<其乃八>


 日没の時刻はとうに過ぎた。
 歌仙兼定は半刻以上も前に宗三左文字の傍から姿を消していた。
「……………、」
 暗くなった部屋で、二振目の宗三左文字は、歌仙兼定が目前に居たときのまま座し続けていた。耳に心音を感じ、脇息に縋って、刻印のある左胸の上を右手で掴んだ姿勢を崩せずにいる。
 戦場で己が見たのはまやかしだ。
 歌仙兼定ははっきりとそう告げた。
 自分が見たもの、感じたこと。
 戦場にはいなかった筈なのに、歌仙兼定によってあまりにも的確に己の内面を暴かれてしまい、宗三左文字は、肺腑を抉られたような心地に陥っていた。
 そんな宗三左文字を、脇に控えた前田藤四郎が不安げに見守っている。
「……兄さん」
 外部からの襖が開いて、歌仙兼定と共に一度退出していた小夜左文字が再び現れる。
 その小さな手には灯りを持っていた。
「大丈夫?」
 夜目の利く弟は、兄の様子を見てそう尋ねてきた。
「………、ええ、」
 怪我や病を得ているわけではないのだから、そう答える以外に返事のしようがない。
 小夜左文字は出入り口の傍に灯りを置いて、廊下から、盆の上に載せられた何かを宗三左文字の元まで運んできた。
「お茶だよ。……歌仙さんが、兄さんに、って」
「……………」
 盆の上には抹茶が入った黒楽の茶碗と、菓子が並べられていた。
 宗三左文字は眉根を寄せて、それを無言で見下ろす。
 飲み食いをする気にはとてもなれない。まして歌仙兼定が用意したものとあっては。
「……心がささくれ立つような言葉を投げつけてしまって悪かった、って、歌仙さんが言ってた。夕餉の前だけど、飲んで食べれば少し気持ちが落ち着くからって」
「……………」
 小夜左文字の手が、畳の上で宗三左文字の側に盆を押し出してくる。
「歌仙さんが茶を点てるのは久しぶりなんだ。……ここ数ヶ月、茶道具に触れることもなかったから。……兄さんは抹茶は初めてだろうし、もう夜だから、あまり苦い茶にならないようにしたって言ってたよ」
「……………いただきます」
 口をつけるだけでもせねばならぬようだ。
 気が進まぬながら、宗三左文字は茶碗を手に取り、茶を口に含んだ。
 小夜左文字の言の通り、茶はさほど苦くはなく、むしろ優しい甘みが舌に広がっていく。
 同時に宗三左文字の心は少しだけ緩んだような心地がした。
「お菓子も」
「…………………」
 寄越された菓子は小麦粉を溶いて焼いたものの上に小豆餡が乗せられている。
 強い甘味がさほど好きではない宗三左文字が躊躇していると、
「大丈夫だよ。僕ら左文字はあまり甘いのが好きじゃないことを歌仙さんはよく知ってるから」
 傍から小夜左文字が告げてくる。
「………僕が彼に告げたこともない僕のことを、よく御存知なんですね……歌仙兼定は」
 厭味と呼ぶにも弱々しすぎる声でそう言って、仕方なく宗三左文字は菓子も摘まんで口に入れる。
 餡には砂糖は入っていなかった。二振目の宗三左文字が、顕現してから今まで食べたことのない味だった。小麦菓子も甘くはなく、口中で小麦と小豆の風味がゆっくりと溶け合っていく。これは確かに自分好みの味だ、と宗三左文字は認めざるを得なかった。
 宗三左文字の心中に、またも歌仙兼定への恐怖に似たものが広がっていく。
 自分が知らない歌仙兼定という男は、自分のことを何処まで知っているのだろうか。
 宗三左文字自身も知らなかった、茶や菓子の好みまで歌仙兼定は把握している。
 恋人だった一振目の形代に、二振目の自分の全てを掌握し、支配するつもりなのだろうか。
