<其乃五>


 己の屋敷に戻った歌仙兼定は、居室の首座に座して、苛々と扇を弄んでいた。
 外はすっかり暗くなった。
 今頃本丸では、桶狭間で部隊長だった和泉守兼定が身支度を整え終えて参上し、主に事態を報告している頃合いだろう。
 明日になれば、近侍の歌仙兼定や他の主立った刀剣男士たちも本丸へ参集して、禁忌を犯した宗三左文字の身の振り方について詮議が行われる筈だ。
 小夜左文字づてに、和泉守兼定から教わった桶狭間での顛末は、歌仙兼定が想像していたよりはるかに悪かった。主からの宣告はよくて蟄居、しかし他の刀剣男士が受ける動揺や政府への聞こえを慮って、最悪の場合は宗三左文字に刀解の沙汰が下る可能性も充分にある。
 彼を救いたいなら手を打たなければ。
 だが歌仙兼定の葛藤はもっと手前に存在している。
 そもそも自分は救いたいのか? 彼を?
 ―――触れ合わずに済むよう、ずっと気を配ってきたというのに。
『主が彼を刀解してくれれば良かった』とすら、当初思っていた程。
 和泉守兼定の話では、桶狭間での二振目は、生き延びる気力すら喪失していたようだった。
 宗三左文字。
 顕現したその初めから、本人にも留めようもなく、死を恋うて生きる刀剣男士。
 一振目と同じく、二振目も、死へ向かう呪いをその身に纏っている。
 今川義元に心を掛ける二振目を、へし切長谷部を始めとする織田佩刀連中では到底救えまい。
 彼らでは駄目なのだ。義元を滅ぼした織田信長に気配が近すぎる。
 では自分が。彼を助けに向かうべきだろうか。
 それともこのまま座して、静観するのか。
 見捨てるのか。
 二振目の宗三左文字を。
 それができるだろうか。一振目を恋人として愛し、喪ったこの自分に。
 この本丸で二度も宗三左文字を喪う、そのことに己は果たして堪えられるだろうか。
 最前、へし切長谷部と和泉守兼定それぞれから、「構うな」「世話をしろ」という背反する勧告を受けた。
 その言葉はそのまま、そもそも彼らに指摘される以前から、歌仙兼定が心に抱えてきた迷いそのものであった。
 戸板に乗せられて横たわる宗三左文字の姿が、歌仙兼定の目に焼きついている。
 浅葱色の法被から伸びた白い腕。
 紛れもなく宗三左文字のものだ。見間違うはずもない。もう幾夜も、その腕に触れて、口づけ、また抱き締められてきた。
 一方で、それは宗三左文字の肉体であっても、恋人だった者とは別個の存在だ。
 二振目の宗三左文字がどんな刀剣男士か、歌仙兼定は殆ど知らない。自らそれを探ろうとしたことはなかったし、弟の小夜左文字も、歌仙兼定に気を遣って兄の話は全くしてこなかった。二振目の情報を敢えて遮断することで、歌仙兼定は、自分にとって宗三左文字は喪った一振目だけ、と強く思い込んで来られたのだ。
 だがあの腕。
 どうあってもあの時、法被を捲って、宗三左文字の顔を確かめておくべきだった。
 顔を見ておけば、二振目の宗三左文字について、否か、諾か、決断する材料になったであろうに。
 自分が逢いたいのは恋人の宗三左文字だが、二振目はその形代だ。
 二振目に触れたら。
 それより前には二度と戻れまい――――自分が彼に対して如何なる感情を抱くにせよ。
 しかし自分が手を伸ばさなければ、確実に、二振目の宗三左文字も消えてしまうという予感が歌仙兼定にはあった。
 左文字兄弟も織田佩刀連中も宗三左文字の助けにはならない。
 自分しかいないのだ。
「……………」
 そこまで思考して、歌仙兼定は、苛立ちの理由がもう一つ、己の裡にあることに気がついた。
 宗三左文字はまたしても死を望んだのか―――――一振目と同じく、二振目も。
『またしても』という、答えの出ぬ問い。
