| 初会と馴染(滝川視点) 【プロローグ】【1章】 |
| 滝川×清葉 |
吉原に清らかな美など存在しない。
その意味で、彼女は本来存在するはずのない者だった。
吉原の引手茶屋の上座に端正に座す娘。
老舗呉服屋の跡継ぎ娘とて、贅を尽くす吉原内でも滅多に見かけないような、当世風の生地の和服に身を包んでいる。その娘が生家の店で選んだ生地で服を縫いそれを身に纏う、そのこと自体が店の宣伝である。生地をより良く見せる為だろう、近頃郭で流行りの、服を身に馴染ませる為に繊維を萎し襟を崩すようなこともせず、着付けのお手本そのもののように硬い生地をきっちりと着込んでいる。そのまま正餐にさえ向かえそうな出で立ちで、娘は吉原の厚座布団の上に正座していた。良く櫛を通された豊かな黒髪が娘の肩を覆い、華奢な背中へと流れ落ちている。
――桃の節句に飾る雛人形の、女雛様のようだ。
ちらりと滝川はそう思い、そして唐突に、過去にそのように思った少女がいたことを思い出した。
「滝川でございます」
三つ指をついて挨拶をし、ゆっくりと頭を上げる。
自分の顔を初めて視界に入れたその娘が、はっとしたように息を呑んで頬を赤らめたのを見て、滝川は、自分という存在が相手に強い印象を与えたことを悟る。
それはある意味当然と言えた。己の声、容姿、仕種、教養――どれをとっても吉原一の花魁と評判を取るに相応しくなるよう、滝川が長年研鑽してきた結果だ。
娘の黒い瞳に、瞬時に幾つもの表情が宿る。もっとも強い感情は怯えに似た緊張で、娘が処女どころか、恐らく手慰みも知らぬほど性に疎いことが滝川にはすぐにわかった。遠からぬ後に、子を成す為に傾城の誰かと床を共にする――そのことについて急速に現実感を抱くようになり、自分の体が露わにされて見知らぬ男に抱かれる、その未来に不安を感じているに違いない。
しかし吉原に通うのは。
島に暮らし、跡取りを求められる立場の娘であれば、誰もが通る道だ。
だからこそ、この娘は逃げもせず、そこに座っているのだろう。
滝川が見たこともないような清浄な美しさのままで。
染井屋の清葉様。
名にまで「清」がつくのだな、と頭の隅に滝川は思った。
――――遠い昔、幼い初恋の対象だった少女の名前を。
滝川は十年以上の時を経て初めて知った。
記憶はあまりに古び過ぎて、吉原に入る前のことはよく覚えていない。
というより正しくは、蘇らせたくない思い出ばかりだ。
それでも禿の頃、新造の時期、花魁となってからも、記憶の中のごく一部を切り取ったように、鮮明に覚えている情景がある。
貸本が並ぶ家の中にまで、傾いた陽光が差し込む夕刻の頃。
年端のいかぬ、だがおひな様のように顔立ちの整った、きれいな服を着た少女が、母親の客の連れとして現れた。
風にひらひらと靡くレエスの髪飾り。糊の利いた紫陽花柄の巾着を手に提げて、人形の如く行儀良く軒先に座って、辛抱強く大人たちの会話が終わるのを待っていた。
いっぽうの自分はと言えば。
食事もろくに与えられず、貰い物の裾のほつれた小さすぎる童女服を纏って、伸びすぎた髪を整えられることもなく、目につけば母親に叩かれて暮らしていた。
服の下の至るところに痣や傷はできていたが、最たるものはその頃背中に彫られ始めた入れ墨だった。墨を入れる前、手がけた彫師は子供の肌を傷つけることを躊躇していたが、客である母親の剣幕に押されて結局は、数日をかけて彫り物を入れることを了承した。背は痛くてたまらず、熱も出ていたが、母は横になることも許さず、ただ引っ込んでいろと言われて、頭がぼうっとした状態で店の奥に立っていた。
やがてさすがに退屈を感じたか、自分の家とは違う余所の店の様子を物珍しげに見回し始めた少女が、ふと自分に目を留めた。にこりと微笑まれて何故かどぎまぎし、視線を避けて柱の陰に隠れるように引っ込んだ。暫くそうしていて向こうが興味をなくしたかとそっと柱から顔を出せば、驚いたことにすぐ傍までその少女は歩み寄ってきていて、汚れのないきらきらした笑みで、巾着の中から色紙に包まれた何かを取り出し、小さくも整った手に乗せてこちらへ差し出してきた。
自分は思わずそれを受け取った。
己の手に乗せて、包み紙を開けると、中には黄色の飴が入っていた。飴に鼻を寄せると、かすかに柑橘のような香りがした。
