<其乃八>



 夢の中で歌仙兼定は再び桶狭間にいた。
 目指す敵を探して、泥水の中を歩き回る。歴史を変えられる前に、愛する者を失うより前に、敵を屠って戦に勝利せねばならない。
 相変わらずの豪雨の中に少しだけ雲が薄れた頃、その相手が現れた。
 紅梅色の僧衣と袈裟。間違いない。似ていても自分の宗三左文字とは別人であることも、今や痛いほど思い知っている。歌仙兼定は今度こそ、躊躇わずに敵に斬りかかった。
 容貌。声。立ち居振る舞い。
 馴染んだ宗三左文字と全く等しく、握る太刀と、傲慢かつ豪壮な気配だけが違っている相手。相変わらず歌仙兼定の握る刀は動きが鈍かったが、今回は相手の隙を逃さなかった。
 一撃目で敵の両腕が寸断され、握っていた太刀と共に白い二つの手が泥の上に落ちた。血しぶきを避けもせず歌仙兼定は更に踏み込み、声を上げながら刀を相手の胴体深くに突き込んだ。
 歌仙兼定の刃は敵の薄い体を突き通り、切っ先が背に抜けた。淡紅色の髪が翻って白い喉ががくりと仰け反り、緑と青の色違いの瞳が雨の中に天を向く。
 雨が涙のように目尻に溜まり、仰向けの白い面を流れた。
 見知った薄い唇が、血とともに笑みをはく。
 色違いの両の目は空に向けられたままで、絶命の息の代わりに声が漏れた。
「ようやく……自由だ………」
 歌仙兼定は驚愕して目を見開いた。
 瞬間、自分が誰と戦い、誰を殺したかは、歌仙兼定の意識から失われていた。
「宗三左文字どの!」
 己の刀から抜けるように敵の体は仰向けに崩れ落ち、そのまま動かなくなる。歌仙兼定は倒れた骸の上に屈み込んで、僧衣に包まれたその体を必死で揺さぶる。
 自分に向けて微笑してきた唇は冷え、優しげだった緑と青の瞳はもう歌仙兼定を映さない。
「宗三左文字どの……!」
 宗三左文字を救う為に行動したはずなのに。
 そこに横たわるのは息絶えた宗三左文字だった。
 命の火が消えた体から急速に、熱と肉が喪われていく。
 歌仙兼定が触れていた宗三左文字の肩は消え薄れ、全ての肉体が消えた後に、壊れた刀だけが残されていた。
 磨上を受け、信長の銘が刻まれた打刀の、折れた刀身が。


「……………!」
 がば、と身を起こして始めて、歌仙兼定は、自分がどこにいるかを自覚する。
 そこは見慣れた己の寝室だった。汗で夜着がしとどに濡れている。
 歌仙兼定は己の手を検め、宗三左文字の血に汚れていないかどうかを確かめた。
 手は綺麗なままだった。
 強く安堵して、歌仙兼定はその手で掛け布を強く握り締め、深い息を吐く。
 己の身の手入れはもう済んでいて、傷は綺麗に治っている。眠っている間に、手入れ部屋から自分の居室に戻されていたものらしい。
 まったく厭な夢を見たものだ。歌仙兼定は息を整えながら頭を振る。
 夜の内に、手入れ部屋の中で宗三左文字と逢ったような気がするが定かでない。あるいはそれこそが夢だったのだろうか。
 寝所は暗いが、閉ざされた襖の向こうから明るい光が漏れ出ていて、既に日も高くなっていることを示していた。体の疲労はずいぶん軽減されている。これなら、午後から出陣して、桶狭間で再度あの敵に見えることができるだろう。
 夢はただの夢で現実ではない。歌仙兼定は意識をすでに切り替えていた。
 部屋の主人が起きた気配に、部屋付きの短刀の子が起床の支度を手伝いに顔を出した。
「主に、進軍を申し出る為に伺候すると知らせておいてくれないか」
 汗に汚れた浴衣を脱ぎながら、歌仙兼定は短刀の子に告げる。
「午後には僕が出陣して、再び桶狭間に向かうつもりだから、と」
 告げられた子は怪訝な顔になった。怪我した直後の歌仙兼定が心に常の余裕を失っていることはなんとなく察知している様子で、覗うように歌仙兼定の顔を見上げてくる。
「今日は既に朝早くから、部隊が出陣中です」
 平服に着替えながらその返事を聞いた歌仙兼定は眉を顰めた。
「少し近侍を離れると、すぐ情報に遅れてしまうようだね。今日は誰がどこに出かけているんだい」
 短刀の子はますます警戒心を強めた顔で、それでも律儀に回答した。
