「クソムカつく! あンの失恋野郎ども! 嫉妬心丸出しの負け犬のくせに、物わかりのいい父兄面しやがって!」
小会議室からようやく退室を許されて、ティレルは怨嗟の毒舌を吐く。
ルーシェン王子の秘書官に案内された部屋では、契約書を複数枚書き終えたアナスタシアが、紅茶と菓子でもてなされながら休憩を取っているところだった。
「ティレル様! お疲れ様でしたね。他の方々とはどんなお話をなさいましたか?」
屈託のないアナスタシアの問いに、ティレルはようやくそれまでの毒気を抜かれる。
「別に、ロクな内容じゃなかったさ。お前を脇からかっさらった所為で、連中から吊るし上げ食らってただけだ」
「えっ? どういう事ですか?」
アナスタシアは要領を得ない。
ティレルは平然とアナスタシアに決定事項をぶつけた。
「俺たちは正式に男女交際関係にある――と、ルーシェン殿下のお墨付きを得た」
「ぶっ」
アナスタシアは飲みかけていた紅茶が喉に絡んでむせ込む。
「ど、ど、ど、どういうことですか!」
「どういう事もなんも、そう追い詰められちまったんだよ。却って悪い事ができなくなっちまったな」
「わ、悪い事って……そ、そもそも…どうしてルーシェン殿下が……」
「王族から承認を貰う事自体は別に普通だろ。交際つったって実際には貴族の家同士の政略婚が殆どなんだから。許可やったり取りに来させたり、そういう事をして王族は影響力を発揮する。勝手に貴族同士が結婚して勢力拡大しないよう、目を光らせる必要があるのさ」
「……わ、私たちには関係ないじゃないですか……ティレル様は貴族じゃないですし……」
「そう。だからまあ、これは俺に対する嫌がらせというか、牽制だな。あるいは愛情だ。……そこは確かに、お前が言った通りだったな」
「………?」
小さく呟いたティレルの最後の言葉は、アナスタシアには聞き取る事が出来なかった。
「それで? お前はどっちにするんだ?」
ティレルが腕組みをしてアナスタシアを見下ろしてくる。
「? どっちって、何の話ですか?」
「俺をお前の婚約者にするのか、それとも愛人にするのかって話だ」
「! な………、な………、」
何故そんな話になるのだ。
アナスタシアは全く理解できずにひたすら赤面してティレルを見上げる。
だいたい告白をしあって、互いの心を確認してから五日しか経っていない。なのに何故、恋愛がルーシェンにまで知れ渡って公になった上、婚約者か愛人の二択、などという三歩先に進んだ選択を求められなければならないのか。
「いいか。ヒストリカ貴族社会に於ける未婚の貴族令嬢のお相手に、『結婚を前提としないフラットな自由恋愛の恋人』なんてカテゴリーは存在しない。そんなもんは愛人の範疇に自動振り分けされちまう。
ということはだ。貴族令嬢の恋人とはすなわち『結婚を前提とするかしないか』という差異によって、『婚約者か愛人か』の二択になる。それだけだ。
――――で、どっちだ?」
「ど……、ど…、」
どっちだ、なんて軽く言われても。
婚約者? 愛人? 結婚?
