<其乃七> 仰向けに眠る宗三左文字の面の上に、桶狭間の雨が降る。 ぽたぽた、と頬や瞼に温かな水滴が滴って、目を閉じたまま、緩やかに意識は覚醒していく。 傍で時折嗚咽が聞こえる。 顔に落ちてくるのは雨ではない、涙だ。 ここは桶狭間ではない。戦場ではなく、よく知った別の場所だ。周囲は暗く、室内だとわかった。 嗚咽の合間に、弱々しい囁きも耳に届く。 逝かないでくれ、僕を措いて死なないでくれ。 そんな嘆きの声にも聞こえた。 ――――これが誰か知っている。 宗三左文字はゆっくりと薄い瞼を開く。 己の枕元に座しているのは案の定、彼だった。 彼の涙を止めたくて、宗三左文字は横たわったまま腕を伸ばし、彼の膝に手を置く。 指が銀鼠色の袴に触れたと見えて、だが彼は宗三左文字に気づいた素振りもなかった。 悲嘆に濡れる緑色の目から、涙が宗三左文字の頬に降りかかる。滴が宗三左文字の頬骨を伝い落ちていくその熱を感じるのに、彼のほうでは自分の手の熱を感知できぬようだ。 泣かないでください、と伝えたいのに。 もはやその声も彼には届かなくなっている。 彼と自分はもう同じ世界にはいないのだ。 今川の御屋形様と自分とが、もはや同じ世界にはいないのと同じように。 薄い幕一枚を隔てた向こう側へ、彼は遠ざかってしまった。 彼は相変わらず、自分を思って泣き続けている。 それをただ見ねばならぬことに心が痛んだ。 ――――歌仙兼定。 意識を無くした自分の身を誰かに抱きかかえられた気がした。 嗅ぎ慣れぬ香の匂い。自分とは別の男の体臭。 その者が自分の額髪に触れ、手で頬や顎を撫でる。 さも愛おしげに。 かつて自分を腰に差した今川義元が、刀剣だった己を撫でたときのように。 あるいはそれ以上の、複雑な思慕を以て。 「宗三左文字どの」 彼の声が、自分を、彼岸の彼方より地の上に連れ戻す。 腕の代わりに得たと思った羽根は風を打つことをやめ、雲間から覗いた明るい星々の住処は視界から消えた。 木々の梢から根元までひといきに降り立ち、足裏に湿った土が触る。 鼻から入ってくるのは枯れ葉や雨、草のにおい。 自分の身はそうして今世に繋ぎ止められた――自由になることはなく。 心に湧き上がった感情は、落胆か。それとも安心か。 いずれにせよ、当面は、死ぬことを諦めねばならぬようだ。 空を仰ぎ、息を吐いてそれを受け入れる。 そして夢の中から、宗三左文字はゆっくりと目を開いた。 背に床を感じた。寝床に、仰向けに寝かされている。 開いた目には和室の天井が見える。己の居室かと思ったが、どことなく気配が余所余所しい。部屋の匂いも違う。眠っているときに嗅いだ香の残り香が、部屋全体を覆っている。 「宗三左文字さま」 心配げな少年の声には聞き覚えがあった。 「前田藤四郎……」 自分の居室に付いていた短刀の少年が、下座から、横たわる宗三左文字を見つめていた。 「無事にお目覚めですか」 「………ここは…、」 床の上で身を起こしながら宗三左文字は問うた。まだ頭がぼんやりとしてうまく言葉が出てこない。自分の周囲に置かれた屏風や寝具は見覚えのないもので、自分の居室ではないことは理解できた。 「ここは歌仙兼定さまのお屋敷の内です」 「……かせん………、」 前田藤四郎に教えられても宗三左文字にはぴんとこない。禄に話したこともない近侍の歌仙兼定が、なぜ自分の身を屋敷内に入れているのか。 「……僕は、戦場で敵に斬られた筈でしたが……」 最前の記憶とはそれだけだ。 「はい。重傷を得て、気絶した状態で帰城なさいました。手入れ部屋を経て、今はこちらへ。宗三左文字さまの身の回りの道具と、僕の持ち物もこの場へ移してあります。暫くは此処で過ごすことになると、弟君伝手に歌仙兼定さまより承っております」 「おとうと……」 呟く内に、小夜左文字本人が、前田藤四郎の後方の襖を開けて姿を現した。 「……小夜」 「……気がついた? 宗三兄さん」 「………僕は………」 緩やかに、宗三左文字は斬られる前の記憶を思い出す。 「……僕は戦場で罪を犯したのでしたが……」 「……手入れが終わるまでは、そうしたことは脇に置かれるんだ。