ティレルはアナスタシアの顎や両頬に両手を触れたままで説明していく。
「――――俺は人の愛し方がわからない。
コンラッド殿下の傍に長く居すぎたな。大事なものを持つのは則ちあの方にそれを嬲られることを意味するから、心の中に何も受け入れないようにして生きてきた。
お前より以前に、誰かを愛したことも無ければ、愛されたことも無い。
だからまっとうなやり方を知らないんだ。
……俺がお前に執着したら。
クライオスやルーシェン殿下のようにではなく、コンラッドがするように、お前を扱うかも知れない」
「! ――――――」
ざわ、とアナスタシアの血が騒いだ。
最初に想起したのは遠い昔の、『死に戻り』以前の記憶。
空疎で絢爛で支配性が強い、屈辱と破滅に満ちた、コンラッドの手の内にいた記憶。
それから異端審問会に属していた過去で味わわされた、コンラッドの捕虜だった時の記憶。
「まさか……、そんな……こと……」
アナスタシアは思わず呟いた。
その顔からは血の気が引いている。
それを見つめるティレルの目にも、暗い陰が差していた。
「……それも俺の人生だからな。
子供の頃からずっとコンラッド殿下の支配下にあったんだ。
――――人間は学んだようにしか、動けない」
ティレルの危惧は本物のようだった。
「っ………」
アナスタシアの脳裡に。
饐えた黴の臭いが広がる。
『死に戻り』を知るより昔、長らく子供時代を過ごしたあの屋根裏部屋で。
絵本、ぬいぐるみ、ルーシェン殿下との幼い約束。
愛していたものを次々に心から手放した。
――――持っていても、覚えていても、心が辛くなるだけだから。
そして同時に、エヴェリーナの手にした、血濡れた鞭をも思い出す。
あの人も誰も愛さない人だった。夫のリンゼル侯爵に対しても高圧的で、自分の感情が何より世界で優先されるべきと信じ切っていた――――コンラッドと同じように。
ああいう人間と一緒にいると心が麻痺してくるのだ。
あまつさえ、思考も似てくる。
母親のエヴェリーナに影響された継妹のオーラが、自分を手酷く嬲ってきたように。
そしてあの支配と暴力は。
周りの人の精神から、健全な自己肯定感を奪ってしまう。
「俺はお前を手の中に抱いて―――、コンラッド殿下が度々『お気に入り』にしていたように、お前を壊しにかかるかも知れない。
あるいはクソくだらない、相手の身を滅ぼすような試し行動に出るか。
あの方は毎度そうやって、自分の部下や弟妹達を競争させて楽しんでいたからな。
そして俺は。
人との関わり方について、……殿下以外のやり方を知らないんだ」
「………っ…」
どこまでもコンラッドが。
ティレルとアナスタシアの間に横たわっている。
「……ティレル様は、コンラッドなんかとは全然違います! どんなことがあっても、貴方はあいつのようにはなりません……絶対に!」
叫んだが、ティレルに浸透していないのは明白だった。
自分は知っているのに。
幾度も生と死を繰り返したからこそ知っている。
ティレルとコンラッドが似ている筈はない。
彼らはたまたま出逢って、仮初めの利害によって結びつき、同じ時と空間を過ごしたというだけの関係だ。
ティレルとコンラッドは全然違う。
共に仕事をし、私を評価し、私を一個の人間として扱ってくるとき、私がどんな気持ちになるのか。
どちらとも時間を共にしたからこそよく知っている。
コンラッドが真の意味で、他人に親切だったことは一度も無い。
常に徒党を組み、集団の頂点に居座り、聞き心地のいいことばかり言うがそこに実はなく、己の言動の責任は必ず周囲に取らせるように立ち回る。
そして人目に触れぬ処では。
むしろ楽しみながら、他人の傷口を更に痛めつけてくる。
「ティレル様がコンラッドに似るなんて事は絶対に無いです!」
ティレルは仕事に厳しい。
部下の失態はきっちり責任を取らせるが、一方で、己の責務も十分以上に全うする。
クライオスやゼンなど特定の友人を除けば群れるのは嫌いで、枢機卿にさえ危うい毒舌を放ってみせる。それでいて必ず相手からは頼りにされているのだ。……それが渋々と呼べる様子ではあっても。
弱い者に親切で、目端が聞き、無駄なことは一切しない。自分が外側からどう評価されているかも気にしない。それは少数民族のイシク族出身であることや、異端審問官という忌まれる職だったこと、隠密裡にコンラッドの『猟犬』であったことにも起因しているが、そもそもが、他人の噂話などに拘泥しない人なのだ。
偏見も無い。私が魔女だと分かったときでさえ、ティレル様はそれを追及すらせず、見過ごしてくれた。