 今川義元から己を略奪し、その身に合わせて磨上をして茎に銘まで入れさせた魔王の如くに。 
「……………」
 存命だった頃の一振目は果たして歌仙兼定を自分ほど畏怖しただろうか。二振目である自分の時とは違って、顕現して初めて出逢った歌仙兼定と宗三左文字は、手探りで己の好みや趣味を探り、互いに互いを添わせてゆく時間があった筈だ。その時間や距離感を、今、歌仙兼定は二振目に向けて考慮するつもりがないようだった。
 歌仙兼定は大して気にかけてはいないのだ。
 こちらから、相手に添う気があるかどうかなど。
 さもなければ、手入れ部屋から眠ったままの自分を攫うように連れ出し、城中の皆の意を得られる詮議より以前に自分を己の屋敷に閉じ込めることはしないだろう。
「……僕の意思や心は、どうでもいいのでしょうね……」
 この身柄を捕捉さえできれば。
 宗三左文字の薄い唇が皮肉な笑みを湛えた。
 刀剣男士になろうと刀剣のままであろうと同じことだ。
 初陣の場である桶狭間で自ら失態を犯した所為で、二振目の宗三左文字は、刀剣時代の己の立場と同じ境遇を辿ることになってしまった。
 常から腰に差していた、自分の分身である打刀さえ、今は取り上げられてしまっている。
 刀剣男士としての用を為さぬまま、歌仙兼定に閉じ込められたその先に何が起きるか、二振目には知る由もない。
 やはり刀解の沙汰が下りるか、ずっと歌仙兼定の屋敷で幽閉の憂き目を見るか。いずれにせよ、明るい展望など見通せない。
「……………………顕現など、しなければよかったのに………」
 その独白を、さすがに少年姿の弟と前田藤四郎に聞かせるわけにもいかず。
 宗三左文字は口の中で声もなく呟いた。


 暗い部屋の中で消沈しているのは宗三左文字だけではなかった。
 己の居室に戻った歌仙兼定もまた、不機嫌を隠しもせずに独り主座に座し、提子(ひさげ)に用意した酒を杯に注ぎつつ呷っている。
 退出前に二振目に投げた言葉への自己嫌悪や、そうは言っても、心が通じていかぬ二振目への苛立ちを止めようも無かった。
 贖罪のように、かつて一振目の宗三左文字が好んだ味の茶と菓子を、小夜左文字づてに二振目に運ばせたが、そんな機嫌取りのようなことをしたことすら更なる苛立ちの要因になっていた。二振目からすれば今更であろう。一振目の宗三左文字がもっとも厭っていた、支配や所有、蔵の内に閉じ込めるに似た仕打ちを、二振目に対して歌仙兼定は既に果たしてしまっている。
「まったく、風流ではない……」
 かと言って今後二振目の宗三左文字を己の屋敷から出す気など一切なかった。一振目以上に、二振目は、誰かが見張って閉じ込めておかなくては、間違いを犯し、どこかに飛び去ってしまう。歌仙兼定が初めて見定めた二振目の宗三左文字は、それほどに、危うさの強い存在だった。二振目が顕現して以後、そこそこ彼と親しくしていたへし切長谷部あたりも、そのことは知っている筈だ。歌仙兼定が二振目の宗三左文字を手放した途端に、へし切長谷部は躊躇いなく二振目を取り込んでしまうだろう。断じて許容できるものではなかった。
 日中の詮議で彼から受けた疑念を思い出し、歌仙兼定は嫉妬も含めてへし切長谷部への怒りを一層募らせる。
 屋敷に置けば僕が二振目の宗三左文字どのに手を出すなどと、無粋な懸念をよくも述べてきたものだ。
 へし切長谷部だけではない。蜂須賀虎徹の指摘に代表されるように、詮議の場にいた刀剣男士のほぼ全員が、自分が二振目を手中にした以上はその身を恣にするだろうと予期していた。自分がそのような男だと思われていること自体が、雅を尊ぶ歌仙兼定の不機嫌を煽っていた。
