<其乃六> 宗三左文字が手入れ部屋の前に着くと、出陣先の雨天で体を濡らしたままの燭台切光忠が彼を迎えた。 「歌仙くんのことだろう?」 その美貌にさすがにいつもの笑みは無く、燭台切光忠は聞いてくる。 「………、そうです、」 急いで来た所為で息を切らせながら宗三左文字は答えた。 「彼はもう手入れ部屋に入ったよ。血を流しすぎて、帰還した直後に意識も失ったから、どのみち、きみと話すことはできなかっただろうね。本当に危ない状態だったんだよ。……人間だったら助からなかった、と主は言っていたね。人間の場合、内蔵が出てしまうと元には戻せないんだそうだ」 「………っ…!」 歌仙兼定の怪我の状況を改めて知り、宗三左文字は血の気を失って息を飲んだ。 「…………なぜ……、………そんな……、」 喉がつかえたようになり、宗三左文字は他に言葉が出てこない。 何故、歌仙兼定はそうも酷い怪我を負ったのか。 桶狭間は歌仙兼定が手こずるような場所では無い。歌仙兼定より部隊経験の少ない宗三左文字でも、今では充分に勝ち抜ける程度の場所なのだ。 燭台切光忠が隻眼で同情するように宗三左文字を見る。 「……桶狭間はひどい雨だったり雹だったりで見通しが悪くて、なかなか全容が掴みにくいんだが」 「……天候はよく知っています」 宗三左文字の呟きに、燭台切光忠の黄色い目が光った。 「そうだったね。宗三くんの前身はあの場にいたんだった。……とにかく、今日も、自分の手指も見えないような篠突く雨で、部隊もあちこちに散開して戦っていたから、歌仙くんがどうして敗北したか、見ていた者がいないんだよ」 「そんな……。歌仙兼定の怪我に最初に気づいた者は誰なのですか?」 「とにかく部隊長が怪我をしてしまったから僕たちも統制を無くしていて、現地の情報も整理されていないんだが……足元もぬかるんで、みんな泥だらけになっていたしね。………そう、歌仙くんの異変に遭遇したのは、確か鳴狐くんだね。歌仙くんと対峙していた敵を、彼が投石で追い払ってくれたようだ」 朝、鳴狐とその供狐と短く会話を交わしたことを宗三左文字は思い出した。 「鳴狐………。……彼は、歌仙兼定が何者を相手に戦っていたかを知ってはいないのでしょうか……?」 「そうだねえ。彼、あの通りだから。戦場では頼りになるし、悪い子じゃ無いけどね。敵については何も話さなかったな」 「………そうでしょうね」 宗三左文字が尋ねることを無くすと、周囲は重い沈黙で満たされた。 「………済まないが。話を切り上げて、髪に櫛を通してきてもいいかな?」 伊達者と評判を取る燭台切光忠は、そんな言い方でこの場を去ることを示唆した。 彼の服は肩から濡れたままで、足や胸には泥や敵の返り血が散ったままになっている。 この状態で、燭台切光忠は宗三左文字を待っていてくれたのだ。 「……勿論です。帰城後でお疲れのところを、僕に情報を教えてくださって、どうもありがとうございました」 にっかり青江にも礼を述べるのを忘れた、ということに気づきながら宗三左文字は礼を言った。彼の白装束も目の前の燭台切光忠と同じくらい汚れていたはずだが、宗三左文字の記憶にはまったく残っていない。 燭台切光忠は口の端に微笑を少しだけ蘇らせ、宗三左文字に目礼をして、その場を歩き去って行った。 誰もいなくなった手入れ部屋の前の廊下に、宗三左文字は立ち尽くす。 「………歌仙兼定……」 自分が恋する者の名を呼んだことにも気づかず。 宗三左文字は眩暈を感じて、ふらふらと廊下の壁に寄りかかった。 歌仙兼定を失う可能性について、宗三左文字は今まで考えたことも無かった。 戦場に立つ者なのだから、それは当たり前の危惧だったのに。 歌仙兼定は陽の気の強い男で、生命力に溢れ、運もまた強く、彼が力を失うほどの怪我をしたり病を得たりして弱っているところを、宗三左文字は見たことが無い。 消えるのならば自分のほうだと、そう、宗三左文字は勝手に思い込んでいた。 「歌仙兼定……」 掠れた声で名を呼び、歌仙兼定が運び込まれた手入れ部屋の戸に手を伸ばした。 