幸福の余韻は何時までも続くかと思えたが、
「……おはようございます、お嬢様。朝食をお持ちしま…し…」
ノックに続いてマヤが入室してきた。
そういえばもうそんな時間だった。
「キャァアアア!」
悲鳴を上げて、マヤは朝食を載せた盆を取り落とす。
食器は音を立てて割れ、食事が床に散乱した。
ああ、勿体ない。料理上手なマヤのオムレツが……
何故マヤは自分を認めて悲鳴を上げ、床も片付けずに廊下に飛び出していったのだろうか、とソファに横たわってティレルと抱き合ったままでぼんやり考えていると、一分もしないうちにマヤは駆け戻ってきた。
台所で最厚刃の肉切り包丁を右手で逆手に持ち、左手と歯を器用に使って、拳闘士のバンテージよろしく手に布をぐるぐるときつく巻きつけ、包丁をがっちりと利き手に固定している。
「お嬢様から離れなさい! この獣がぁ――――!」
迷う事無くソファに突進し、アナスタシアの体を抱いたままのティレルに向けて、マヤは包丁を勢いよく振り下ろした。
「うぉっ」
「マヤ!」
叫んだが、マヤの殺意には一瞬の怯みもない。
――『魔女の道化』になった時より、今のほうが殺意が強いくらいだ。
信じがたい身体能力だが、ティレルはアナスタシアを手放しもせずにひらりとマヤを躱して、マヤの包丁はソファの背に深々と突き刺さった。
「危ねえな、闇雲にそんなもん振り回すと、主を傷つけるぞ」
言いながら、立ち上がっていたティレルは両腕にアナスタシアを抱え上げてしまう。
「ティ、ティレル様!」
自分の部屋で『お姫様抱っこ』をされる羽目になってアナスタシアは声を上げた。
自分を護るための行動を取ってもらっている、とアナスタシアは解釈したが、ソファから包丁を引き抜いてこちらを振り向いたマヤは一層激昂した。
「お嬢様を盾に取るとは卑怯な! 大人しく私に刺されて死ね!」
確かに、マヤがティレルを刺そうとすると、アナスタシアの体は邪魔になる。
「私の仕事を奪うだけでも噴飯物なのに! この上お嬢様を傷物にしようと目論むとは! この恥知らずが!」
「マヤ! 大丈夫だから! ティレル様は私を傷つけようとしてるわけではない……」
追いかけてくるマヤを躱すためにティレルが部屋を走り回るので、バランスを取るため、アナスタシアはティレルの首に強く腕を回す羽目になっている。
マヤの喉から悲鳴が上がる。
「お嬢様! そんなドブネズミのような男にしがみつくのはおやめください! 忌み業の異端審問官なんかにかっさらわれるくらいなら、翼騎士団の作り笑顔ナンパ騎士のほうがまだマシです! いえお嬢様に近づく獣は皆殺しですけれども! とにかくお嬢様から一メートル以内に立つ男は皆死ね!」
(……もう自分が何を口走っているのかはわかっていない気がするな)
「ええいもう、面倒くせえな!」
遂にティレルが吐き捨てて、隙を見てアナスタシアを安全な部屋の隅に下ろすと、スルリとマヤの背後に回って、いとも簡単に包丁を握る右手首を掴んで動きを押し止めてしまった。
「放せ!」
マヤは喚くがティレルを振りほどけないし、暴れる事もできない。
アナスタシアは感心してティレルの技術に見惚れていた。ヒストリカ当代一の剣技を賞賛されるクライオス団長でもあの動きはできないだろう。『猟犬』として磨き抜かれたティレルの技は健在だ。
ティレルはマヤの関節を返して動きを封じながら、手に巻かれた布を器用に巻き取って、包丁を取り上げてしまう。
「刃が歪んで、刃こぼれもしてるぞ。ソファやベッドや壁をめったやたらに刺すからだ。
……主からプレゼントされた大事な包丁だろうが。振り回すならもっと気ぃ使え」
「きぃーー!」
……ティレル様は、とアナスタシアは思った。
異端審問官という公僕として立ち働いていたときは、『猟犬』やニンジャの時に発揮している身体能力は敢えて隠していたのだな。本当に、「隠密」という言葉が相応しい人だったんだ。
今朝のように、異端審問官の衣裳で素早く力強く動くのを見るのは初めての気がする。以前から鞭さばきは見事で、筋力と体幹バランスの良さはなんとなく把握できたけれども。
……持っている全てのお力を、もう隠す必要はあまりないということなのだろうか。
それはそれで、良い事のような気がする。
「お嬢様! 何を笑ってらっしゃるのです! 警吏隊! 警吏隊を呼んでください! 暴漢がお嬢様の部屋に入り込んで狼藉を働いたんですよ!」
「……主の部屋の惨状の原因は百パーセント、乱心したメイドの仕業だろうが。警吏隊呼んだら牢屋に入るのはお前だぞ、ウザ姑」
「んまあ! 何て事を! お嬢様を誑かす泥棒ネズミの癖に!」
「てて! 蹴るな、このヒス女! 主付のメイドだからって手加減してやってんだぞ! 仕事納めに燃やしてやろうか!」