 いちばん気にくわないのは、と歌仙兼定は酒を飲み込みながら緑の目を眇める。
 自分が二振目を犯すに何ら障害のないことだ―――二振目の意思を除けば。
 そして二振目の意思を尊重するなどという段階は、歌仙兼定の中でとっくに過ぎてしまっている。手入れ部屋から彼を攫ってきたときに、今以て彼を幽閉しているという事実のうちに、歌仙兼定は宗三左文字の意思を侵害し続けている。
 二振目の宗三左文字を手に入れて支配する。
 この欲求は二振目への情欲や情愛というよりは、占有心や所有欲に近い。二振目に対する性欲は今のところさほど湧いていないが、恋人の形代である以上、抱くことは充分にできるだろう。一振目と同じ僧衣の下の体を暴いて、二振目自身から彼を今より深く奪いさえすれば、元来諦観の強い宗三左文字は、死への傾倒を止め、歌仙兼定の決断や意思に従うほかないと諦めるかもしれない。
 二振目の宗三左文字を完全に自分に屈従させ意識を己に振り向けさせたい、という不穏な欲求が湧き上がるのを押さえつける為に、今の歌仙兼定には酒が必要だった。
 杯を幾度も呷るうち、提子の中はすぐに空になった。水屋で甕から新たな酒を提子に注ぎ、部屋に戻って再び飲み直す。その往復を三度も繰り返す頃には、さすがに歌仙兼定は早飲みが過ぎると自覚した。酒にはさほど弱くないが、日本号や次郎太刀、不動行光のような無粋な酒は己の良しとするものではない。
 抑制しなくては。
 そう思っているところに、小夜左文字が部屋に顔を出した。
「……歌仙さん」
「お小夜か。……兄君の様子はどうだい? ……さぞ気落ちしていただろうね」
 自嘲的な笑みで、歌仙兼定は小夜左文字に顔を振り向けた。
 自分の言葉が如何に宗三左文字を傷つけるか、歌仙兼定はよく知っている。
「…………はい」
 小夜左文字は歌仙兼定の不機嫌を悟っていて、用心深く返答してきた。
「茶は受け取ってくれただろうか」
「それは、大丈夫でした。……渋々でしたけど」
「そうだろうね」
 歌仙兼定の笑みはようやく苦笑と呼べるほどの柔らかさに戻っていく。
 歌仙兼定は酒杯を床上の盆に置き、小夜左文字を手招きした。
「こちらへおいで」
 小夜左文字は素直に従う。
 寄ってきて傍に座ろうとする小夜左文字の袖を引いて、その小さな尻を歌仙兼定は己の膝の上に乗せさせた。
「歌仙さん……」
 二振目の宗三左文字を運び込む以前、この屋敷に二人きりのとき。
 恋人と兄を喪った二振りはこうしてよく身を寄せ合った。互いの心の空白を埋め合う為に。
 言葉より触れ合うことによって伝わる何かは確実に存在する。ただ加洲清光の見立ての通り、その行動には性的なものは存在しなかった―――少なくとも歌仙兼定の側には。
「お小夜にはやはり宗三左文字どのに似た気配があるな」
 小夜左文字の後頭部に鼻を寄せながら歌仙兼定は小夜左文字の小さな体を包み込む。戦場で発揮される強い復讐の気は今は小夜左文字からは薄れ、左文字派に特有の、厭世的で熱感の弱い空気を纏っていた。その名の通り、冴えた月の夜のようだ。
「……僕はそれは自分ではわかりません」
 歌仙兼定の袖の中で小夜左文字はぽつりと呟く。そうは言っても、子供の姿を取る小夜左文字は、恋人だった一振目の宗三左文字より体温は幾分高い。
「似てるというなら。今日屋敷に来た二振目の宗三兄さんのほうが、よっぽど……」
「ああ。そうだね」
