悩んでいても仕方がない。
アナスタシアに暇乞いでもして、さっさと国を出てしまおう。
そう決めて、眠れぬ夜を過ごした早朝、ティレルはアナスタシアのもとへ向かった。
いつもの時間にアナスタシアの部屋に行くと、寝ているはずの部屋の主は既に起床していた。
「あ、おはようございます、ティレル様」
翼騎士団の制服を整えながら柔やかに言われる。
自分を見上げる若々しい笑顔も見納めになるな。
ティレルは寂寥を完璧に覆い隠して、いつものように微笑した。
「……おはようございます。アナスタシア様。随分、お早いですね」
「ええ。今日は遠出の予定なんです。昨日、ちょっと考えて。クライオス団長に相談して、フマをお借りすることにしました」
「フマを?」
女神の証、アナスタシアの『死に戻り』の証である赤い羽根を持つガルダ、フマ。
翼騎士団の演習でもするのだろうかとティレルが考えていたところへ、アナスタシアからとんでもない言葉が飛び出てきた。
「フマならカクリヨまで飛べますから。私には今はクロムの力はありませんが、カクリヨに行って、ルーンに預けた力をそっくり返して貰ってきます」
「! 何だと……何故、そんなことを!」
アナスタシアの言葉の中身を理解した途端にティレルは激昂した。
「やめろ! お前……」
思わずアナスタシアの肩を掴む。
次に続く彼女の言葉で、ティレルは、瞬間抱いた危惧が的中していることを知った。
「ティレル様はそのほうがいいのでは? 私に女神の力が宿っていれば、女神クロムに仕えるイシク族の使命を存分に果たせるではないですか」
「……! 俺なんかの為に、あんな辛い力をわざわざ取り戻す気か! 馬鹿言うな!」
『死に戻り』、『過去視』、『未来視』、『結界』、『声送り』。そしてクロムとしての『記憶』。
諸々あるクロムの力。
そのどれもが、アナスタシアを幸福にはしなかった。
なのに、
「私なりに考えたんです。私が女神に近い存在でいれば、イシク族として、ティレル様は今よりずっと、迷うことなく日々を過ごせるはずだと」
目映い赤い瞳が、まっすぐにティレルを見た。
「クロムの力を身に持っていてもいなくても、私は私でいられます。でも、ティレル様は、結果的に今は弱まってしまっているイシク族の使命が必要でしょう。このままだとティレル様はきっと生きる意味を見出せず、どうあっても幸福にはなれないから――――」
アナスタシアの脳裡にはいつかの過去が蘇っていた。
生きる支えを失って死を選ぶ。目の前のティレルには、そんな途を絶対に辿らせたくなかった。
「昨日決めたんです。ティレル様をお助けする為に、私にできることは、何でもしようと」
「! ―――っ、」
彼女の幸福にはほど遠い、アナスタシアの計画。
ティレルにとっては、昨夜見た悪夢にも匹敵するほどの暴挙だ。
目の前の娘が、ゼンに反対されてさえ幾度も『死に戻り』を繰り返すほどに、思い込みと情念が強い性格であることを忘れていた。
「クソみたいな自己犠牲はやめろ! 小娘一人の浅知恵で、俺の人生がそう簡単に好転するわけないだろうが! 大体お前は他人の為に後先も考えず無闇に身を削りすぎなんだよ、ンな暇があったら周囲をもっとよく見とけ! 猪突猛進なんて命が幾つあっても………」
アナスタシアの両肩を掴んで、ティレルは尚も言い募ろうとする。
だが、自分の言葉の中身がアナスタシアには露ほども浸透していないことに気づいた。
「…ティレル様……」
頬を艶やかに赤く染めて。
先程まで神そのものの如く揺るぎない光を放っていた紅玉の瞳が、今は全く別の感慨に潤んでいる。
「な、何だよ、」
「私への敬語が取れてます……、……おまけに、罵倒まで………」
「………………」
「いつもの、ティレル様だ………戻ってきて下さった……!」
アナスタシアは本当に喜んでいるようだ。
呆気に取られ、毒気を抜かれ、遂にはどうでもよくなって、ティレルは呻いた。
「悪口言われて嬉しがるな! …そのニヤニヤ笑いをやめろ! 気色悪い!