何がどうなってるのかさっぱり掴めない。
「ど、どう違うんです、婚約者と愛人で、」
惑乱のままにアナスタシアはつい妙な事を口走ってしまう。
ティレルは至って冷静に答えた。
「そうだな。婚約するって言うんだったら、俺はお前に指輪と花束を買ってくる。愛人だったら、指輪は不要だな。花は……」
ティレルは首を巡らして周囲を見た。
視線の先で、大きな白磁壺に生けられたオレンジ色の百合が咲き誇っている。
「欲しいか? ユリ。あれならタダで済む」
ニヤリと笑ってティレルに言われたが、
「いりません! 引き抜かないでください!」
アナスタシアはそれが冗談だと気づく事も出来ないほど混乱している。
「け、結婚だなんて、早すぎる……。まだ何も、決めてないのに」
両手で頭を抱えてアナスタシアは煩悶する。
「お前の継妹だって十六歳でデビューしただろ。貴族の娘なら、十八で結婚は別に早くもなんともない」
「そういう意味じゃありません! ……結婚なんて、考えた事もなかったのに!」
「別に今日明日結婚するって訳じゃない。婚約だけして、日程は日延べしとけばいいだけだ。……だいたい婚約自体、お前別に初めてって訳じゃないだろ」
「あんなの大昔の話ですし、そもそもノーカンです! 気色悪い事言わないでくださいって、言ったじゃないですか!」
脇にルーシェン王子の秘書官が控えているような場所でコンラッドの名など絶対に出せないので、アナスタシアはもどかしげに叫んだ。
「だ、だいたい、愛人を作るなんて私には向いてないって言ったのはティレル様なのに、」
「そうだが、まああれから状況も大分変わったしな。お前も俺も肝が据わったから、そっち方面でも行けるとは思うぜ。ルーシェン殿下やクライオス達は正統な婚約だけを前提にしてるが、お前の人生なんだから損得はよく考えろ。俺を婚約者にするのと愛人にするのと、どっちがお前にとって得なのか、そこだけ考えればいい話だろ」
「……そ、損得って……」
そんな言い方。
「俺たちが先日話し合って決めたのは『一緒にいる』という一点だけだ。俺としては対外的に秘された状況でもう少しこの状態が続くと思ってたんだが、既に明るみに出ちまった。
……ルーシェン殿下とも話したんだが、お前がこの国を出てどこか余所で暮らしたいなら俺はそれに従う。しかしヒストリカに残留するなら、俺もお前もヒストリカのしがらみからは自由ではいられない。
ルーシェン殿下の後ろ盾があっても、種々の背景がある俺と結婚するというのはデメリットも多いぞ。身分差から言えば愛人のほうが妥当だし、お前の名誉もまだ傷つかない気もするが…、ただ貞操に関しては、お前の評判はどっちみち地に落ちちまうな。どうする?」
「………」
ティレルの話を聞きながらアナスタシアは己の当惑が変質していくのを感じる。
――――ティレル様は私と結婚したくないのだろうか。
ティレル様はご自分の話をせず、私が主体の話ばかりしてくる。彼は私の部下や隠密ではないのに、ご本人は私の影ででもあるかのように振る舞っている。
ティレル自身がまるで感情のない道具か何かであって、損得でその使用不使用を私が決めてよいかのような言いざま。
……これは私だけでなく、二人の話なのに。
何故だかアナスタシアは少し悲しくなってしまった。
「……愛人がいる生活なんて。私には無理だと思います。そんな状況を選ぶくらいだったら、きっと、ティレル様とは別れたほうがマシです」
「――――そうか」
想外に気落ちしたティレルの声が響いた。
どうしてそこまで、と考えてアナスタシアは思い至る。
まさか本気にした!? 『別れたほうがマシ』って言った部分を!?
