| 「滝川」名から和歌妄想 【4章】冒頭あたり |
| 滝川×清葉 |
常の通り座敷は長引き、夜を共にするはずの清葉を長いこと待たせてしまった。
夜も更けかけた頃、滝川は気を急きながらも見咎められぬ程度の早足で廊下を歩いて、清葉の待つ己の部屋へ向かう。
「待たせたな、清葉――」
襖を開け、中を確認するより早くそう声をかけると。
清葉は客座にも主座にもおらず、部屋の隅に立って入り口に背を向け、部屋の隅に風除けとして立ててある屏風の絵に見入っていた。
滝川が来たことにも気づかず、人目を気にせず集中するその様に、滝川は暫し見とれる。艶やかな黒髪が滝のように落ち、仕立ての良い和服の背を覆っていた。他人に相対する正面より、背面のほうがその人の為人を雄弁に語るときもある。清葉の小さな背中は、その生真面目さと美への執着、他人の仕事への興味を如実に示していた。彼女が生業の和裁をこなすところを見てみたいものだ、と滝川は思う。今と同じように、生真面目で清廉な集中力で、あの整った手指を器用に動かして、美しい着物を縫い上げていくことだろう。
――益体もない妄想だ。滝川はすぐにその思いを心の隅に退けた。吉原の外にある清葉の暮らしを覗ける日など来るはずもない。そのような願望は持たぬほうが身の為だ。
滝川が眺めている間に清葉の背から集中力がふと途切れ、小さな顔がこちらに向けられた。清葉の黒い目と滝川の茶色い瞳が視線を合わせる。
「滝川、さん」
清葉の驚いたような顔は少し遅れて忽ち紅潮していった。体を幾度か重ねた後だが、清葉の反応は未だ滝川に対して初々しいままだ。
「……いつからそこにいらしたのです」
無防備な姿を盗み見られていたのか、と清葉は怒ったような様相を面に表す。だがそれは表層的なもので、実際には見つめられていたことに困惑しているのだろうと滝川は踏んだ。
「お前さんに見とれていたんだ。俺の妻は俺に相応しい極上の女だ、と思ってな」
「……また、そのような冗談を……」
清葉の顔は火を噴いたように赤くなる。滝川は歩み寄って、まだ屏風に体を向けて立っている清葉の身を後背から腕の中に抱き込めた。
「本当のことを言って何が悪い。お前さんだって良い品や美しいものは好きだろう」
「………、」
滝川は屏風のことを示唆したのだが、清葉はそのことには思い至らなかったようだ。滝川の腕の中で、頬を朱に染めたままの清葉の表情が複雑なものを見せた。喜びと困惑と面映ゆさ、そして少しの拒否感。滝川は構わず清葉の体をもう少し強く引き寄せる。
清葉のそれが、自分を値踏みされたと感じた上での拒否感だったとは、そのときの滝川にはまだわからなかった。
「俺がいない間、お前さんは何に見とれていたんだ?」
後頭部に口づけ、娘の匂いを放つ耳の後ろに息を吐きかけながら、滝川は清葉に問うた。
「………、あ、あの、」
性的な気配を察知して羞恥と困惑を強めたか、一瞬清葉は滝川の腕から抜け出そうとする。だが手にした女が体の奥でじわりと期待を高めたことを察知している滝川は、その腕を緩めようとはしなかった。
「屏風が……」
「ああ」
その頃には滝川にとって屏風はどうでも良くなっていて、後背から清葉の頭に鼻を押しつけてその香りを吸い込み、胴を捉えた手をそのまま清葉の袖の中に忍び入らせて二の腕に触れながら、清葉を密かに煽り始めていた。
「あのっ、屏風が、……絵が、気になって……、滝川さんがいらしたら、おたずねしようと……、ぁンッ、」
滝川が髪をかき分けて耳の後ろに口づけを落とすと、清葉の体がぴくりと震えた。
「屏風の……何が知りたい」