……兄さんの手入れが終わった今は、兄さんの今後について、主や歌仙さんや、ほかの刀剣男士たちが本丸で詮議してる」 「………つまり僕は、近侍の歌仙兼定の屋敷うちに幽閉されているのですね」 ようやく事態が飲み込めつつあった宗三左文字だった。 自分が今いる部屋は以前にいた屋敷の主室よりもずっと狭い造りだった。近侍の歌仙兼定の館内にしても簡素に見えるが、柱は太く、小夜が開いてきた襖は厚く重そうだ。鍵穴はあるが内側からの掛け金はなく、外側からしか鍵の開閉が出来ないようになっている。 手入れ部屋で眠っている間にここに身柄を運ばれてきたもののようだ。 この部屋は、信のおけない刀剣男士を閉じ込めておくのに適している。 それも当然ではあろう。――宗三左文字自身でも、自分が信用できないと思うのだから。 宗三左文字が自嘲気味に笑ったのを、ふたりの短刀が見咎めて不安げな顔をした。 「いいえ……何でもないのです。歌仙兼定や小夜、あなたには手間をかけさせてしまいましたね。前田藤四郎、床を上げていただけますか。平服に着替えます」 そう時分を経ずして、自分には、刀解の沙汰が下るだろう。自分の犯した罪への処遇には、それが何より相応しい。 歌仙兼定が詮議の結果を持って本丸から戻ってきた際には、居住まいを正してその沙汰を拝領したい。 宗三左文字は頭髪に手をやった。重傷を負い、長らく伏せっていた所為で、柔らかな髪は寝乱れている。それを結い直そうと思ったのだ。 ふ、と宗三左文字の目が陰り、手の動きが止まった。 この額に触れた者があった気がする。自分ではない、何者かが。眠っているときに。 ――――そんな筈はない。 宗三左文字はすぐに、その感覚を振り払った。 幻覚か、手入れ部屋の中で見た益体も無い夢に違いない。 「お手伝い致します」 気の利く前田藤四郎がすぐに、結髪を手伝うべく宗三左文字の背後に回った。 「僕は床を上げとくよ」 小夜もそう言って、宗三左文字の起居の手伝いを始める。 「お願いします、二人とも」 宗三左文字は素直に応じて、短刀たちが自分の世話をするのに身を任せた。 議題は多く、詮議は一日がかりだった。 夕刻。詮議はようやく終わり、歌仙兼定は独りで本丸から己の屋敷に戻ってきた。 宗三左文字の世話の為に小夜左文字は館に置いてきている。 宗三左文字の屋敷付だった前田藤四郎は呼び寄せたが、と歌仙兼定は思う。 自分の荒んだ心を表すように冷たく寂れていた己の屋敷は、宗三左文字を住まわせるのだったらもう少し人を置かなくてはなるまい。暇をやっていた短刀の子達を再招集して屋敷を回さねばならない。本丸の内向きのことについても、燭台切光忠に任せきりにしていた部分を受け取って、昔自分が管轄していた頃のように差配したほうがいいだろう。今日改めて気がついたが、本丸も、屋内の調度や庭の植栽が季節に追いついていない。元来担ってきた台所や献立等の管理に加え、室礼までをも燭台切光忠に被せるのは負担を与えすぎている。 入り口から土間に入ると、気配に気づいたか、小夜左文字がすぐに奥から姿を現した。 「……おかえりなさい、歌仙さん」 「ただいま戻ったよ、お小夜。……宗三左文字どのは……、」 呼び慣れた筈の名が、今は喉に絡む。 言い淀んだ歌仙兼定の言葉の後を、気の回る小夜左文字は引き取った。 「兄さ……兄は先ほど目を覚ましました。……今は、歌仙さんを待っています」 いよいよ『彼』に正対せねばならぬようだ。 歌仙兼定は顎を引き、腰の刀を小夜左文字に預けながら覚悟の息を吐いた。 歌仙兼定の足袋をはいた足が、廊下を一歩進むごとに。 己以外の者の気配が濃くなっていく。 宗三左文字を幽閉した居室に近づくにつれて、彼の香の匂いが強くなる。 恋人だった者と同じ匂い。 体の奥から湧き上がる懐かしさは、しかしただの錯覚だ。 そうと知って尚。 『生きた』彼の気配を感じることは、歌仙兼定にとって強く心を揺さぶられることであった。 「歌仙兼定様がお越しです」 前田藤四郎の声が宗三左文字の耳に響いた。 部屋の外に人の気配を得て、前田藤四郎が襖を開く。宗三左文字はその奥の廊下に視線を向けた。 