「勿論それもお前の選択だ。俺をお前が嫌と言うなら、俺は受け入れるだけだな」
「ちょ、ちょっと待ってください! 私は『別れる』とは言ってません!」
慌ててアナスタシアは顔を上げ、ティレルの腕を服ごと掴む。
だいたい話の進め方自体がおかしいのだ。
結婚は私一人でするものではないのだから、私一人の意見だけではどうにもならない筈だ。
「そもそも。ティレル様のほうはどうなんですか。私と結婚したいんですか、したくないんですか!?」
「! ッ………、……う、」
アナスタシアにまっすぐに顔を覗き込まれて、ティレルが目を見開いて硬直する。
「ティレル様こそ、私に教えて下さい。私の夫になりたいのか、愛人になりたいのか、どっちなんですか!」
「――――――――ハッキリ聞くなよ! ンなこと!」
顔を真っ赤にしたティレルが声を上げて、アナスタシアは動きを止めた。
「お、俺のことはどうでもいいだろ! 俺は別にどっちだっていいんだ、俺にとっては同じ事だ、だから聞くな! ……お前の返事がどうであれ、俺は、お前の望みに従うだけだ!」
「――――ティレル様!」
アナスタシアが目を逸らさないので、遂にティレルのほうが顔を背けた。
整った薄い唇から、小さく声が漏れる。
「……お前の傍にいられるなら、俺はどっちだっていい……」
紫の目は潤んで、頬は耳まで赤い。
――――この人は。
真の意味では、ご自分の感情を露わにすることに本当に不慣れなのだな。
クライオス団長と同い年だなんて信じられない。
私より年下のヒューゴやミッチェルだって、もう少しあっけらかんと自分の好意の情について語ることが出来るだろう。
自分の感情を大事にしてこれなかったティレルの辛い過去を、アナスタシアは思いやった。
「――――ティレル様。私も、本当のところは、どちらでもいいのです」
「………………」
「婚約してもしなくても。結婚してもしなくても。ティレル様のお傍にいられれば幸せだったので、それでよかったんです。だから急にその先のことを言われて、驚いてしまいました」
「…………」
顔を紅潮させたまま、ティレルがこちらを見下ろしてきた。
「でも……今決めなければならないのなら、私の望みは最初から定まっています。
ティレル様に私の愛人になっていただくのは難しいと思います。……ティレル様がふらりと何処かへ行ってしまうかも、と思いながら暮らすのは辛すぎるので」
アナスタシアはティレルの腕を放さず、切れ長のその目を見て告げた。
「ティレル様は? 如何ですか?」
「………………」
「私は、一緒にいるつもりだけれど愛人は嫌だ、と意思表示しました。二択ですから残りは決まっていますよね。
ティレル様ご自身は、どうなったら幸せですか?
私と、どうなることをお望みなんですか?」
「………」
紫の目が瞬き、彷徨って、再びアナスタシアに据えられた。
ティレルの右手が、彼の左腕を掴むアナスタシアの右手に添えられる。
「……俺がお前に望みを言って…、例えお前が俺にそれを叶えてくれても。……俺はお前に損をさせて、失望させるかも知れない」
あえかな震え声。
それでもティレルができる限りの声を振り絞っていることは、アナスタシアには伝わった。
他人の道具だった過去を捨て、己の意思で生きようと決めることは、こんなにも勇気が必要なのだ。
その感情には覚えがあった。アナスタシアにも。
もう本当に、遠い昔のことだ。
「でも、望みを言って下さらなければ、私には伝わりません。損か得か……、それだけではなくて。私がティレル様の望みを受け入れるかどうか、現状では検討のしようが無いではありませんか」
黙ったままのティレルにアナスタシアは続けて言った。
「それに、私は知りたいです。ティレル様ご自身が、私たちの未来に何を望んでいるかを」
「…………俺は……」
ティレルの震える手が、アナスタシアの小さな手をぎゅっと掴んだ。
アナスタシアは彼の様子を何一つ逃すまいと赤い目で見つめた。
「………」
緊張の息がティレルの喉から漏れて、その後に。
「…………結婚、して下さい。俺の婚約者になって欲しい」
確かにティレルの声で聞こえた。
空耳か、と己の聴覚を疑ったのはほんの半瞬。
すぐにアナスタシアの体の中で、喜びが爆発した。
「――――はい!」
勢いよく叫んで、もはや憂いも何も無く、アナスタシアはティレルに飛びつく。
「ッ………、」
ティレルのほうも、驚いて躊躇ったのは本当に僅かな時間で、すぐに、アナスタシアを抱き締め返してくれた。
「ティレル様大好き!」
「………、おい、もうちょっと、検討しろよ、お前……、……いいのか? 本当に……、」
戸惑ったようなティレルの声。
体はアナスタシアの承諾に喜んでいるが、脳がまだそれに追いついてこない、そんな風情だった。
「愛人か婚約の二択だっておっしゃったのはティレル様じゃありませんか!
