンラッドにこの花を潰されたことがあって。今回はそうならなくて、本当によかったです』
ヒストリカでは無名のこの小さな花が、ティレルにとって如何に大事かを知っている、そんな口調だった。
アナスタシアの発言からティレルが悟ったのはそれだけではない。
『死に戻り』の過去で、ティレルのこの部屋に、コンラッドとアナスタシアが同時にいたことがある――――それがどんな状況を示すことになるのか。口を滑らせた当のアナスタシアは気づかなかったようだ。
だがティレルは悟った。
――――過去の俺は、アナスタシアをコンラッドに売った。
今までその事実を、アナスタシアから聞いたことはなかった。
「あいつ……洗いざらい吐け、つったのに……」
蛇が苦手であることさえ知っていて、黙っていた。
俺が知り得ぬ過去に。
俺だけの秘密だったことを、あの娘はどれほど多く見顕わしてきたのだろう。
「……よくも俺に『生きていて欲しい』なんて言えるな。お人好しにも程があるだろ……」
手で頭を抱えてティレルはごちた。
人の愛し方など知らない。
愛しい娘の扱い方など知らない。
愛を向けられ、それを受け止めて生きていく術など知らない。
そうした途は、子供の頃に既に断たれていた。
いずれにせよこの手は。
コンラッドの『猟犬』として、あまりにも血と裏切りに汚れている。
「――――っ」
耐えたはずの涙は結局目尻から溢れてきて、ティレルはソファに座したまま歯を食いしばった。
夢で破滅の魔女が告げてきた通りだ。
イシク再興を諦め、『猟犬』から足を洗い、王族への盲従をやめたその果てに。
自分には、血濡れた手以外の何物も残っていない。
異端審問官の肩書きすら無いのだ。未来永劫魔女は顕現しない。
『女神』とそれに仕える『イシク族』。最後に残ったその枷まで失われたら。
男と女、ただそれだけの状況になったら。
――――俺はお前には相応しくないだろ。
人を信じる純なる心、まっすぐな行動力、陽の当たる場所を歩くに相応しい直情的な優しさ。
一途なルーシェンか、明るいクライオスこそがあの娘には相応しい。あるいは何物にも縋ることなく生き抜いていける、巌のような強さを持ったゼンが。
だがあの娘は俺を諦めることはなさそうだ。
俺はもうすっかりコンラッドの毒に染まっているというのに。
涙はゆっくり引いていく。
異端審問官の執務室はだいぶ片付けが済んでいた。
そろそろ、身の振り方を決めねばならない。
このままアナスタシアの傍にいられないのは明白だった。
「……俺がこの国を出ちまうのが、手っ取り早いだろうな……」
ティレルは苦笑した。
去ることはアナスタシアを傷つけはするだろう。
だが、俺がこの国に居残ってあの娘を傷つけるよりずっとマシだ。
俺は独立不羈のゼンとは違って、何かに縋らなければ生きていけない。
六歳の頃から、王に滅ぼされたイシク族の再興を悲願とし、王族を守護する道具となってコンラッドの『猟犬』としての務めを果たしてきたように。
自分の首に掛けられる鎖が、自分には必要なのだ。
今、俺には何の責務もなくなった。
残っているのはアナスタシアへの、自らの手には余るほどの感情だけだ。
このままここにいたら、自分は全霊で彼女にのしかかってしまう。
それは確実にアナスタシアの為にならない。
そうした予感があった。
「……まあ。しがらみもなんも全部捨てた状態で今、国越えなんかしたら。
生きるのも面倒くさくなって、そのまま野垂れ死にしちまいそうだが…」
それもいいよな。
あいつが泣かないところでなら。
ティレルは投遣りにそう思った。
俺が居なくなって暫くすれば。
あの三人のうち誰かに告白でもされて、お互い似合った恋人同士になるだろう。結果的にはそのほうが、アナスタシアはずっと幸福になれるはずだ。
俺と一緒にいるよりずっと。
その思考はティレルにとっては至極合理的な結論ではあったが、胸は痛んだ。
あいつが他の男とくっついてるところなんて想像したくもない。
昨日の昼、アナスタシアと手を繋ごうとしてみせたゼンの煽りが、自分を酷く不機嫌にしたように。
今の自分に向けられているあの娘の憧憬が、思慕が、指先の震えが、頬の熱が、他の男のものになるなど耐え難かった。
「母親を取られるガキかよ……まったく……」
もっとも、母に庇護された記憶も殆どないのだから、この焦燥自体が、人生で初めて味わう感情なのだ。
この幼稚な感覚を押し止められぬ事が自分で納得できず、ティレルをひどく困惑させ、挙げ句には、自分のその感情を直視したくなくて、心に蓋をしてしまった。
(ゼンの態度を見るに。周囲にはモロバレだったんだな。俺が自覚してなかっただけで)
――――自分がアナスタシアを好きだということを。
遂にティレルは認めた。