男性的な中にも優雅さを感じる香の匂いが、宗三左文字の座す部屋に漂ってくる。 「……宗三左文字どの」 自分の知らぬ間に宗三左文字を此処に幽閉した刀剣男士が、襖の向こうに立っていた。 「…………」 二振目の宗三左文字は相手の名を呼ばず、ただ黙って歌仙兼定に目礼した。 それを見て、少しだけ、歌仙兼定の緑の目の奥が揺らぐ。 歌仙兼定は儀礼的に一礼して部屋に入り、すぐに宗三左文字の傍までやってくる。 宗三左文字は背筋を伸ばし、正面に正座した歌仙兼定を見つめた。 「……まずは御礼を申します。あなたが僕を手入れ部屋から此処に運んできたと、小夜や前田藤四郎から聞き及びました。世話をしていただいて、ありがとうございました」 品性を感じさせる優美な声が、二振目の宗三左文字の喉から発せられる。 歌仙兼定にとっては聞き慣れた声だが、口調は他人行儀で、その上幾ばくかの緊張をも孕んでいる。 もっとも、宗三左文字が己の立場を理解しているならば、それは無理もないことであった。 宗三左文字が言葉を続ける。 「今日の詮議で、僕の今後の進退が決まるであろうと小夜が言っていましたが、どうなりましたでしょうか」 「……そのことだが」 歌仙兼定は宗三左文字を見つめて言葉を選びつつ口を開いた。 「きみは今後暫くはこのままこの屋敷で過ごしてもらうことになる。主の許可を得て、この部屋で蟄居することになった。期限は今のところ、定まっていない」 宗三左文字が色違いの目を見開いた。 「……蟄居が、僕に対する最終的な裁定なのですか……?」 「いいや。お上――主が言うところの『政府』へは、今は報告を止めさせている。きみの究極的な処遇は、今は宙に浮いた状態だ」 「………………」 「そこについてははっきりとは返事が出来ないんだ。この本丸では先例のないことだし、なかなか簡単には決まらないだろう。不安はあるだろうが、とりあえず、きみはこの館で、皆に反省の態度を示しつつ、同時に刀剣男士としての心得を学び直してほしい。……時が経って主や本丸の動揺が鎮まれば、改まって、また別の沙汰が下りる可能性もある」 意外な言葉ばかりを並べられた宗三左文字は唾を飲んで、歌仙兼定をじっと見つめた後、 「そうですか……」 かろうじてそう返事をした。 二藍色の前髪の奥から、己の様子を見定めるように、光を強く弾く緑色の目が宗三左文字を見据えてきていた。自分の身柄を定めたのは主だけでなく、まず間違いなく目の前にいる近侍の歌仙兼定であろう。そう宗三左文字は推測した。 刀解以外の沙汰が下りるかも知れないことを『希望』として此処で過ごせ、と、そういうことだろうか。 外見を一瞥して感じ取れる柔和な印象は、歌仙兼定のごく一部でしかないようだ。歌仙兼定は能う限り、宗三左文字の身について我意を押し通すつもりに違いない。 「……いかなる裁定であれ、従うのみではありますが……僕の進退を定めるのに、僕自身が、主の前に呼び出されて申し開きの場を設けられたりということはないのですか」 「必要とあらばそうなるだろうね。だが今はその時ではない」 歌仙兼定の答えはにべもない。 宗三左文字は瞬きをして、小さく息を吐いた。 「………」 歌仙兼定は自分を此処から出さぬ気だ。 他の刀剣男士からも、主からも隔離したこの場所に、自分を押し込めておくつもりなのだ。―――徳川の蔵に閉じ込められていたときのように。 自分は、またも他者に捕らわれた―――。宗三左文字にはそう思えた。 ただ自分に、選択の余地があるとも思ってはいない。何が起ころうとも、受け入れる以外のことはできまい。 宗三左文字の持つ諦念が、死の運命ではなく囚われの運命を受容する。それだけのことだ。 「謹んで、主の命に従います。……いずれ、後に、何の裁定が下ろうとも」 目を伏せて悄然と答え、後は黙した宗三左文字を、歌仙兼定はしげしげと見つめた。 一振目と変わらぬ相貌。肩から胸へ落ちる淡紅色の一房の長髪。紅梅色の袈裟も僧衣も、その袖から伸びた白い手が膝の上で数珠を握っていることも、恋人だった者と一切の相違は無い。 だが、なだらかな肩から立ちのぼる気配は一振目よりもいっそう生気に乏しく、存在感は弱々しい。 