…………あーーーっ、わかったわかった!
俺の負けだ! ……好きにしろよ、ちくしょう!」
アナスタシアの肩から両手を離し、顔を背けて喚き散らす。
「え、でも、ティレル様が勝手に私に敬語をつけて、勝手に外しただけじゃないですか、」
喜びが抑えられないと言った満面の笑みで、それでもアナスタシアが突っ込んでくる。
「うるせーうるせー! ったく……!」
顔を真っ赤にして腕を組み、ティレルは不貞腐れている。
なるほど、とアナスタシアは気がついた。ティレルのこの辺りが、ゼンをして「ルーシェンよりガキ」と言わしめる部分なのかも知れない。
「怒鳴られて喜ぶとか、どんな性癖だよ。お前、エセ顔クライオスの下に長くいすぎて絶対頭おかしくなってるぞ。翼騎士団全体、あいつのニヤけ面に当てられて認知が歪んでるが、男の趣味も含めて、中でもお前はぶっちぎりで異常だ」
照れ隠しなのだろうか、ティレルはブツブツと毒を吐き続けている。
やがて、
「………………」
暫しの沈黙の後、ティレルはアナスタシアに向き直る。
「とにかくカクリヨに行くのはやめろ。女神クロムの力も、生涯仕者に預けたままにしておけ。女神の力は持ち出し厳禁だ。一生誰にも、その話するのも禁止な。……俺ももう、お前を女神の生まれ変わりとして扱うことは二度としねえから」
「え、でも」
「話すの禁止つったろ! クロムの力はお前みたいな潔癖症で短気で駆け引きも嘘も苦手な直情型には全然向いてないんだよ。人外の力を背負える器量のサイズは、お前の人間的魅力に比例するどころか全く反してる」
「はあ……」
(んん?)
何かが心に引っかかったが、今はそれに拘泥している余裕は無い。アナスタシアは最大の疑念をティレルにぶつけた。
「ですが、ティレル様はそれでよろしいのですか? 私が女神っぽいほうが、ティレル様には嬉しいのでは」
ティレルがギロリとアナスタシアを睨んだ。
「お前。俺がお前を女神扱いするとして、それをお前が受け入れたら。今度はお前自身が、『女神』として俺に『イシク族』への下命ができるのか?」
「……? え? え、」
「お前は『コンラッドにはなりたくない』と言った。だがお前が女神に近づいて俺に対し女神の行動を取るってのはそういうことだ。
別に政治関連の話だけじゃない。
階級社会の格差恋愛はお前には無理だ。ルーシェン殿下やクライオスの生い立ちを考えればわかるだろ、俺たちの場合は立場が男女逆転する。
イシク族の俺に向かって『お前に惚れてるから女神である自分の愛人かセフレになれ』なんて命令、お前からは出せやしないだろうが」
「あ……あいじ……せふれ……」
アナスタシアは動転して息も継げない。
いや、それ以前に、
(格差恋愛……? 『俺たち』の場合……?)
「ほ、『惚れてる』って、誰が、誰に」
混乱するアナスタシアの頭に、更にティレルの言葉が降ってくる。
「俺を好きなことは知っている。お前は一途と潔癖が過ぎて、愛人なんて関係性は受け入れられないに決まってるから、この提案は最初からしなかった」
「! …い…、……いつから…ですか……」
羞恥と怨嗟でアナスタシアの声はまともなものにならない。
気持ちを見透かされていた上に黙殺され、あろうことか「愛人」「セフレ」などという言葉で自分の好意を方向付けられるのは非常に腹立たしいことのような気がする。
「私が…ティレル様を好きだと……気づいていたなら……どうして………」
顔を真っ赤にして俯いているアナスタシアの頭をティレルは見下ろす。
意外なほど優しく、そして気落ちした声がティレルの喉から出た。
「お前の俺への気持ちがあまりにも純粋なものだと知っているから。だからこそお前に俺が応えることはできない。俺がどれだけお前に惚れていようともな」
「…………うっ…、…え……」
言われた言葉の一つ一つがあまりにも衝撃的で、アナスタシアはすぐには咀嚼できなかった。
惚れている? ティレル様が私に?