 というよりも。彼は宗三左文字そのものなのだから。
「ただ、彼は、僕たちにある喪失の事情は知らない。桶狭間での事もあるし、あの宗三左文字どのは今はただ、自分の境遇に混乱しているんだろう」
「僕は。二振目の宗三兄さんが。……以前ここにいた兄さんとあんなに似ているのに、同じ人ではないことに、まだ驚いています」
 小夜左文字の頭上で歌仙兼定が苦笑した。
「お小夜は正直だな」
 歌仙兼定の声に混じる酒精や、使う香と相俟った歌仙兼定の匂いに包まれて、何故か心が安らぐのを自覚し、小夜左文字は深く息を吐いた。
 自分の腕の中で心を緩ませ、身を預けてくる少年を、歌仙兼定はもう少しだけ深く抱き締める。
「宗三左文字どのの形見としては、お小夜がいてくれればそれでいい。……そう思ったときもあったんだが」
 屋敷に迎えた二振目の宗三左文字をどう扱うべきか、歌仙兼定は考えあぐねているのだろう。
 小夜左文字は声には出さず、そのように解釈した。
 歌仙兼定にとって自分が死んだ兄の代わりにはならないことは、小夜左文字自身が一番良く理解していた。
「……二振目の兄さんは、今、この屋敷にいます。………生きた姿で」
「………………ああ」
 歌仙兼定は首肯した。
「人の心というのは厄介だね。贅沢にできていると言うべきか。……状況が変わると、それだけで期するものが変わってしまう」
 それでも。
 今ここにいる宗三左文字は恋人とは別の存在なのだ。
「お小夜は食事は済ませたのかい」
 歌仙兼定は話題を変える。
「……はい。前田と一緒に、兄さんの給仕をした後に、二人で。……歌仙さんは……」
「僕は今夜はいい。酒と肴だけで十分だよ。宗三左文字どのの寝仕度は済んでいるんだろう? もう休みなさい。お小夜にとっても、宗三左文字どのを迎えた今日は長い一日だっただろうからね」
「……ありがとう、ございます」
 小夜左文字が呟いたのを機に、歌仙兼定は少年を手放した。
「おやすみなさい、歌仙さん」
「ああ、お休み」
 小夜左文字が部屋を退いた後、歌仙兼定は再び杯を手に持つ。
 他人の体温が去り自分独りになると、最前の苛立ちが歌仙兼定の心に蘇ってきた。
 同じ屋敷に暮らすことになった、二振目の宗三左文字。
 自分の選択は正しかっただろうか。どうせ間違えたのなら、どこまでもその間違った道を圧し通ってしまおうか。
 消沈した二振目の僧衣を剥げば、一振目と同じ身体がそこにあるに違いない。束の間、自分だけは、恋人を喪う以前の心地に戻ることが可能かも知れぬ。
 ……いや、考えるのはやめよう。
 二振目について今、酔いかけた脳で思考すること自体が危険だ。
 本来。こうした葛藤を疎んじて、新参の二振目を、長らく本丸で無視してきたのに。
 そもそも彼が顕現することさえなければ……。
 怒り混じりの逡巡のうちに、杯と、提子の中は再び空になった。
 歌仙兼定は迷った結果、結局提子を掲げて再び酒甕のある水屋に向かう。
 もう少しだけ飲んだら今度こそ自分も寝ることにしよう、と、そう考えながら。


 歌仙兼定の差配により、前田藤四郎の手によって用意された寝具に横になって、二振目の宗三左文字は溜め息をついた。
 就寝してから一刻以上は過ぎている。
 緊張と不安が心を昂ぶらせていて、当然のことながら眠れない。夕餉でさえも、殆ど喉を通らなかった。
 幽閉されている見知らぬ部屋は、自分独りの筈なのに人の気配がする。寝具は新しいものだが、屏風や、今は片付けられている文机などは、生前の一振目の宗三左文字も使っていたものだと小夜左文字から聞いた。