……あ、私からもしっかり言っておきますね。ティレル様、私と結婚して下さい! よろしくお願いします!
……言いましたからね! ティレル様はもう先約ありです!」
喜びのあまりにぐいぐいと頭をティレルの胸元に押しつけながら、アナスタシアは明るく叫んだ。
「ちょっと待て、お前……、」
羞恥と歓喜と困惑で何一つ身動きが取れなくなって、ティレルはアナスタシアを抱き締めて固まっている。
ルーシェン達から釘を刺された直後なのに、庶民同士のような気さくなハグをしあう羽目になっている。部屋の端に控えているルーシェン配下の秘書官やメイド達は澄ました顔をしているが、唇の端がヒクヒクと震えているのがティレルには見て取れた。
ちくしょうあいつら、俺たちが此処を出た途端に言いふらし始めるな。冷酷で鳴らした俺の評判が台無しだ。
頭の隅でそう考えながら、ティレルはもっと重要なことへ意識を振り向ける。
「おい、アナスタシア! お前、俺と婚約することの意味わかってんのか? 平民だぞ、イシク族だぞ、異端審問官上がりなんだぞ! 裏の仕事もしてたし、政敵も多いし、今後……」
「ティレル様」
アナスタシアが少しだけ上体を離して、ティレルの腕の中から見上げてきた。
「そういう枷は、取り払ってしまって下さい。今だけでもいいですから。少なくとも、私は全然気にしません。ティレル様が何者か、私はよく知っていますから。
ティレル様が私と結婚して下さったら私は幸せです。ずっとお傍にいられますから。
……私だって、ヒストリカ社会から見たら規格外ですよ。
侯爵家の長子なのに長らく家出中ですし、末期予算騎士団と呼ばれる翼騎士団の所属ですし、貴族の娘なのにヒストリカ初の女騎士になりますし、剣も弓も振り回すから筋肉質ですし、ドレスも着ないし、日焼けだってしてます。髪もこんなに短いし。
あとはうっかり別人の記憶も持ってるし。
でもティレル様は、そんなこと全然気になさらないじゃないですか。
同じ事です」
「――――」
ティレルは黙してアナスタシアの表情に見惚れた。
アナスタシアは自分を見上げて幸福そうに笑ってくる。
この娘の背には風を呼ぶ翼が生えている。
その風はティレルの怖れを吹き飛ばし、希望を呼び込み、新しい展望を連れてくる。
ティレルの首に巻き付いた、古くて重い枷を全て取り外していきながら。
芳しい風は優しく頬に触れ、首を撫で、温かなものでティレルの心の器をなみなみと満たしていく。
――――その幸福。
「アナスタシア」
「はい!」
思わず名を呼ぶと、嬉しげな返事が響いて、娘は再び抱きついてきた。
ティレルはその体を抱き寄せる。
アナスタシアの力強い両の腕が、ティレルの首に巻き付いてくる。
「ティレル様」
通りの良い、心地よい声が、ティレルの耳のすぐ傍に聞こえた。
「…………そうだな。俺の首に巻き付く枷は……、お前の二本の腕だけで充分だ。今はもう、な」
ティレルが何やら呟いたが、アナスタシアには言葉の意味は理解できなかった。
「……ティレル様?」
確かめようと少しだけ身動きすると、ティレルはアナスタシアから手を離し、抱擁を解除する。
「ちょっと庭に出るか。一緒に来い」
ティレルの手が、いとも自然にアナスタシアの腰を抱き、女性のエスコートの体勢に入った。
二人がいる部屋は、バルコニー伝いに王宮の庭園に続く出口がある。
……気分転換にはいいかも。
まだ目を通していない書類はあるが、戻ってくれば良いと考えて、アナスタシアはティレルと一緒に外へ出た。