戸は固く閉ざされている。 歌仙兼定は中で気を失っているのだろう。当然のこと返事は無い。 「……僕を置いて、消えたりしないでください」 泣くような囁き声が、廊下に揺蕩った。 遡ること数刻。 桶狭間で天幕の外の豪雨を眺め、歌仙兼定は苛立たしげに呟いた。 「いつ来ても嫌な天気だね。こんな雨と黒雲では自分の鼻先も見えないよ。せっかくの雅な出で立ちも、これでは泥だらけになってしまう」 「………今日の出陣は桶狭間でしたか」 部隊の一員として参戦し、歌仙兼定の傍に佇んでいた江雪左文字が、常の物静かな口調で語りかけてくる。 「かつて宗三左文字殿とこの場所で会話を為したことがあります」 左文字派の長、と言われていても江雪左文字は、打刀の宗三左文字に対してへりくだった態度を崩さない。 宗三左文字の名を出されて歌仙兼定は眉を上げた。 江雪左文字は構わず続ける。 「あの方は……義元公の刀で終わるほうが良かったか、そうでない現在のほうが良かったかはわからない……、と悲しげに仰いました」 今の有り様に肯定感を持てぬ宗三左文字らしい言葉だ、と歌仙兼定は寂しくそれを聞いた。 「……彼にはまだ、現世に対して迷いがあるんだろうね」 「迷いと悲しみはこの地にある以上避けられぬものでしょう。……貴方が私を連れてきたこの戦場で、争いが避けられぬように」 厭戦家の江雪左文字が深く溜息を吐きながら言った。 「……江雪左文字どのは、今日も相変わらず敵を説得して回るおつもりかな」 歌仙兼定の言葉は半ば嫌みなのだが、江雪左文字には全く響かない。 「……そうですね。なるべく戦いをせずに済むよう、いつもどおり説得を試みるつもりです」 江雪左文字のこの頑なさは宗三左文字と似ている、と歌仙兼定は思う。とは言っても、宗三左文字に頑なな部分があることを知っている者は、城中にさほど多くは無いだろう。 「正直なところ、よく説得に飽きないものだと思うがね。敵がきみの言葉を聞き入れたことなんか一度も無いんじゃないか」 「左様ですね。説得が成功したことは過去に一度もございません」 至極真面目に江雪左文字が答えたので、歌仙兼定は笑ったほうがいいのかどうか逡巡した結果、笑うのはやめにした。宗三左文字と同じく江雪左文字も、生真面目かつやや浮き世離れした気性の持ち主だった。宗三左文字にならともかく、江雪左文字に対して「今の言葉は冗談のように聞こえる」と言うのは恐らく失礼に当たるだろう。 「彼らは必死なのです。必死すぎて私の話には聞く耳を持ちません。……彼らには彼らなりの、この地にて戦う理由があるからなのでしょう」 「……そこまで理解していてなお敵を説得しようと思うのかい?」 呆れたように歌仙兼定が江雪左文字に問う。 江雪左文字の、白い細面の中に宿る黒目がちの瞳が、歌仙兼定を見た。その容貌は宗三左文字によく似ているが、表情は乏しく、見る者に与える印象は宗三左文字のような優美さよりも、冴えた雰囲気の中の力強さのほうがずっと勝っている。 「敢えてこそ、です。戦いをやめるに勝る正義はございません」 江雪左文字はきっぱりと言い切る。 刀剣男士ならば誰もが羨むほど抜きん出た戦闘能力を持つのに、江雪左文字が厭戦家というのはそれだけで皮肉なことだ。そう歌仙兼定は思った。 正直なところ歌仙兼定はこの江雪左文字が苦手だった。戦支度の際の溜息や、常に敵を説いて回る彼の態度は、皆の士気を下げる、と歌仙兼定は本気で思っている。 「……まぁ、他の者たちの戦の邪魔をしないでくれればそれでいいけれどね」 「………今朝は、宗三左文字殿と言い争いをしておられましたね」 唐突に話題を変えられて歌仙兼定は渋面を作る。 「少し事情があって、宗三左文字どのをひとりにしておけなくてね。今日は一緒に出陣するしかない状況だったんだが、僕の選んだ武具と馬をどうしても受け取ってくれなかった。……彼に怪我をさせるわけにも行かないから、残ってもらったんだよ」 「貴方もまた厭戦家でいらっしゃいますね……宗三左文字殿に関しては」 「心配にもなるよ。