<其乃七>



 夜も更けかけた頃、宗三左文字は、歌仙兼定が籠もる手入れ部屋の中に入ることを許された。ごく短時間という制限付きだが、意識の無い歌仙兼定が、うわごとであまりにも宗三左文字の名を呼ぶから、と、主の特別の計らいによるものだった。
 手入れ部屋の中は暗く、手燭の灯す範囲以外は闇に沈んでいる。
 宗三左文字も籠もったことのある手入れ部屋の中は神式のやや古風な設えで、板床に置かれた几帳が、歌仙兼定が横たわる寝所を奥の間として仕切っていた。宗三左文字は部屋の中を進み、几帳の前にそっと座る。
 几帳越しに、寝かされた歌仙兼定の姿が見え、途切れ途切れに彼の呻き声が聞こえてくる。
「……歌仙兼定」
 苦しげな声に宗三左文字のほうが辛くなって、つい声をかけた。
 几帳の垂れ布の奥から、歌仙兼定の震える手が宗三左文字のほうに伸びてくる。
「かせん、」
 思わずその手を握ると、歌仙兼定が意外なほどの握力で宗三左文字の手を握り返し、次いで、横たわる歌仙兼定のほうへと勢いよく引き寄せられた。
「歌仙兼定……!」
 気を失っていると聞いていたのに、意識が無いとは思えないほどの強い力だった。まだ傷が塞がっていないはずの歌仙兼定の体の上にのしかからないように、宗三左文字は必死で腕の引きに抵抗する。
「歌仙兼定! 駄目です、」
 思わず宗三左文字は声を上げる。
 宗三左文字の体が近づかないことに焦れたように、突然歌仙兼定の体が起き上がって、几帳の垂れ布ごと、宗三左文字の体を痛いほどに強く抱きすくめてきた。
「宗三左文字どの………!」
 自分を呼ぶ必死の掠れ声の中に歌仙兼定の咳と血が混じり、宗三左文字は肝を冷やす。起き上がった歌仙兼定はだがすぐに力を失って、宗三左文字の体の上に上体を預けるように倒れ込んできた。歌仙兼定は怪我をした場所に晒しを巻かれただけの半裸の状態で、汗の浮いた太い肩は剥き出しのままだ。
「歌仙兼定、無理をしないでください……まだ傷は癒えていないのです」
 歌仙兼定の身体を細い体で抱き留めて、ぜいぜいと音を立てて苦しげに息をする歌仙兼定の耳元に、宗三左文字は声を吹き込んだ。
 閉じられていた二藍色の睫毛が開いて、赤を散らした緑色の目が覗く。
「……きみ、かい……?」
 唇に血を滲ませながら歌仙兼定が問うた。目は開いているが何を見ているのかはわからないようだ。
「ええ、僕です。宗三左文字ですよ、歌仙兼定」
 身を案じながらも親しみの強い声音が心に届いたか、歌仙兼定の不安は薄らいだようだった。
「よかった………城にきみがいた……………戦場で……、きみを喪ったかと思った」
 寄りかかった宗三左文字の胸元で歌仙兼定が発した言葉に、宗三左文字は眉をひそめる。
「……死ぬほどの怪我をしたのはあなたですのに」
「……………宗、…」
 歌仙兼定の弱々しい手が縋るように宗三左文字に巻き付いた。
 それが本当に求める者であるかどうかを確認するかのように、歌仙兼定の手が宗三左文字の体を服越しに撫でる。
「宗三左文字どの」
 歌仙兼定の胴に巻かれた晒しは赤く滲んでいる。赤い染みが少しずつ広がっていくのが見え、宗三左文字は不安を募らせる。
「歌仙兼定、動かないで……傷が開いています、お願いですから安静にしてください」
 歌仙兼定の身体を横たえたくて宗三左文字が言うが、歌仙兼定は宗三左文字を掴んで離さなかった。
 歌仙兼定の震え声が耳を打つ。
「……きみを喪うのが怖い」
 宗三左文字は瞠目して息を飲む。
 朝に小夜左文字から同じことを聞いた。そのときも現実感を持てなかった宗三左文字だったが、まさか歌仙兼定が、自らその弱音を口にしようとは。
「きみがいなくなったら、僕は生きていくことすらできなくなる。……僕を置いていかないでくれ」
 歌仙兼定が懇願するほどに不安がる理由がわからず、宗三左文字は困惑を深める。
「……僕は無事です。戦場で怪我をしたのはあなたなんですよ、歌仙兼定」
「桶狭間に戻らなくては」
「いけません。今はしっかりと傷を癒やすことだけを考えて。……あなたこそ、僕に、あなたを喪わせるようなことはしないでください」
 宗三左文字のほうが泣くような声で諫めるのに、歌仙兼定は耳を貸さない。
「駄目だ。あいつを斃さなくては……」
 喘ぐ息の下から吐かれた言葉を、宗三左文字は聞きとがめた。
「……あいつとは誰ですか」