 その所為だろうか。暗い中に横たわっていると、ゆかしさと余所余所しさが皮膚の外側から迫ってきて、落ち着かない気分になる。自分以外の、誰か別の者の息づかいさえ聞こえてくるようだ。
 無理にでも眠らなくては。宗三左文字は体を横向きにして目を瞑る。
 暫くの後。
 宗三左文字の背後で、掛け金が掛かっている筈の襖が開く気配があった。
 廊下を渡ってきた冷気が鼻先に触れる。
 夕刻に嗅いだ、優雅だが男性的な香の匂いも。
 歌仙兼定だ。
 宗三左文字にはすぐにわかった。
 物音はしないが、背後から歌仙兼定の気配が近づく。宗三左文字は身が強張るのを感じたが、相手にそれと気取られぬよう身動きは控えた。
 深夜に来るとはそういうことなのだろう。
 宗三左文字は震える息をそっと吐き出した。ある程度は予期していたことですらあった。
 身体を蹂躙されることに屈辱感と不安はあるが、抗っても意味を為すまい。諦念が宗三左文字の心を覆いつくしており、魔王の磨上や徳川の再刃を受けたときと同じく、他者が己の身を侵蝕するのをただ受容するしかなかろうと思われた。
「宗三左文字どの」
 果たして。
 歌仙兼定は囁き声で名を呼び、その手が宗三左文字の肩に触れてきた。
「……………、」
 如何なる反応をすべきか、戸惑っているうちに、背後から歌仙兼定の腕が巻き付いて、痩身を強引に抱き起こされて引き寄せられる。
「っ、か、」
 歌仙兼定、と名を呼びもせぬうちに。
 体の上に纏っていた寝具は剥がされ、寝間着である白小袖が露わになる。その襟首から伸びた宗三左文字の白い項に、歌仙兼定の鼻や唇が押しつけられてきた。
「…っ…………、」
 強い力で背後から抱き込まれて、背に歌仙兼定の身体が密着する。
「か、かせん、」
 歌仙兼定の呼気からは強い酒精がした。
 彼の体熱が異様に高いのも、酒を飲んだ所為なのだろうか。
 耳の後ろから、歌仙兼定の唇が声を紡ぐ。
「―――きみを助けるのではなかった」
「!」
 想外のことを酒気と共に囁かれて、宗三左文字は息を呑んだ。
「こうして懊悩するのは目に見えていた」
 宗三左文字の襟首に顔を埋めた歌仙兼定の唇から、くぐもった声が漏れてくる。
「破壊でも刀解でも、……きみが折られてしまうのを、距離を保って見過ごしてしまえたなら……」
 言葉とは裏腹に、歌仙兼定が宗三左文字を捕らえる腕にはいっそうの力が込められた。
「………歌仙兼定…、」
「あるいは。京都市中で顕現したときに。きみをその場に放置して帰城してしまえばよかった。きみは前後もわからぬまま、その場で刀剣男士としての命は潰えただろうに」
「……………、」
 酔った歌仙兼定の繰り言の内容を、ようやく宗三左文字は理解し始めた。
 二振目は吐息をつく。
「……もしあなたが、そうしてくださっていたら……」
 自分は自由でいられただろう。
 歌仙兼定が密着する背中と、強く抱き締められた腕から、歌仙兼定の体熱が宗三左文字の身に移ってくる。
 酔ったが故に隠し果せなくなっている、恋人を喪った彼の深い悲嘆も。
 同調するように、宗三左文字の裡にも、悲哀に似た強い情感が湧き上がってきた。
「置き去りにされていたら。僕はあなたを恨んだかも知れませんが、……過日の桶狭間のような事態を引き起こすこともないまま、今頃は自由でいられたことでしょうね……」
『自由』が何を指すかを理解している歌仙兼定の腕の力がいっそう強くなった。
 宗三左文字には苦しいほどだ。
 肺を圧迫されたその吐息に悔悟が混じる。切れ切れに、宗三左文字は囁いた。
