北の塔は夢で見た通りの、荒廃に任せた陰気な場所だった。
娘をそこに案内した不死の王も共に、塔の下に立った。
覚悟の決まった娘は、それでもやはり怯えを隠せなかった。
「ねえ」
首を振り向けて不死の王を見る。
「お願いがあるの。抱き締めてくれる?」
不死の王はせがまれるまま、娘をその腕の中に抱いた。愛情はなくてもその仕種は優しかった。
娘の耳元で王が声を紡ぐ。
「無理をすることはない。おまえの命の火が灯っているかぎり、おまえが私の傍にいさえすれば私は満足だ」
夫の腕の中で娘は白い息を吐いて笑った。
寒さで歯の根が合わないが平気だった。
「嬉しい。でも、やっぱり私には足りないわ。あなたに心が戻ったら、意味の重さがまるで違って聞こえることに気がつくでしょうね。私が帰ってきたときに、もう一度その言葉を言って。もしもあなたが心から望んだら、そのときにもう一度」
不死の王は黙ったままだった。
冷たい手が娘の頬に触れた。氷のような唇が、娘の唇から熱を奪った。
それでも娘は不死の王から離れなかった。
「愛してるわ。伝わらないのはわかってるけど、これだけは言わせて」
そう囁いて、娘は夫から身を引き剥がし、塔と対峙した。
固く閉ざされたと見える鉄の扉。
だが娘が軽く触れただけで、扉はいともたやすく開いた。
なんの魔法か。なにかの罠か。
塔から漏れるひやりとした空気は、たちまち突き刺すような冷気に取って代わった。
娘に怖れはなかった。
娘は足を踏み出し、塔の中に進んでいった。
不死の王は塔の外に立ち尽くしていた。
彼にとって時間はなんの意味も持たない。朝の陽光が南中を迎え、西へ傾こうとしている。王は日時計の柱にでもなったかのように、身じろぎすらしなかった。
塔の中から物音はせぬかと耳をそばだてたが、何も聞こえなかった。
不死の王は呪いをかけた魔女の言葉を反芻していた。
『汝にかけられたる呪いを解くのは、己が身と心以上に汝を愛する女のみ』
彼が教えなかった条件を、あの娘は肌で感じ取ったのだろうか。
塔の中は暗かった。急な階段をひたすら上がり続け、娘は最上階を目指した。
どれほど歩いたのか。手燭の油もとうに切れ、娘は真の暗闇の中を手探りで歩いていった。もっと臭いが籠もっているかと思ったが、塔内に立ち込める、肺をも突き刺す冷気がすべての臭気を払っていた。
この場所を恐ろしいとは思わなかった。多くの女たちが死んだ場所であると知っているにも関わらず。
遠からず、自分の墓碑を不死の王が刻むことになるのだろう。
それはわかっていた。怖いとも思わなかった。
娘には失うものは何もなかった。町に戻ったところで家も生きる術もない。
ただ、弟のことを思うと胸が痛んだ。今ごろどうして暮らしているだろう。父母に代わって面倒を見きれなかった己の無力が悔やまれたが、それは今、不死の王を思う気持ちに比べれば微々たるものでしかなかった。ごめんね、と娘は弟に呟いた。冷たい姉ちゃんでごめん。贄として捧げられたときの別れ際、目に涙をいっぱい溜めて自分を見ていた弟の姿が思い出された。歳のわりに小柄で痩せ細って、寒い冬に靴もなく、裸足で水を汲みに行っていた哀れな少年。
不死の王のもとで自分が築いた幸福を、弟にも分けてやるべきだった。なぜそれに気づかなかったのだろう。
そして今となっては手遅れだ。自分は不死の王の為に死ぬと決めてしまったから。
己の身勝手さにおののきつつ、娘は歩き続けた。
唐突に、階段は終わった。ふと気がつくと、娘の両足は平らな石床を踏んでいた。ここが塔の最上階なのだろうか。相変わらず周囲は闇で自分の鼻先も見えない。
闇の中にそっと手を伸ばすと、木製の扉に指が触れた。娘は手探りで取っ手を探し、錠がかかっていないか確かめる。
扉は音もなく開いた。
そして光が漏れ出た。
突然の明かりに娘は目を瞬いた。光に慣れるまで暫く待ち、それから目の前にある明かりの正体を確かめようとした。
光を発していたのは不死の王の心臓だった。
あかがね色に輝く絹の上に、凍りついた心臓が確かに鎮座していた。脈動は全くなく、寒気の中で眠っているかのようだった。
娘はゆっくりと近づいた。
脳裡に夢で見た光景が甦った。手に取った瞬間に炎を発し、女ともども燃え上がった不死の王の心臓。
自分は怖れるだろうか。
答えは諾。
自分は手に取るのを躊躇うだろうか。
答えは否。
手にするものが冷たくても熱くても驚かぬように娘は心構えをし、心臓をそっと手に取った。
何も起こらなかった。
心臓は冷たかったが手が痺れるほどではなかった。どういうことか、先ほどまで凍っていたはずが、今は少しずつ冷気が綻びてきているような気さえした。娘は心臓を両手で捧げ持ちながら向きを変えた。
歩き出そうとした途端、床の突起に躓いて転んだ。
娘の手から夫の心臓が飛び出した。
口から上がった喘ぎは一瞬のはずだった。だが娘には非常に長く感じられた。
体が床に打ちつけられる、それさえ意識せず、娘の目はほの光る心臓だけを見ていた。咄嗟に腕を伸ばしたが間に合わないかと思われた。間に合わなかったはずだ。娘は思わず目を閉じた。溶けかかった心臓が石床に当たってぐしゃりと潰れる音さえ聞こえた気がした。
娘は目を瞑って硬直したまま床に倒れていた。暫くは娘の荒い息づかいだけが周囲に響いていた。
やがておそるおそる目を開く。周囲は輝く心臓に今なお照らされていた。娘の両手は床に掌を上にして差し出されており、その上には、無傷の心臓が乗っていた。
心臓はいまやゆっくりと脈打っていた。
娘は信じがたい物を見るような目で心臓を眺め、それが無事であるとようやっと合点がいって、初めて安堵の吐息をついた。娘は心臓を抱えて石床の上に座り、服の前をくつろげてそこに心臓をそっとしまい込んだ。二度と先ほどのような事態が起きないように。
心臓をしまうと周囲は闇に閉ざされた。
服越しに触れる不死の王の心臓は、不死の王の体と同じく、娘の身をひいやりと冷やした。
だがそれは同時に、娘の心を温かく満たした。
闇の中で娘は一人微笑んで腰を上げ、手探りで慎重に階段を探した。
もう二度と躓くことはなかった。