彼はあまり戦場で、自分で身を守ろうとしないからね。あんなに………」 あんなに戦闘の能力値が低いのに。と言うことはできず、歌仙兼定は言葉を飲み込んだ。 「……彼があなたのように強ければ、そこまでは心配もしないんだがね、江雪左文字どの」 「もとは同じくらいの強さだったのでしょうね」 「………もとは、とは?」 「宗三左文字殿が 「そうだね。……彼はもともと太刀として世に生まれたんだった。 長い時期を経た刀が戦の変遷とともに磨上されることは珍しくない。そのような打刀の刀剣男士は、大倶利伽羅やへし切長谷部など枚挙に暇が無い。 宗三左文字が彼らと違うのは明暦の大火で焼けたことだ。 そして磨上の際、茎に、織田信長所有の銘が切られたこと。 「……桶狭間は彼にとっては略奪と磨上のきっかけになった戦場だったね。……宗三左文字どのを留守居にできて、却って良かったのかも知れないな」 「左様ですね。この場を訪れる度に、あの方は悲しみを深くされるようですから、此処にはいらっしゃらないほうがよいでしょう………こと、今の戦場に関しては、宗三左文字殿にはよくないことが起こるかも知れません」 雨脚の弱まった空を見上げながら江雪左文字が呟いた。 歌仙兼定は江雪左文字の顔を見る。 「……どういう意味かな? 今のは」 江雪左文字は空を見たまま言葉を続ける。 「悲しみが大地に満ちている………不穏な気配を感じます。……左文字派の者が、近くにいるような気がするのです」 「………どこに? 敵に、かい?」 「さあ……そこまでは、わかりませんが」 江雪左文字が空から歌仙兼定に視線を戻し、宗三左文字によく似た面を歌仙兼定に向けた。 「歌仙兼定殿。貴方にも悲しみや迷いはおありでしょう……くれぐれもご注意を」 歌仙兼定は苦笑した。 「僕には迷いなんかないよ。特に戦場に於いてはね。気遣いはありがたく受け取るが……無用のご心配だと思うがね」 「だとよいのですが」 それきり江雪左文字は黙った。 歌仙兼定も彼との会話を切り上げ、軍を出す準備に入った。 江雪左文字の言葉を思い出したのは。 混戦状態になり、敵味方散り散りになって戦った際に、目の前の敵に対峙したときだった。 ** ――――我らが何処から来たのか。 主のもとに参集してごく初期の頃に、まだ増築もなっていない本丸で夜明かしをした折、初期から城中にいる刀剣男士たちの間で、主も交えてそれが話題に上ったことがある。誰がいたかは歌仙兼定の記憶に定かではない。ただ、まだ恋仲になる前、顕現したばかりの宗三左文字が上座近くに黙然と座していたことだけは憶えている。 鍛錬所の炉火から稀に現れる、世に一振りしかない筈の刀剣の、二体目の刀剣男士たち。和泉守兼定や堀川国広など刀工の名のみを持つ刀剣男士ならば、刀工が打った数だけ存在していても説明がつくような気はするが、歌仙兼定、山姥切国広、宗三左文字など、ただ一振りに特定される名を持つ刀剣を前身とした刀剣男士でさえ、城内に複数顕現することは珍しくない。 主はそれに、平行世界、という概念を与えて現象を説明していた記憶がある。刀剣が存在する世界は一つではなく無数にあり、それぞれの世界に一振りずつの刀・歌仙兼定があって、複数の異世界から複数の歌仙兼定がこの世に刀剣男士として顕現するのだ、と。故に歌仙兼定が幾人顕現しようとも、互いは矛盾無く存在し、互いに全く同じ刀剣としての前歴と記憶、性質を持って現れるのだ、と。 推論で終わるしかない話を酒の肴にしながら、主と他の刀剣男士が盛り上がっている間、歌仙兼定はその話の半分ほどを聞き流していた。そのとき心に持っていたのは、自分が二人いるなど気色悪い、という漠然とした嫌悪感だけだった。この城の主は幸いにも、同名の刀剣男士を二人以上住まわせておく思考はなく、二振りめの顕現者は人目に触れぬうちに鍛錬所にて刀解されることになっていた。故に歌仙兼定は二振りめの自分に出遭ったことは無い。 