| 悲嘆(アルヴィス編) |
| 771年 盛夏 |
冷たい床に銀糸の髪が広がる。 煙る睫毛の間から、涙に潤む瞳がこちらを見上げていた。その色は黒かと見まがうほどに深い深い青色だ。アルヴィスは息も接げずに自分の妻を凝視した。 「私は・・・」 ディアドラの口から途切れ途切れに言葉が漏れる。赤い血の筋が、彼女の口の端を伝い落ちた。 床に倒れた彼女の服に血が滲んでいる。背を貫いた傷から流れる血は床にも広がり、いまやディアドラの銀の髪を緋色に染めつつあった。 ロプトウスと化した息子ユリウスから、身をもって娘ユリアをかばったのだ。ユリアはワープによって逃れたものの、ディアドラはユリウスの放つ暗黒魔法の犠牲となった。 アルヴィスが駆けつけたときには事はもう終わっていた。 瀕死の傷を負ってディアドラはなお美しかった。凄惨も悲愴も遠く及ばない領域に、もはや彼女は到達していた。それがそのまま彼女の喪失を意味していることを知って、アルヴィスの心は恐怖に震えた。 「私は、自分の愛を取り戻しました・・・・」 苦しい息の下にあってディアドラが嫣然とほほえんだ。そんなにまで美しい彼女をアルヴィスは見たことがなかった。身動きもできず、ディアドラの上にかがみ込んだままのアルヴィスの身体の下で、ディアドラの表情はしかしすぐに憂いに崩れた。 「どうして・・・・?」 吐息は熱いが弱い。 睫毛の端から、悲しみの涙の粒がこぼれおちた。 「どうして、あの方を殺しておしまいになったの・・・・?」 アルヴィスの心を千の矢が刺し貫いた。 それは、いつか聞かれる問いだった。自分がディアドラと暮らす限り一生涯背負っていかねばならぬ責め苦だった。だが、よもやこんな時にその言葉を聞こうとは思いもよらなかった、ディアドラを失おうとしているまさにこのときに、ディアドラ自身の口からその言葉を聞こうとは! 誰のことを指しているのか、アルヴィスにはすぐにわかった。シグルド。あの男は最期の最期になって、アルヴィスからディアドラを奪うことについに成功した。二人は死の世界へ去り、アルヴィスは取り残される。彼の手元に残るのは、激しい良心の呵責と痛切な孤独だけだ。 そうだ確かに、私はディアドラの前夫シグルドを殺した。何故だ? シグルドが死ねば、ディアドラは自分一人のものだ。 そう考えたからだ、ロプト教を歴史の表舞台に立たせるために、自分がグランベルの権力を掌握しなくてはならなくなったあの陰謀の中で。ディアドラの過去をマンフロイが彼に告げたとき、ディアドラはすでにアルヴィスの妻だった。彼女が今更シグルドのものになるなど、アルヴィスには堪えられなかった。彼女を知る前ならば堪えられただろう、だが時は遅すぎた。瞳の奥に怖れを持たぬ、衒いのないまなざし。かつてどんな肉親からも受けたことの無かった全幅の信頼。頼られること、自分を必要とされること。自分がどんなにそれを渇望していたか、アルヴィスは知らなかった。それを彼に教えたのはディアドラだ。自分の過去を持たぬが故に他人に頼らざるを得ないひとりの娘が、アルヴィスの世界を完全に変えてしまった。 アルヴィスの恐怖はその時から始まった。自分だけがこの事実を知っているうちはまだいい、だがある日、ディアドラが記憶を取り戻したら?風聞から事実を知ったシグルドが、妻の返還を求めて名乗り出たら?ディアドラが去ること。失われた過去を取り戻したディアドラが、彼女自身の意志でアルヴィスではなくシグルドを選ぶこと。アルヴィスの怖れとはすなわち、その可能性に帰結していた。シグルドが死ねば、記憶を取り戻しても、ディアドラには選択のしようがなくなる。シグルドがいなくなれば、彼女は一生アルヴィスのもとで暮らすだろう。ひょっとしたら、過去の記憶さえ戻らず、最後まで自分ひとりの妻でいてくれるかもしれない。 シグルドの死は、この葛藤の中で決定された。 アルヴィスはディアドラの情報がシグルドのもとに届かぬように、必死になって彼女の素性を隠した。陰謀が成功すれば、ディアドラがシグルドのもとに帰る日は、永遠に来なくなる。アルヴィスは着々と計画を進め、シグルド軍が諸国を経てグランベルに帰国する日を待った。 