TEMPEST魔女TEMPEST魔女【小説】二次創作

胸に小さき花の咲く【8】

【7】【8】【9】(完)

 

 やがて、長い睫毛を従えた瞼がひくりと動いて持ち上がり、ルビーのような赤い目が再び開かれる。
「…ん……ぅ……、
 …………ティレル様………?」
 朱唇が動いて、かすかに名を呼んでくる。
 アナスタシアの眼球が頼りなげに動いて、自分を捜し、ティレルの顔の上で視線が止まった。
 ティレルはほう、と安堵の息をついた。
「気がついたか。……よかった」
 アナスタシアの顔を覗き込み、冷たくなった手を優しく握る。
「…………」
 まだ完全には目が醒めていないらしく、状況が飲み込めていない顔のまま、アナスタシアはティレルに抱かれて、その体をティレルに任せていた。
 やがてぽつりとティレルが漏らす。
「……………悪かった」
 心当たりの無い謝罪を受けて、アナスタシアは瞬きをする。
「……? 何故ティレル様が謝罪なさるのです……?」
「お前が本当はどういう存在か。今まで俺はあまり考えてこなかった。ずっと自分の感情にかまけすぎていたからな。『死に戻り』だけでなく、『時すさびの薔薇』を咲かせたとか、フマを赤く染めたとか、目で見なくとも頭では、お前の事をだいぶ理解していたつもりだったが……勘違いだったな」
「……………」
「お前が気を失ったのは、俺がお前の心に負荷をかけすぎたからだ。……最初に言ったが、女神クロムの力はお前には強すぎる。二度と使おうと思わないでくれ。お前を思いやってやれなくて、悪かった」
「………そんな、こと……」
 体が吃驚したのは別の事が理由だったような気がする。
 思い出そうとしたが、まだ完全に回復していないアナスタシアには記憶を脳裡に呼び戻す事が出来なかった。
 その代わりに、違う事を思い出した。
「でも、証明、できましたよね……ティレル様が、コンラッドとは全然違うって」
「――――――――」
 そういえばそんな話から、今の事態が引き起こされたのだった。
「……そうだな。コンラッド殿下なら、お前を引き留めたりはしないな。女神の力を完璧に取り戻させた上で、マヤ・カークランドでも人質に取って、お前の力を自分の為に使わせようとするだろう。
 確かに、お前が正しい。俺とコンラッドは人の扱い方が全然違う」
 ティレルがようやく納得したと知り、アナスタシアは柔らかく微笑んだ。
「良かったです。これでティレル様は、私から――――」
 私から離れていかなくて済む。
 自分が何を言おうとしていたかに気がついて、急に恥ずかしくなり、アナスタシアは口を噤んだ。
「………………」
 頬を赤く染めて俯き、アナスタシアは体を強張らせる。
 アナスタシアを抱えたまま、その頭上で、ティレルが息を吐く気配があった。
 その腕はアナスタシアの背に回されて。
 ティレルの脚の上に乗せられた太腿と臀部から、アナスタシアは彼のぬくもりを感じた。
 やがて緊張を孕んだ言葉が降りてくる。
「……頼んだら。お前は、……俺の傍にいてくれるか?」
 自分の耳のすぐ脇に。
 呼気の熱と共に、ティレルの言葉が。
「はい。勿論です」
 迷う事無く即答しながら、アナスタシアの口元は柔らかく綻んだ。
 心に歓喜が踊る。
 嘘でも誤魔化しでも願望でも無い。
 己の真心からの、真実の返事。
「ティレル様から頼まれずとも。喜んで、ティレル様のお傍にいます」
 相手に受け入れられているという盤石の自信を持って、返事が出来る。
 なんと幸福な事だろう。
「………あ、」
 その幸福と自信には根拠がある事を、アナスタシアは思い出した。
「さっき、倒れる前――――ティレル様が、何かとても情熱的な事を私に向けておっしゃった気がするのですが、」
 途端、
「はぁー!?」
 耳元でティレルが奇声を上げた。
「馬鹿か! 言ってねーよ!」
