<其乃九>



 目を開けると高い青空が見えた。
 桶狭間の空。
 宗三左文字は仰向けに横たわり、青と緑のふたつの色の瞳に、夏の雲を映している。
 先程斃した敵とまったく同じように。
 海の近くだからだろう。水鳥が数羽、高い場所を連れ立って飛んでいく。
 それをもう羨ましいとは思わなかった。
 この体から、命の火が消えることがあっても。空高くへ飛び去りたいとは思わない。
 向かいたい先は雲の果てではない。
 歌仙兼定のもとだ。
「…………………」
 宗三左文字は息を吐いた。
 人間は、こういう心情を抱いたときに和歌を詠むのだろうか。だとしたら。
 歌仙兼定が和歌を好む理由が、少しだけわかる気もする。
 身動きをすると、脇腹に激痛が走った。敵の刃が通った場所から、血が溢れるままになっている。止血しなくてはならない。宗三左文字は苦労して身を起こす。
 傷口が泥だらけだが、人間とは違って、雑菌が繁殖する前に手入れ部屋に籠もれば化膿もしないので、殺菌はする必要がない。新たな敵に見つかるより前に、自力で止血ができると良いが、と思案しているうちに、視界の隅に敵の短刀が近づいてきているのが見えた。
「くッ………、」
 敵は既に宗三左文字が怪我をしていることに気づいている。応戦せねばなるまい。宗三左文字は脇に放り出されていた、疵だらけの己の打刀を掴んだ。
 気力を振り絞ったが、刀を握る手に力が入らず、泥の上に幾度も刀が落ちる。焦れば焦るほど、血と泥で柄は滑るばかりだ。
 寄ってきた敵の短刀はその姿に相応しい獣じみた奇声を上げて、刃を握る長い尾を宗三左文字に振り向けてきた。手はようやく柄を握ったが、刀は想外に重く、振り上げることは果たせそうになかった。
 敵の刃が宗三左文字に迫る。
 間に合わない。
「―――――宗三!」
 誰かが近くで叫んでいた。
 短刀の一打ちは永遠に、宗三左文字に向かって下ろされることはなかった。
 横合いから走ってきた銀の鐔章の打刀の者が、敵に向かって己の刃を振り下ろし、短刀はその一撃であっけなく破壊された。
 いつぞや歌仙兼定が、同じように宗三左文字の目の前で敵を屠ったことがあった。今回の打ち筋はもっと豪壮で荒々しいものだった。
「主命に背く気か! きさまは!」
 敵の血に濡れた刀を握ってこちらを振り向いているのはへし切長谷部だった。その表情は、かつての歌仙兼定と同じほどに怒気に満ちている。
 だが返り血と泥に汚れたへし切長谷部のその顔を見て、宗三左文字は、相手の精神が当初に思っていたよりずっと若いことに気がついた。
 自分や歌仙兼定よりもまだ若いくらいだ。
 へし切長谷部は怒り狂いながら刀を収め、宗三左文字にずかずかと近づいてくる。
「勝手に怪我を負って、挙げ句新手に襲われて死にかける奴があるか。勝利して帰って、初めて主命を果たせるのだぞ。弱いなら弱いで戦いようがあるだろう、自分勝手に突出して戦線を乱すな。ましてきさまは部隊長なんだぞ、きさまの負けは供に出陣した俺たちや主を含めた全員の負けになるというのに……、」
 失血と激痛で意識が朦朧としつつある宗三左文字は、はかばかしい受け答えもできない。
 へし切長谷部は怒ったまま宗三左文字の傍に寄り、細い腕を掴んで乱暴に立ち上がらせようとしてきた。
「つッ………」
 体を動かされた宗三左文字が痛みに顔を顰めて呻き、そこで初めて、へし切長谷部は宗三左文字の怪我が酷く重いことに気がついた。
 眉根を寄せ、宗三左文字に文句をつけるのをやめ、了承もなく荒々しい手つきでへし切長谷部は宗三左文字の体に触ってくる。
「………、離…、」
「止血する。主命に忠実だからと言って俺を部隊に組み込んだのはおまえだぞ。文句を言うな」
 相変わらず、宗三左文字の抵抗を傲岸な強引さで封じながら、へし切長谷部はてきぱきと対処を始めた。手の動きは意外に的確で、見た目ほど粗暴な動きではなかった。