歌仙兼定が耳をそばだてたのは、主が敵の話をし始めたときだった。主自身の有り様と、城中の刀剣男士の有り様から推察するに、各時代に敵兵として現れる者たちもまた時を遡行する力を持つ以上、歴とした刀剣男士であり、彼らは恐らく歴史を変えたいと願う者を審神者すなわち主人として奉るのであろう、と。あるいは平行世界の推論が正しいとして、既に未来と現在を捻じ曲げることに成功した、歴史修正後の平行世界から送り込まれる刺客であるのかも知れぬ。主はそのようなことを言っていた。 主と刀剣男士たちとの話題は余所に流れ、その話はそれきりになった。どうでもいいな、と歌仙兼定は結論づけて手にした酒杯を空にした。 敵は敵、それだけだ。 目の前に立つのが誰であろうと、手にした刀で斬れば良い。 歌仙兼定はこの世に顕現したときからそう思っていたし、自分にとっての世界が終わるまでそれが変わる日は来ないと信じて疑わなかった。 雨の中に、雷鳴を反射させて刀身が煌めく。 厚い黒雲で周囲は夜のように暗く、襲ってきた敵が誰とも判別がつかない。 泥に足を取られ、血と雨に視界を遮られて、歌仙兼定は目の前の敵の位置を見誤る。 稲光の中に見覚えのある袈裟が翻る。 まさか、と思ったのはその太刀筋を見るまでだった。 対峙する相手が握るのは切っ先が鋭く伸びた二尺六寸の太刀。見慣れた二尺二寸余の打刀ではない。 悟った瞬間に目の前の者を倒さねば、と歌仙兼定は心に決めた。 自分が愛する打刀の宗三左文字は、目の前の相手とは決して併存できない。 今川義元が織田信長に討たれんとする直前に、義元を守るように現れた、歴史修正主義者の刺客。 似ていても別の存在だ。 捏造された過去を持つ世界から顕現した、偽物の彼だ。銀の鐔章の打刀ではない黒金の鐔章の太刀。軍装に隠されたその胸には信長の紋様があろう筈もない。 経験から来る技倆は、遙かに歌仙兼定が勝っていた。負ける敵ではない。 歌仙兼定は己の刀を構えて相手の肩口へと斬りつける。充分に殺れる間合いだったが切っ先が鈍った。相手は素早く避け、刃先は肩を掠めるに留まった。 相手の袈裟が肩から破れて、鮮血と供に泥土の上に落ちた。 見知った白い肌の上に血が散るのを見て、歌仙兼定の体は石の如くになる。 「……必死ですね」 嘲るに似た声が相手から漏れる。その声に歌仙兼定の足は更に萎縮した。 相手が懐に跳び込んでくるのを後退りして避けるはずが、まったく果たせない。 しまった、と思う間も無く中段から斬り込まれた。 相手の刃は歌仙兼定の脇腹から入って肩先へと抜けた。 「ッ…ぐ、は………!」 臓物から肺腑までを切り裂かれて歌仙兼定は地に膝をついた。 「……僕に触れられると思いましたか?」 高慢な声が響く。 夜ごとに触れ、睦み合った者とまったく同じその声で。 勝敗は既に決していた。 再び刀を握ることもできずぜいぜいと血塗れの息をつくばかりの歌仙兼定に、敵が歩み寄る。 雨が唐突に止み、黒雲は瞬く間に風に散っていく。 強い陽光の下で、緑の目に赤い光を散らして歌仙兼定は敵を見る。 近づいてきた敵は薄い唇に笑みを浮かべて歌仙兼定の肩先に刃を当てた。 血濡れた長い切っ先に浮く刃文。帽子――再刃を受けた彼からは喪われたものだ。 「……武将ではありませんから、首級を上げる必要もないのですが。一応、息の根は止めておきましょうか」 淡紅色の長い前髪の奥で、色違いの両の目が歌仙兼定を見下ろしていた。 敵が歌仙兼定の首を落とす為に太刀を振り上げる。 手にした刀以外は、寸分違わず『彼』だった。 「……宗三左文字………!」 血とともに、絞り出すように歌仙兼定が声を吐き出した。 相手の口から瞬間笑みが消えた。敵の腕がわずかに揺らぐ。 「……『僕』を知っているとは」 違う。 自ら名を呼んでおきながら歌仙兼定は心でそれを否定する。 目の前の敵は宗三左文字ではない。 自分が愛した者ではない。 この世界における宗三左文字とは。 織田信長の磨上を受け銘を刻まれた打刀ただ一振り。 