竜の婚姻











 夕刻より前に、竜は消沈した様子で母親が待つ雲の住処へ戻った。母親は息子の様子を見てすぐに合点がいったようだった。
「恋をしたね。人間の娘に」
 竜の体から矢を引き抜きながら、年を経た魔女の母親は云った。
 母親は流れ出る血を止め、薬草を塗り、手際よく息子の体を手当てする。竜の恢復は早い。矢疵そのものはすぐに治るはずだった。
 手当がすっかり終わると、竜は母親の前で小さくなって丸まった。
 魔女の手がその頭を撫でる。
「おまえの父親は人間に殺されたんだよ」
 魔女は外見は歳若く、顔立ちも整っていたが、決して美しくはなかった。人の姿をしてはいても、その知力も狂気も暴虐も、人間の域をとうの昔に逸脱していた。
 竜の喉から甘えるような、懇願するような声が漏れる。
「人間になりたいのだね」
 魔女が絞り出すような声で応じる。
「その娘を愛するために」
 数百年の間憎悪と怨恨を宿してきた暗い色の瞳に、強い嫉妬が走った。
「おまえは私のたった一人の息子なのに、おまえは私を捨てて行くんだね」
 魔女の強い爪が竜の硬い鱗を音を立ててむしり取る。幾枚も。鱗をむしられるのは矢を突き立てられるより一層痛かったが、竜はじっとすくんで痛みに耐えた。鋼鉄の剣をも弾く竜の鱗が、魔女の手の中で枯葉のように握り潰され、破片がぱらぱらと床に散っていく。
 じっと耐える竜の姿に目を落として、母親の狂気がほんのわずかに和らぐ。
「この私も、おまえの父も、かつては人間だった。おまえが人間の姿を得るのは、できないことではあるまいよ」
 長い爪をもつ魔女の手が、竜の頭を撫でさする。
「だがおまえは竜である間、この私に従い、数百年に渡って人間に害を為した。人間になるには生まれ変わらなければならないよ。死ぬほどの苦しみを味わって、今までの姿を捨て、新たな姿を得なくてはならない。いいんだね」
 竜は黙って肯定した。
 魔女が低く笑った。嘲るように。
「では薬をあげよう。それをお飲み。身体が完全に変異するには幾日もかかるだろう。あるいはただ苦しんで、命を落とすかもしれないよ。覚悟をお決め」
 魔女は部屋の奥へ引っ込み、大きな桶に濁った液体をなみなみと注いで戻ってきた。
 液体からは悪臭がした。
 竜は躊躇った。
 昨晩の娘の歌と青い瞳が思い返された。
 共には行けぬと叫んだ嘆きの表情も。
 竜は頭を桶に突っ込み、ひといきに飲み干した。
 やがて身体の内側から強烈な激痛が起こる。竜は煙を吐いて苦しみ、のたうちまわった。
 尾が床に打ちつけられる都度、硬い鱗の破片が飛び散る。
 竜は叫び声を上げながら身体を二つに折り曲げ、身を震わせた。
「まだ序の口だよ」
 魔女が平然と口を開いた。
「おまえが味わう痛みは肉体だけではない。心も千々に切り刻まれるような試練が待ち受けることだろうよ。竜の身を捨てねばよかったと思うようなね。それがおまえの身に纏いついた人血を振り払う、唯一の方法なのさ」
 激痛に悶える竜には、母親の声など耳に入らなかった。



 それから数日間、竜は苦しみ続けた。
 尾を石床に打ちつけ、転げ回る。
 その都度、硬い鱗がぽろぽろと跳ね飛んだ。
 鱗の抜けた後には、柔らかな肉が剥き出しとなって残るばかりだった。
 母親は毎日食事を運んできたが、竜の胃はもはや生肉を受けつけなかった。長い口を大きく開いて舌を突き出し、ぜいぜいと喘ぎ続ける。吐き出した胃液の中には血も混じっていた。
 竜は朦朧とした目で己の前足を見つめた。
 鈎爪を生やした三つ指の根もとから、新たに二本の指が生え始めている。それは鱗ではなく柔らかな皮膚に覆われ、人間と同じ肌の色をしていた。
 竜は激痛に耐え、唸り声を上げながら娘のことを思った。
 住む世界が同じになれば、あの娘は自分を受け入れるだろう。
 脳裡に娘の歌声が響き渡る。
 それだけが、竜の心を支えていた。
 苦痛で夜眠ることもできない。空腹の筈だが、その感覚は痛みの中に失われている。美しかった翼は醜く折れ曲がり、神経がちりちりと熱を伝える。この翼では、今は矢傷を受けたときほどにも飛べないに違いない。やがて翼は根元から腐り落ちるだろう。そう母親から聞いていた。
 その母親が竜の前に立つ。
「ここから東に峰を三つ越えれば、人間どもの王国があるよ。知っているだろう」
 娘の幽閉された塔のあった国だった。
 魔女が残酷に言葉を紡ぐ。
「先王の遺児である盲目の娘が、明日の日の出の刻に処刑されるそうだよ。叔父でもある現王に養われた恩を忘れて、呪われた邪悪な竜と交わったという罪で」
 苦痛に曇っていた竜の金色の目が、かっと見開かれた。胃液を垂らす喉から怒りの咆哮が上がる。
 竜は苦痛をこらえて首を上げた。痛みを引き剥ぐようにして、無理矢理に四つ足で立ち上がる。前脚が短くなっており、腰と比べて肩が極端に下がっている。
 竜は唸り声を上げ続けた。住処を出ようと竜が体を引きずると、ひび割れた鱗の欠片がぱきぱきと音を立てて床に散った。
 魔女は醒めた視線で息子の様子を見守っている。
 月光に美しく煌めいていた鱗は見る影もなく色艶を失って逆立ち、いまや半ばほどが剥げ落ちて肉が見えている。醜く折れ曲がった翼を強引に押し広げると、肩に新たな激痛が走った。
 竜は唸り声を上げて堪える。
 竜の思念に応じるように、近隣に風が起こった。竜はさらに翼を広げる。
 竜の翼が、風を孕んでようやく伸びきった。以前だったら難なく風を掴んで浮かんだはずだが、今は後ろ脚がわずかに浮いただけだ。
 竜の喉から焦燥の吼え声が上がった。
「これがおまえの受けるべき最後の試練だよ」
 母親の冴え冴えとした言葉が耳を打つ。
「立ち向かい、乗り越えるがいい。母を捨てる薄情な息子よ。試練に失敗すれば、私はおまえとおまえの愛した娘の命をいただく。だがこれを乗り越えることができたら」
 竜の翼がひときわ強い風を捕らえた。
 重い体が浮き上がる。竜は機を逃さず気流に乗った。
「おまえの妻に贈り物をやろう。私の娘となる女に」
 母親の声ははるか遠くに響いた。
 竜は娘をめざして東へ飛んだ。









                                            

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