<其乃五>


「……僕の後をつけていたのですか?」
 見計らったようにこの場に現れたことに、さすがに若干の恐怖を感じて宗三左文字は尋ねる。
 へし切長谷部は眉を上げて横柄に答えた。
「まさか。それほど俺は暇じゃない。さっき池の向こうから、短刀の子どもと一緒に歩いているお前を見つけただけだ。……もっとも、あの歌仙兼定とかいう奴がピリピリしながら、俺がおまえと逢わぬように仕組んでいたことには気づいていたがな」
「へし切長谷部……、僕は……」
 宗三左文字が言いかけようとしたところへ、
「話がある。こっちへ来い」
 有無を言わせぬ言い様でへし切長谷部は宗三左文字の腕を掴み、小夜左文字が走っていったのとは別の方向へ、宗三左文字を連れて行こうとした。
「待って下さい。あの子を待たないと……、」
「あの子どもだって人形じゃないんだ、放っといても自分の頭で考えて動けるだろう。俺が用があるのはおまえだけだ」
 引きずるように宗三左文字を捕らえたまま、池のそばの東屋までへし切長谷部は歩いていく。
 へし切長谷部の手は強力で、宗三左文字には振り払うことができなかった。東屋は人の気配がなく、そんな場所に強引に連れ込まれることに、さすがに宗三左文字は警戒心を抱く。
「放してください、へし切長谷部……、」
 へし切長谷部は返事もせずに東屋の中に宗三左文字を押し込む。
 土間から突き飛ばすように框の上に押し倒されてのしかかられ、宗三左文字は声を上げた。
「へし切長谷部……!」
「信長の刻印を見せろ」
 傲岸で冷徹な声で言われて、宗三左文字は目を見開く。
「な…、なんですって………?」
「ここ数日、城中の者に聞いて回ったが。おまえの体にある筈の信長の銘を見た者はいないようだな。おまえが本当に宗三左文字かどうか確かめさせろ」
「ッ、そんな、こと………!」
 へし切長谷部の腕が宗三左文字の襟を掴み、僧衣を引きはごうとする。
「やめてください…っ……!」
 へし切長谷部の無遠慮な手から逃れようと身を捩って暴れたが何にもならなかった。
 利き腕を掴んで二の腕を押さえつけられ、襟元から大きく胸をはだけられる。
「ッ…………、」
 信長の刻印が屋内の薄暗がりの中に露出し、宗三左文字は恥辱に唇を噛んでへし切長谷部から顔を背けた。
 いつかもこんなことがあった。もう幾度も。
 夏の夕刻に歌仙兼定に身をまさぐられた記憶と、それよりもっと荒々しい、自分を捕らえた敵に衣服を剥がれたときの記憶。
 へし切長谷部の手は歌仙兼定よりも敵兵の乱暴な手に近かった。
 へし切長谷部は露出した宗三左文字の左胸に目を落とし、くっきりと浮かび上がった蝶の刺青を食い入るように見つめている。
「間違いないな……奴の紋様だ……」
「……………、」
「何故、奴は…俺を手放して、おまえは最後まで手元に置いたんだろうな……?」
 へし切長谷部の手が。
 憎むものというよりは、愛おしいものに触れるときのように、宗三左文字の胸に刻まれた蝶を陶然となぞった。
「ッ………!」
 宗三左文字はむしろその行為に強く怖気を震った。思わず左手を振り上げ、へし切長谷部の手をはたくように振り払う。
 刺青に吸着し、宗三左文字を全く視野に入れていなかったへし切長谷部が、灰色の瞳を怒りに燃やして宗三左文字を睨み下ろした。
「宗三左文字……、信長の刻印があることで観賞用としての価値を上げているのか。主にとっておまえは態のいいアクセサリーなんだな」
「………、く…、」
 へし切長谷部の愚弄に宗三左文字は顔を歪ませる。「天下人の象徴を侍らせたいのか」とはかつて自らが主に自虐的に問うた言葉でもあるが、他人から指摘される屈辱感は自分で語るときの比ではなかった。