「酷い怪我だな。いくらおまえが弱いと言っても、こうも怪我を負うほどの手練れがこの戦場にいたとは信じがたい。歌仙兼定をやったのと同じ奴か。戦って勝ったのか?」
「………そこに破壊されて横たわっている、砕けた太刀がそうですよ………」
 億劫そうに宗三左文字が答えた。激痛に意識が定まらず、ともすれば気絶してしまいそうだ。がみがみと耳障りではあっても、へし切長谷部が自分に語りかけてくれるのは有難い。
 宗三左文字の腹部に晒し布を強く巻いて止血を進めながら、へし切長谷部は、足元の泥の中に落ちている壊れた刀剣に目をやった。
 へし切長谷部は灰色の目を眇めて、宗三左文字を見つめ直した。
「………左文字派の太刀とは珍しいな。なんでこんなにきさまに似ているんだ。……足を出せ。腹は終わった」
 面倒くさくなってすべてをへし切長谷部に投げ出しながら宗三左文字は答えた。
「………僕の亡霊がここに陣取っていたんですよ。……義元公をお守りして、魔王を斃す為に。………あなたが逢いたかった『宗三左文字』は、もしかしたら僕より『彼』のほうが似ていたかも知れませんね。魔王が最初に求めたときの力強さを保った、生ぶ茎のままの太刀でしたから……」
 宗三左文字の裾を高く絡げて腿を露出させ、両手で怪我に晒しを巻きつけていきながら、へし切長谷部は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「信長の手がついてない宗三左文字になど用は無い。……とは言え、おまえ自身も、信長が佩刀していたときとは姿が違うらしいな。……夕べ、粟田口の脇差達から聞いた」
 へし切長谷部が語っているのが誰のことか思い出せず、宗三左文字はぼんやりした意識の中で必死に記憶を掘り起こす。
 自分と共に豊臣家の所収であった、骨喰藤四郎と鯰尾藤四郎の名をようやくに思い出した。
「……ああ……。彼らも、往時の記憶を喪ったりと、焼け出されたことによって難儀しているようですが……。僕と同様に、再刃されたのですよ。彼らも」
「……おまえも苦労したんだな」
 聞こえるか聞こえないかのようなかすかな声でへし切長谷部が言った。
 宗三左文字はあやうく聞き逃すところだった。
「……刀剣だった頃のことを苦労と呼べるかどうかは微妙ですけどね……ただ……藤四郎たち以上に、僕が焼き直された理由は刀剣としては異質でしたので……。再刃した康継は、名工ではありましたが……」
「おまえの茎に信長の刻印が無ければ再刃されなかった、と聞いた」
「……ええ…。僕は武器たる刀剣としてでは無く、徳川歴代将軍に代々継承される為の象徴として再刃されたのです……どんな出来であれ、ただ有りさえすればいい、と」
「今のおまえがそんなにひ弱なのはその所為なのか」
「……よくわかりませんが、その辺りに原因があるのは確かでしょうね。刀剣男士として顕現したとき、僕は、自分の有り様を自分で肯定することができなかったのですよ………それを…歌仙兼定が……」
「奴の話はしなくていい」
 唐突に苛々として、へし切長谷部が遮った。
 止血の処置は済んだが出血は止まず、宗三左文字の体に巻かれた晒しは傷口から血に染まっていく。
「……へし切長谷部……お願いが………」
 気を失う前にこれだけは言っておかなくてはならない。宗三左文字は手を伸ばしてへし切長谷部の肩に触れた。
「帰ったら……必ず、約束は果たしますから……、そのことを、他言しないで欲しいのです……。歌仙兼定に、知られたくないんです………。ふとした拍子に、彼が知ったら、必ず、彼の為にならない事態に陥ってしまいますから………」
「歌仙兼定の話はするな、と言ったぞ」
「…………ですが……」
 泥と血に汚れた、血の気を失った青白い顔で、色違いの両の瞳に強い憂いを浮かべ、宗三左文字はへし切長谷部を見上げた。