それは両思いということ?
でもティレル様は私に応えられない?
どうして?
私の気持ちが純粋だから? ……そんなことが、失恋の理由になる?
「ティ、ティレル様、」
心臓が早鐘を打って、口から飛び出しそうだ。
説明を求めるように、希望を見出そうとするかのようにアナスタシアは顔を上げてティレルを見た。
ティレルはアナスタシアと視線を合わせて、何故か辛そうな笑みを見せた。
「……ったくな。お前が平然と四股かけられるような肉食貴族女子だったら却って話は単純だった。女神の愛人やれって言われるほうが俺には気楽だ。ただの職務だからな」
「………………そんな………、」
自分に応える気がない、それはなんとなくアナスタシアには伝わった。
でも愛人だったらOKだ、というのは暴論ではないだろうか。
確かにティレル様は職務に忠実で有能だ。だが、私が愛人を囲うのが不向きと言われるのと同じくらい、ティレル様だって愛人を務めるのは不向きな気がする。
「……ティレル様には、誰の愛人だって無理だと思います。社交辞令、苦手じゃないですか。務まる気がしません」
「ああ?」
負けず嫌いのティレルはアナスタシアの言葉尻に噛みついた。
「仕事ならできるに決まってるだろ。あんなもんは最適解のマニュアルがあって、個々の事例に合わせてアレンジしてけばいいだけだ。退屈すぎるし、今の俺の職種じゃ一銭の足しにだってならん。だからやらないってだけだ。ティレル様の能力を見くびるな」
「無理です」
「やれる」
「無理」
「できる!」
「…………だったら。やって見せて下さい」
「はぁ?」
「私が女神で、ティレル様が、あ…愛人、だったら。社交辞令で私の機嫌が取れるはずです」
仕返ししたくなって思わず挑ましげなことを言ってしまったが、
「イヤだね。却下」
ティレルにあっさりと拒否された。
「俺が完璧に口上を述べたところで、お前への得点にならないどころか逆効果だ。その上、懐に金も入らない。ンな無駄足踏んでたまるか」
(……私への、得、点……)
よくわからないが、もう少し刺激すればいけそうだ。
「……逃げるんですか? だったら私の勝ちですね」
「何だとぉ……クソ、見てろよ。知らねえからな!」
舌打ちしてティレルはアナスタシアに向き直り、するりと優雅にその右手を取って見せた。
(えっ……)
「アナスタシア・リンゼル嬢にはご機嫌うるわしゅう」
「………うっ!」
ティレルは口元に微笑を浮かべ、体を少し屈めてこちらを見ている。
ご丁寧に紫の瞳は少し潤んでおり、いつもは鉄面皮と称される表情の薄い頬さえ、心なし紅潮している。
「女神クロムの生まれ変わり、それは貴女の魂と記憶のことと聞き及んでおりますが、曇った私の目にさえもはっきりと映っております…貴女の心の気高さは女神と同等かそれ以上であることは。例えるなら五月の庭に咲く大輪の赤い薔薇。この狭く暗い部屋でも、貴女のまばゆさは覆い隠せず、私の心はただただ圧倒されてひれ伏すのみ……私の、大切な女神」
「っ………、」
硬直し、口をただぱくぱくさせているアナスタシアの手の甲に、更に頭を下げて、ティレルはそっとキスして見せた。
「あ、あ、」
遠い昔に憶えのある王宮の貴族達の立ち居振舞より、よほど優美でしなやかなティレルの動き。メイル・ディアス辺りに服を見立てて貰えば、完璧なヒストリカの貴公子が仕上がるに違いない。
だがアナスタシアはぞわぞわと総毛立つ。
ティレルは唇はアナスタシアの手から離したが、変わらず指では触れたままだ。
「不躾に接吻をしてしまう不埒な唇をお許しいただきたい。貴女の美しい指に触れる私の手も。……この一瞬を貴女に与えていただく為に、私がどれほど眠れぬ辛い夜を過ごしたことか……思いの丈をお伝えする間だけでも、貴女は私を思いやって下さいますでしょうか?」
「う……、う」
ティレルの豹変にろくに返事もできなくなって、アナスタシアは呻く。
「……まだ続けるか?」