 見上げると、ティレルはいつもの涼しげな顔をかなぐり捨て、羞恥で耳まで赤く染めていた。
「私を愛した事実ごと私をご自分から奪うな、とか何とか……」
「言ってねえって言ってんだろ! 聞き間違いだ! ……もう降りろ、俺の膝から!」
「………」
 呆気に取られて、反論する気も失ったアナスタシアが、それでも素直にティレルの上から降りようとすると、
「こらやめろ、降りんな! ……まだ座ってろ、気絶したばっかりなんだぞ……危ないだろうが!」
「……もう平気です。立てますよ」
「――――いいから!」
 ティレルは腕や膝を組み換えて、立とうとするアナスタシアの動きを器用に妨害し、再び己の上に座らせ直してしまった。
 クライオスやゼンよりよほど細く見えて意外にも、鞭のようにしなやかなティレルの体は力強い。膂力では全く勝てないので、アナスタシアは素直にティレルに従う。
「ティレル様……」
 さっきよりずっと互いが密着した座り方だ。
 ティレルの腕が緊張しているのが、アナスタシアにもわかるほどに。
「…………………言ったよ」
 ぼそり、と。
 ようやくティレルが認める。
「お前を愛してるって、言ったよ。……自覚したのは、ほんの昨日だし、気がついたところで……怖くて、今までとても口に出せなかったけどな」
 アナスタシアの胴に回されたティレルの両腕に、力が籠められる。
「……怖い、だなんて……どうして……」
「お前を幸せにする自信も、俺が幸せになる自信も無かったからな」
「………………」
 アナスタシアの戸惑いをティレルは感じる。
 過去の『死に戻り』の最中、俺の自害を見送って、この娘はその後どうやって自らの生を閉じたのだろうか。
 惚れた男に死なれて、その後幾度も『死に戻り』を繰り返す間、その都度どんな気持ちで俺に接してきたのだろうか。
 告白されるほどの近さだったのに、死に戻る度、初対面から始まる俺に。
「……お前の目から見たら違うのかも知れないが、俺から見たら今の状況は信じられないほどの幸運なんだよ。
 ゼンのように、俺はお前の『死に戻り』についていく能力も無いし、ルーシェン殿下やクライオスの作り笑い野郎みたいに、死に戻った先で最初から知り合いでいる事も出来ない。
『死に戻り』………お前が作る小さなきっかけで、俺の愛はあっと言う間に消えて無くなっちまう。
 ……そんな不確かなものに、お前の大変な人生を賭けさせるわけにはいかないだろ」
「わ、私は……、ティレル様のお人柄や記憶や感情が、信頼に値しないものだとは考えた事もありません」
 体を起こし、ティレルの首に両手を回して、アナスタシアは反論した。
 ティレルは苦笑する。
「……そうだな。お前はそういう奴だよ。問題は、俺だな」
「………………ティレル様が……?」
 ティレルは急に真面目な顔になって、アナスタシアの顔を覗き込む。
「お前の気持ちに気づいていながら、それを黙殺してきた。お前に応える自信が無いだけだったのに、……俺はお前を別に好きじゃないと思い込んで、自分の気持ちに蓋をしてたんだ。……傍から見たら、さぞかし滑稽だっただろうな」
「え……と、どういうことでしょうか…?」
 解説されたところで、アナスタシアには今一つよくわからない。
「例え話をするか。
 ……お前に、長らく探し求めていた剣の師匠がいたとする。神にも等しい、最大級に敬意を払うべき存在だ。で、お前は遂にそいつと出会い、そいつの弟子になる。
 問題はその後だ。
 お前、その師匠の寝顔を見たくて寝室に忍び込んだり、移動中に手を繋いだり、別の従者の仕事に割り込んでまで飯を作ったり掃除したりするか?」
「え………と……。しない、ですね………」
「だろ? そういうことだ」
「……………………。…え……?」
 ティレルはむしろ不機嫌そうだった。
「ムカつくぜ。ゼンやクライオス辺りには、俺の気持ちは筒抜けの筈だ。いい笑いもんだ」