「これからでも……近侍のあなたが、僕の刀解を、主に申上してくだされば……」
「駄目だ」
 強い言葉と共に、宗三左文字の小袖の襟が、歌仙兼定の手で絞られる。
「きみに一度でも触れてしまった今。きみを見放すことも手放すことも出来はしない。こうなることはわかっていた。……宗三左文字どの………」
 宗三左文字の項に歌仙兼定の前髪と鼻先が押しつけられてくる。首筋を歌仙兼定の唇が這い、宗三左文字の身にぞくりと熱が湧いた。
 酔った歌仙兼定の両腕は宗三左文字の身体を二の腕ごと捕らえ、その左掌は、魔王の刻印を打たれた宗三左文字の心臓の上に当てられていた。
 耳元で囁かれる歌仙兼定の声。
「きみの息遣いと、胸の鼓動が聞こえる。こうして触れている、きみの熱も感知できる。これを途絶えさせることなど、絶対に許容できない」
「…………、」
 宗三左文字の耳にも心音は聞こえる。だがそれが自分の脈動なのか、触れてくる歌仙兼定のものなのかは既に判別がつかなかった。
 高まってくる熱も。いったい誰のものなのだろうか。
 知らず、宗三左文字の頬は紅潮してくる。
 自分の胸に当てられた歌仙兼定の手。無意識のうちにその上に、宗三左文字は己の手を被せるように触れていた。歌仙兼定の手を剥がそうというのか、受け入れようというのか、自分でもわからぬままに。
 混濁する熱と思考の中で。
 一つだけ、はっきりとしていることを、二振目は口に上せた。
「……いいんですか……歌仙兼定……、……僕は、あなたが愛した宗三左文字とは、別の者ですよ……、」
 歌仙兼定の、酒気交じりの息が一瞬止まり、そして再び吐かれた。
「百も承知している。―――それでも駄目だ」
「……あなたが、僕をこの屋敷に幽閉したのは……、僕を捕らえて、逃がさない為なのですね……。……一振目の、形代に………」
 死んだら姿ごと喪われてしまう刀剣男士の肉体の、その代替に。
 息をする亡骸として。
「僕が既に。刀剣男士としては用を為さぬが故に……あなたが、僕を、別の用途で此処に引き入れたんですね…………わかっています……」
 力なく吐かれた宗三左文字の言葉に、だが戸惑ったように歌仙兼定の腕は拘束を弱めた。
 歌仙兼定からもはや逃れる気力も無く、二振目はその場に頽れ、床に横たわる。
 二振目の小袖の裾や袖は乱れ、一振目と同じすんなりと長い腕と脚が歌仙兼定の目前に露出していた。着崩れて開きかけた襟からは鎖骨と喉仏が覗き、そこに淡紅色の細い髪が散っている。
 生きた骸として求められているなら。
 ただ求めてくるままにさせておけばいい。
 宗三左文字は投遣りな気持ちで両目を閉じた。
「………いいですよ……。どうぞ……ご随意に」
 皮肉にすら響かぬ弱さの宗三左文字の言に、歌仙兼定が身じろぎをする。
 生きた屍体そのものだ。酔った歌仙兼定の頭にそのような感慨が浮かんだ。
「……宗三左文字どの」
 歌仙兼定は腕を伸べて、宗三左文字の体を仰向けに寝具の上に転がした。
 瞼を閉じた宗三左文字の姿は前日、手入れ部屋で見たことがあるものだった。生命への欲求の弱さは、昨夜も今宵も共通している。昨日は血色を失った青白い肌の色、今は、頬は紅潮しているが、眉根の辺りをかすかに強張らせている。
 だがそんなことよりも。
 歌仙兼定にとっては宗三左文字の存在そのものが、遙かに重要だった。
 屍体の如くにくったりと横たわる宗三左文字の様相は、歌仙兼定の心を強く掻き乱した。
「……目を開けてくれ」
 縋るような声。
「……………、」