私は仕事の仕方を、一からティレル様に教えて貰った――――アメ一割ムチ九割の厳しさではあったけど、それ以上の誠実さを以て。
「ティレル様……」
こんなに立派な人なのに。
どうしてここまで私の言葉を受け入れてくれないのだろう。
――――こんなにティレル様の心を打ちのめしているのは誰なのか。
それも私は知っている。
コンラッドだ。
彼から自由を奪い、自己肯定感を奪い、健全な生き方を奪った。
ティレル様はもう既に、コンラッドから奪われたものを取り返すことを諦めている。
そんなことを許してはいけない。
許さない。
――――――――私には、解決できる力があるのだから。
「……やはりカクリヨに行ってきます」
「!」
アナスタシアの口から断固とした宣言を受け、ティレルは弾かれたように反応した。
「やめろ! クロムの力を取り戻すなと言った筈だ!」
「そんなものでは済ませません。ティレル様をお救いするには、もっと前の時期まで戻らないと……」
「! ………………」
ティレルの顔がさっと青ざめる。
アナスタシアは『死に戻り』の力を再び行使するつもりだ。
しかも、
「力を全て取り戻した今なら、クロムの魔力を保持したままで十歳よりもっと手前に死に戻れるかも知れません。二十年前はまだ自分が生まれていないので、現国王がイシク族を虐殺する蛮行は阻止できませんが、……五歳か六歳くらいまで死に戻って、その場でクロムの力でコンラッドを殺してしまえれば……。ティレル様が本格的に『猟犬』として働かされる前に、事態を変えられるはずです」
最後のほうは、もはや託宣とも取れる口調でアナスタシアは告げた。
完全にトランス状態だ。
アナスタシアの紅玉の目は煌々と輝き、火の色より赤い髪は逆立たんばかりになっている。
ティレルは瞬きもせず、食い入るようにアナスタシアを見た。
頭では理解していたつもりだが、目の前のこの娘のことを実は少しもわかっていなかったと、ティレルは初めて気づいていた。
十八歳に過ぎない人間の娘の身体。なのにその脳には、計り知れぬ程の重さの感情と選択、そして数えきれぬ程の生とその終焉が刻まれている。
視野が広いわけではない。逆だ。とんでもなく狭い。
その代わりに、突破への集中力が高く、同じ選択を幾度も繰り返した結果、ごく局所的に驚異的な観察眼を持っている。
人間の姿をし、人間と同じ脆さを持っているが、その選択は絶対に人間の範疇ではない。彼女は国の則を超え、人間としての限界も超えて、それを己の常識として平然と立っている。
―――千六百年の昔に、イシク族の太祖シキがひれ伏し、王家開祖のルキウス・ノイシュバーンが怖れたクロムという存在も、こうであったのかも知れぬ。
人の形をした全く異種のもの。
あまりに異質なものを見て、怖れと同時にティレルは別の事も理解した。
他者を寄せ付けぬ強さを持つが故の、アナスタシアの深い孤独を。
ティレル自身の孤立感などものの数にも入らない。
彼女が愛するもの、大切にしているものは、彼女が生を繰り返す度に全て失われていく。しかもその事を、周りの人間は誰も何も理解しない。唯一彼女と似た視点に立てるのは異能者のゼンだけだ。そしてゼンは。彼女が死を選び、再び生を繰り返すのを全て見据えていても尚、彼女と命を共にする事は出来ない。彼は歳を取らず、死にもしないからだ。
「――――――」
「ティレル様。離してください。翼騎士団の詰め所に行けません」
自分がアナスタシアの腕を掴んでいる事に、指摘されて初めて気づく。
「駄目だ……、行くな、」
「貴方の幸福の助けになりたいんです。カクリヨに行かなくては」
「駄目だ……!」
アナスタシアの腕を強く握り直し、ティレルは声を絞り出した。
「『死に戻り』を敢行したって思い通りの世界線になるわけじゃないだろう! それが出来るならお前は三月前に屋根裏で折檻を受けるような目に遭っていないはずだ。
どこまで世界を遡れても、期待通りの未来を呼び込める訳じゃない……まして、戻った先には魔力が健在のイシュが居て、お前は体力だってまだ無い幼い体に入る事になるんだぞ……!」
「――――繰り返せばいいだけです。望む未来がやってくるまで」
「繰り返すって、死ぬ事をか? 巫山戯るな!」
「……なぜティレル様が怒るのですか。コンラッドの影響を貴方から排除するための『死に戻り』なのに」
「お前の『望む未来が来るまでやる』ってのは、お前が幾度も不幸な死と生を繰り返すって意味だろうが。お前にそんな事させてたまるか!