 へし切長谷部の灰色の目が、苛立ちよりは真摯なものを強めた視線で宗三左文字を見返す。
「そんなに奴が大事か。……もしかして、今日の桶狭間も、奴の仇を取る為に来たのか?」
「歌仙兼定を、危険な目に遭わせたくないのです……僕の亡霊に手が出せなくて、彼はもう少しで死ぬところでした……あんな思いはもう厭です。だから、彼と、あなたに、反目し合って欲しくないんです」
 へし切長谷部は呆気に取られたように深い息を吐いた。
「………おまえには物事の本質が全く見えてないんだな」
「………………? どういう、意味、ですか………?」
 話が見えない宗三左文字は弱々しくへし切長谷部に問うた。
「おまえを挟んでいなければ。俺と奴はそもそも対立しない」
「……………? 意味が…よく、わかりません………」
「ああ、そうだろうとも」
 呆れたようにへし切長谷部が言い捨てた。
 へし切長谷部が次に続けた言葉は、怒ったような言い回しだったが、誰に怒っているのかと言えば、自分自身に対してのように思える言い様だった。
「俺もおまえと同じだ。顕現したときに刀剣時代の記憶に引きずられて、判断を過った。おまえは俺が知っていた頃の宗三左文字ではないし、俺が信長のもとにいたのは数百年のうち、ほんの瞬きほどの間だけだ。それを失念していた」
「………………」
「いろいろ悪かった。昨日の約束のことは反故にする。忘れろ」
 へし切長谷部は怒ったような顔で横を向いたまま、宗三左文字にそう告げてきた。
 宗三左文字は驚いたように瞠目する。
「…………いいんですか? …それで………」
「おまえを傷つけても過去は取り返せない。まして俺に、おまえを傷つけてもいい謂われは無い。本丸に参陣した日から俺がおまえに為していたのは八つ当たりだった……ようやく、そのことに気づいた」
「………………」
「俺が信長から如水さまのもとに下げ渡されてから四百年は経つ。蔵の中にではあったが、黒田の家中で大事にされて、火を潜ることもなく今まで来た。本能寺の変や大阪城落城や明暦の大火に晒されたおまえより、刀剣としての条件が良いのは当たり前なんだな。……俺が知っている宗三左文字は信長が喜んで腰に差していた頃の刀で、だがその後にも、俺が知らぬ間の四百年と、刀剣男士になってからの日数が存在している。そんなことにも気づかぬほど俺は周りが見えていなかったわけだ」
「………長谷部……」
「昔話は終わりだ。ここに来た目的は果たしたんだろう。敵の援軍に見つからんうちに帰るぞ。立て、宗三」
 思考を閉ざすような口調で言ってへし切長谷部は泥の上に立ち上がり、宗三左文字に手を貸して彼を立たせた。
 右腿に力が入らない宗三左文字を支えるように、体の右側から宗三左文字の剥き出しの左腰に手を回して、宗三左文字には右腕をへし切長谷部の肩に捕まらせようとしてくる。
「っ、ひとりで……歩けます……、触らないで…、」
 激痛をこらえ、ふらつきながら宗三左文字が言うところへ、へし切長谷部は今朝と同じように唇の端を曲げて笑って見せた。
「ひとりで立ってもいられないくせに。それ以上つまらん強がりを言うと、深窓の姫の輿入れ時みたいにお前を両手で抱え上げて帰城してやるぞ。歌仙兼定がさぞかし怒り狂うだろうな。……やってみるか?」
「…………、……」
 実のところ、へし切長谷部に支えられながら立って歩くのがやっとの状態だった宗三左文字は、大人しくへし切長谷部に従うことにした。
 それにしても腑に落ちないことがある。
「………あの…どうして…、あなたが僕を抱き上げると、歌仙兼定が怒るのでしょうか……? 抱き上げられる本人である、僕が怒るのならわかるのですが……」
「………………本気で聞いてるのか?」
 信じがたいと言わんばかりの声でへし切長谷部が宗三左文字を見た。
「……わからないから聞いているのですけれど………」