 未だ全容が掴めぬままに、アナスタシアの頬は次第に紅潮していく。
「え……ま、待って下さい。
 私が女神の生まれ変わりだから、ティレル様はそうした諸々のことを私にして下さっていたのでは……?」
 ティレルは溜め息をついた。
 ティレルの顔も、赤く火照り始めている。
「俺もそのつもりでいたが、実際は逆だな。
 お前に惚れてたから、お前が女神の生まれ変わりで俺がイシク族なのをいいことに、年端もいかないガキの初恋よろしくお前の周囲をうろちょろしてた。
 ―――そっちが真相だ」
「……………そ、そうだったんですか…………」
 ティレルが恋に不器用なのは間違いないだろうが、気づかなかった自分も相当察しが悪い気がする。
「ティレル様……」
 ティレルは「人の愛し方が分からない」と言っていた。
 恐らく自分も、似たようなものだ。
 ――――魔女と戦うことばっかり意識してて、恋なんて、楽しんだり受け止めたりする余裕も無かった。
 赤い目と紫の目が、羞恥に潤んで互いを見つめる。頬は赤く染まり、息を詰めて、互いの体温と体臭を感じながら抱き合っている。
「……………私、降りたほうがいいでしょうか。ティレル様から」
 見つめ合い続けている事にもいたたまれなくなって、アナスタシアはつい尋ねた。
「あぁん? なんでだよ」
「……………だって、重くありませんか」
「別に。もうちょっと座ってろ。気絶してぶっ倒れそうになったのを支えてるだけなんだから、ただの医療行為だ」
「………医療、行為……」
(以前にも聞いたな……その言葉)
「何だよその顔は。俺が何か変な事言ったか?」
 うっかり神妙な表情になってしまっていたらしく、ティレルに突っ込まれてしまう。
「……いえ。以前、『死に戻り』の最中で、キスをされたときに『医療行為』だ、と言われた事があって……」
「はぁ?」
 ティレルの声が裏返る。
 紫の目にははっきりとした険が生まれた。
「誰だ、お前にそんな事した奴は。――――クライオスの陰険エセ笑顔野郎か?」
(……何故か、不機嫌だ……)
「…ティ、ティレル様、ですけど……………」
「! ……………ふぅん?」
 てっきり照れ隠しで怒り出すかと思ったが、意外にも、ティレルは満足げに唇を吊り上げた。
 悪巧みをしているときの表情に非常に近い。
 その表情のまま、ティレルの整った顔が近づいてくる。
「ティ…、ティレ……っ、……!」
 ティレルの腕の中で、逃れようも無いときに。
 そっと唇が唇に触れてきた。
「ん…」
 最初はほんの少しの時間だけ。
 そして、もう一度。
「………………、」
 触れられたところからじわりと熱が伝わる。
「は……ぁ…、」
 三度目からは、離したくないとでも言うように、ティレルからの接触が深くなった。
「ンっ…」
 触感は唇だけではない。全身を抱き込まれてティレルに包まれ、鼻腔にティレルの匂いを感じ、額や頬にはさらりとした黒髪の感触がある。
「ぁ……ふ…」
 キスへの応え方など知らないが、くらくらとした酩酊感があり、ティレルから逃れる事など思いもつかない。大きな手で頭を支えられて、ゆっくりと唇をついばまれ、開きかけた両唇の溝に、男の舌が優しく当てられてきた。
「ッ……」
 少ししてティレルは口を離し、アナスタシアの顔を覗き込んできた。
「……お前ホントに、キスの経験あんのか?」
「! ………っ…、」
 揶揄する口調ではないが、「経験不足」と指摘されて羞恥以外の感覚が生まれるはずもない。
「……いっ、医療行為だけですっ…! あれだって、ティレル様が、呼吸が出来ない私に、口伝えで一方的に薬をっ……、」
「ふうん。俺が初めてで、俺しか知らないって言うんだな?」
 何故だかティレルは嬉しそうで、アナスタシアは怪訝顔になった。
「本当に他に誰とも経験が無いのか。……コンラッド殿下とは、一番最初は婚約者同士だったんだろ? キスの一つくらいは……」