コンラッドなどどうでもいい! この俺のために、今あるお前の大切な絆を、全て断ち切るような真似をするな!」
「………」
アナスタシアが僅かに首を傾げる。
赤い瞳には変わらず、狂気にも類する盲信の光が宿っている。
ティレルが何を言っているか、全く理解できていないようだった。
「――――いいか、よく考えろ! この石頭!
『死に戻り』したが最後、ゼン以外の奴は皆、お前のことを忘れるんだぞ! ルーシェン殿下やクライオスや翼騎士団の殻付きヒヨコ共や、あのウザ姑メイドのマヤ・カークランドだって!
お前を慕うあいつらから、お前との絆を奪うような真似は止せ!
俺や奴らはそれによって幸福になるんじゃない、却って不幸になるんだ。
次にお前が会う俺たちはもう今の俺たちじゃない。お前が死に戻ったら今の俺たちは消えて何処にもいなくなる。
お前だって奴らを振り捨てたい訳じゃないんだろう?
お前が見る世界と俺たちに見える世界は違う……、『死に戻り』があろうとなかろうと、俺たちにとっては一度きりの生だと、そう言ったのはお前だろう!
お前は……、
俺がお前を愛した事実ごと、俺からお前を奪い去る気か……!」
「! ――――――――」
アナスタシアの紅玉の目が見開かれ、動きが止まる。
ティレルは自分が何を口走ったのかは、その時理解していなかった。
自分を思う余りにアナスタシアが不幸の道へ突進する、それを止めねばならぬという一心しかなった。
「いい加減に目を覚ませ! 赤毛!」
「っ――――」
それは唐突に起きた。
アナスタシアの目の光がふっと弱まった。
かくりとアナスタシアの膝が崩れ、床に倒れ込みそうになる。
「アナスタシア!」
力が完全に抜けた娘の体を、ティレルは慌てて空中で抱き止めた。
「おい!」
「…………、」
揺さぶるが、呼びかけにアナスタシアは応じない。
声が届いているかすら不明だ。
目は半眼に閉ざされて、細い首がぐらつく。
アナスタシアを支えるティレルの手から零れたアナスタシアの腕はだらりと垂れて、完全に弛緩している。
「アナスタシア、……」
血管迷走神経反射性失神。
強ストレスで呼び起こされる、血流低下による瞬間的な失神だ。
女神に類する苛烈な感情を、脆い人間の体では支えきれなくなったのだ。
数分で元に戻る症状ではある。
アナスタシアがきちんと呼吸をしていて、舌を噛んだりもしていない事を確認して、ティレルは取り敢えず安堵の息を吐いた。
「………」
ぐったりと頽れたアナスタシアの体を抱き上げて、ティレルは部屋のソファに腰掛ける。
己の膝の上にアナスタシアの尻を乗せて、完全に抱き込む形になった。
自分の腕の中にすっぽりと収まってしまう、小さな体。
どれだけ彼女が翼騎士として体を鍛えようと、体の大きさは変えられない。女性である以上、身体能力には上限もある。ティレルは相手の体に触れればある程度の能力は分かる。武人としてのアナスタシアは、強いけれども、クライオスや自分には到底及ばない。
何度生を繰り返しても、常に限界を感じながら、アナスタシアは今までやってきたはずだ。
絶望することを自らに禁じて、この小さな体と傷だらけの心で。
「健気だな、お前は……敬服するよ」
抱き込んでアナスタシアに熱を与え、慈しむように、手でその肩や背中を優しく撫でながら、ティレルは呟いた。