| 2024/12/05【全9話/完結】続編▶【祝福の庭】 ティレル×アナスタシア/[決別の回顧録Ⅳ]直後 『徒花Ⅰ~Ⅳ』ティレルを『凍土』に接ぎ木 |
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「………」
晴れた日の夜明け時。
女神クロムの生まれ変わり、己が定めた新たな「主」であるアナスタシア・リンゼルの寝室に忍び込んで、ティレルは彼女の寝顔を見下ろしていた。
気配なき侵入は元『猟犬』としての彼の特技である。アナスタシアの隣室に暮らすメイド、マヤ・カークランドの警戒と敵愾心を避ける必要もあり、ティレルは近頃ますます慎重にアナスタシアの部屋に忍び込むようになった。油断はできない。一度など主を起こしに来たマヤと鉢合わせしてしまい、主の寝姿を前に、とんでもない修羅場を生み出してしまった。
しかし今。街が目覚める前のこの時刻は、アナスタシアやマヤを含む全ての者がまだ眠りについており、辺りには静謐が保たれている。
すうすうと、主の規則正しい寝息がティレルの耳に聞こえてくる。
燃え盛る炎よりも色濃く、流れ出る血よりも更に鮮やかな赤い髪。男と見まがうほどに短く刈り込まれているが、それは内面から溢れる彼女の魅力を些かも損じない。そもそも、この娘が持つ生命力は同年配の町娘たちなどよりずっと鮮烈で、闇の道を長らく歩んできたティレルには眩しいほどであった。髪と同じ色の長い睫毛が、陶器のように白い頬の柔肌に濃い影を落としている。瞼を開けば現れるその瞳は王冠に戴く巨大なルビーの如く、周囲を圧するほどにまばゆく輝く。形良い唇に化粧気は全く無く、それでいて貴族の娘がどんなに望んでも得られぬほどの不思議な気品と色香がある。
アナスタシアの色は赤。
それは女神クロムの色だ。
そして魔女の色でもある。
赤いその目に陰惨な孤独を宿して、ティレルやクライオス達を睨みつけてきたときもあった。
白い肌に痛々しい鞭の痕を残し、服とも呼べぬような不潔な襤褸布を纏いながら。
今や彼女は己を虐げてきた全ての危害者から離れ、安全な場所で護られている。
ティレル、クライオス、ゼン、ルーシェン殿下の庇護の下に。
(アナスタシア、様)
つい先日まで呼んだこともなかったその呼称をティレルは口の中で反芻する。
女神の前身が判明した途端に態度を急変させたティレルに、現在のアナスタシアは非常な戸惑いを見せている。
――――能吏だが口の悪い上司。
アナスタシアが告げてきたティレル本人へのかつての印象がそれだった。聞けば、異端審問官として幾つかの『魔女裁判』に二人で関わったのだと言う。
それはティレル本人の記憶にはないことだ。
『…無論承知しています。
貴方が認めてくれた私も、私を認めてくれた貴方も、今はもう何処にもいないのです。
――――ティレル様』
あの娘が口にしたのは、異端審問官の部下にしか呼ばせたことのない呼称だった。
薄暗い屋根裏部屋に自ら望んで幽閉の憂き目に遭いながら。
アナスタシアは寂しげにそう呼んできたのだった。
「………」
ティレルは黙然と、ただ『貴族の娘』と呼ぶにはあまりにも多くのものを抱えて眠るアナスタシアを見下ろしていた。
リンゼル侯爵家の長子でもある彼女は。
順当であれば、ルーシェン殿下のお妃候補。
あるいは、翼騎士団で八年来彼女を部下として世話してきた侯爵家嫡男クライオスや、『死に戻り』の記憶を共有している異能者ゼンの恋人となることが相応しい娘。
殿下、クライオス、ゼンの三者が三様に、アナスタシアを尊重し、陰に陽に思慕しているのは、敏いティレルには自明の事であった。
だがアナスタシアの心は自分に向けて大きく傾いている。
そこまでティレルは看破していた。
――――では自分は?
ティレルの強い紫の目に、痛みにも似た光が宿る。
自分はアナスタシアの恋人になるに相応しいのか?