「ッ……、気色の悪い事を、言わないでくださいっ……!」
 ティレルの指摘は尤もなのだが、アナスタシアは怖気を振るって声を上げた。
「アイツとは、そういう類いの接触はしたことはありませんっ……!」
 抱き締められた事はあるが、それを思い出すだけで嫌な気持ちになる。
 コンラッドは結局、私個人に興味があったわけではなく、何か別の目的で私を婚約者の座に据えたのだろう。今のティレルから感じるような、性的な気配を嗅ぎ取った記憶はない――――幸いにも。
「わかったわかった、……悪かった。
 ――――おまえが俺しか知らないなら、そのほうが断然いい」
 ティレルは苦笑して、謝罪してくれた。
「………、」
 そういうものなのだろうか。
 アナスタシアにはよくわからない。
「アナスタシア。
 ……嫌だったらいいが、俺とするのが気持ちよかったら、ちょっと唇、開けてろ」
「……? ティレル様………?」
 ティレルにキスされるのは嫌いではなく、むしろ心地よい。
 なので言われた通り、唇を半開きにしているところへ、またもティレルのキスが降ってきた。
 唇と唇が触れ、更には舌が、ゆっくりと唇の内側へ忍び入ってくる。
「――――――!」
 味わった事のない触感で、頭の中に火花が散る。
 体中から力が抜ける。まるで骨が無くなってしまったかのようだ。
「ふぁ……」
 ティレルの接触が更に深くなる。歯列の内側にティレルの舌が入ってきて、アナスタシアの舌に触れ、絡んでくる。
「ン……!」
 体内で嬉しさと怖さが跳ね回る。
 見る間に力が抜けてしまう気がして、思わずティレルの体にしがみつくと、背に回っていたその腕が自分を引き寄せて抱き締め、支えてくれた。
 頭の芯が心地よさで痺れてしまう。
 躊躇いながらも舌を動かすと、ティレルの舌が応えてくれて、接触はどんどん深くなる。
「ン……、ん、」
 自分の体にこんな感覚があるなんて知らなかった。
 体熱がどんどん上がってきて、それだけじゃなくて、指先や胸の先、体のもっと深いところまでが、不思議な悦びに疼き出す。
「っ………」
 アナスタシアが自分とのキスに没頭している事を悟って、ティレルの側でも喜びが深くなる。
 自分の惚れてる女が自分の手練で気持ちよくなると、俺のほうでも心地よくなるものなんだな。
 没頭していても、脳のどこかには冴えた思考を残す癖のあるティレルは、的確にアナスタシアの唇を食み、初心なアナスタシアの心をゆっくりと開いていく。
「はぁ……ン、ふ、」
 キスを繰り返しながら、ずるずると力の抜けたアナスタシアの体はゆっくりとソファの上に倒れた。
 上から、ティレルが覗き込んでくる。
(……『死に戻り』の最中にも、こんなことがあった……)
 あのときは床に体を押しつけられて、ティレルに責められたのだ。
 あのときのティレル様は本当にお辛そうだった。
 今は違う。
 いつもは涼しげな美貌が上気して、薄い唇の端に、唾液の名残が残っている。
 ティレル様はものすごく嬉しそうで、幸せそうだ。
「ティレル様……………」
 自分も嬉しい。
 自分も幸せだ。
「愛してる」
 頭上からティレルの声が降ってくる。
「私も、です。私も……ティレル様を、愛してる」
 アナスタシアを見下ろす紫の目が、熱を帯びて潤んでいる。
 ティレルの体が近寄ってきて、再びアナスタシアは抱き締められる。
「アナスタシア……」
 優しい声は、繊細で欠けやすい飴細工のように、甘くて切なくて脆く聞こえる。
「……私が、お守りしますから」
 つい、そう声をかけてしまった。
「ふん」
 ティレル様が鼻で笑う気配があった。
 距離が近すぎて、その表情は覗えない。
「……言ってろ」
「ふふ」
 抱き締められて護られながら、自分もティレル様の胴に腕を回す。

 

【9】(完)