シグルドの死の直前にディアドラを引き合わせたのは、全くの誤りだった。あのとき、死にゆく男に対して、優越を誇示する心がなかったとは言えないだろう。シグルドは罪人として死に、自分はディアドラを得て王家の女婿となる。つまらぬ顕示欲がさせたその行動は、しかし後々アルヴィスの後悔の種となった。シグルドの心からの叫びに、ディアドラは反応したのだ。彼の妻だった記憶は戻らぬままに、もう一度シグルドを愛しかねない勢いだった。ディアドラの手を強引に引いて彼女を王城に連れ戻しつつ、アルヴィスは臍をかんだ。直後にメテオを浴びてシグルドは死に、ディアドラは完全にアルヴィスのものとなった。たったいまこの時、ディアドラがかつての記憶を取り戻す直前まで。 いまやそうしたことの全ては灰燼に帰した。 ディアドラの前で、アルヴィスは罪人だった。罪状はどちらもよく把握している。アルヴィスは彼女の夫ではなく、シグルドの仇だった。シグルドが王家に対し罪があったかどうかはここでは問題ではない。他ならぬアルヴィスがシグルドを死に追いやったこと、ディアドラにとって問題となるのはそれだけだった。 ディアドラの深い青の瞳が、見透すようにアルヴィスを見つめる。 まなざしの言わんとするところは弾劾でも憎悪でもなかった。諦念の入り交じった、弱々しい嫌悪と深い憐れみ。その感情はアルヴィスをいっそう打ちのめした。 硬直したままのアルヴィスの目の前で、ディアドラは息絶えた。瞳の魔力が弱り、最期にごく弱い息を吐いて彼女はこときれた。それによって呪縛が解けたように、アルヴィスが緩慢に身じろぎした。 「ディアドラ・・・?」 呼ぶ声に答えるはずもないと、心のどこかでわかってはいた。 手を握り直し、ディアドラの頬に触れる。ディアドラの死が現実のものとして、しだいに浸透してくるにつれ、アルヴィスの心に新たな恐慌が募った。 「ディアドラ!ディアドラ!」 身体をかき起こし抱きしめる。彼女の血が手と言わず服と言わずアルヴィスを汚したが、彼はそのことにも気づかなかった。髪の感触は以前と変わらず、身の温もりもまだ残っている。その身体に縋りつき、名を呼べば魂が戻ってくるとでも信じているかのように、彼は何度も妻の名を呼び続けた。 「行かないでくれ・・・私を置いて行かないでくれ」 喪失。絶望。孤独。後悔。あらゆる波が彼を呑み込んで、そして。 彼はただ一人、取り残された。 皇帝の狂乱を冷ややかに見つめる者があった。まだ幼い子供である。 アルヴィスによく似た緋色の髪と琥珀の瞳、ディアドラ譲りの白皙の美貌。 だがその表情は、研ぎ澄まされた刃のように冷たく鋭い。 ロプトの血とロプトの書によって暗黒神ロプトウスをその身のうちに復活させた、その少年はユリウス皇子だった。母の死と父の悲嘆を自らの魔法で呼び寄せながら、ユリウスは無感動にその光景を眺めている。淡い色の瞳からは嘲りの表情さえ覗いていた。 アルヴィスが振り向いて、自分の息子を見ていたら、気がついたことだろう。 ユリウスはまさしくアルヴィスの息子だった。アルヴィスの幼いころと寸分違わぬ固い表情で、自分の父を見つめている。 醜態をさらすことに対する嫌悪。突き放した冷徹。侮蔑と憐憫と、しかし心の奥底で意識せずとぐろを巻く、自分が愛されぬ事への怒り。 アルヴィスは振り向かなかった。故にアルヴィスは、気づくことはなかった。 息子の暗黒と自分の闇が同根であることに。 グランベル歴七七二年。 皇帝夫妻の愛を受けたユリア皇女は、記憶喪失のままフォルセティの庇護を受けた。彼女は後にナーガの後継、光の末裔として、帝国反乱軍の中核となる。 いっぽう帝国では、この年を境にロプト教団の勢いが増した。何よりユリウス皇子が若いながらに政務に携わるようになり、その専横ぶりは皇帝アルヴィスの政策を圧倒して、グランベル帝国に怨嗟と混乱をもたらすことになった。 グランベル帝国の黄昏は、この年に始まったのである。 |
| (了) |
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