「………、…………」
 歌仙兼定の荒い息が一瞬止まった。
 歌仙兼定が重たげに頭を上げて宗三左文字を見る。柔和な笑みにせよ怒りにせよ、表情を作ることもできぬほどに衰弱した歌仙兼定を、宗三左文字は初めて見た。
「かせん、」
「……『彼』を殺さなくては、きみを守れない」
「…僕を、守る………? なぜですか…? 一体、誰を殺すと……?」
 鳴狐の話が不安となって宗三左文字の脳をよぎる。
「斃してしまうはずだったんだ。この僕が。……あんなに切っ先が鈍るなんて………宗三左文字どの……」
「歌仙兼定」
 歌仙兼定の身体は限界だった。ぐったりと力の抜けた歌仙兼定の身を宗三左文字は抱え込んで、寝床に横たえようとする。
「……駄目だ。宗三左文字どの……」
 体が利かないながらも歌仙兼定が抵抗してきて、宗三左文字は難儀する。
 宗三左文字は歌仙兼定の身体を支えながら、緑の目を覗き込んだ。
「桶狭間で、いったい誰と遭ったのです」
 歌仙兼定の顔が一瞬辛そうに歪み、すぐに消えた。
「……言えない」
「歌仙兼定」
 優しいけれども咎めるような響きを込めて宗三左文字が名を呼んだ。歌仙兼定はますます頑なになる。
「駄目だ。言えない。……宗三左文字どの。桶狭間には行かないでくれ」
 支離滅裂に聞こえるが、歌仙兼定の中には強い危惧があるようだ。
 宗三左文字は歌仙兼定の体調も気にかかった。
「……もう休んでください。ここは手入れ部屋で、僕も長い時間滞在することは許されていないのです」
 そう言ってようやく、歌仙兼定の身体を再び寝床に横たえることに宗三左文字は成功する。
「約束してくれ」
 ふたたび歌仙兼定が宗三左文字に向けて腕を伸ばす。
「桶狭間には行かないと」
 宗三左文字の白い手を、血の気を失って今は同じほどに白い歌仙兼定の大きな手が掴んだ。
「……歌仙兼定」
「手入れ部屋に入る前、主にも頼んだんだ。きみを桶狭間に出さないようにと。江雪左文字どのが……」
「……江雪左文字が? どうしたと仰るのです」
 歌仙兼定はそれには返事をしなかった。
 宗三左文字の手を握る歌仙兼定の握力が弱くなる。歌仙兼定の意識は再びおぼろげになってきたようだ。
「……僕が、もう一度あいつと戦って斃すまでは……」
「……負けた敵にもう一度戦いを挑むというのですか?」
 宗三左文字の心に新たな危惧が宿る。
 歌仙兼定は瞼を半眼に閉じ、発音のはっきりしない声でうわごとのように囁いた。
「次は必ず勝つよ。躊躇ったりしない。『彼』はきみの為にならない……僕が……必ず……」
 歌仙兼定の意識が落ちて、声は途中で途絶えた。
「歌仙兼定」
 呼びかけても、もう歌仙兼定は反応しない。宗三左文字を掴んでいた歌仙兼定の手が急に重くなる。
 宗三左文字はその手を握ったまま、黙して歌仙兼定を見下ろした。二藍色の柔らかな髪は汗で額に貼りつき、血を失った顔は閉ざされた瞼まで青白く、髪と同じ色の長い睫毛がひどく目立つ。半開きのままの渇いた唇には、言葉とともに吐いた血がこびりついている。
 自分はどうしたらいいというのか。
 やがて宗三左文字は深い息を一つ吐いて、歌仙兼定の腕を体の傍に添えるように置いた。
 歌仙兼定の唇に付いた血を懐紙で拭き取ってやり、血の滲む晒しを巻いた体に上掛けを掛け直してやってから、宗三左文字は座を立って退室した。
 手入れ部屋の戸を閉めて、戸に手を当て、宗三左文字はその場に立ち尽くす。
「歌仙兼定……」
 祈るように恋する者の名を呟く。
 脳裡を嵐のように吹き荒れる不安と惑乱の中で、ひとつの決意が生まれつつあった。
 手入れ部屋に籠もってさえいれば、歌仙兼定の傷は癒える。
 だが彼は怪我が治ればもう一度桶狭間に行くと言った。
 彼が負けた理由は単純な能力の彼我の差では無い。要因はほかにある。
 自分の、宗三左文字の似姿。
 鳴狐はそう言った。
 桶狭間で何が起こったか、宗三左文字には知れぬ。
 だが、あんなに惑乱した歌仙兼定が、傷が癒えたといって再び桶狭間に出陣して、今日負けた敵に次は勝てるだろうか。
 生きて帰ってこられるだろうか。
「…………………」
 歌仙兼定を喪いたくない。
 宗三左文字は薄い唇を硬く引き結んだ。
 緑と青の暗い瞳に、余人が見たこともないような強い意志が宿る。
 歌仙兼定しか知らない、宗三左文字の芯の部分が頭を擡げようとしていた。