甘いものなど、母はくれたこともない。すぐさま口に入れたかったが、同時にきれいな飴が視界から消えるのも惜しかった。折衷策として、握った指の中に飴を閉じ込めて舌で舐め、時折手を遠ざけて飴が唾液でキラキラと輝くのに見とれては、また舐めるという動作を夢中で繰り返した。貰った飴は口に甘く目に快い。暫くして、まだ目の前にあのひな人形のような少女が立っていることを思い出した。行儀が悪いと母のように咎めはしないかと恐る恐る視線を上げる。少しだけ見上げる位置に、泥や汗で汚れたことなどないように思える白い整った面があった。自分が飴を必死で舐めるのを目を丸くして見ていた少女は、自分を見つけたときと同じように視線がぴったりと合うと、いっそう優しく美しい顔で完爾と微笑んだ。
横合いから差し込んだ斜陽が少女の頬を赤橙に染めていた。お下げ髪からはぐれた数本の髪の毛が、陽光を反射して金色の線を幾つも作っている。長い睫毛に縁取られた大きな黒い目が、ひたりと自分を映していた。
自分から手に提げた巾着へと視線を下ろした少女が何事かを言ったはずだが、聞こえなかった。全身が目になってしまったようで、飴を舐めることさえ忘れて少女に見入っていた。やがて少女は巾着から彩りのある千代紙を引っ張り出して、空中で器用にも何かの形を折り上げた。子供の手で為すにしてはあまりにも整った、それでいて温かみは失わない形の折り鶴が、自分と少女との間に生まれていた。鶴を掲げて見せた少女は再び微笑んで、飴を持っているのとは別の手に、その鶴をそっと持たせてくれた―――
八年間しかいなかった吉原の外で。
輝いて見える思い出とはそのときの記憶だけだ。
輝きの中心には無論あの少女がいた。
吉原の外の、何時のどんな状況であっても、自分とあの娘は釣り合わない。
扇屋の傾城が娘の前に勢揃いして見せた初会から数日の後。
遣り手が部屋へやってきて、嬉しげに、染井屋の娘から指名があったと滝川に告げてきた。
滝川としての俺、というよりは、吉原随一の花魁という肩書きのほうを相手は気に入ったのだろうな、と心に思った。
無論それで良い。
むしろ向こうが思い出さぬままでいてくれたほうがありがたい。
貸本屋で逼塞していた、惨めな子供の姿など。永遠に。
彼女は高嶺の花。
高処に座る高貴な女雛。
一対の雛人形、あの娘の男雛として対等に隣に座れるのは、この郭で、自分が吉原一の花魁として輝いているときだけだ。
それ故に、むしろ今なら。
吉原一の似合いの夫婦として、彼女と恋を育める。
彼女の『格』に相応しい傾城は―――自分だけだ。
二度目の引手茶屋。再び滝川は清葉の座敷へ上がる。
「清葉」
敢えて敬称を略して名を呼ぶと、緊張した面持ちの娘の身が揺らいだ。
己で決めておきながらも、自分を抱く男である滝川への警戒心はいっそう強く、硬い殻の中に清葉の心は籠もっている。
構うまい、と滝川は思った。
男に力で適わぬ娘、まして未通の娘が、新床に怯えるのは当然だ。
この娘の硬い殻を、溶かすか壊すかした後に、どんな心根が存在するのかを、自分は既に知っている。
男が数多いる吉原の中で、この滝川だけが。
その思いは、かつての初恋の記憶と同じく、他の誰にも教えず隠したままにしておきたい、大切な秘密だった。
目の前の当の本人、清葉にさえ、気取られたくはない。
この娘の前では、望み得る最良の夜の夢を見せる花魁、滝川でさえあればいいのだから。
「お前さんは俺を選ぶと思っていた」
清葉に近づきながら、滝川は微笑んで思ったことを告げる。
「お前さんを満足させられるのは俺だけだからな」
瞬間鼻白んだ清葉は、何と高慢な、とやがて頬を紅潮させ、黒い瞳の中に怒りに似たものを湛えながらも、滝川の顔から目を逸らすことができなくなっている。
目を逸らせないのは俺もだな、と滝川は可笑しく思った。
記憶の中にあるよりもずっと、実際の清葉は美しく魅力的に成長していた。
作法では接触はまだ禁じられているが、構わず娘の傍に寄り、腰を抱く。
あのときの記憶と同じく、娘の目の中に自分の姿が映っている。
あのときとは全く異なった自分の姿が。
娘の手肌に触れて、滝川は更に言葉を紡ぐ。
手間をかけて心を懐柔し、この娘の本質に早く触れたい。
だが同時に、娘を傷つけたくはない。
今まで数えきれぬほどに、あらゆる種類の女を相手にしてきたのに。
こんな気持ちで女に触れるのは初めてだ、と。
不思議な高揚感のうちに、滝川は気がついた。
「絶対にお前さんを、俺に惚れさせてみせる」
滝川の形良い唇から吐かれた、花魁の常套句であるその言い回しは。
娘への言葉というよりは、己への誓いのように、滝川の耳に響いていた。
(了)