「余計な、お世話です……、用が済んだなら、もう、離して……っ」
「……昨夜は歌仙兼定とお楽しみだったのか。さぞかし奴に媚びて淫靡に腰を振ったんだろう」
 宗三左文字の胸に残る接吻痕を見下ろしながらへし切長谷部が嘲る。下卑た物言いに屈辱と怒りを煽られて、宗三左文字は反論した。
「歌仙兼定を蔑むような物言いはやめてください…っ!」
「ほう? 怒るのはそこなのか」
 意外そうにへし切長谷部は口の端を曲げて笑った。
「数日前の一件で奴には貸しがあるからな。……今此処でおまえを奪ってやったら、奴はどんな顔をするだろうな……?」
「ッ……な………!」
 宗三左文字が驚愕のあまり呆然としているうちにへし切長谷部は宗三左文字の服の裾を割り、両脚の間に膝を割り込ませてきた。
「! っ、や……離…っ…!」
「信長からおまえを引き剥ぐことはできんが。奴との仲に亀裂を入れることはできそうだな」
「…ッ……! そんなこと……!」
 へし切長谷部に押さえ込まれ、裾を太腿まで絡げられて下肢を更に開かされ、宗三左文字は逃れようとして抵抗する。
「あなたは……! 僕になど、興味はないでしょう……! 僕の体に刻まれた魔王の刻印に執着しているだけで、僕のことはどうでもよろしい筈です………!」
 それが真実を言い当てていることを、へし切長谷部も否定はしなかった。
 へし切長谷部は宗三左文字の両腕を片腕でまとめて捕らえ、その体を床板に押しつける。残る手は宗三左文字の細い顎を容赦なく掴んで固定し、その上で、へし切長谷部は宗三左文字の顔を覗き込んだ。
「そうだな。俺にとって、おまえの価値とは信長の刻印だけだ」
「…………、」
「だがそれは歌仙兼定もそうだろう。信長の所有だったおまえをものにして男を上げたいだけだ。奴にとって、強くもないおまえにそれ以上の価値があると思うのか?」
「! ……っ…」
 宗三左文字が驚愕に目を見開き、やがてその顔が悲しみに曇るのを、へし切長谷部は目を細めて見下ろした。
「誰がおまえの上に乗ろうと問題なかろう。主を含めて、おまえを見る目は誰も皆同じなのだからな」
「…………! 離せ…っ…!」
 へし切長谷部の残酷な指摘は、宗三左文字にとって事実を突いていると思えるが故にいっそう宗三左文字を頑なにさせた。
 へし切長谷部が宗三左文字の腰帯を解き更に肌を露出させ、肌着に覆われた場所に手を伸べてくる。
「ッ、や…、やだ、厭だ……ッ! っひッ…!」
 乱暴な手で肌着越しに局部を掴まれて、宗三左文字はびくりと身を強ばらせた。
 へし切長谷部は本気で自分を犯すつもりなのだろうか。
「やめてください…、へし切長谷部………!」
 同じ男性の体なのに、膂力ではまったくへし切長谷部に適わない。宗三左文字は藻掻き、声を上げ、懇願するほかに方法もなくて、その声音はほとんど泣き言のように響き始めていた。のしかかってくるへし切長谷部の腰が時折宗三左文字の腿に触れると、そこは強ばって膨張しているのがわかり、宗三左文字の恐怖はよりいっそう深くなる。
 胸に刻まれた信長の印が露わにされる都度。征服欲を昂ぶらせた者たちから貶められるように襲われるのは、もはや宗三左文字の、止めようのない宿命のようなものだった。自分にとってはこの刻印は不要のもので、むしろ略奪を受けた厭うべき証であるのに、他者にとっては決してそうではない。
「あっ、あぁッ…、」
 へし切長谷部の左手で局部を強く握り込まれて、苦痛に脂汗が湧き、宗三左文字は抗うことすらできなくなった。
「ッ…おねがい、です……、放して………!」
「大人しく俺を受け入れるならもう少し優しくしてやるぞ」