 歌仙兼定を喪うことは自分には堪えられない。
 ならば宗三左文字が為すべきことは、もう既に決まってしまっていた。


 出陣の申し出に、歌仙兼定との約束を破ることになると主は難色を示したが、宗三左文字は己の意思を頑として押し通した。粘った挙げ句ようやく折れた主の許可を得て、宗三左文字は自らを部隊長とした部隊を結成し、隊員を選定して翌朝の出陣を告げる文を彼らに送った。深夜遅くに江雪左文字のもとを訪れ、短く会話を交わした後、宗三左文字は己の居室で寝床に横たわって夜明けを待った。
 翌早朝、刀を手に、霞立つ城門の前に宗三左文字が向かうと、そこには既に出陣を待つ部隊の者がひとり立っていた。
「今日は宜しくお願いします、へし切長谷部」
 淡々と挨拶をされてへし切長谷部は眉を上げる。
「……おまえと組んで出陣することになろうとはな。宗三左文字」
「ご不満ですか」
 宗三左文字に、へし切長谷部は笑う形に口を曲げて答えた。
「主命とあらば無論否やは無い。だが、おまえが自ら俺を部隊員に選ぶとは思わなかったぞ。まさかこの時間を共に過ごすことで、例の約束を果たしたとでも言うつもりではあるまいな」
「……出陣から帰れば、あなたとの約束は必ず果たしますよ。ご心配なく」
「いい心がけだ」
 憎まれ口のようにへし切長谷部は答えたが、宗三左文字を見るその目は昨日とはやや違って見えた。
「……おまえは、戦場で俺がおまえを見捨てるかも知れんという不安はないのか?」
「ありません。……主に尋ねたところ、あらゆる刀剣男士の中であなたの忠誠がもっとも厚いと聞きました。僕の身がどんな状態になっても、たとえ半身だけでも、あなたなら主のもとに僕を連れ帰ってくれるでしょう」
「そうだな。だが傷ついたおまえを連れ帰る間に、主命に背かぬ形でおまえに害を為すかも知れんぞ」
 脅すようなへし切長谷部の物言いに、宗三左文字はまったく動じなかった。その唇にいつもの笑みは無く、興味なさそうに色違いの瞳でへし切長谷部を見返す。
「そうしたければご随意に。僕を、どうにでもなさればよろしいのです」
 投げやりにも聞こえる台詞だが、本当に己の身をどうとも思っていないような宗三左文字の素振りだった。昨日の宗三左文字とは雰囲気があまりにも違っている。
「……本気か」
 へし切長谷部は探るように目を眇める。
「僕の身を大事にしていたのは僕ではありません。それを昨夜思い出しました。……今の僕には、自分より大事なものがあります。敵に勝って、この身が死にさえしなければ、後はどうでも構いません」
 宗三左文字のその姿は、静かな中に鬼気迫るものを持っていた。
 へし切長谷部は今初めて見る者のように宗三左文字を見た。
「戦場で死ぬ気は無いんだな?」
「ええ。勿論です」
 宗三左文字はそれきり押し黙った。
 そうだ。自分の体など本来どうでもいい。
 宗三左文字は昨夜の江雪左文字との会話を思い返していた。
 江雪左文字は歌仙兼定が対峙した敵とは見えていないが、戦の前に歌仙兼定に忠告をした、と告げた。
「あなたにとって桶狭間は危険な場所だ、と歌仙兼定殿に忠告しました。宗三左文字殿」
「僕にとって………?」
「あそこには左文字派の敵がいます」
「……………」
「歌仙兼定殿は恐らくその者と対峙したのでしょう」
「………鳴狐は敵が僕に似ていた、と言っていた」
「左様ですか。……有り得ることですね。歴史修正主義者の有り様を思えば……」
「歌仙兼定は異界から来た『宗三左文字』と戦ったのだろうか」
「桶狭間に向かえば貴方もその者と戦うことになりますよ。避けたほうが良いのではないでしょうか。……いかに貴方と言えど、ご自分と戦うことは酷に過ぎましょう……?」
 江雪左文字の言葉に、宗三左文字は微笑んだ。
「その点は心配していないんだ」
 儚いと言うよりは皮肉の勝る微笑だった。
「今はともかく。歌仙兼定に出逢う前に、刀剣男士として顕現した自分を好きだと思ったことなど無いから」
 敵が誰であれ斬り伏せる。
 桶狭間に飛んで、傷を癒やした歌仙兼定がそこに戻るより早く、彼を敗北させた敵を倒す。
 宗三左文字にとって、それ以外の全ては、ごく些末なことだった。




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