耳の端に舌先を這わせて、滝川が問う。
「っ……絵……、絵が……、」
襟足から、清葉の香混じりの甘い体臭が強く立ちのぼってくる。体の中に熱を溜め始めた証拠だった。
滝川の、清葉よりよほど大きな手が、服の内で脇から胸のあたりを撫でさする。
「ッ……た……、滝川さん……っ!」
息を喘がせながら清葉が身を捩って、滝川の腕から抜け出そうと藻掻いた。清葉の小柄な体が滝川の腕の中で回転して、後背ではなく横身に捕らえられるような恰好になる。
「いいかげんに……ッ、ン……、」
横合いから覗いた清葉の唇を、娘が上げた叱責の声ごと、滝川は口づけで塞いでしまう。
「ん……、んふぅ…っ、ン、」
抗おうとして見せたのもほんの数瞬に過ぎず、清葉はすぐに滝川の腕の中で力を抜いた。清葉の形良い唇肉を舌で割り入り、小さく整った歯列の裏を、滝川は舌先でなぞり上げる。
「ンんっ」
滝川が舌で触れる前から、清葉の口中は充分に熱かった。
滝川の情熱に巻き込まれるように、清葉が唇を上下させた。技巧はそれほど感じないが、かといって滝川から逃げようという気配も無く、滝川の舌に弄ばれるままに、小さな舌先を舐らせる。
「んん…ふぁ……、ぁふ……っ」
くったりと滝川に身を預け、力の入らぬ手でそれでも滝川の着物の肩を掴んで、接吻に応えてくる清葉のことが、内心で滝川は愛おしくて仕方がない。
「はぁ……っ」
暫くしてようやく唇を離すと、清葉の熱い喘ぎが滝川の顔に吹き当たってきた。
赤い唇の端に、ふたりのものが混じり合った唾液が淫靡に溜まっている。滝川はそれを舌先で舐り上げて、もう一度、清葉の唇に舌を当てる。
「んっ……ふぁ……ぁ、」
薄く開かれた両唇に舌を差し込むと、至近で、清葉の潤んだ目が切なげに細められた。
「あ……た…、滝川さん……、」
清葉が喉から放つ声は震えている。
「……寝所へ行くか? 清葉」
すっかり懐柔を果たしたと思い滝川はそう尋ねたが、清葉はゆっくりと頭を振った。
「屏風の……絵……を…、」
滝川は溜息を吐いて清葉の顔から面を引いた。
清葉のこの探究心や好奇心を、もう少し房事や俺のほうに振り向けて欲しいものだが、と滝川は苦笑する。
「絵がなんだ」
「……あの……、」
説明しようとする清葉が望んでいるとわかったので、滝川は諦めて清葉を抱く腕も解いた。
「この、屏風の絵……。美しいのは勿論ですが、少し、不思議に思いまして」
ようよう息を整えて、まだ熱は溜めたままで、清葉がようやく言葉を紡ぐ。
清葉が目で示す先に、川の激流の絵が描かれた屏風が置かれている。
右手上から流れる川が大きな岩にぶつかりながら滝になって流れ落ち、水が枝分かれしながら、左下方の下流で合流して大河となっている。
「滝の……絵ですから……。滝川さんのお名前に縁があるのだ、とはわかりましたが……。滝川さんの、花魁としての印象や、吉原全体を示すには、少し、その……柔らかさが足りないので、どうしてこれを部屋に置いたものかと首を傾げていたのです」
「ああ」
清葉の疑問に得心がいった、というふうに滝川は頷いた。
「お前さんはこの屏風の裏をまだ覗いてないだろう」
「………裏……?」
「回って裏を見てみるといい」
再び清葉に触れて、その小さな肩を引き寄せ、二人で屏風の裏手に回る。
屏風の裏に、流れるような行書で、和歌が一首だけ書き付けられていた。
瀬をはやみ 岩にせかるるたきがはの われても末にあはむとぞ思ふ
水流が速く、岩に流れを分かたれる滝川が、下流ではまた流れが一つになるのと同じように。抗いがたい力によって今は仲を隔てられても、未来にはまたあなたに逢おうと思う。