目の前の太刀の者は歌仙兼定を見下ろして、再び唇に笑みを浮かべた。 立つ姿に、見知った宗三左文字とは全く違う、周囲を圧する生命力と存在感、傲岸さが宿っている。 その豪壮さ、刃の鋭さ、力強さ。 織田信長が欲するに相応しい刀剣とは、まさしく彼のことだった。 「この桶狭間で『僕』が信長を殺した後の世界の変遷を、あなたに見せられないのは残念ですね」 薄い唇から歯が覗いて、敵が歌仙兼定を嘲った。 「あなたの知る『宗三左文字』が消えて無くなる瞬間を目撃できたのに。……あなたがここで死ななければ、ですけどね」 敵は歌仙兼定に向ける刀を構え直した。 「く、ぐッ」 息をする度に肺に血が混ざり、歌仙兼定は苦しげに 血が出すぎて意識が遠離りかけ、視界は暗くなりつつある。 「苦しそうですね。……今、自由にしてあげますよ」 自由。 そんな言葉まで同じだというのか。 覚醒もおぼつかぬ中で、揺らぐ意識を必死に掴もうと、歌仙兼定の心は足掻く。 自分が負けるわけにはいかない。 目の前の者を斃し、歴史が変わるのを防がなければ、自分の愛した宗三左文字はこの世の何処にもいなくなる。 かつて自らの破壊を望んでいた彼が、その状況を喜ぶかどうかはどうでもいい。 僕が厭だ。 愛した宗三左文字に、この世から消えて欲しくない。 だから立って、目の前の者と戦わなくては。 歌仙兼定が最後に認識したのはそのようなことだった。 敵の頭上に投石が飛んできて、敵が舌打ちをして逃げ去ったことを、殆ど歌仙兼定は意識できなかった。 「歌仙兼定さまー!」 鳴狐の肩に乗った供狐の、鎌倉刀剣特有のゆるい声が自分を呼ぶのも、歌仙兼定の耳には入らない。 「宗三左文字………」 口は呟いたはずだが、もう声は出なかったかも知れぬ。 体を泥の中に沈めて、歌仙兼定の意識は切れた。 ** 控えの間に入ることすらせず、歌仙兼定の入った手入れ部屋前の廊下にただ座していた宗三左文字のもとに、一人の刀剣男士がやってきた。 粟田口派に共通した紺色の軍装は解いているが、肩にはいつものように供狐が乗っている。 「………鳴狐……」 鳴狐の手指は相変わらず、片手ごとに三本の指で狐の影絵を作る形に、胸の前で結ばれている。 「宗三左文字さま……。ここにあなたがいらっしゃるということは、この手入れ部屋の中に歌仙兼定さまがおいでですか?」 供狐の問いに宗三左文字は黙って頷く。 「宗三左文字さまに、鳴狐がお話ししたいことがあるというものですから。先程、鳴狐とともにあなたさまの居室をお尋ねしたのですが、お留守とのことだったので、もしやこちらにおられるかと探しにまいったのでございます」 「……それは……、ご足労をかけてしまったね」 自分も鳴狐に聞きたいことがあった、と宗三左文字は思い出した。 「鳴狐。僕も、あなたにはお尋ねしたいことがあったのです。……歌仙兼定の敗戦の状況を、あなたたちだけが知っていると聞きました。あそこは彼にとって敵はそれほど脅威ではなかったはず。彼が負けた理由が特別にあったのでしょうか……何か、見聞きしてはいませんか」 「宗三左文字さま。我々が申し上げたいこととは、まさにそのことでございます」 「………なにか知っているのですか。鳴狐。……あるいは、あなたでも」 宗三左文字の視線が鳴狐から流れて供狐で止まると、供狐は獣の姿で器用に首を横に振った。 「私めはなにも見ていないのでございます。なにしろ戦場にはひどい 「不思議………? とは……?」 青ざめた顔で鳴狐に問う宗三左文字を、黒い面頬の下から黄色い瞳が見つめた。 脇から供狐が声を続ける。 「………歌仙兼定さまを破った敵が……、」 そこで、黙したままの鳴狐の手が動く。 両手のうち左手の狐だけが口が天を向き、そのまま手の結びが解かれる。 鳴狐の左手が、宗三左文字を指し示した。 朝聞いたとおりの涼やかな声が、宗三左文字の耳を打った。 「相手は、きみに似ていた」 |
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