「ッ………、」
 そう言い下ろされても宗三左文字は激しく首を横に振ることしかできなかった。
 顕現して間も無いからなのか、へし切長谷部の手つきはひどく武断的で、歌仙兼定のような快楽への手管も無ければ、以前の敵兵たちのように苦痛や輪姦などによって宗三左文字に支配と屈辱を与えようという憎悪や侮蔑もさして無い。へし切長谷部が見ているのは宗三左文字の心ではなく、信長の紋様を負った体だけで、それが何より宗三左文字の忌避感を強めていた。歌仙兼定以外の男に触れられるのも抱かれるのも無論嫌だが、快楽や屈辱という以前に、へし切長谷部の自分への態度は何かが欠如しているように感じられて、それが宗三左文字は怖かった。
「僕にも心はあるのです……、へし切長谷部、お願いですから……!」
 泣くような顔で声を振り絞る。それがへし切長谷部には浸透しないだろうことがわかってはいても。
 危惧する通り、宗三左文字の懇願はへし切長谷部の行動を何一つ阻害しなかった。へし切長谷部の首が近づいて、胸の刺青の上に舌が当てられ、次いで歯を立てられる。
「ッひ………!」
 幾度も立て続けに、歯形がつくほどに刺青を噛まれて、宗三左文字は身悶えた。
 へし切長谷部の暴虐を避けられないと、宗三左文字が絶望に顔を歪ませたそのとき。
 東屋の戸口から何者かが跳び込んできた。
 薄暗がりの中に白刃が煌めき、へし切長谷部が驚いたように宗三左文字の体の上から跳び退った。
 誰がへし切長谷部に向けて抜刀したのか、宗三左文字が確かめるよりも早く、へし切長谷部の怒号が響いた。
「この小僧……、今、本気で俺を()りに来たな……!」
 へし切長谷部が佩刀を抜き、狭い屋内で刀を横様に構える。
 へし切長谷部が睨む視線の先に、戦場と同じほどに殺気を放つ小柄な子どもがいた。
「……死んで」
 囁きながら小夜左文字が短刀をへし切長谷部に向けて構えなおす。
「小夜左文字……!」
 言葉もなくまずはへし切長谷部に斬りつけ、今もまた、二撃目を加えようとへし切長谷部に向かって駆け寄らんばかりの小夜左文字を、宗三左文字は咄嗟に背後から抱えこみ、短刀を握った腕を押さえる。
「離して、あいつを殺さないと……、」
 宗三左文字の腕の中でへし切長谷部を睨みながら抗う小夜左文字を、宗三左文字は更に強く捕らえ直した。へし切長谷部の剣撃に小夜左文字の体が耐えうるはずも無い。
「いけません。ここは戦場ではないんですよ……!」
 宗三左文字は、へし切長谷部に服を引き剥がされた半裸のまま小夜左文字の体の上に覆い被さり、へし切長谷部の刃先から隠すように、体の内側に小夜左文字の身を取り込む。
 小夜左文字を身を挺して庇うような宗三左文字の素振りに、へし切長谷部は激昂した。
「どけ、宗三。俺に向かって刀を抜いたその小僧に道理を思い知らせてやる。庇うなら諸共に斬るぞ。きさまの薄い体が如何ほどの盾になる!」
 その言葉が脅しではないことは、宗三左文字はよく承知していた。へし切長谷部の刀にはそれほどの鋭さがあり、前世から来る性格の残忍さも知悉している。
 だが、ゆえに宗三左文字は退かなかった。小夜左文字の体を強く押さえ込み、挑むようにへし切長谷部を見据える。
「刀を収めてください、小夜左文字。彼は戦場の敵ではありません。へし切長谷部は主に忠実ですから、主のもとに集った刀剣男士を傷つけて部隊の戦力を損なうようなことは致しません」
 小夜左文字に向けた語りのように聞かせながら、宗三左文字の色違いの両の目は瞬きもせずにへし切長谷部を睨み据えていた。なよ竹のように風に靡くばかりと思い込んでいた宗三左文字の中に意外な強情さを見たことと、宗三左文字の指摘によって痛いところを突かれたことにへし切長谷部は舌打ちをして、やや気を削がれたように刃先を下げる。
