「…………!」
弾かれたようにアナスタシアが顔を上げてティレルを見た。
「それは……! ダメです、ティレル様……!」
アナスタシアは思わずティレルの袖に縋る。
ティレルは笑っていなした。
「別に過去の俺のように、死んじまおうって訳じゃない。ヒストリカ国を出るだけだ。コンラッドや現国王が今以て健在なのはお前に対する不安要素だが、ルーシェン殿下もゼンも、クライオスの作り笑い野郎もいる。俺が自害した世界線より、今のお前はずっと安全だろ。あいつらは俺と違って、決してお前を裏切ったりしない。全力でお前を護ってくれる。
……それにお前が女神の代わりでなくなるなら、……イシク族自体がもう不要だ。この国に居座る意味も、俺にはもうなくなった」
「っ………」
アナスタシアの心に強い焦りが宿る。
「わ、私も行きます」
「はぁ?」
思わず口走った言葉に、ティレルは胡乱げな表情になった。
「ティレル様がこの国を出るなら、私も一緒に行きます。連れて行って下さい!」
「何言ってんだ。お前から離れるために国を出るのに、お前がついて来たんじゃ意味ないだろ」
「だから、それが良くないんです! 私から離れたりしないで下さい。ティレル様を誰かが見張ってなくちゃ、これ以上捨て鉢にならないように……」
アナスタシアが必死に声を上げるが、ティレルは呆れた顔をするばかりだ。
「あのな。俺がいつ捨て鉢になったよ?」
「『ノイシュバーン家が女神の末裔ではない』と、私がリンゼル家の屋根裏部屋で告げた時から、ティレル様はずっと捨て鉢ではないですか。……私には自己犠牲を諫めるくせに、ご自分のなさることときたら……!」
「一体何の事だよ?」
心当たりがまるでないといった態度のティレルに、アナスタシアはしかし怯まなかった。
完璧に嘘を突き通せるティレルの、いつものやり口だ。
ここで誤魔化されることを自分に許してはいけない。
「イシク族であることを王宮で公表し、国王の前で破滅の魔女へ対策するよう進言した時点で……、ご自分がいずれ捕縛されることを、ティレル様は既に見越していらっしゃった筈です」
「お前の思い違いだ。そんな予測はしていない」
「いいえ、ティレル様には分かっていました。
貴方に裏切られて怒ったコンラッドが、ルーシェン殿下の演説中という最悪のタイミングで動くことまで考えていらした筈です。……だから、最初に進言しようとしたルーシェン殿下をお止めして、ご自分がまず進言して見せた。
ルーシェン殿下の傷を最小限に浅くする為、国王とコンラッドの憎悪が殿下ではなくティレル様に向くよう、わざと仕向けたんです。……ルーシェン様には王族の真実を告げぬまま、自信を持つように促して。
そんな捨て身の計画、普通の見通しではできません。
……『猟犬』をやめた上でコンラッドに捕らえられたら、殺されるだけじゃ済まないことはわかりきっているのに。
絶対ティレル様は、あの時死んでしまう覚悟でいらした筈です……!」
「………………」
ティレルの紫の目が僅かに眇められた。
アナスタシアは、己の指摘が正しかったことを知る。
―――本当に危ないところだったのだ。
あの日のことを思い出すだけで、アナスタシアは肝が冷え、目に涙が湧いてきた。
「あいつが……コンラッドが、ティレル様の釈放に応じなかったら。あの時の私は、クロムの魔法でコンラッドの心臓を握り潰してしまうところでした」
「………それはおっかねえな」
「それくらい私は激昂していたんです。ルーシェン様もお救いしたかったけど、同じくらいティレル様も心配でした。本当に、ご無事で良かった……
お命を、粗末になさらないで下さい。お願いですから」
涙をティレルに見られないように、アナスタシアは顔を俯けた。
泣きたくないのに目尻から雫は零れて、頬から顎へと滴っていく。
「……………前言撤回だな。お前は何も見えていないようで、実際には周りをよく見ている」
ティレルはもう否定してこなかった。整った顔の中で、その薄い唇が諦めたように微笑を象る。
「……視野を広げろ、と……かつてティレル様に教わったんです」
「………そうか」
繊細な手が伸びてきて、アナスタシアの髪に触れた。
「……昨日に続いてお前を泣かせちまったな。お前が泣くのを見るのは苦手だ……胸が痛くなる」
「……………ティレル様……」
「確かにあの演説の時期、俺は自暴自棄だったな。消えてもいいと思っていた……コンラッド殿下の道具だったことに何の意味もなかったと、思い知った後だったからな」
「無意味だなんて。そんなことはないです。イシク族再興のために、頑張ってきたんじゃありませんか」
「……今思えば。コンラッドが少数民族の再興なんかに指一本動かす筈が無いのはわかりきっていたのにな。王族への忠誠が過ぎるあまり、俺は目を閉ざしていたんだ」