 一振目は自分の目の届かぬ戦場で果てた。彼の最期、彼が生きたがったかどうか、歌仙兼定には判然としない。
 生きて帰ってくること、恋人の自分に再び見えることを、一振目の宗三左文字が願ったかどうか。
 今際の際に、自分を恋うてくれたのかどうか。
 それとも。己を心に掛けることなく、死出の旅路を一羽ばたきで飛び立っていったのだろうか。
『死』を『自由』と呼んでいた、本来の宗三左文字の望みのままに。
 もしそうだとしたら、一振目と二振目は結局は同じ方角を向いていたことになってしまう。
「……………」
 本来、人間の体は死にたがったりなどしない。巡る血が、脈打つ心臓が、肉体と頭脳が、常に生を欲し、生を為し続けることを当然とするのだから。
 その思想は、前世の主・細川忠興から受け継いだ、歌仙兼定の裡に燃える変え難き信条だった。
 忠興は死をできる限り忌避すべきものとして扱った。自らの命だけでなく、敬愛する他者の生命をも大事にした。太閤秀吉から切腹を命じられた茶の湯の師、千利休の助命に奔ったのも然り、死を望む正室明智玉をできうる限り護ろうとしたのも然り。肉親相争うを半ば是とする戦国期の気風の中で、横死した細川家の身内は玉と、大坂城落城まで豊臣方についていた次男興秋の二人だけである。
 歌仙兼定も、生への真っ当な希求を、その身の芯に据えて生きている。
 いや、生きてきた。
 恋人の宗三左文字がいなくなるまでは。
 自分が傍にいれば恋人を護れると信じていたし、宗三左文字のほうでも、死への願いを振り捨ててくれると信じていた。
 それが儚くなったことに歌仙兼定は失望し、憤っている。
 予め死を望んで顕現した宗三左文字は、結局、歌仙兼定と生きることではなく、死への道を歩んでしまった。
 護れなかった後悔のみならず、自分は恋人に捨てられたのではないかという疑いが、歌仙兼定の心を、これ以上無いほどに荒ませている。
 希死念慮ならば忠興正室の明智玉も長らく心に抱いていた。生父明智光秀が本能寺の変を引き起こした時から十八年間、彼女は今ある立場からの逃避として細川家からの離縁、あるいは死を望み、それを叶えられぬ次点の手段として切支丹になることを選んだ。関ヶ原の戦の直前、反逆者一族の彼女を正室に据え続けてきた忠興の命運をもっとも上げる時機を狙い澄ましたかのように、玉は石田三成の人質に取られることを拒んで細川屋敷で自害して果てた。部門の誉れ、細川氏の徳川への忠誠。忠興の嘆きとは無関係に持ち上げられたその瑕のなき死は、あまりにも出来すぎているとすら感じさせたようで、京の庶民たちの間では、玉の死は本人の意思ではなく忠興の命によって無理矢理に為されたのではないかという噂が立つほどだった。
 三斎様が正室の命を奪う筈がない。彼女が生きることに、あれほど心を砕いてきたのに。
 玉が元来望んだのはより良い生、それが生涯果たされぬと絶望したことによって、彼女は死を願うようになってしまった。
 三斎様は能う限りの努力で、彼女に幸福を与えようと必至に尽くしてきたのに。
 僕だってそうだ。
 歌仙兼定は歯軋りをして、扇を掴んだ拳で膝を打つ。
 宗三左文字の死への憧憬など、その心から消し去ってしまえる筈だった。
 自分が恋人に、より良い生を与えてやりさえできれば。
 宗三左文字の普段の様子から、それは叶えられている、とさえ歌仙兼定は自惚れていたのだ――――宗三左文字が戦場で露と消える、その瞬間まで。
「宗三左文字どの……」
 僕と一緒にいた一振目の宗三左文字が、死を望んだ筈はない。
 そう思い込みたいのに、宗三左文字の最期の胸の内を知ることができない所為で、歌仙兼定は心の持って行き場をなくしていた。