「宗三左文字さまを部隊長に、桶狭間へ向かったと聞いております」
 瞬間、歌仙兼定の周囲に走った強い怒気に、短刀の子のほうが緊張を見せた。
「………妙だな。宗三左文字どのには出陣の許可を出さない、と、主と約束したはずだが」
 部屋付きの子には戦場の経験は殆ど無い。歌仙兼定の、吊り上がった緑の目が血走っているのをあまり見たことのなかった短刀の子はすっかり怯えきり、震え上がった声で、つい余計な一言を発した。
「へし切長谷部さまがご同行していると聞きました」
 それを聞いた瞬間。
 着替えを終えていた歌仙兼定は刀掛けから愛刀をひっつかんだ。
「主に事情を説明してもらわねばなるまい」
 そのまま短刀の子の返事も待たず、刀を左手に握ったまま、本丸へ向かって歌仙兼定は足音も荒く大股に歩き出した。
 肩から立ち上る怒気が目に見えんばかりだった。




 夜と紛うほどに暗い豪雨の中、幾度かの散発的な戦いを経て、部隊は散り散りになった。
 昨日の歌仙兼定もそうだったのだろう、と思いながら、宗三左文字は丘陵地に歩みを進める。
 戦場のそこかしこに織田軍の気配がする。今川軍の気配も。彼らと遭遇せぬよう気をつけねばならないが、一方で、探し求める己の敵には、彼らより先に出遭わなくてはならない。
 雨が小雨になり、雲が明るくなる。
 小高い丘の上に立つ者がある。
 宗三左文字は視線を上げて、その敵を見た。
 自分と寸分違わぬ僧衣姿の刀剣男士。
 手にした太刀だけが、自分の持つ打刀と違っている。
 向こうも自分を既に見つけていた。
 こちらに向けられた色違いの目は傲岸な怒りに冷え、忌むべき者のように宗三左文字を睨み下ろしてくる。
 宗三左文字が黙然と相手を見ている間に、向こうから声をかけてきた。
「……あなたがこの世界の『正史』の僕、というわけですか」
 己と同じ細身の姿から立ち上る、苛烈で雄壮な気配。
「その脆弱な風情、醜い長さの刀身……到底許容できるものではありませんね」
 風の中に、己と同じ声で嘲りの言葉が散る。
「あなたを破壊し、義元公のお命をお守りし、織田信長を斃す為に僕はここに来ました」
 相手は太刀を鞘から抜き、切っ先を宗三左文字に向けて突きつけてきた。
 江雪左文字と同じ、黒金の鐔章。握る太刀の茎にも江雪左文字と同様、「左」の文字が銘切られているであろう。
 嘲弄と殺害の宣告を受けながら、宗三左文字はある種の感動をもってただ敵を見上げ、その場に立ち尽くしていた。
 戦場を経巡る為に作られた当初のままの、生ぶ茎の太刀。冑をも割る豪壮さと重さを持つ、磨上も再刃も知らぬ無垢な刀。そこから来る、刀剣男士としての強固な矜恃。
 歌仙兼定が目の前の敵を自分から隠そうとした理由がよくわかった。
「彼」は自分が望んで得られぬものを全て持っている。自分が刀剣男士として顕現したときに予め失われていた、全てのものを。
 顕現を束縛と感じ、破壊こそを自由と信じて、「死」に心を傾けていた自分であれば。
「彼」をこそ己の本来の姿と捉え、自分が敗北して消えてゆくことを、むしろ喜ばしく受け入れたかも知れない。
 ―――――――歌仙兼定に逢う前なら。
「…ふ………、」
 薄い唇に、宗三左文字は皮肉とも自嘲とも満足ともつかぬ笑みを浮かべた。
 目の前の敵とは違う温度の色違いの瞳で、宗三左文字は相手を睨み上げる。
「あなたに、この世界の本当の『僕』を教えて差し上げますよ」
 宗三左文字にしては強い声がその喉から漏れた。
 宗三左文字は右手で紐を解いて袈裟を取り払うと、濡れた僧衣を諸肌に脱いで見せた。
 雨は既に止み、空の黒雲は消えていた。
 輝きを取り戻した陽光を浴びて、宗三左文字の白い肌に蝶の紋様が黒々と浮かび上がる。
 それを認めた敵が丘の上で息を飲んだ。
「この場所、桶狭間で……殺された義元公から略奪されて、魔王の刻印を押され磨上を受けたのが、『正史』の宗三左文字ですよ。……ここでは太刀のあなたは僕の似せ物に過ぎません」
 今までこの刺青を誰にも望んで見せたことはなかった。歌仙兼定を除いては。
 宗三左文字が戦場で大きな怪我をした経験は二度ほどしかない。