「マヤ! 落ち着いてくれ、私は大丈夫だから! ティレル様も、どうか穏やかに…!」
……この二人は今後ずっとこの調子なのだろうか。
それはそれで、疲れる事のような気がする…………。
* * *
後日、アナスタシアはティレルに尋ねた。
異端審問官の執務室は殆ど空っぽで、執務机とソファしか残されていない。
そのソファに二人は腰掛けて重なり合うように抱き合っていた。
「あの…ティレル様。今の世界線で、私に好意を寄せてくださったのは、一体いつからなのでしょうか」
「あン?」
面倒くさそうな返事をして、アナスタシアを抱きかかえながら、ティレルは瞬きをする。
「……どうでもいいだろ、そんなこと」
「……でも、気になってしまって。ティレル様からすれば、リンゼル家の屋根裏部屋で逢ったのが人生で初対面で、その後も私たちはあまり親しくはなかったように思えました」
「…………」
「ティレル様は現実的な方だから。私に興味を持つに至ったきっかけが、必ずあると思うのです。以前の『死に戻り』の時は、異端審問官として、魔女に対抗する為に協力し合ったので、長い時間を共にしたものですが。
私がティレル様に片思いを言い出せなかったのは、今回の場合、ティレル様が私を好いてくださる機会がなかったから……」
「――――あったさ」
アナスタシアを腕に抱いて、その頭頂部に口づけながら、ティレルが小さな声で言った。
「………?」
「リンゼルの屋敷で出逢ってすぐの頃だな」
「え………」
「お前が俺を守る、と言ったからだ」
「………………私が、ですか……?」
考えてみたが、心当たりがない。
「厳密には。お前は、俺の問いかけに対し『世界を守る』と答えただけだ。
その『世界』の中にたまたま俺も含まれてた、ってだけなんだが。
それで俺には十分だった」
「――――」
「屋敷に行って二度目に、二人だけで逢ったときだ。覚えてるか?」
「――――――あ」
確かにそう言った。
『ティレル様は、死なないでください。これからいくらでも自由に生きられるのだから』
『……世界が終わるかもしれないのに?』
『私が守ります』
アナスタシアはようやく思い出した。
「――――あ、あんなことで、ですか……?」
「十分だろ。六歳からこの方『守ってやる』なんて言葉を言われた事はなかったんだから」
「………………」
「ホントにな。何でなんだか、とは俺でも思うけどな。
おんぼろの部屋に閉じ込められて、かろうじて翼騎士見習いの服だけ着て、ボッサボサの頭で、折檻の痕を肌につけて。
そんな小娘の言う事が、何故か俺には刺さっちまった。
あんまりにも自信たっぷりに言われちまったからかな」
「………それは――――」
ゼンの手引きで、ティレルだけを屋根裏部屋に通し、クライオスやルーシェンには告げられない王家の秘密を告げた時があった。
「王族は……女神の血を引いていない……」
ティレルは非常にショックを受けていたが、彼にだけは伝えておかねばならなかった。
いつの世界線でも、『王族を守る』ことを使命として、コンラッドに過ぎるほどの忠誠を尽くしていたからだ。
王家に隠された事実を知る事で、ティレルに自死をもたらしてしまった時もある。
故に、付け足しておかねばならなかった。
「ティレル様は、死なないでください。
これからいくらでも自由に生きられるのだから」
そう告げたあの時の、ティレルの辛そうな笑顔。
「……世界が終わるかもしれないのに?」
あの時確実に。
私は彼に絶望を与えてしまったのだ。
「――――私が守ります」
世界を。貴方を。
どうやって、などまだわからない。
イシュに勝つ確証もない。
ただ。
『死に戻り』の最中に、愛する人から受け継いだ大切な教えがある。
――――顔をよくしていろ、と。
『顔が悪い奴は負ける』
『どんな状況でも気丈に、胸を張れるヤツが生き残る』
だから。
不安なときほど昂然と顔を上げて前を向いた。
深く息を吸って。
相手の目をまっすぐに見つめて。
必ず勝てると信じて。
決して負け顔は見せない。
――――それが、ティレル様から一番最初に教わったことだから。
「ふふ」
「何だよ? 何が可笑しい」
別の世界線で生き残った目の前のティレルは、怪訝な顔をしている。
「いえ、何でもありません。……そんな小さなきっかけが、ティレル様のお心を掴む事もあるんですね」
「ふん。ほっとけよ。
……本当はもっとガキの頃に、誰かに言って欲しかった言葉なんだろうな。
――――『守ってやる』ってのをな」
「ティレル様……」
「そんな暗い顔すんな。お前の生い立ちだって似たようなもんだろ。全部過去の話だ」
繊細でも大きなティレルの手が、アナスタシアの背を優しく撫でてくる。
そう、私たちはどちらも。