感情。絆。立場。欲求。それぞれの意味で。
(………)
主の心は知っている。
世界で唯一人のイシク族である自分は、女神に使える義務を負う。
であれば。
女神クロムの生まれ変わりであるアナスタシアは――自ら忠誠を捧げると定めた相手なのだから、ティレルはアナスタシアの心に応える義務を負うている。
と思う。
だがそちらへ踏み出すには強い躊躇があり、ティレルは今一歩も動けなくなっていた。
……自分の経歴にせめて。
コンラッド殿下の『猟犬』であった過去がなければよかった。
溜め息と共に、ティレルはベッドに手を伸ばす。
男にしては細い、器用な手指が、もう少しでアナスタシアの髪に触れそうになる。
そのとき。
「ん……」
娘の形良い鼻から小さく息が漏れた。
覚醒は近そうだ。
ティレルは伸ばした手を引っ込めた。
息を整え、笑顔を作って、つくり声で呼びかける。
「もうお目覚めですか。おはようございます、アナスタシア様」
「アナスタシア様、こちらへ」
「は、はい」
翼騎士団の詰め所へ向かう道中、ティレルはアナスタシアの手を引いて歩いて行く。目抜き通りの市場は人通りが多く、石畳は敷いてあっても至るところに売り物が積まれ、壊れた籠や野菜くずや人々が捨てたごみなどが散乱していて足場は悪い。
とはいえ、動きやすい翼騎士団の衣裳に身を包んだアナスタシアは本来エスコートなど全く必要はない。弓で獲物を狩り剣を振るうその四肢には筋肉が付き、武器の扱いや運動能力は男にさえも競り勝るほどだ。クライオスによれば、四年に一度の武術大会さえ優勝が狙えたほどの腕前であるらしい。
それは俺にもよくわかる。
男より小ぶりでも、全く令嬢らしくない豆とたこだらけの力強い手を軽く握りながらティレルは思った。労を惜しまず働く者の、真面目さを証明する手だ。手から伸びるしなやかな腕はティレルに殆ど体重を伝えず、娘の体幹の良さにティレルは感心する。しかもその筋骨を多う肌は、十八歳の娘に相応しい張りと柔らかさを保っている。
そんなアナスタシアはだが顔を赤らめて俯きがちで、自分とはなかなか視線を合わせない。
彼女の手からわかることはまだある。ティレルが手を握ると彼女は心拍が上がり、短く切り揃えた爪の先まで紅潮してくる。指先は緊張し、特に親指が、ティレルの手を掴み返したいのにそれが果たせないとでも言うように頼りなく揺れている。
エスコートの不要なアナスタシアが自分の手を振り払わないのは、俺の手を離したくないからだ。羞恥は強めているが、それ以上に、ティレルと物理的に接触している心地よさに負けている。
――――この方は本当に俺がお好きなんだな。
他人事のように、ティレルはそう思った。
一方のティレルからすれば。
アナスタシアの手を掴むのは護衛のためだ。
彼女を『女神』と呼んで寄ってくる有象無象の市民を彼女に近づけさせぬ為。無邪気な信奉を見せる彼らの中に、コンラッドの手の者が紛れていないとも限らない。そもそもアナスタシアの意を汲んで、今後数ヶ月で、『アナスタシア=女神』という思想を市民から払拭することを約束している。
しかしイシク族の自分にとってアナスタシアは女神クロムそのものであり。
クロムはイシク族の俺にとって世界の全てである。
―――ただその思考を。
クロムと同じ存在であることを否定するアナスタシアは、全く喜ばないだろう。
アナスタシアが望むのは『女神』として信奉されることではなく、『一人の娘』としてティレルに愛されることなのだから。
恋愛。
今まで自分の人生に全く存在していなかった感情だ。
そしてこの、目の前の敏い娘は。
そうした俺の心がわかっているから、そもそも己の恋心に蓋をして、自覚もせず見過ごし切ってしまうつもりで俺の『女神ごっこ』に付き合っている。
(…………)
むしろありがたいと思えるはずの気遣いをアナスタシアから受けて、何故自分の心の隅に苛立ちと焦燥が生まれるのかわからず、ティレルはアナスタシアからは見えぬ位置で、眉を顰めて小さく舌打ちをした。
これは夢だ。
「アナスタシア」
いつもは口の悪い、露悪的なティレルの、意外にも純朴で優しい声音。
「いい名だ。もっと呼んでやれば良かったな。最初に赤毛って呼び始めたせいで、気恥ずかしくなった」
消えてしまった過去に実際に起きた、幸福な夢。
国外逃亡を唆した自分に、彼は神妙な顔つきをしてみせた。
「……俺が誘ったら、お前はついてきてくれるか?」
「はい」
即答した。
自分にとっては嘘の誓いでも。ティレルに対しては真実の返答。
そしてそのことが、自分の心にも悦びをもたらしていた。
「……ホントに意味分かってんのか? これは上司命令じゃないんだぞ」
