<其乃三> 歌仙兼定が行灯に火を入れると、その黄色い光が、本来淡紅色である宗三左文字の長い髪を燃え立つような橙色に浮かび上がらせた。 鮎と共に、申し訳程度ながら酒も口にした宗三左文字の、かすかな息づかいが歌仙兼定の耳に届く。茶の香気とともに、宗三左文字の香が歌仙兼定の鼻をくすぐってくる。 歌仙兼定の茶を点てる所作を、宗三左文字は黙然と、どこか思い詰めたような表情で見守っていた。 歌仙兼定が振舞った茶を宗三左文字がいただく所作は、点前座に座す歌仙兼定が感心するほど礼に適っていた。茶の心得はそれほど無い、と歌仙兼定に告げていたのは宗三左文字の謙遜だったようだ。 それとも何か。他の理由があったのかも知れない。 宗三左文字の高雅な手つきに見惚れながら歌仙兼定はそう思った。 もはや日は暮れ、窓の外では夜闇が広がっている。 歌仙兼定は、宗三左文字から目を離せなくなっている己を既に自覚していた。 「………そういえば」 茶室の空気を変えたくて、歌仙兼定は茶を喫み終えた宗三左文字に話を振った。 「先日出陣した折に、初めて検非違使というものに出くわしたよ。……なかなか興味深い敵のようだね」 「………検非違使、ですか」 その返事に平素の宗三左文字らしからぬ鋭い棘を感じて、歌仙兼定は眉を上げた。 「彼奴らは敵以下ですよ」 茶碗を畳の上に置いた宗三左文字の声は、いつも通り大きくはなかったが、その語尾は震えていた。 「ずいぶんと強い言葉を使うんだね」 椀を下げながら歌仙兼定が言う。 「彼らには霊魂がないのです」 憎悪が喉に絡んだような宗三左文字の声が、茶室に響いた。 「……詳しく知りたいね」 歌仙兼定の言葉に、宗三左文字は細い肩を引いて語り始めた。 「検非違使とは。時間遡行して歴史に害を為す、歴史修正主義者たる敵の刀剣男士たちを斃す為に、何者かが送り込んだ刺客です。……とはいえ、公儀――主は『政府』と呼んでいますが――からは検非違使について、主を含め僕たちに何の情報ももたらされてはいません。その正体は不明、とだけ公儀からは伝えられています。主は己の当て推量であると前置きした上で、検非違使を統括しているのは実は公儀そのものではないかと危惧していました」 「………歴史修正主義者を斃す為の政府の刺客だと言うのかい?」 「そうでなければ説明がつかない、と主は言うのです。時間を遡行できるのは敵味方を問わず、刀剣に憑依した付喪神と呼ばれる僕たち刀剣男士のみ。検非違使もまた時間を遡行する以上、刀剣男士かそれに類似した存在であることは明白でしょう。そして何より、検非違使は、必ず敵の刀剣男士を斃しつつ僕たちの目の前にも立ち塞がるのです。検非違使の本来の目的は、時を遡行した歴史修正主義者の殲滅にあります。そしてそれを目論むのは……修正前の歴史を維持することを望んでいる現代の公儀こそが相応しい、と主は言っていました」 「……その情報だけだと、検非違使は僕らに加担している者たちのように聞こえるね。味方ではないのかい?」 「とんでもない。味方なものですか」 宗三左文字は高雅な声を震わせ、吐き捨てるように言った。 「彼らに襲われたなら、あなたにも理解できるでしょう。彼らは、時間を遡行した霊魂ならば何者であろうと攻撃するように仕組まれているのです。検非違使は刀剣男士そのものではなく、刀剣男士を模して秘密裏に公儀が作り出した『何か』であろうと主は言っていました。彼らは歴史修正主義者である敵刀剣男士とは違って精神も魂も無く、よって我々とは会話さえ成立しない。歴史修正の意図があろうとなかろうと、遡行先にいる付喪神にならば誰にでも襲い掛かる。歴史を護るために働く我々のことは全く顧みない、それは、僕たち刀剣男士が、公儀が守るべき『人間』ではないからです。主の命のもとに時間を遡行する僕たちが検非違使に壊されても、その程度の強さの者であれば刀剣男士の破壊を是とする――そういった理屈のもとに、検非違使が過去に送り込まれているのだろうと、主は推測していました。 ……公儀の常とはいえ薄情なことですね。僕たちが『モノ』に過ぎないから使い捨てにして、壊しても構わない、とは。僕たち刀剣男士も、主のもと公儀の為に働き、肉体と精神に傷を負うことは人間と変わらないのに。――大事なものを喪う悲哀は、人間に勝るとも劣らないのに……」 宗三左文字の言葉の最後は喉の奥に掠れて消えた。宗三左文字の目尻は乾いているが、その目が潤んでいることは薄暗がりの中でもはっきりと見て取れた。 