そんな意味の、力強い情景と深い情念をあらわす歌だ。
「……崇徳院の御歌ですね。小倉百人一首を屏風絵にしたものでしたか」
すっかり納得のいった清葉が呟いた。
滝川は破顔する。
「俺には相応しい歌だろう。お前さんを大門まで送った後はいつも、次に逢いに来るのは何時かと待ち遠にしているんだぞ」
「……え……あの……、そうでしたか……」
気づかなかった、と言いたげに清葉は頬を赤らめた。
「あの、それでも、歌でさえも少し……、滝川さんの印象には、添わない気がいたしますけれど。こんな激しい歌……これはもう、今生では逢えぬほどに仲を裂かれた方の歌でしょう?」
「お前さんは、それが何故俺に不向きと思うんだ?」
「だって……、」
言いよどむ清葉に、滝川は笑って見せた。
「別れの歌ではなくて、再び逢う為の決意や願掛けの歌とも取れるだろう。逢いたい相手に必ず逢う、と」
清葉の目をまっすぐに見て、意外にも滝川がそんなことを言ったので、清葉は瞬間言葉を失って滝川を見た。
滝川の整いすぎた顔で見つめられると心の臓を掴まれたような心地になるのは、馴染の夜の頃と全く変わっていない。五月蠅いほどの動悸がいたたまれなくなって、清葉は滝川から目を逸らした。
「……この吉原で…、そんな……、運命じみた恋など……」
花魁でありながら、女に惚れたことがない、と他人に言われてそれを否定もしない目の前の男に、こんな激情の歌は似合わない。そう思いはするが、さすがに、それを口にのぼせるのには躊躇いがある。
何故と言えば、それは、彼を選んで彼のもとに通っている女の一人が、他ならぬ清葉自身だからだ。
吉原に通うのは子を成す為の義務だが―――滝川に逢いたいと思う己の心は、義務ではない。恐らくは。
清葉が逸らした視線の先に、屏風の裏に書き付けられた行書の幾つかの文字が存在していた。その字を書いた者に心当たりがある、と清葉はふと気づく。
「……この、手蹟。もしかして、この和歌は滝川さんがお書きになったのですか」
「ほう。よく気づいたな」
「……いつもいただいている文と、筆跡がよく似ています」
そう。傲慢な滝川の印象に似合わぬ、闊達だが繊細さも覗かせる水茎の跡。
だが屏風の文字は、清葉がいつも見ている滝川の筆跡よりも幾分若やいで見える。
「これは何年か前に書いたものだ。……この屏風はな。俺が花魁に成り上がったときに、自分で設えたんだ。和歌も絵面も自分で選び、裏の字もそのときに書きつけた」
「滝川さんが……? 絵と、歌の両方を選ばれたのですか……?」
それこそそぐわぬ気がする、と清葉は目を瞠る。
滝川は微笑みながら目を細めて、清葉を見下ろした。
「願掛けのようなものだと言ったろう。妻のお前さんが、日を開けず夫の俺のもとに通ってくるように、とな」
「……………そ…、」
滝川の視線に真摯なものを感じて清葉は頬を紅潮させ、瞬間信じそうになったが、すぐに、時系列が合わないことに思い至る。
「また、そのような戯れごとを。この屏風が初めてこの部屋に置かれたのは、私が吉原に通うようになるよりずっと前の時期でしょう」
怒った顔で清葉に指摘されて、滝川の頬が緩み、喉から笑声が上がった。
「はは、気づいてしまったか。お前さんは素直だから騙されてくれるかと思ったのに」
「……滝川さん!」
からかわれて年相応にむくれる清葉の表情が新鮮で、滝川は笑いながら清葉の頭頂部を手で撫でる。
子供のような扱いを受けて、清葉は益々憤った。
「もう! 撫でないでください!」
「ははは、すまんすまん」
滝川は笑って、撫でるのを止め、替わりに清葉の体を再び抱き寄せた。