 落ち込むことすら出来ない。宗三左文字が拒否したのは歌仙兼定が与えた生活だけでなく、愛情そのものだったのではないか、という疑念と怒りに、歌仙兼定は今も苛まれている。
 二藍色の前髪の間から、赤を散らした緑の目を、部屋の薄闇の中に無言で凝らす。
 へし切長谷部と和泉守兼定、二人から受けた要らぬ指図への苛立ちと戸惑い。
 先の見通せぬ葛藤の靄。その中に、ひとつの視点が生まれつつあった。
 このまま動かずに済ます、ということは、己の性格上不可能であろう、という分析だった。
 そもそも歌仙兼定は、動かぬ後悔より動く後悔を選ぶ気質だ。その能動性の故にこの本丸で、最初期から今も変わらず、長らく近侍を務めて来られている。
 顕現した二振目の宗三左文字を疎遠にやり過ごしてきたのは、本来ならば、歌仙兼定に相応しからぬ選択だった。一振目の死にこれほど傷ついていなければ、二振目に向けて何くれとなく世話を焼き、少なくとも今よりは親しい間柄になっていたであろう。
 癪には障るが、その意味で、和泉守兼定の指摘は的を射ている。
「…………………」
 そして。
 己の性質上、決して受容できぬことがもう一つ。
 刀解の沙汰が下るかも知れぬ二振目を見放すことは。
 一振目と二振目を引っ包めて、宗三左文字とは『そういう刀なのだ』と、歌仙兼定が認めることになる。
 生きることを諦めた刀。
 己の裡にも疑念はあれど、だからこそ他の者達以上に、歌仙兼定が否定せずにはおれぬことだった。
 他の刀剣男士より控えめではあろうとも、宗三左文字は己の生を生きようとしていた―――誰よりも長く深く宗三左文字を知っている歌仙兼定こそは、例え主が反論しようともそこを譲るわけにはいかなかった。
 一振目の宗三左文字どのが、己の生を自ら折ることはあり得ない。
 共に居る間、歌仙兼定は宗三左文字から確かに愛情を感じていた。
 僕と共にいて幸福であったり、僕を愛してくれていたのなら。
 たとえ敵の刃に斃れようとも、宗三左文字本人は生を望み続けていた筈だ。
 同じように二振目も。
 自ら罪を犯した負い目や気の迷いはあっても、本心では生きたいと願う筈だ。
 宗三左文字は『死にたい刀』ではないのだから―――
 宗三左文字を愛した歌仙兼定としては、宗三左文字本人の生きる力を疑うことはできなかった。
 新たに顕現した宗三左文字を助ける。
 それは彼の死や刀解を後押しまたは黙殺することではなく、全く逆の意味を持つ行動を起こすことであった。
 ―――主やほかの城中の刀剣男士、あるいは政府の意向に逆らうことになろうとも。
「…………」
 片手で一度開きかけた扇を、膝の上でパチリと閉じる。
 自分は心を決めたようだ。そう歌仙兼定は知覚した。
 下座に座して、不安げにこちらを見つめていた小夜左文字に、歌仙兼定は顔を向ける。
「お小夜。目立たぬ程度の灯りを用意しておいてくれ。……今でなくていい、夜更けまでに」
「………歌仙さん……」
 唐突に指示を出されて、小夜左文字が藍色の目に戸惑いを浮かべる。
 歌仙兼定は構わず続けた。
「それから。消灯を待つ間に、二振目の宗三左文字どのの居館に伝言を頼む。あすこは、新参の前田藤四郎が部屋についていた筈だ」
「………わかりました」
 小夜左文字が何を思ったかは知れぬ。
 だが忠実なこの少年は、歌仙兼定の意向には逆らわない。
 表情を消して軽く頭を下げると、小夜左文字は、すぐに歌仙兼定に従って動き出した。



 未明。
 人目を忍ぶように、宗三左文字が運び込まれた手入れ部屋の前に歌仙兼定は立っていた。
 脇には、わざと明るさを落とした灯りを掲げて、小夜左文字が控えている。
 歌仙兼定は無言で手入れ部屋の扉に手を掛けた。