歌仙兼定が無言で見つめる前で、宗三左文字の手は無自覚のように、己の右掌を左手の指でなぞっている。 「……検非違使のことはよくわかったよ。言いづらいのに、妙な事を聞いてしまって悪かったね」 やがて歌仙兼定がぽつりとそう言うのへ、 「いいえ……新たな参陣者であるあなたが検非違使を知らないのは当然のことです。僕のほうこそ……取り乱してしまって申し訳ありませんでした」 先ほどの激情が嘘のように、宗三左文字が静かに答えた。 「………宗三左文字どののその傷は。察するところ、検非違使につけられた傷痕なのかい?」 「………傷……? ですか………?」 自覚がないと言うように宗三左文字が呟いたので、歌仙兼定はついと手を伸ばして宗三左文字の右手を捕まえた。 「っ、……」 宗三左文字が息を飲むのが薄闇の中に聞こえた。 「きみの掌の、この傷だよ」 「……か、かせん、はなして、」 宗三左文字の震える唇から弱々しく声が漏れる。その声は歌仙兼定の耳に届く頃には、殆ど言葉として意味を為してはいないほどに小さな声だった。 「僕の前ではいつも。きみはこの傷痕に触れている」 「……、そ、」 そんな自覚はなかった、と宗三左文字は目を見開く。 「……これは、検非違使につけられた傷では、ありません……」 かろうじてそう返事するのが精一杯だった。 「そうなのかい?」 とは答えながら、しかし歌仙兼定は手を離さない。 宗三左文字が望む距離感を保たずに勝手に詰めてくるそのやり口まで、二振目は一振目によく似ていた。 二振目の歌仙兼定の指が、宗三左文字の右掌をそっと辿る。 一振目の歌仙兼定だった欠片が遺した、赤い傷跡の上を。 手から伝わる歌仙兼定の熱と触感に、宗三左文字の身はぴくりと震えた。 「……痛みはないようだね」 「………、は、…」 動悸が大きくなり、胸に苦しいほど響いて、宗三左文字は息もろくに継げない。 一振目と全く同じ、歌仙兼定の器用な両手指の中に、宗三左文字の右手は捕らえられていた。 触れ合う皮膚から、歌仙兼定の若々しい生の気配が宗三左文字の中に流れ込んでくる。 「………きみは笑うだろうか。宗三左文字どの……」 頬を紅潮させ、傷跡を見つめる歌仙兼定の潤んだ緑の瞳。 一振目と同じ声、同じ唇が雅に言葉を紡ぐ。 二振目の歌仙兼定が、目を上げて宗三左文字の顔を見た。 「きみと共にいると。みかの原の川縁に立つ心持ちがするね。川の名を知っているかい?」 「………………………、」 歌仙兼定の目に宗三左文字の白い面が映る。 淡紅色の前髪に半ばほど隠された左右色違いの瞳が、井戸の中の星のような光を湛え、歌仙兼定を見つめていた。 「……………いづみがわ……」 そう、宗三左文字の唇がかすかに言葉を放って。 歌仙兼定の左手に掴まれ、右手で掌を撫でられていた宗三左文字の右手が、意図もせぬうちに歌仙兼定の右手の指を掴んだ。 縋るように。 みかの原わきて流るるいづみがはいつみきとてかこひしかるらむ いつ逢ったと言って、あなたをこうも恋しく思うのだろう。あなたと逢瀬を交わしたことはないはずなのに。 和歌の初歩とも言える小倉百人一首のうち、藤原中納言兼輔の詠んだ一首だった。 宗三左文字の返答を受けて、歌仙兼定の笑みが深くなった。 「……きみは歌の知識もあるんだね。茶の湯の教養だけでなく」 いつ見きとてか――いつ逢ったと言って。 宗三左文字は歌仙兼定に答える言葉すら持たず、ただ唇を引き結んで歌仙兼定を凝視していた。 宗三左文字の中から、既に理性は殆ど喪われていた。 歌仙兼定への感情だけが宗三左文字の全てだった。 「かせんかねさだ………、」 長い沈黙の後にようようその名を口にしたときには。 目の前にいるのが一振目ではないことさえ、宗三左文字は意識できなくなっていた。 「宗三左文字どの」 誘うように歌仙兼定に手を引かれて。 宗三左文字は進んで歌仙兼定の胸に倒れ込み、その腕の中に抱きすくめられて、自らも手を伸ばして歌仙兼定の体にしがみついた。 「は……、歌仙兼定………!」 長らく恋い焦がれていた者でなければ呼べぬような声色でその名を呼んで、宗三左文字の体は歌仙兼定の腕の中でくたくたと力を失った。 宗三左文字の鼻腔を歌仙兼定の香混じりの体臭が満たし、宗三左文字は激情が咳き上げるままに息を喘がせる。歌仙兼定の手が僧服の上から宗三左文字の背を撫で、枝垂れ尾のような長い髪を梳いて、親指が耳に触れた。 「っ………、」 促されるように宗三左文字が顔を歌仙兼定に向けて仰向けると、唇に接吻が降りてきた。 