「分かってると思います。リスター審問官はずっと一緒にいて下さるということですよね?」
「…………ンなこっぱずかしいこと、直球で聞くんじゃねーよ!」
ご自分から話を振ってきたくせに。
研ぎ澄ました刃のように怜悧で、人を寄せ付けぬほど冷たくて、どこか影を負う雰囲気。
その奥に隠された親切心。あどけない少年のような世慣れなさと、まっとうな良心。
私だけがそれを知っている。
『死に戻り』によって時は戻り、ティレル様と過ごしたあの時間は何処にもなくなってしまった。
「………………」
慣れなくちゃならない。
一族を虐殺されて六歳の頃から頼る者なく暮らし、イシク族の掟と王族への忠誠に縛られて生きてきたティレル様。
彼を縛るものから彼を自由にしたくて、必死に藻掻き、最後はティレル様と伴走するようにそれを成し遂げた。
喜んでくれるとまでは期待していなかったが、あの彼なら、その後の未来を受け入れてくれると思っていたのに。
生きるために必要だった柱を折られて、ティレル様は自らを死に追い込んでしまった。
……あの後、幾度も『死に戻り』を繰り返した。
今目の前にいるティレル様は、私と絆を結んだことのないティレル様だ。
私は異端審問官の部下ではなく。
『女神の生まれ変わり』と『女神に仕えるイシク族』という繋がりによってのみ、関係を結ぶ間柄。
それに慣れなくちゃならない。
そして考えなくては。
どうしたら、今のあの方が、幸福になれるのかを。
だって過去の私は。
ティレル様が幸福になれる道を捜して、あの辛かった二度の『魔女の裁判』を乗り切ってきたのだから。
泣きたいような気持ちになりながら目を覚ますと。
もはや日常となりつつある、ティレルの笑顔が眼前にあった。
「おはようございます、アナスタシア様」
かつては見たこともないような満面の笑み。
だがその心の奥底には、過去の彼と変わらぬ虚無が巣食っている。
その虚ろをどうしたら満たしてやれるのか。
アナスタシアはそれを考えなくてはならなかった。
「アナスタシア様。俺は貴女の望みは何でも叶えて差し上げたいと思っています」
そんなことを言わないで。
私の望みは他ならぬ貴方にこそは叶えられない。
「富を欲するなら、際限なくご用意します。王座を望むなら、ノイシュバーン家から奪取しますし、想い人がいるなら籠絡してみせましょう」
そんなこと望んでない。
振り向いて欲しい想い人は余所にはいない。
そもそも、愛する人がいるとして。
それを「籠絡」などと呼べる手法で手に入れたいなんて絶対に思わない。
―――だってそれは、
「憎い相手がいるなら、貴女が手を汚す必要はない。俺が確実な手段で、生まれてきたことを後悔するほどの死を与えます」
そんなことを貴方にさせるのは、
「何でも貴女が望むままに……」
「やめて……!」
ついに心の声がそのまま叫びとなって喉から迸った。
「私はコンラッドになりたいわけじゃない……!」
『女神』と『イシク族』、その関係性を強めて、新たな鎖でティレルを縛りたいわけじゃない。
誇り高い彼が『忠誠』の名の下に、身を捧げるに相応しからぬ者に『盲従』する。
あの過去で、ティレルから一番取り払いたかったのは、その状況だった。
彼には自由になって欲しかった。
なのに。
彼には届かない。
絶対に。
「………もういいです」
拗ねた幼児のような拒否の声が、つい口から漏れた。
「は…?」
呆気に取られたティレル様の声。
それはそうだろう。この人の前でこんな態度を取ったことはない。こんな子供っぽい感情に陥るのは、屋根裏部屋でルーシェン殿下にバカ呼ばわりされて以来だ。異端審問官の部下としてお傍にいたときだって、ティレルに向けてここまで幼稚な感情を発露させたことはなかった。
「……今のティレル様には。私の本当の望みは叶えられないし、そもそも、私の望みが何かもわかっていただけてないと思います」
「………」
「だから私の中にある、別の形の望みを告げるなら。ティレル様には、そのお心を虚無以外のもので満たして欲しいです」
「……アナスタシア様、」
「でも多分、それも、ティレル様に叶えていただくことは無理な話なんです。一方的で身勝手な、私ひとりの願望ですから。ティレル様には、義務でなく、好悪による生き方を選んでいただきたかったけど、」
「好悪?」
鸚鵡返しにその言葉を言われた途端に、アナスタシアははっと息を呑む。
それまでの熱は忽ち冷えた。
――――言い過ぎた。
そして心の別の場所で、強い熱が炎となって燃え上がる。
強烈な羞恥。
今のティレル様に伝えても通じない言葉を言ってしまった。