 宗三左文字の回答に、へし切長谷部は呆れたように首を振った。
「奴の過保護ぶりも無理はないな。おまえは無知で無防備すぎる。奴は今頃、殺したいほど俺を憎悪しながら、歯軋りしておまえを待っていることだろうよ」
「……………………」
 その言葉すら理解できないという顔で宗三左文字が眉を寄せたので、へし切長谷部はそれ以上何も言わず、宗三左文字に手を貸しながら城への道を戻り始めた。



 夕刻。本丸は凪の時を迎えていた。
 西方の海に太陽が沈もうとする頃。
 西日を背にして、歌仙兼定は怒気も露わに腕組みをして部隊の帰還を待っていた。
「まだ煮えたぎってるのかい?」
 後背から声をかけられて振り向くと、夕陽の中に燭台切光忠が立っていた。
「気が落ち着くことなどあり得ないね。宗三左文字どのの無事を確かめるまでは」
 最低限の礼を失さぬ程度にしか感情を抑えずに、歌仙兼定は返事をする。燭台切光忠は隻眼を可笑しそうに細めた。
「直情だねえ。嫌いじゃないが。気持ちはわかるけど、少しは宗三くんを信頼してあげてもいいんじゃないのかな」
 そう言われて、歌仙兼定は口では答えず、煩わしそうに眉根を寄せて燭台切光忠を見た。
 歌仙兼定に睨まれても、胆力のある燭台切光忠はいつもの笑みを崩さない。歌仙兼定の怒りが自分に向けられたものではないことを彼はよく承知していた。
 燭台切光忠は続けて言う。
「今日の午後の詮議は冷や冷やしたよ。きみが乱心して主に斬りかかるんじゃないかと、心配で仕方なかった」
「………それでいつもの並び順でなく脇差ふたりが僕の傍にいたのか」
 歌仙兼定は低い声で応じた。
「見くびられたものだね。いくら約束を破った主に逆上したからといって、僕が主に刀を向けるような真似をするはずが無いだろう」
 この日、謁見の間では珍しく、歌仙兼定の両隣ににっかり青江と骨喰藤四郎が座していた。どうやら燭台切光忠が気を利かせて指示していたものらしい。
 燭台切光忠の隻眼が歌仙兼定を見た。
「どうだかね。速さでは勝てないから、僕はきみを後ろから見ていたが。きみの背中からは物凄い殺気が上っていたよ。脇と後ろを固めておかなかったら、正直なところ、どうなるかわからなかったんじゃないのかい?」
「……………………………あるいはね」
 歌仙兼定は不承不承に認めた。
「心配しなくても、宗三くんはきちんと帰ってくるよ」
「………………」
「気を落ち着けて、相手を信じて待つことも肝要だよ。離れているときはね。絆ってそういうものだろう」
「……………宗三左文字どのは」
 首を再び城門のほうに向けて歌仙兼定は独り言のように呟いた。
「外側から他人が見るよりずっと微細で、心が複雑に入り組んでいるんだ。脆く見えるのにある部分では強情だったり、普段は謙虚なのに実は気位が高かったり。本丸では彼をいちばん知ってると自負している僕でさえ、彼が見透せないときがある。……桶狭間で、事態に直面して彼がどう思うか……僕でも読めないんだよ。彼が傷ついてないといいが」
 心と体、双方において。
 歌仙兼定は深く溜息をついた。
 宗三左文字に関する心配事は敵の太刀だけではない。へし切長谷部の存在もまた歌仙兼定の不安を強く煽っていた。
 今現在、歌仙兼定の怒りの要因はむしろへし切長谷部が殆どを占めていた。
 へし切長谷部が宗三左文字と共に出陣したことを知った小夜左文字が、昼過ぎに泣き顔で、昨日の東屋での顛末を歌仙兼定に報告してきた。宗三左文字から目を離した失態や、あまつさえそれを意図的に報告しなかったことで、小夜左文字に対しても歌仙兼定は激しい怒りを感じたが、かろうじてそれを子どもの小夜左文字にぶつけるのを我慢した。その時点で小夜左文字は充分に己の行動を後悔していたし、彼が今日まで黙っていたのは宗三左文字に口止めされたからで、その上そもそも、歌仙兼定の指示に忠実な小夜左文字が宗三左文字から目を離した理由は、宗三左文字自身の意図にあったのは明白だったからだ。