 宗三左文字はふと気づく。
 戦場で掠り傷一つ負わぬよう、宗三左文字に対し歌仙兼定が意を砕いたのは、もしかしたら、この刺青を人目に晒すことを厭う宗三左文字の無意識を、歌仙兼定が先取りして汲んでいたものなのかも知れなかった。
 だがそれももう不要だ。
「恥も知らぬのですか。敵の手に落ちて家畜の如く烙印を与えられ、しかもそれを自ら受容するとは」
 怒りに震える声で敵が言ってくる。
 己と同じ貌から放たれたその言葉は、以前だったら宗三左文字の胸を切り裂くような台詞であったに相違ない。だが、今の宗三左文字の心には、そよとの風も呼び起こさなかった。
 敵を見上げたまま宗三左文字は唇に笑みをはいた。
「それがこの世界における、現実の『僕』であり、本来の『あなた』なのですよ。それを受け入れられぬ以上……あなたは『宗三左文字』ではあり得ません。僕の昔の主には、義元公だけでなく、魔王も確かに含まれるのです。そしてそれによって、僕の現在は今のように定まっている。魔王の支配を受け入れられぬあなたは僕の、過った影、現実化しない未来への夢想、妄想に過ぎぬ過去の夢でしかありません。夢には消えていただきましょう」
 刀剣男士としての自分の心に棲むものはひとつしかない。
 歌仙兼定。
 鏡写しのように立つ目前の敵の人生には、彼が存在しない。
 今の自分にとっては、それは、手に入れたい生き様では全くなかった。
「歌仙兼定の仇を討たせてもらいます」
 宗三左文字は諸肌脱ぎの姿のままで、手にした打刀を抜いた。
 薄い胸板の上で、筋肉の動きにつられて、蝶が羽を踊らせるように舞う。
 両手で刀を構え、深い青と緑の目で、宗三左文字は目の前の敵をしかと見据えた。
「……宗三左文字。行きますよ」
 怒りを憎悪にまで燃やし高めた敵が、太刀をかざして丘から駆け下りてくる。
 宗三左文字は冷静にそれを迎え撃った。

 敵の闘い方は己のものに酷似していて、しかしもっとずっと力強く豪快だった。
 相手を己と同程度の膂力と見ていた宗三左文字は、その鋭さと重さにおいて太刀筋を読み違えていた。
 袈裟懸けに斬り下ろしてきた敵の太刀を体は左に躱したが完全には果たせず、敵の刃先が宗三左文字の右の腿を裂く。
「く、」
 身を守ることを知らぬような近接の仕方は両者に共通していた。
 力が抜けるほどの激痛を脚に感じるより速く、宗三左文字は踏み込んで横様に刀を薙ぐ。大振りの太刀を持った敵は避けられず、片手とは言え宗三左文字の一打ちをまともに食らった。
「ッぐ………!」
 自分と同じ貌が苦悶に歪む。
 それをどこか感服するような心地で見据えながら、宗三左文字は両手で刀を握り直して振りかざし、敵の肩口に打ち下ろす為に、もう一歩を踏み込んだ。
 斬られていた右腿に激痛が走り、己の身を支えることができなくなって、宗三左文字の下肢は敵に向けて倒れ込む。
 上体では刀を握る手を崩すことなく、宗三左文字の振り下ろした打刀の刀身が敵の体に深々と食い込んだ。
 宗三左文字の刀は敵の鎖骨と肋骨を割り、背骨に当たって止まった。下肢はそのまま、敵の体の上に頽れる。
 ふたりの宗三左文字の体は折り重なるように泥の上に倒れ込み、薄紅色の髪と紅梅色の袈裟が、忽ちのうちに血と泥で汚れていった。
 宗三左文字の脇腹に激痛が走る。
「…存在しては……いけないのです……あなたのような、ひ弱な、宗三左文字など………」
 口から血の泡を吹きながら、宗三左文字の体の下で敵が言った。苦悶の中で色違いの瞳を憎悪に滾らせ、嘲るような笑みをはいている。
「ッ………、」
 倒れ込んだ衝撃に乗じて、敵の太刀が宗三左文字の右の脇腹に深々と突き刺さり、背に刀身が抜けていた。
 互いに刺し合ったまま倒れ込んで、退くこともできず、至近でふたりは睨み合う。
 泥と血に汚れた同じ貌。
 だが明らかに、敵のほうが深傷を負っていた。
 痛みにぜいぜいと息を荒らげながら、宗三左文字は敵を見下ろす。
 睨み上げてくる敵が、口から吐く血の量を増やしつつ、不敵に笑ってくる。
「僕と同じ刀から生まれたあなたなら………この桶狭間で、お互い、差し違えるのは……本望でしょう……? ………僕は、太刀のまま、滅んで……、自由に………」