「……別の過去で、ティレル様がコンラッドと一緒にいた時……私が見ている間だけでも、ティレル様はとてもお辛そうでした」
ティレルは苦笑する。
「お前のほうが、もっとヤバいことになってたって気はするが」
「当時のティレル様はご存じでなかったけれど、私には『死に戻り』の魔力がありましたから。余裕があったんです。自分が死ぬまでに、コンラッドの軛からティレル様が逃れられる術が見つかれば、何度も『死に戻り』を繰り返す間に、最終的にティレル様を解放できる筈ですから……」
ティレルの顔色が変わった。
「お前。その時、予め死ぬ前提でそんなこと考えてたってのか?」
「………はい。当時私には、『死に戻り』の力しか無かったので」
「……そうか。――――思っていたより、俺はお前に恩義があるんだな」
口ではそう言ったが、ティレルの表情は辛そうに沈んでいた。
「………その間。身勝手な俺は自分のことだけ考えてたって訳だ」
「――――あの過去の時間の中で、ティレル様をお助けするのに間に合わなかったのは、私の力不足です。でも今回は、まだティレル様は生きていらっしゃる。
……コンラッドからティレル様を引き離せて、本当に良かった。
ティレル様は真面目で優しい人だから。……今のままでは、かつての私のように、コンラッドに潰されてしまうと思った……」
「俺が真面目で優しいかどうかはともかく。どのみち殿下との関係は、確かに俺のほうが先にダメになっただろうな。今までも、自分が不機嫌な時に腹いせに蛇を放ってきてたくらいだから」
「! あいつ…………」
それを聞いた瞬間アナスタシアの体内に炎の如く怒りが燃え上がった。
胃が沸騰しそうだ。
こんなにも蛇を怖れている人に、そんな非道なことをしていたなんて。
「……やっぱり、殺しておけばよかった……!」
手が無意識のうちに、拳を強く握りしめる。
「……おい、やめろ。そんなに手を強く握るな。爪で肌が傷ついちまう」
「………、ぁ……、」
ティレルが、アナスタシアの手を取った。
「俺の事で、お前がそんなに怒らなくていい」
「で、ですけど……」
そう答えはするものの、アナスタシアの意識は別のところに既に飛んでいる。
ティレルは左手にアナスタシアの拳を掴んで、右の手で、白くなった指を優しく押し開いていく。
ティレルの温かくて器用な手指。
「っ……」
その触感に、アナスタシアの体は震える。
心身が弛緩して、ティレルの熱と触感を感じること以外は何もできなくなってしまう。
「だ、大丈夫です、ティレル様。私の手の皮膚は固くて、豆だらけですから、握りしめたくらいでは……」
「そんなこと言ったって、ここまで強く握るのは肌にも筋にも毒だろうが。
……ま、確かに、お前の手は、扇しか持たない貴族の娘の手とは全然違うが。
――――俺はお前の手のほうがずっと好きだ」
「……え……、」
指は全て開いたのに、ティレルの手はアナスタシアの指を撫で続けている。
……『死に戻り』の前のティレルにも似たようなことを言われた。
この方は変わらないのだ、とアナスタシアはそう思った。
『死に戻り』の最中でも、今でも。変わらず自分の手を好きだと言ってくださる。
同じティレル様だ。
手は血に濡れていても。
心は腐っておらず、その奥底に宝石のような良心が光を弾いて輝いている。
「ふ、随分力が抜けたな。機嫌直ったか」
ティレルは微笑して、その手がようやくアナスタシアを離した。
アナスタシアは顔を上げ、ティレルの顔をまっすぐに見つめる。
「ティレル様。
……ティレル様を心配してるのは私だけじゃないです。団長やゼンやルーシェン殿下だって、ティレル様を案じています。みんなちゃんとティレル様を見ていますし、ティレル様はみんなに愛されているんです」
いつか、過去に。
ティレルから与えられた言葉を、アナスタシアは返した。
ティレルの紫の目は揺らいだが、表情は硬いままだった。
「ふん…、どうだかな」
ティレル様は信じてはくれない。
心は痛んだが、それはそうだろう、とも思った。
自分でさえ、言われた直後、素直に飲み込むことはできなかったのだ。
「まあ、今回の件で、ルーシェン殿下を含めて三人、ゼンやクライオスの野郎とも互いに理解が深まったのは確かだな。
あの演説の日、俺は逮捕されてたから、お前がフマに乗ってるところも、コンラッド殿下をとっちめてるところも見てないんだが。さぞかし見物だっただろうに、残念だ。
……お前が俺なんかのために、コンラッド殿下を殺さずに済んでよかった。お前に殺人をさせないというのが、俺たち四人の盟約だったからな」
「ティレル様……、
……『俺なんか』、なんておっしゃらないで下さい。ティレル様は素晴らしい人です。ご自分を貶める必要はありません」
「……………お前なぁ……」
ティレルは呆れたような顔になった。
アナスタシアの顎に手を当てて、ティレルは優しくアナスタシアの顔を固定する。