「………………」
 歌仙兼定はこの場に存在しない者を睨むように宙を見据える。へし切長谷部が宗三左文字に対して起こす行動の少なからぬ部分が、宗三左文字と出逢ったばかりの自分に似ているのが、歌仙兼定は非常に気にくわなかった。
 信長の刻印に執着することや、更には宗三左文字の操を奪って強引に彼を手に入れようと試みること。宗三左文字への一方的な支配欲。
 宗三左文字の意に添わぬ行動を平気で取れるのは、宗三左文字本人の心を、実のところどうとも思っていないからだ。宗三左文字が大事ではないからこそ、彼に対し己の欲求を無理強いすることができる。へし切長谷部は、宗三左文字と同時期に織田家の所有だった過去がある故に歌仙兼定よりずっと、宗三左文字に対して遠慮が無かった。
 最初に歌仙兼定が宗三左文字を襲ったとき、宗三左文字は今ほど自分にとって大切な存在ではなかった。人影もまばらな、空疎で新しかった当時の城中において、色恋を仕掛けて自分が風流を愉しむに相応しい同衾相手、という程度の認識だった。男同士の色事の何も知らぬ宗三左文字の様相を気の毒に思って、歌仙兼定は結局その手を控えるに至った。
 へし切長谷部がそのような気遣いを宗三左文字に対してするとも思えない。
 今となっては。歌仙兼定にとって、宗三左文字は唯一無二の存在だった。
 城内で、戦場で、その他の場所で、彼と共に時を過ごし、感情を一にしたり異にしたりしてきた。結ばれるまでの記憶の蓄積や、結ばれてからの日々。どれもが歌仙兼定にとっては大事なものだ。彼を守る為なら何でもするし、彼に愛される為にも何でもするだろう。
 時折炉火から現れる、二振りめの宗三左文字や、桶狭間にいた太刀の宗三左文字とでは絶対に結べない強い絆を、歌仙兼定は時間をかけて、今の宗三左文字と築いてきたのだ。
 横合いから現れたへし切長谷部が、その宗三左文字を彼の意思に反してでも奪い、傷つけようとしている。
 そう想像することはそれだけで、歌仙兼定を腸が煮えくりかえるほど激昂させる。
 なのに今は宗三左文字の帰還を待つことしかできない。その無力が、歌仙兼定の怒りをいっそう煽っていた。
 物見台から部隊の帰還を報せる太鼓が鳴り始めた。
 物見の者が、帰城してくる部隊を目敏く見つけたのだろう。
 歌仙兼定の目の前で、城門を開く準備が始まる。兵士たちが群がって、重い扉を左右に押し開いた。
「部隊長宗三左文字さま、以下五名、ご帰還!」
 物見が叫ぶ声がした。
 宗三左文字が無事だった。
 歌仙兼定は腕組みを解き、部隊が戻ってくるより速く、城門の外へと走り出した。

「宗三左文字どの!」
 城門の外へ走り出てすぐに、つづら折りになった門への坂道を、別の刀剣男士に支えられて足を引きずりながら歩いてくる宗三左文字が歌仙兼定の目に入った。
 宗三左文字を支えているのが誰かは、まったく歌仙兼定の意識には上らなかった。
 腹と太腿に血の滲んだ晒し布が巻かれて申し訳程度の血止めが為された、宗三左文字の半裸の姿。血と泥を布で拭っただけの剥き出しの左胸に、織田信長の刻印である蝶の刺青がくっきりと浮かび上がっている。
「歌仙兼定……」
 自分を認めた宗三左文字の顔が、疲労の中で微笑の形に柔らかく崩れた。
「あなたの仇を、取ってきましたよ」
 淡紅色の髪を泥と血でべっとりと肌に貼り付けて、宗三左文字は言った。
 いつもと変わらぬ、高雅で優しげな口調で。
 常とは違って、誇らしげに。
「宗三左文字どの………!」
 宗三左文字の姿を認めた強い安堵に、怒りも何もかも何処かへ吹き飛んで、歌仙兼定は宗三左文字に駆け寄った。傍にいた誰に憚ることもなく、傷ついた宗三左文字の体にのみ少しだけ気を遣うような優しさで、だが力強く、宗三左文字の細い体に両腕を回して歌仙兼定は宗三左文字を抱き締めた。