「俺の文はきちんと届いていたな。……安心した」
「……どういう意味、でしょうか」
再びの熱を感じて、清葉が声を喉につかえさせながら尋ねる。
滝川の胸に抱き込まれると鼻腔が滝川の香混じりの体臭に満たされて、清葉の耳には心音ばかりが響く。
それが滝川の鼓動なのか自分の鼓動なのかもわからずに、清葉は滝川の手の中で、またも頬を紅潮させていった。
「お前さんはまったく返事をくれないからな。もしや届いてないのかと危惧していたのだ」
「………あ…、」
返事を出さぬことが礼を失しているのは確かなので清葉は言葉を失う。
何と返せば良いのか、家では妥当な文章がまだ綴れないのだ。
「平中物語ではないが……、見たなら『見た』という言葉くらい寄越しても罰は当たらんだろう。この俺が直々に、お前さん宛に筆を執ってやっているのに」
くっくっと、滝川の喉から笑う声が響く。
胸の内に抱き寄せられている所為で、清葉には滝川の表情は覗えない。
滝川の言葉の意味はわかったが、清葉は少し立腹を感じた。
男を冷たく袖にして、最後まで逢いもせず、手紙ごと男を見捨てた女と一緒にされてはたまらない。
「………あの……、」
少しくらいなら。
真情を吐露しても、滝川に向けて折れたことにはなるまい。
「私が今、此処にいるのが、何よりの……あなたへの、返事の替わりではありませんか……?」
頬を真っ赤にしながら、小さな声で清葉は告げた。
自分は己の足でやってきて此処にいるのだ、と。
ここ吉原の、他ならぬ滝川の部屋に。
滝川が動きを止めて、やがて腕をやや緩め、清葉の顔をじっと覗き込んできた。
「お前さんは本当に……、ほんの時折、可愛いことを言うなぁ……」
愛情に似たものを湛えた目で滝川が微笑する。
その視線に思わず引き込まれそうになって、清葉はこくりと唾を飲んだ。
滝川の微笑は真実嬉しそうに見える。
だがこれさえも、吉原男の手管のひとつなのだろうか。
だとしたら自分に勝ち目はなさそうだ。
惹かれているとは直に口に出さぬのが、せめてもの清葉の意地だった。
「滝川さん……」
滝川の微笑が、だがすぐに、悪戯っぽいものに変化する。
「いつも棘を含んで小憎らしいことを言うし、俺には不器用なほど冷たいくせにな。お前さんはわざとそうやって俺を翻弄してるんだろう。やはり悪い女だ」
ぼうっと自分を見ていた清葉の目が再び揺らぎ、眉が不穏に曇り始めるのを、滝川は笑いながら見つめた。
「また、私のことをそのように……! 滝川さんこそ……っ、ン…っ!」
文句を言い連ねられるより早く、先程と同じように、滝川は口づけで清葉の唇を塞ぐ。
「んっ…、んン……、」
先程の接吻よりよほど優しく、あやすように舌で唇をなぞられて、溜めていたはずの清葉の怒りはすぐにどこかへ霧散してしまった。
無意識のように清葉の口は開かれる。深く接吻をしながら体を触っても、今度は清葉は嫌がらず、ただ体を滝川に向けて添わせてきた。
「ぷぁっ……、はぁ……、」
身に溜まった熱を発散する術すらまだ知らぬ、清葉の体が。
抗い得ぬ呪術の如く、滝川の心身を情欲で縛り上げた。
「寝所へ行こう、清葉……。今度は俺が、お前さんを可愛がってやる番だ」
「っ……、」
清葉の、接吻で腫れた唇に指で触れ、隙間から覗く形良い白い歯を己の指先で辿りながら。
滝川は自らも熱に浮かされ、掠れた声で清葉を誘う。
清葉の黒い瞳の中にも、自覚もせずに、自分と同じ情欲が煌めいているのを滝川は認めた。
「………、……はい……」
やがて、かすかな声で。
滝川に対して、もはや対抗心すら抱くことなく、清葉はただ、素直に頷いてきた。
(了)