「ッ…、は………ぁ、」 見知った歌仙兼定にしては遠慮がちな、反応を測るかのような口づけ。それになにがしかの意味があったような気がするが、もはや宗三左文字には歌仙兼定の心を斟酌することはできなかった。宗三左文字は縋るように歌仙兼定の首に腕を回して更に身を寄せ、自ら唇を歌仙兼定の口に寄せて、己の歯列を開いた。 「ふぁ…ンは……、」 今度は歌仙兼定は遠慮を見せず、力強い舌が宗三左文字の口の中に割り入ってきた。 「ンむ……っ…、ン……、ぁ、」 歌仙兼定の侵入を受けて宗三左文字が感じたのは歓喜で、思わず目尻に涙が滲んだ。 自分の傍に居るのは本物の歌仙兼定だった。 近い夜々、浅い眠りのうちに。歌仙兼定と共に在る夢を見て幸福感に満たされ、明け方には床に独りきりで、目覚めねば良かったのにと枕を涙で濡らしたことが幾度もあった。幻でもいいから歌仙兼定が自分を連れに来てはくれまいかと、白昼に夢想したことも幾度もあった。 今自分に触れてくる歌仙兼定は実物で、夢でも幻でもなかった。腕で宗三左文字の身を抱き寄せ、手でその頭髪を撫で、唇で宗三左文字に口づけ、舌を優しく絡ませてくる。 「ン……ぁふ…、ンはっ…」 歌仙兼定を確かめたくて、宗三左文字は細い腕で恋人の体に強くしがみつく。下唇を歌仙兼定の両唇で食まれ、唇の裏を舌で探られて、宗三左文字は声を漏らした。 歌仙兼定のにおい、歌仙兼定の体熱、歌仙兼定の手と唇。歯列の奥に差し込まれた相手の舌に宗三左文字の舌は応え、自分のものよりやや厚い歌仙兼定の唇に宗三左文字は口で吸いついた。 「ぁ………はぁ、」 腕の中で頽れる宗三左文字の体を歌仙兼定が畳の上に横たえる。脇にあった茶道具がいずれかの服の裾にぶつかって空の茶碗がひっくり返ったが、二人のうちどちらも見向きもしなかった。 「ン…ぁ、あふっ…」 僧衣の上から宗三左文字の体を愛撫していた歌仙兼定の手が、着崩れた裙の裾を割って宗三左文字の膝に直に触れてくる。その手つきに性的な意図を悟って、宗三左文字の冷えていた体が急速に熱を溜め始めた。 「か、かせんかねさだ……、」 接吻を止めて歌仙兼定が顔を離すと、頬を紅潮させた宗三左文字は仰向けに横たわったまま潤んだ瞳で歌仙兼定を見上げてきた。僧衣の襟は裙同様に既に着崩れて大きく開き、数珠を巻いた鎖骨から平板な胸までが歌仙兼定の目に晒されている。左胸にちらりと片鱗だけ覗いているのが、恐らくは刀剣時代に宗三左文字の身に刻まれた信長の刻印であろう。歌仙兼定は襟を大きく剥いで、その刻印を己の目で確かめたいという強い欲求と戦っていた。今この場で性戯を仕掛けるのはあまりに性急ではないかと危惧し、歌仙兼定が宗三左文字から身を引きかけると、焦れたように宗三左文字の手が伸びて、歌仙兼定の指をとらえて己の襟の裡へと導いた。 「歌仙兼定……お願いです、」 目尻に涙を湛えて宗三左文字が懇願してくる。 「手を離さないでください……、暗い夜の中に、独りにしないで、」 宗三左文字の清楚な姿しか知らなかった歌仙兼定は、熱に浮かされた緑の目にそれでも躊躇いの色を浮かべる。 「しかし……ここから先は、あまりに急きすぎてはいないかい、」 己の中心に熱が籠もっているのを自覚して、息を喘がせながら歌仙兼定が言い下ろす。 「どうして………、そんなことを仰るのですか……?」 宗三左文字の整った顔が悲しげに泣き崩れた。 「あなたをずっと、想っていたのに…、寂しくてずっと……、辛かったのに、」 歌仙兼定の服に縋って泣く宗三左文字に哀れを覚えて、歌仙兼定は両手を伸ばして宗三左文字の細い顔の輪郭を包み、優しく撫でながら、正直に告白した。 「きみを抱きたくて堪らないんだ。今宵このまま、きみを僕のものにしたい」 そう言われて、涙のうちに、歌仙兼定を見上げた宗三左文字が柔らかく微笑んだ。 「あなたのよろしいように、僕を、どうにでも…………僕は最初からあなたのものですのに」 天下を総べた徳川・豊臣・織田の蔵刀、織田信長に銘を刻まれた天下人の刀にそう言われて、歌仙兼定の支配欲は奔流となって下腹部へと流れ込んだ。 「もう僕を、離さないでください」 宗三左文字の懇願の声は、歌仙兼定に強く抱きすくめられた所為で、崩れかけた互いの衣服の裡に籠り、互いの耳にかすかに届く程度にしか響かなかった。 歌仙兼定はもはや風流すら見失って、鳥のように軽い宗三左文字の身を両腕で抱き上げた。 宗三左文字が入室してきた、庭に面した貴人口からではなく、己の屋敷の奥へと続く給仕口から、宗三左文字の体を抱えて歌仙兼定は茶室を出た。 |
| next |