悪戯っぽい光が紫の瞳に湛えられ、アナスタシアを見上げてきた。
「い、いいい、いいです! もう充分です、降参します……!」
「………」
ティレルは態度を一変させて、ぱっとアナスタシアから手を離した。
表情も涼しげないつものものに戻る。
「言ったろ。逆効果だって」
「はぁはぁ……鳥肌だけでなく、動悸と吐き気がする……」
「ひでぇなあ。俺じゃなかったら傷つくぞ。他の男にやらすなよ」
「……や、やりません……絶対に………!」
ティレルの言う通り。
自分に貴族的な儀礼が全く向いてないことがわかった。
毒舌家のティレルに言われるというギャップにショックを受けただけではなく、自分の中の警戒心が無闇に上がっていってしまうのだ。
自分にこんな弱点があるなんて思ってもみなかった。
「気をつけとけよ。お前は貴族的な社交や式典の場も得意じゃないが、貴族には必須のおべんちゃらを言ったり言われたりするのが致命的に苦手なんだ」
「……なんで…そんなことが、ティレル様にわかったんですか、」
自分も知らなかったのに。
「あんなの貴族同士だったら天気の話レベルの日常会話だ。あれをお前が忌避するのは、『死に戻り』以前の記憶の所為だろう。婚約者だった時のコンラッド殿下にされた仕打ちがお前の心に重くのし掛かっていて、その記憶に繋がる貴族的な行動や感覚はお前を震え上がらせるんだ」
「……………」
長らくコンラッドの下で『猟犬』として働いていたティレルはコンラッドの為人をよく知っている。
だからそんなことまで見通せてしまうのだろうか。
『死に戻り』最中やその前の記憶は、ティレル様には無いはずなのに。
「お前が二度目の子供時代を翼騎士団で過ごすことに決めたのは、クライオスがいたのがその理由だけでなく、できるだけ貴族社会から遠離っていたかったからだろう。武芸の道を選べば戦闘に強くなるのみならず、少なくとも大人になって一人前の騎士になるまで宮中に出ずに済む。宮廷の社交辞令も避けられるし、コンラッドや他の貴族連中に目をつけられるのも避けられるだろ」
この人は本当に鋭い。
「………言われてみれば、そんな、気もします……。でも、自分では自覚は全然ありませんでした。どうしてティレル様はそう思われるんですか?」
自分では、翼騎士団の戸を叩いたのは、エヴェリーナやコンラッドを叩き伏せるほどの力と気力を求めてのことだと思っていた。
「お前がコンラッド殿下をあまりに嫌うからだ」
「……彼の本性を知って尚、あいつを好きな人なんていないと思いますが」
「その本性を知ってる人間が、ヒストリカにはそうそういないだろ。俺やお前、ルーシェン殿下は特殊なんだよ」
ティレルの顔が至極真面目なものになる。
「お前。最初の死の時は、無実なのに民衆裁判で魔女の判決を受けて火炙りにされたと言っていたな。首謀者はコンラッド殿下だと」
「……はい」
「その時処刑に立ち会った異端審問官は誰か、お前は言わなかったが……」
アナスタシアは観念した。
こんな鋭い人に事実を隠し通すことはできない。
「……審問官はティレル様でした」
「そうだろうな。お前を確実に死罪にするために、コンラッド殿下は息のかかった俺を寄越した。尋問と拷問、刑の執行……お前の一番最初の死神は俺だった筈だ」
「……………」
暗く笑って、ティレルは更に続ける。
「別の過去でもお前はコンラッド殿下の手に堕ちたことがあるな? そして下手人は俺だ。『猟犬』の俺は異端審問官の執務室でコンラッド殿下にお前を差し出して……その後、お前に俺は何をした? 拉致、拘束、暴行、脅迫、自白の強要、薬物の強制投与ってところか。……どうだ、正確だろ」
「ッ……、どうして……、」
自分が告げていないことをあまりにも的確に言い当てられて、アナスタシアは青ざめる。
ゼンから聞いたのか、とも思ったが、自分がゼンに黙っていたことまでティレルは指摘してくる。