恋人の一振目は持っていたのに、目の前にいる二振目の宗三左文字には無いもの――それを歌仙兼定は発見していた。 一振目の宗三左文字は、余人に見えにくくとも、その内面に強烈な自負を隠し持っていた。 それが左文字由来のものなのか、天下人の刀と呼ばれてきた故なのか、あるいは、表面上は厭っていたにせよ、あの苛烈な織田信長の蔵刀として胸に刻印を打たれていたことに因るものか、それは歌仙兼定にも知れぬままだったが。 風にそよぐ枝垂れ桜の枝のような外見の弱々しさに相反する、頑なさや矜恃。一振目のそれらをも、歌仙兼定は愛していた。鬱屈した内面、宗三左文字が抱えていた心の葛藤さえ、歌仙兼定には風流に感じられたのだ。一振目の宗三左文字とは、そういう刀だった。 しかし目の前の二振目は、自尊心を予め失っているようだった。 初陣の桶狭間で心身を削がれるような事態に直面し、命を脅かされるほどの大怪我をして、それが癒えて尚、咎人として幽閉を強いられるのだから、己への自信を撓められるのも当然とも言える。 だがそれだけではないだろう。 歌仙兼定にはわからぬ何かが、二振目の周囲を影として覆い、生命感を失わせていた。宗三左文字の姿をしていながら、少なくとも一振目においては彼の根幹を成していた性質が、二振目には存在していないことに、歌仙兼定は強い危うさを覚えた。 ここに閉じ込めるだけでは足りないのかも知れない。 「宗三左文字どの―――」 焦燥によって膝の上で拳を握りしめ、歌仙兼定がそう呼びかけた矢先に。 宗三左文字が目を上げて、再びこちらを見た。 「歌仙兼定」 薄い唇から吐かれる、かすかで高雅な声。 宗三左文字の声でありながら恋人の声ではない。 その違和感と、それでも尚打ち消せぬ、己の心に蘇るかつての情愛。 歌仙兼定の動揺には気づかず、二振目は言葉を続けていた。 「これを尋ねるのは、僕の立場を鑑みたら出過ぎたことになってしまうかも知れないのですが……」 そこで言いさした宗三左文字を、平静を装う歌仙兼定は促した。 「……何でも聞いてくれ」 宗三左文字が口を開く。 「僕は本来は、刀解の沙汰が下りる筈だったのではないのですか」 その言を受けた途端。 姿勢は崩さぬものの、歌仙兼定の背が強張った。 下座に控えていた短刀の子らの顔にも緊張が走る。 それを視界の端に収めながら、歌仙兼定は目の前の宗三左文字を睨めつけるように凝視した。 ――やはり宗三左文字の心は死に向けて傾いている。 疑念が確信に変わっただけだが、それでも歌仙兼定にとっては衝撃だった。 「………今のきみが、そんなことを考える必要はない」 動揺が強すぎ、歌仙兼定は低い声でそう絞り出すのがせいぜいだった。 「しかし……桶狭間で、大和守安定も言っていました。僕の仕出かしたことは刀解に相当する罪だと」 「大和守安定には裁定の権限は無いよ。彼は昨日の詮議の場にすら出ていない。彼が戦場できみに投げた言葉は、その場の感情に任せたごく私的なもの、むしろ暴言と呼ぶべきものだ。きみは一切気にしなくていい」 「……………」 宗三左文字は唇を閉じ、色違いの目で歌仙兼定を見つめてきた。反論の論拠を持たぬ故に黙しているだけで、納得はしていない様子であった。 「……初陣で大怪我をして、それでも生きて帰ってきたのだから。きみは今後のことだけを考えて過ごすべきだよ」 内心の不安を押し込め、宗三左文字を諭す口調で歌仙兼定は言ったが、相手の眉の憂いは解けなかった。 自分の言葉が浸透していかないことに歌仙兼定は焦燥を強くする。 恋人だった一振目とは違い、本丸に顕現してから長らく自分が黙殺してきた二振目は、歌仙兼定への親和性や信頼が不足している。その故に今現在、自分の理屈を、目の前の二振目にうまく飲み込ませることが出来ずにいる。 ――外見はこんなにも。溶け合うように共に過ごした、昔の『彼』に似ているというのに。 歌仙兼定の動揺は強く、二振目の宗三左文字を目の前にして、そろそろ感情を隠し遂せることができなくなりつつあった。 宗三左文字を睨み据え、歌仙兼定は告げる。 「僕のほうでもきみに聞きたいことがある。宗三左文字どの」 支配性の強いその声は大きくはないが、有無を言わせぬ威圧感を持って周囲に響く。 