 宗三左文字は少しだけ声の調子を落として、ようやくへし切長谷部に声をかけた。
「へし切長谷部……、刀を収めてこの場を去ってください。そうでないとこの子の昂奮が収まりません。……僕に非礼を為したことは水に流します。このままここを去ってくれれば、僕は恩に着ますから」
 宗三左文字の言葉にへし切長谷部が意外そうな表情を見せ、しかしその目はすぐに残忍に眇められた。
「……おまえの提案を飲んでもいいが、条件がある」
 へし切長谷部の言い様に危惧を抱きはしても、宗三左文字に他に手立てはない。
「なんですか……? 条件、とは……」
 小夜左文字を必死の力で押さえ込みながら宗三左文字は促す。
 へし切長谷部の口の端が笑う形に吊り上がった。
「おまえの一晩を俺に寄越せ」
「! っ………、」
 宗三左文字は息を飲んで目を見開く。
「この場を収めたいのは宗三左文字、おまえだけだ。おまえが庇うその小僧は俺を殺したい。俺はその小僧を返り討ちにしたい。俺にここを去らせたいなら、まずおまえが俺に譲歩して見せろ」
「……………、」
「宗三、左文字、さん! はなして……そいつを殺す……!」
 再度暴れ出した小夜左文字を押さえ込み、宗三左文字は震える息を吐いた。
「……わかりました。それであなたがこの場を収めてくれるなら、条件を飲みます」
 了承するとは思わなかったのか、今度はへし切長谷部が驚愕したように瞠目した。
「宗三左文字さん!」
「早くこの場を離れてください、へし切長谷部」
「……いいだろう。二言は無いな? …逃げるなよ」
 小夜左文字が放つ声に被さるような短いやり取りの後、へし切長谷部は刀を収め、戸口を潜って明るい外へ出て行った。
「………………、」
 へし切長谷部が充分に遠離れるほどの長い時間、宗三左文字は小夜左文字を抱え込んでいた。
「……宗三左文字、さん。離して」
「………小夜左文字。あなたも、刀を収めて。へし切長谷部は行ってしまいましたし、……このまま僕があなたを押さえ込んでいると、僕かあなたのどちらかがあなたの刃で傷ついてしまいますよ」
「……………」
 小夜左文字が諦めたように息を吐いて短刀を腰に収めたのを確認して、宗三左文字はようやく体を離す。小夜左文字がへし切長谷部を追わないよう、戸口を体で塞ぐように立ちながら、宗三左文字は手早く服を着直した。
「怪我はありませんでしたか?」
 宗三左文字の問いに小夜左文字は黙って頷く。
 小夜左文字が消沈している理由がわからず、宗三左文字は、最初それが昂奮が解けたことによる、落ち込みに似た心理状態かと解していたのだが、
「………僕の所為だね。あなたから目を離したから。……ごめんね。僕の刃があいつに届いていれば……あいつとあんな取引をせずに済んだのに」
 やがて小夜左文字が下を向いたまま呟いた。
 宗三左文字は心を突かれて小夜左文字を見る。
 小夜左文字の傍に近寄り、同じ目線の高さになるよう目の前にしゃがみ込む。
「……僕は。長谷部があなたを傷つけることも無く、あなたが長谷部を傷つけることもせずに済んでよかったと思っていますよ」
 安心させるように微笑みながら小夜左文字の顔を覗き込むと、そこで初めて小夜左文字の暗い青の目が宗三左文字を見つめた。
「あいつの臓腑に僕の刃が刺さればよかったのに」
「……そうならなくて良かったんですよ。城の中で刃傷沙汰を起こしたら、あなたも、僕も、へし切長谷部も、あなたの面倒を見ている歌仙兼定にもまずい事態になるところでした」
 歌仙兼定の名を出されて小夜左文字の体が揺らぐ。