生き残り方しか知らない、傷ついた子供。
「お前のことは、俺が守ってやるよ」
ティレルの優しい言葉がアナスタシアの耳を打った。
「――――――――」
確かに聞きたかった言葉だ。
貰えるその言葉を。
本気だと信じられる幸福。
「この先ずっとな」
「はい。お願いします」
アナスタシアはティレルを抱き締め返した。
ティレルの抱擁が深くなる。
互いの腕の中で、互いの鼓動が聞こえる。
「――――」
どちらから、ともなく息が漏れて。
二人はそっと唇を重ねた。
今日が最後の出勤日だった。
部屋の主だったティレルが、夕刻には持ち帰るはずのイシク・ルクフラムスが。
窓からの明かりを弾きながら、ささやかに咲き続けていた。
(了)
後書
『死に戻り』するたびに初対面になるティレル様
テン魔女だけでも5人くらいティレルがいる
真正EDとも言うべき『凍土』でさえ初対面同然で、エピソードを積み重ねる尺が取れないので『凍土』のティレル様はかなり強引かつ『徒花』とは印象が違って見える
自分が好きなのは『徒花』特にⅠ・Ⅱの、
年下ヒロイン(※狩りとバトルが出来る野獣)を
自立した仕事の出来る人間に育ててくれようとするリスター審問官なのだが、彼は『凍土』のティレル様とはだいぶ違っている
徒花Ⅳの裏稼業がバレた後の猟犬服ティレルも実は口調とか結構変えてあるのであそこのティレル様も別人だ
そもそも『凍土』と違って『徒花』はティレル側にアナスタシアが好きだという自覚が全然ないのだ
あんなにキスとか手に触ってキスとか描写だけは他キャラよりあるのに
(というか本文にも書いたけど真ED前にキスまで踏み込む手の早い男はティレル様だけだ)
徒花ティレルは「言葉(自覚)より行動(感情)が先行するタイプ」で、地の文を丁寧に読み込んでいかないと、なかなかティレルの心の動きが推し量れない
地の文を拾いまくっていった時にはメチャクチャいい人なんだけど、印象の強い発声ゼリフこそは無自覚と天邪鬼と意地悪ツンデレの洪水なので……損するキャラだなあ、そこが好き
あとヒロインへの愛に無自覚なせいか関係性の結び方は依存的ではなく自立的でそこも好き
『凍土』以降(プレイしてないけど多分「暁」でも)は恋愛ゲーの性質上どうしても依存型に移行していくだろう…ので、私は却って『徒花』に対するこだわりが強い
で、自分の妄想だけでもどうにか『凍土』エピソードに『徒花』ティレルを突っ込めないかなーと思って考えたのが「胸に小さき花の咲く」と続編「祝福の庭」
ティレル様の見通し能力が高すぎて、『死に戻り』記憶がなくても、過去の自分のやらかしをED後のアナスタシアから推察できた場合には
「この女…すげえな」(※色んな意味で)
みたいになってあっという間に他3人に追いつき追い越してくれるのではないか…とファン的に都合良く考えてみた
『徒花』でティレルは恋に無自覚だったので「胸に〜」のティレルも初期はそっちに寄せた
ここが公式『凍土』と大きく違うところ
一方で『徒花』ティレルは他人の感情を読み取るには敏だったのでこれも採用
『猟犬』稼業が嫌いだったことも採用
恋愛ポテンシャルが低いところも採用
この状態で「付き合う」まで漕ぎ着けたのが「胸に〜」の内容
ここまで書いてやっと「愛してる」のセリフが言えて他3人の真EDと並んだ
書きながら気づいたこと
『徒花』を真EDに無理矢理接ぎ木すると、コンラッドの影響力が強すぎてアナスタシアが5股状態になってしまうこと
コンラッドがティレルの精神にどういう影響を及ぼしていたのか…とつらつら考えて、3話に『魔女の道化』妄想としてそうした思想を入れた
いつからティレルがコンラッドに仕えていたか、テン魔女内では明記されてないが、大人になってからではなく少年時代からコンラッド配下にあったという設定にした
ティレルが恋愛に疎いのは、生来の性格だけでなく、恐らく『猟犬』という環境の所為もある
『隠密なので利用価値のあるもの以外は傍に置かない、惚れた腫れたは御法度(敵味方に対して弱みになるから)』
という、それこそ時代劇の忍者みたいな設定なのかな、と
アナスタシアも『凍土』の察して系ヒロインより『徒花』の、イノシシ呼ばわりされてる行動力ありまくりの突進野獣ぶりが好き
児童期から守ってくれまくるクライオス編との対比もあり、社会人として扱われるティレル編ではわりと強ヒロインの印象
そこも「胸に〜」で踏襲した
「胸に〜」の内容を書き終えて
もうちょい先の関係性まで書けそうだな、と思って書いたのが「祝福の庭」
最初は同一タイトルで長ーく書き続けていたんだが、割ったほうが多分いいと途中で気がついた
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