 自由。
 その言葉を聞いた途端。
 宗三左文字の体内を激しい感情が支配した。
 それは怒りにひどく似ていたが、同時に悲痛なものも内包していた。
「…勝手なことを………! 僕は、今……、破壊された後の自由など、絶対に欲しません……!」
 激情に支配された体のまま、宗三左文字は敵の肩に手を置く。
 体内の敵の太刀が臓腑を傷つけるのも厭わず、手に力をかけて苦労して己の体を敵の傍から引き剥がし、次いで自分の刀を敵の体から強引に引き抜いた。
 大量の血が敵の体から飛び散って、宗三左文字の体を緋色に染めた。
 宗三左文字は手で刀を持ち替えて、刃こぼれした打刀の切っ先を、決意を籠めて相手の喉首に突き立てた。
「あなたひとりが……、この場で義元公に殉じて、彼の後を追えばいい………!」
 義元公は嫡子の氏真に家督を譲って桶狭間の合戦に臨んだ。覚悟の上の出陣だったのだ。
 切り裂かれた敵の頸動脈から再びの血しぶきが上がる。己と全く同じ血を浴びながら、宗三左文字は今の力で叶う限りの声で叫んでいた。
「今の、僕には……、帰る場所が、あるのです………!」
 敵にその言葉が届いたのか、どうか。宗三左文字には知れない。
 宗三左文字の体の下で、同じ体温を持つ体がびくびくと震え、声を出せぬ口が大きく開く。血と泥に塗れた敵の右手が宗三左文字の左胸に伸び、蝶の紋様に触れようとしてくる。
「ッ……、」
 宗三左文字は左手で敵の手を振り払った。
 敵はそれ以上力を見せることなく、右手は泥の上にぽたりと落ちて、そのまま動かなくなった。
 敵の体から流れる血は勢いを失い、やがてすべての動きが途絶える。
 宗三左文字は荒く息を吐きながら敵を見下ろしていた。
 仰向けに横たわった敵の目は今や虚空を見つめ、色違いの両の瞳は空の上の雲を映すばかりだ。自分であって自分でないもの。息を整えながら宗三左文字は敵の骸を見つめる。
 敵の左手は、太刀の柄を固く握ったままだった。
「……く、」
 ようやく宗三左文字は身動きして、敵から体を離そうと試みる。
 串刺しになった敵の刃から己の身を引き抜こうとするがうまくいかず、宗三左文字は苦悶する。
 だがやがて、柄を握る敵から力が抜けて、遺骸の上に、空の左手が落ちた。
 太刀を宗三左文字の体の中に残したままに。
「ッ………」
 激痛をこらえながらどうにか宗三左文字は身を起こし、敵の首から己の刀を引き抜いた。
 宗三左文字の腹からも大量の血が流れ出し、僧衣を汚している。
 ふと見ると、眼下で、己と同じ姿のこときれた敵の体が、次第に薄れていくところだった。
 魂の失せた身がもはや肉体を保てず、刀に還っていくのだろう。
 宗三左文字が、目の中に入った血と泥を瞬きで払う間に、敵の刀剣男士の骸は消えていた。
 代わって泥の中に、再刃もできぬほど粉々に砕けた太刀の姿が残された。
 宗三左文字の体に刺さっていた、破壊された太刀と霊魂を同じくする敵の刃も、既に消失している。
「っ、く………、」
 宗三左文字の色違いの両の目から、目に入った血に混ざって涙が零れる。
 先程までとは全く違う感情が宗三左文字を支配していた。
 泥に汚れた、太刀であった鉄の欠片の上に、水滴が散っていく。
 それは過去の己への訣別の涙だった。
 以前この場所、桶狭間で江雪左文字に語った迷いを、宗三左文字は自らの行動によって永遠に断ち切った。
 露出した己の左胸に舞う黒い蝶の上に、赤い血が散っているのが目に入った。宗三左文字は血塗れの手で胸の刺青に手を当てる。
 魔王が入れた刻印を負って、自分は生きていく。刀剣男士として。
 歌仙兼定の傍で。
「…は…………、」
 ぐらりと視界が揺らぐ。
 自分の身を膝で支えていられなくなって、宗三左文字は泥の中に倒れた。
 泥の中に体が倒れ込む音が聞こえたような気がしたが、錯覚だったかも知れない。
 宗三左文字はそのまま意識を失った。




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