「……歌仙兼定は怒るかな」
 それはあまりにも当然のことだったので、宗三左文字は却って嘘をつくことに成功した。
「あなたが恐れているようなことにはなりませんよ。歌仙兼定には僕から伝えます。あなたはこの件に関しては黙っているように。歌仙兼定に聞かれたら、僕がそう命じたから、と答えるんですよ」
 歌仙兼定が知れば、より強い怒りの対象となるのは小夜左文字より宗三左文字であろうし、そして宗三左文字よりは余程、へし切長谷部に対して、歌仙兼定は怒り狂うことだろう。何を犠牲にしても彼がへし切長谷部を斬りに行くことになるのは目に見えていて、宗三左文字はそれだけは避けたかった。
 小夜左文字の手を取ると、宗三左文字よりなお細いその小さな腕は震えていた。
「……復讐は、果たされなくてはならないものなのに」
 小さく呟く小夜左文字の言葉を、宗三左文字は痛ましく聞いた。
「……あなたの前身である刀剣としての来歴を負ったまま、この城で生きる必要は無いんですよ。小夜左文字」
「そんなことはないよ。馬番をしても馬は僕を怖がるもの」
「……それも、いずれ変わりますよ。この城で百日、二百日と過ごすうちに」
 自分が、歌仙兼定によって変わったように。
 それは小夜左文字にはまだ伝わるまいと思って、宗三左文字は言わなかった。顕現したばかりの小夜左文字は、身に獲得した心がまずは刀だった当時の記憶で満たされてしまい、いまだ過去の呪縛から抜け出せずにいる。
 それを不憫と思うほど己の心が育っていることに、我がことながら宗三左文字は改めて感じ入った。
 立ち上がり、身を震わせたままの小夜左文字の小さな肩を抱くように、宗三左文字は手を置いた。
「いらっしゃい。あなたは僕を居室まで送るんでしょう。……畑番の相手に、挨拶は済ませてきましたか?」
 小夜左文字は黙って頷いた。
「じゃあ行きましょう。……僕の部屋に着いたら、少しだけ上がっていって、お茶と、何か菓子を口に入れるといいですよ。身が落ち着きますから」
「……果物は好きだけど。お菓子はきらい」
 小夜左文字が初めて見せた子どもらしい好き嫌いの意思表示に、宗三左文字は微笑んだ。
「ええ、いいですよ。何か柑子の類が貯蔵してあった筈ですから、それを差し上げましょう」


 居室に到着して、宗三左文字は、先の言葉通りに少しだけ小夜左文字をもてなした。畑番を長く抜けていることになる小夜左文字が渋るのを、強いて縁に腰掛けさせ、熱くない茶と柑橘を口に含ませる。
 宗三左文字の目論見通り、それによって小夜左文字はかなり落ち着きを取り戻したようだった。その小さな体から震えが消えたのを確認してから、畑番の者達の為に差し入れを持たせて、宗三左文字は小夜左文字を畑に帰した。
 独りになれば、嫌でも歌仙兼定の気配りを撥ねつけた結果の先刻の事態が思い出されてくる。宗三左文字は頭痛に似たものを感じて脇息に寄りかかり、額を押さえた。
 歌仙兼定の危惧を考えすぎと捉えた自分の思慮の浅薄さと、その挙げ句、へし切長谷部に実際に襲われたこと。小夜左文字を歌仙兼定の怒りに巻き込んでしまいそうなこと。そして何より、口約束により、へし切長谷部と一晩を供にせねばならなくなってしまったこと。
 歌仙兼定には相談できない。
 宗三左文字は深く息を吐いた。
 歌仙兼定が知れば、彼は、主に刃向かうことになろうとも、へし切長谷部を排斥する手立てを考え、それを実行してしまうだろう。
 自分の所為で歌仙兼定がへし切長谷部と刃傷に及んだり、あまつさえ怪我を負ったり、近侍としての信頼を無くし主の前での立場を失ったりするのは宗三左文字には耐えがたかった。一晩へし切長谷部に身を差し出すほうがまだましだった   もしそれで全てが丸く収まるのならば。