「ノイシュバーン現国王が女神の血を引いていないことを『魔女裁判』で暴露し、挙げ句お前を置いて勝手に自害したのはその時の俺だろう。お前に好きだと言い寄ったくせにな」
「えっ……」
『……俺が誘ったら、お前はついてきてくれるか?』
『リスター審問官はずっと一緒にいて下さるということですよね?』
……あれがティレルからの告白と、確かにそう取れないこともない。
ティレルは吐き捨てるように言った。
「最低のクズ野郎だ。王族の血が偽りだと分かった途端に政情不安になって、報復のために、現国王とコンラッドが躍起になって俺やお前を狙ってくるのはわかりきっているのに。自分が散々痛めつけて、己の事情に巻き込んだ惚れた女一人を護ることもせず、手前勝手に死へと逃げ込みやがった。そんなに心が弱いなら最初から反逆なんかしなきゃいいんだよ」
「……、そ、それはティレル様が悪いのではありません。私のほうこそ、あの時ティレル様を自分の事情に巻き込んでしまって……」
今のティレルが弾劾している失われた過去のティレルを、自分が弁護するだなんて。
なんだかねじれた奇妙な事態だ、と困惑しながらアナスタシアは必死で反論した。
「そこまであのクズ男を擁護すんのか」
目の前のティレルは、心底呆れたような顔を見せた。
「……お前ホントに、男の趣味悪いよな」
「………………ご自分のことじゃないですか!」
混乱と焦燥が過ぎたアナスタシアは爆発した。
自分しか知らないはずの過去を、見てきたことのように話す目の前のティレル。頭の巡りが良すぎて戦慄すら覚える。
「本当に……『死に戻り』最中の記憶はお持ちでないんですよね……? どうして……言い寄った、なんてことまでわかるんですか……?」
「今回俺が出逢ったお前の態度を見ていれば分かる」
ティレルは断言した。
「今のお前が、この俺に惹かれているのはその当時の記憶の所為だ。俺にとっては存在しない過去だがお前にとっては事実だからな。
お前が俺に逢うたび奇妙に緊張していたのは、お前の俺への気持ちのほうが俺からの気持ちより強いことに自覚があって、どう接近したらいいかわからなかったからだろ。
お前みたいに恋愛に鈍感で性的に潔癖な女が、そこまで一途に思い込むのは、手前で男が積極的接触をしてきたからに決まってる。大方、お前の手でも握って、尤もらしい繰り言でもほざいたんだろうな」
「うう……う……」
推理は見事だが理不尽すぎる。
ティレル様本人に過去のティレル様からの口説きを暴かれて、何故私のほうが狼狽しなければならないのか。
「お前をコンラッドに売るような男に惚れるなんて、お前はどうかしてる。
……お前が払った労苦や俺がお前にした仕打ちを全部忘れて、血に汚れた手で、俺がお前を抱くことはできないだろ。女神の力を取り返しに行こうと思うほど、俺を慕ってくれているなら尚更な」
「………で、ですけど……おかしいじゃないですか……」
幾つもの過去を暴露されたショックを未だ引きずりながら、アナスタシアはかろうじて反論した。
「今のティレル様は、あの時のティレル様とは別の方です。もうコンラッドの『猟犬』でもありませんし、そもそも今回の生では、私を断罪したり、拉致したりしたことは無いじゃありませんか」
「…………」
『魔女の道化』に堕ちた昨夜の悪夢を思い出し、ティレルの眉間に深い皺が寄る。
「やるさ。俺の本質はお前が何度生を繰り返しても変わらない。ルーシェン殿下を憎むコンラッド殿下が何度でもお前に火を被せてくるのと同じだ。
イシク族を滅ぼした王族に長らく疑念を抱きながらも、自分が縋る世界の前提が壊れるのが怖くて、ずっとそれに目を瞑ってきた。
俺の本質は、鎖に繋がれることを喜ぶ臆病で薄汚い犬だ。コンラッド殿下の命令には何だって応じてきた。人殺しだけじゃなく、過去でお前にしたのより酷いことも、沢山な。それは消えた過去の話じゃない。今のこの俺の話だ。
お前の傍にいて触れる資格が俺には無い。
………だから、本当は。
もっと早くに、お前の前から姿を消すべきだった」