 公衆の面前で臆面も無く抱きつかれて、宗三左文字のほうが困惑を見せた。
「……服が、汚れますよ……」
 周囲を憚るような言い様で、宗三左文字が耳元で囁く。
「構わないよ」
 歌仙兼定はますます強く宗三左文字を抱き寄せた。
「……皆が、見ています」
 ついに恥じらいを声に乗せて、宗三左文字が言った。
「構うもんか」
 大きな手で宗三左文字の汚れた顎に触れ、その頬に己の頬を擦りつけるようにしながら歌仙兼定は言った。
「宗三左文字どの……よかった………!」
 頬と頬が触れ合うと、宗三左文字の肌に水滴がついた。
 歌仙兼定が泣いている、と気づいて、宗三左文字はそれ以上周りについて指摘するのをやめた。
「歌仙兼定………」
 抱き締められたまま相手を宥めるように、宗三左文字の手が歌仙兼定の頬に触れる。
「もしかしたら……もう戻っては来ないんじゃないかと不安だったんだ……きみが…僕の手の届かないところへ飛び去ってしまうのではないかと………」
 手入れ部屋で聞いた弱音のような泣き言を歌仙兼定が呟く。
「………僕は、あなたの傍を離れたりしない、と言いましたよ」
 歌仙兼定の手が確かめるように宗三左文字の肩を撫でる。自重を支えていられず宗三左文字の身がふらつくのを、歌仙兼定は片手でしっかりと抱き留めていた。
「……『彼』を斃してきたのかい?」
「………ええ……」
「………それも、きみにはさせたくなかったよ。僕が為すべきだった」
 歌仙兼定の真摯な声の中に苦しげな響きが混じる。そうは言っても、歌仙兼定にとって、あの敵の太刀と戦うのは酷なことだっただろう。
「僕としては、あなたにも、彼を殺させるわけにはいきませんでしたよ。歌仙兼定。……あなたも、あの戦場は辛かったでしょう。『彼』から受けた傷はもう完全に癒えたみたいですね………よかった」
「そんなこと。………きみを喪うほうがずっと辛いよ」
 歌仙兼定に抱き締められたままそう言われて、宗三左文字は目を細めた。
「僕もですよ。歌仙兼定」
 宗三左文字の唇の端が笑むように上がった。だが色違いの二つの目は、歌仙兼定と同じように涙で滲んでいる。
「……憶えていますか? 歌仙兼定……。以前、あなたは、僕に幸福でいて欲しいと言いましたね………僕も同じ気持ちなんですよ」
 宗三左文字からついた泥と、とめどなく落ちる涙で汚れた、歌仙兼定の頬を優しく掌で拭いながら、宗三左文字は囁いた。
「僕も、あなたには幸福でいて欲しいのです。……あなたは、僕に、傍にいてくれと言ったでしょう………?」
 宗三左文字が歌仙兼定の顔を覗き込む。
 歌仙兼定は涙に濡れた緑の目で宗三左文字の顔を見つめた。
 深い青と緑。潤んだ色違いのふたつの瞳に、歌仙兼定の顔が映っている。
「だから。僕は、あなたのもとに帰ってくるしかないんですよ……あなたの、腕の中に」
 宗三左文字は歌仙兼定に向けて柔らかく微笑んだ。
「僕はあなたの鳥ですからね」
「………宗三左文字どの………!」
 感極まって、歌仙兼定は再び両腕で宗三左文字を強く抱き締めた。
 宗三左文字は歌仙兼定の行動を止めず、ゆっくりと、汚れた剥き出しの両腕を歌仙兼定の背に回す。
 周囲の兵士たちや刀剣男士たちが見守る中で、そうしてふたりは長いこと抱き合っていた。
 歌仙兼定に遅れて城門から出てきた燭台切光忠が、坂の上から興味深げにその様子を見下ろし、次いで、抱き合うふたりの後方に立つへし切長谷部に隻眼を向けた。
 へし切長谷部は感情を押し殺した顔で、歌仙兼定に抱かれた宗三左文字を見ている。
 よく自制してるけど、あれは失恋を受け入れた男の顔だな。
 口には出さぬままに、燭台切光忠はそう判断した。




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