 怪我をして入室中の刀剣男士がいる場合、扉は外に向けて固く閉ざされ、傷が完全に癒えるまで、決して開くことはない。
 だが、歌仙兼定は、主から特別に幾枚かの手伝札を受け取っている。傷を早く癒す効能のあるその札は、近侍である己の体の為にのみ使用が許されている物品であるのは明白だったが、今、そのうちの一枚を歌仙兼定は勝手に使用して、主にも内密のままに、宗三左文字が寝かされた手入れ部屋の扉を開こうとしていた。
 小夜左文字の目に不安が宿っている。歌仙兼定の行動が、二振目の兄の身の上に何をもたらすか見透せぬのだから、当然とも思えた。
 歌仙兼定は無言のまま、手に力を込める。
 手伝札が効力を発し、扉は音もなく開く。
 小夜左文字にその場で待つように目で指示をして、歌仙兼定は部屋の中に踏み入った。

 手入れ部屋の中は懐かしい香の匂いに満ちていた。
 忘れるべくもない。
 かつて愛した宗三左文字が使っていたものだ。
 古風な作りである手入れ部屋の、板張りの床を滑るように歩いて奥へ進むと、立て込めた几帳の奥に、喪った恋人そのものの存在が横たわっていた。
 かすかな呼吸の気配。部屋の戸を開けた時点で宗三左文字の傷は完全に治癒している。今はただ眠り、疲労を癒している最中だろう。
 宗三左文字を起こさぬよう、音を立てずに几帳を押し退け、彼の枕元に立ち、歌仙兼定はしげしげと二振目の宗三左文字を見下ろした。
 身に纏っているのは、死装束と同じ、白無垢の小袖。体の上に、本来の衣裳である僧服が肩から足首まで被せ掛けられていた。
 柔らかな髪と同じ淡紅色の睫毛。色白の細面。薄い唇。顔色は青白く、傷は癒えたと言えどもいまだ死と生の境目を彷徨っているかのようだ。
 同じだ。
 夕刻、望んだものの見ることが叶わなかった二振目の容貌をじっくりと見つめて、歌仙兼定はそれだけをまずは思った。
 眠る二振目は、一振目と何から何までそっくり同じだった。
 違う人格であるなどと到底信じられぬほどに似通っている。
 彼が色違いの目を開けて自分を見つめるときは、一振目と同じような思慕と親愛の情に満ちているのではないかと期待するほどに。
 だがそんな筈は無かった。
 これは恋人ではない。まったくの他人だ。
 歌仙兼定にとって、目の前に眠るのは恋人の姿を象った、ただの生ける人形だ。
 それでも。
「宗三左文字どの……」
 久しく忘れていた感情が蘇り、口に出して呟いたことすら自覚せず、歌仙兼定は宗三左文字の顔の傍にしゃがみこんだ。
 愛しいものを見る喜悦、親愛、感嘆。
 庇護欲と所有欲。
 理性では別の者だとわかっていても、感情は納得しなかった。
 二振目の宗三左文字がどんな刀剣男士であろうと。
 へし切長谷部あたりに彼を任せるなど到底出来ることではない。
 手を伸ばして宗三左文字の額髪に触れ、頬に指を滑らせる。宗三左文字は応えず、眠ったままだ。
 歌仙兼定はもう少し大胆に動いて、宗三左文字の肩の下に腕を差し入れてその身を起こさせた。
 眠っているうちに彼を攫ってしまおう。
 寝具から、宗三左文字のもとより軽い身体を、歌仙兼定は易々と抱き上げる。己の胸元に宗三左文字の頭が当たり、襟元から、いっそう強く宗三左文字の香と体臭が立ちのぼった。
 これは僕のものだ。
 歌仙兼定の胸の内に、強い歓喜が湧き起こった。
 この感情も行動も、二振目の意思を完全に無視していることは百も承知の上で。
 手に触れた途端、既にして二振目を手放せなくなっていると、歌仙兼定は強く自覚していた。







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