赤と紫の瞳が視線を合わせた。
「前々から思ってたんだが。お前ちょっと認識歪みすぎだ。
俺を美化しすぎじゃないか? 俺はお前の面倒を長年見てきたエセ笑い野郎とは違うんだぞ。お前が俺を知る機会や時間はそう多くなかっただろ」
「……でも。知っているのです。たくさんの『死に戻り』の中で。ティレル様が親切な人で、曲がったことは嫌いな方だということを」
ティレルが苦味の強い微笑を見せる。
「……誰か別の男の話をしてる。俺は密偵も殺しもやる『猟犬』だったのに」
「いいえ。私が話しているのは紛れもなくティレル様のことです。
……子供が『被告人』に選ばれた時がありました。ティレル様は手を尽くしてその子に裁判を理解させるよう、部下の審問官に指示していました。お時間の無い時だったのに。
私が幾度も同じタイミングでエンダーに殺されていた時も。ティレル様は様子を見に来て下さっていたんです。酒場で酔漢に絡まれて外に連れ出されるのがきっかけの死だったので、五度目辺りで、酒場にいたティレル様に助けを求めました。その時は初対面でしたが……ティレル様は酔漢を脅して追い払って下さいました」
「……そりゃ、気持ちいい酒の席を邪魔されて不機嫌だっただけだろ」
「ええ、そうですね。口ではそうおっしゃいました。でも助けを求めれば、いつもティレル様はその声に応えて下さるんです……コンラッドが絡んでさえいなければ。
ティレル様は複雑な方で……コンラッドの下で、完全な『猟犬』に甘んじることができず、自らの良心が発露して、義賊になっていたのだと思います。市井ではニンジャは大変な人気でしたよ。
コンラッドには、ティレル様がニンジャでいらしたことは秘密だったのでしょう?」
アナスタシアの顎にかかったティレルの手が少し揺れた。
「………だからってそれが。俺という男の罪を消すことにはならねえだろ」
「罪なら私も負ってます。正気を失って沢山の人を虐殺した事もありました。
それに……マヤやクライオス様を、無実と知りながら弾劾して『魔女裁判』で死に追いやったことも。……殺人者は私だったのに」
「…………」
ティレルはその話に心当たりがあった。アナスタシアと出逢う直前に、事情を知っているゼンから聞いた過去だ。
『魔女の道化』となりつつ、イシュとの賭けに勝ち続ける為に必要な戦いだった、と。
「――その世界線はどちらももう存在していない。『死に戻り』で時を巻き戻した今のお前の手は、綺麗なままだ」
「そんなことはありません。私とゼンはよく覚えています。どの世界線だって、私たち以外の人間にとっては一度限りの生なんです……あの過去でクライオス様を死なせた後、ティレル様はその日のうちに私たちを殺しに来ました」
「はぁあ?」
ティレルは心底心外そうな顔をした。
「そりゃお前の夢か幻か記憶違いだ。俺があのニヤけ野郎の仇なんか取る訳無い」
「……ティレル様は、特にゼンに対して怒っておいででした。クライオス様の友人なのに裏切った、と」
「……………」
「私とゼンは、そんなティレル様さえ殺すつもりでいたんです。翌日の『魔女裁判』に立つために、犠牲者が必要だったから。
……ティレル様は、私に触れる資格が無いとおっしゃいましたが。
私にだって、ティレル様と一緒にいる資格はそもそも無いです。だから……今回自分から、ティレル様を好きだと言うことは出来なくて……。
でも。
今のティレル様が、私を女神の代わりとおっしゃりながら、傍にいて下さるのは嬉しくて。
……ティレル様に、私を置いて、どこかへ行ってしまって欲しくない」
アナスタシアは目を閉じた。
涙の一筋が頬を伝い落ちる。
「………身勝手で、ごめんなさい…………」
「――――アナスタシア……」
ティレルの声で、滅多に呼ばれることのない、その呼称が。
アナスタシアの心に天の雫の如く滴り、甘い香りを伴って広がっていった。
「お前が俺に謝ることなんて何一つ無いだろうが。むしろ俺にだけは胸を張ってていいだろ。お前は文字通りお前の命を幾つも賭けて、俺を救ってくれたんだから」
ティレルの言葉がアナスタシアの心の痛みを和らげる。
わかりにくいだけで、この人は本当に優しい人だ。
それでもアナスタシアはティレルの手の中で、首を横に振った。
「……それだって私のエゴです。……当時はどうしてもコンラッドに復讐したくて、その為に……」
ティレルは苦笑した。
「結果的に俺が助けられてるんなら、やっぱりお前は俺の恩人だろ。
お前が俺に負い目を感じる必要は一切無い。
……俺が血濡れた手でお前に触れることを、お前が許してくれることもわかった。
ただな……それでも俺は、お前の隣にいるのは無理なんだ」
「! っ……どうして……?」
ティレルの沈んだ声の内容に驚き、アナスタシアは目を見開いてティレルを見つめた。