 だがへし切長谷部が他の刀剣男士に吹聴したり、小夜左文字が歌仙兼定の追及に耐えかねて口を割ったりすれば、いずれにせよ事は明るみに出てしまう。そうなったときには、宗三左文字が秘密にしておいたことで、歌仙兼定の怒りは更に激しく燃え上がってしまうだろう。
 やはり歌仙兼定に、予め知らせておくしかないのだろうか。
 悩んでいるうちに日は傾き、気づけば食事も取っていないのに既に夕刻になっていた。
 出陣部隊の帰還を知らせる太鼓の音が響いてきて、宗三左文字はびくりと身を強ばらせる。
 歌仙兼定を迎えに行きたいが、合わせる顔が見つからない。
 逡巡する間に太鼓は鳴り止み、やがて、庭に珍しい客が現れた。
「やあ。庭先から靴のままで失礼するよ。少し急ぎなんでね」
「にっかり青江………」
 青ざめた顔で屋内に座したまま、宗三左文字は相手を見た。にっかり青江が今までに宗三左文字の居室に来たことは無い。立ち上がって迎えることも思いつかない宗三左文字に、普段のにっかり青江ならば持ち前の目敏さで異変に気づいたかも知れないが、この日は、にっかり青江も、いつもの笑顔が硬く見えるほどには動揺していた。
「今しがた帰城してきたんだけど。帰還の際に部隊を率いてきた燭台切の兄さんが、きみには知らせたほうがいいと言うから、僕が使者に立ったんだ」
 にっかり青江と燭台切光忠のふたりが出陣部隊に組み込まれていたことは、宗三左文字も朝に己の目で確認している。
 だが部隊の隊長は歌仙兼定だったはずだ。
「……歌仙兼定に何があったのです」
 顔から更に血の気を引かせて、目だけが黒々と見えるほどになった様相で宗三左文字がにっかり青江に問う。
 にっかり青江はやや感心したように宗三左文字を見て眉を上げた。
「もっと鷹揚なタイプかと思ってたけど、ソウサモくんは意外に勘がいいんだね。……いや、歌仙の兄さんは生きてはいるけど、敵にこっぴどくやられた瀕死の状態なんだよ」
「……………!」
 がたりと音を立てて脇息が宗三左文字の傍に転がった。
 宗三左文字は立ち上がったまま、幽鬼のような顔でにっかり青江を見る。
「生死に関わるような怪我をしたのは彼だけで、身動きもできない状態だったから、僕の刀装の盾に乗せて運んできたんだ。……盾に乗せる程の怪我人はこの城では初めてらしいね。今、燭台切の兄さんが早急に、手入れ部屋の手配を主にお願いしているところだよ」
 宗三左文字は色の失せた唇からようやく声を絞り出した。
「………今日の出陣先はそんな…歌仙兼定が手に負えぬほどの敵がいる場所だったのですか……?」
 主のもとに最初に顕現した歌仙兼定は、この城では一番の戦闘経験者でもあった。他の刀剣男士の戦闘能力に合わせて出陣する事の多い歌仙兼定が、今まで敵に後れを取ったとは聞いたことが無い。
「いいや。それほど強敵ってわけでもないよ。だから一緒にいた僕たちにも、どうして歌仙の兄さんが怪我を負ったかは不可解なままなんだ。……そうそう。場所は桶狭間だよ」
 桶狭間。
 瞬間、脳裡に雷雨と(ひょう)が蘇り、宗三左文字は言葉を失った。
「歌仙兼定……」
 呟くうちに、宗三左文字は全てを忘れた。
 小夜左文字のことも、へし切長谷部のことも、彼と結んだ約束のことも。
 宗三左文字の心の全ては歌仙兼定のことで占められた。
 普段の礼儀正しさも失い、にっかり青江に挨拶することすらせずに、宗三左文字は、手入れ部屋に向かって走り出していた。




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