「……なんですか……?」 一振目より一層弱々しい、無垢で頼りなげな宗三左文字の声。 「桶狭間で……あの戦場で。きみは 冷たい声で口にした直後。 誤った行動を起こしたと歌仙兼定は自覚した。 目の前の宗三左文字や、短刀の子たちの動揺を見るまでも無かった。 「…………、」 自分を見つめる色違いの両の目が見開かれ、白い喉が息を飲む。 ―――尋ねるのではなかった。 心底に少しく後悔が湧いたが、歌仙兼定は懸念を黙殺して宗三左文字を凝視し続けた。 たとえ間違いであろうとも聞かずにはおれなかった。 それは歌仙兼定が、長らく知りたかったことだった。 より正確には、二振目ではなく一振目の宗三左文字に対して。 僕という者があって尚、戦場で死を望んでいたのか、と。 「―――宗三左文字どの」 黙りこくったままの宗三左文字に、歌仙兼定が揺さぶるように名を呼んだ。 宗三左文字はひくりと身を震わせ、だが相変わらず言葉は生み出せないようだった。 「……僕は………」 宗三左文字は口を開き、そう言いかけて、あとは黙ってしまう。 そうだろうとも、と歌仙兼定は心の中で頷く。 以前もこういうことはよくあった。恋人だった一振目が在していたときに。 宗三左文字の葛藤は複雑で、本人にも言語化して意識したりはできぬままのことが多かった。言葉や理屈よりよほど先に生まれる、矛盾した幾つもの感情が、常に、宗三左文字に鬱屈をもたらしていた。 思考の混沌もまた、宗三左文字の特質と言える。 二振目が桶狭間で、実際にはあのときどうしたくて行動を起こしたのか、など、尋ねても無駄だろう。歌仙兼定が発した問いは宗三左文字の心情に余計な混乱を生んだだけに違いない。 以前の歌仙兼定ならここで引いていたはずだ。 だが歌仙兼定の側の動揺も強く、自分で自分の言葉を押し止めることは難しかった。 本当なら肩を掴んで揺さぶり、宗三左文字を問い詰めたいくらいだった。 桶狭間で義元の後を追いたかったのか、あるいは、刀剣男士としての暮らしや責務を命ごと振り捨てたかったのか。 戦場で。死ぬつもりで、あの場に、敵の前に立ったのか。 刀剣男士の主は当然のこと、歴史上の刀剣の主を指すのではない――そのことに対する理解が、宗三左文字には薄かったのではないのか。 この本丸で、誰かと共に生きる覚悟が。 「僕らはもはや刀剣ではない。きみの足も手も、きみの意思に従って動く。つまり僕ら刀剣男士とは、感情を持った、一個の精神だ。そしてその精神は、歴史上のかつての主ではなく今の主、審神者と繋がることで成り立っている。僕らの主はこの本丸にいる審神者だけなんだよ。 ――きみがそのことを今まで知らなかったのなら、新参のきみにそれを教授できなかった近侍の僕にも責任はあるだろうね。昨日きみを引率した部隊長の和泉守兼定にも言われたよ。癪に障ることだが。 だからきみには、刀剣男士としての在り方を、今後しっかりと把握していてほしいんだ」 「……………」 歌仙兼定が語っても、宗三左文字の潤んだ深い青と緑の目は感情の色を変えてゆかぬ。言われたことをまったく解していないのは明白だった。 ――先走りすぎている。そう歌仙兼定は悟る。 宗三左文字の思考に合わせた会話でなければ、相手は内容を拾えない。 そして二振目は、どう見ても、恋仲だった一振目の宗三左文字よりも一層、内面の惑乱を強めていた。 「宗三左文字どの……」 歌仙兼定が名を呼ぶほどに。 目の前にいる二振目の宗三左文字の心は遠離る。 こんなにも体は近くにあって、それこそ、すぐに触れられる位置にいるのに。 鳥のように蝶のように、掌をすり抜けて飛び立つことが出来ぬように、彼の魂を、体ごと己の屋敷に閉じ込めている最中なのに。 捕まえておきたかったのは目の前の者ではない。 瞬間それを失念して、歌仙兼定は更なる失敗を重ねた。 「きみは学ぶべきだよ。厳然たる事実を。―――きみは勘違いをしている」 歌仙兼定の緑色の目に、宗三左文字の危うげな相貌が映っていた。 笑顔の一欠片も見せずに、歌仙兼定は二振目に告げた。 「死の先に、自由など無い」 |
| next |