「……確かに俺は、好悪の情で仕事や生き様を選ぶ質ではありませんが、」
「……それはわかってます! だから…もういいんです…!」
自分を選んで欲しいなどと絶対に言えない。
ティレル様にとって、私の声は『女神』の声。
自分の思いを告げたら。
恋や愛情などとは全く無縁のところで、ティレル様に行動を『強制』させることになってしまう。
それはコンラッドがティレル様にしていたのとまったく同じことだ。
「……話は終わりです…! 私、少し頭を冷やしてきます!」
言うなりティレルの顔も見ずに、彼の執務室を飛び出した。
「……アナスタシア様!」
背中に投げられた彼の声は、やや茫然としているように感じられた。
異端審問官の部署が入る建物は、今回の生では未見の場所でも、過去の『死に戻り』前の記憶によって勝手知ったる場所だ。
階段を駆け上がり、あまり人の来ない屋上に足を踏み入れる。
「………」
夕刻近く。山間にあるヒストリカ国の首都では既に日が陰り、王宮近くのこの場所でさえ周囲は薄暗い。街灯が灯る路地のそこここから、夕食を用意する匂いが立ちのぼっている。
鼻の奥がツンと痛い。
こんなこと程度で泣いていられない。アナスタシアは首をぐいと上げて、必死で涙を抑えた。
彼との絆が失われたことが。
こんなに辛い気持ちを生むとはついぞ知らなかった。
(……ゼンは百年も、これを続けてきたんだな)
ティレルやクライオス、いやそれ以上に自分と共に戦ってくれた、白い髪の青年をアナスタシアは思い出す。
(私には……とても無理だ)
せめて自分が、女神の生まれ変わりなんかじゃなきゃよかった。
仮初めの魔女の力を持っただけの、ただの娘であったなら。
以前のティレルと同じ関係性を結べるかも知れないと、期待することくらいはできたかもしれないのに。
(いや……あの力がなければ、今回のティレル様だって、お救いすることはできなかった)
赤くなったフマと、クロムであった頃の記憶。そしてその魔力。
イシュやコンラッドを屈伏させるにはどうしても必要だった。
今はもう、カクリヨのルーンに預けてきた力である。
後悔はしない。
でも。
「……こちらにおいででしたか。アナスタシア様」
「……ティレル様……」
頭が冷えた頃を見計らったのだろう。ティレルが姿を現した。
ティレルは躊躇いがちにアナスタシアに声をかける。
「……貴女が私にどうして欲しいのか、それは何となく分かるような気がいたします。ただ……貴女も仰るとおり、私には少し、心が麻痺しているようなところがありまして」
それは無理もない。
身命を賭して仕えてきたノイシュバーン王家が女神クロムの血を引いてないと、今のティレルが知ったのはごく最近のことだ。
以前の体験を元に、ティレルを案じたアナスタシアが、証拠と共に告げた事実。
『女神に仕えるイシク族』であることに依存するティレルにとって、『女神の血を引くノイシュバーン家に仕える』ことは至上の命題だった。その支えを失って、以前の時の中で彼は自害してしまったのだ。
アナスタシアが今のティレルに対し、もっとも心配しているのはそこのところだった。
酒を飲んで荒れたり、ヒストリカ国を出奔してしまうのならまだいい。
虚無に飲まれてティレルが命を絶ってしまったら、あのときと同じになってしまう。
それだけは避けたい。
黙り込んでいるアナスタシアに、ティレルは続けて言葉を紡ぐ。
「アナスタシア様さえよろしければ、少しお時間をいただきたく存じます。己の心情をよく分析いたしまして、のち、お心に叶うよう、適切に対処いたしますので」
「………」
ご自分の心のことなのに、まるで仕事の作業みたいに。
「……わかりました」
そう答えるしかなかった。
とにかく絶望だけはしないで欲しい。
アナスタシアはそう願った。
絶望。
破滅の魔女であるイシュがよく使った言葉だ。
そんなことをぼんやりと考えていると、
「それでは、アナスタシア様。お手を」
外を歩くときと同じように、ティレルが自分の手を引こうとしてくる。
「え、建物の中なのに、ですか」
「もう夜の帷が下りますよ。地上に戻るための階段は暗いので、危険です」
「………」
アナスタシアは俯いて、黙ったまま、ティレルが掲げた掌に己の手を載せた。
無くなった時の中で、かつてティレルが、自分の手を取って教えを説いてくれたことがある。
毎日手を触れている今より。あのときの一瞬のほうが幸福だった気がする。
アナスタシアの頬は赤らんでいたが、唇は引き結ばれ、眉根には皺が寄っていた。
そんな自分の様子をティレルが瞬きもせずに見下ろしていることには、アナスタシアは気づかなかった。