 それが不思議で、宗三左文字は、歌仙兼定の欲求に応じて目を半眼だけ開いた。
 身厚な歌仙兼定が、宗三左文字の上に覆い被さってきていた。
 正面から向かい合う歌仙兼定の体熱と、その圧迫感。
「……………」
 諦念と不安が混沌と入り交じった視線で宗三左文字は歌仙兼定を見上げた。
 暗がりの中で、殆ど色を失った青と緑の目が自分を見てくるのを、歌仙兼定は認めた。
 寝具の上に、沈み込むように横たわる宗三左文字の姿。その痩身。引き結ばれた薄い唇からは言葉も出ない。
 かつて恋人として見慣れていた筈の暗い色の両の瞳。そこに湛えられているのは親和の輝きではない。
 歌仙兼定を凝視するその目は、うっすらと涙に潤んでいた。
 薄い膜一枚の向こう側から、己を見透されているかのようだ。
 死者の側から、生者を見つめるかのように。
 ―――目の前の宗三左文字は生きているのに。
「宗三左文字どの………」
 歌仙兼定は手を延べて、昨夜手入れ部屋でしたように、宗三左文字の柔らかな額髪を指で梳き撫でた。
「………………、」
 記憶を刺激されたのか、宗三左文字が少しだけ目を見開く。
 当時宗三左文字は眠っていた筈だが、触れられたことを朧気に憶えていたものだろうか。
 生気を得たようなその様相に、歌仙兼定は更に掌全体で宗三左文字の頬に触れた。
 そう、彼は生きている。
「きみを死なせはしない」
 歌仙兼定の口から思わず言葉が出た。
 誰のことを言っているのか、誰に向けて言ったのか、とそれを聞いた宗三左文字は惑う。
 喪った一振目か、二振目に対してか。
 酔った歌仙兼定が己を撫でる手が、宗三左文字の唇に触れる。
「きみを二度も喪ったら。僕まで死んでしまう」
「……………」
 宗三左文字の唇が、何か言いたげにほんの少し開かれた。
 歌仙兼定の緑の目から、水滴が、二藍色の睫毛を伝って宗三左文字の顔の上に滴り落ちてきた。
 桶狭間の雨の如く。
 ぽたぽたと、滴が頬に落ちかかる。
 既視感に、二振目の宗三左文字は色違いの目を大きく見開いた。
 この状況に憶えがある気がする。
 だがいったい何処で。思い出せない。
 この身に起きたことではないのだから、想い出せる筈もない。
 では何故。
 それは夢ででもあったのだろうか。
 混迷に身動きも取れぬまま、二振目は歌仙兼定を見つめていた。
「宗三左文字どの……、僕を置いて、逝かないでくれ」
 宗三左文字の淡紅色の睫毛の上にも、歌仙兼定の涙は落ちてくる。
 その悲哀にも憶えがあった。
 夢。いやそれよりももっとはっきりとした、己が体験の記憶の中で。
 先立たれる悲愴、死を見送る寂寥。
 それはもしかして。
 自分が今川の天幕の中で、義元に対し感じたものと同じものなのかもしれない。
「……………、」
 宗三左文字の両の目が潤んだ。
 胸が痛い。
 魔王の刻印が打たれた処、つい先ほど歌仙兼定が触れてきた箇所が。
「宗三左文字どの」
 呼ばれるほどに。
 自分が何者だったのかわからなくなる。
 ただ、目の前の、己の上に覆い被さる者の悲嘆が、染み透るように心を支配した。
 胸に空いた穴。それを抱えたまま生きていかなくてはならない寂しさ。
 宗三左文字の唇が遂に動いた。
「………歌仙兼定…………」
 袖から露出した宗三左文字の腕が空中に伸びる。
 涙に濡れた歌仙兼定の、熱い頬に、生きた宗三左文字の白い指が触れた。




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