<其乃六> 来たときと同じように、宗三左文字の居室を抜け、草履を脱ぎ捨てた縁に向かって歌仙兼定は歩いていく。そのとき、縁から用人口へ続く渡り廊下を、小夜左文字が居室に向かって歩いてくるのが視界に入った。 「……歌仙さん、」 歌仙兼定の姿を認めた小夜左文字は息を飲んで動きを止めた。手紙を突き返して断ったのに、歌仙兼定本人がこの場に来ているのだから、それは驚くだろう。小夜左文字の小さな両手に抱えた盆の上に、台所から運んできたらしい陶器の小鍋が乗っている。中身は、宗三左文字の為の粥かそれに準じたものであろう。 この子はこの子なりに、兄の宗三左文字を心配しているのだ。 「……宗三左文字どのは寝所で寝んでいるよ。入るなら、声をかけてからにしたほうがいい」 宗三左文字に為した横暴が今更のように恥ずかしくなって、歌仙兼定は小夜左文字にそう告げた。小夜左文字の前で、宗三左文字に恥をかかせたくもなかった。 「……兄の具合が悪いのですか」 「縁で倒れたんだよ。寝不足と、……栄養不足だね。葛湯を飲ませたが」 「………ありがとう、ございます」 兄の面倒を見ていたと聞いて、小夜左文字は表情の乏しい顔のまま、歌仙兼定にそう礼を言ってきた。 小夜左文字は用心深そうに歌仙兼定を見上げている。宗三左文字が歌仙兼定から距離を置こうとしていることを知悉しているのだから、その反応は当然とも言えた。 この子は、自分の前に宗三左文字と付き合っていた刀剣男士のことをどれほど知っているだろうか。あるいは今の自分と宗三左文字との関係を。歌仙兼定は探るように小夜左文字を見下ろした。 「……歌仙、さんは」 小夜左文字が歌仙兼定を見上げて口を開いた。 「兄と、どういう仲でいることを望んでいるのですか」 「………………」 抑制された声で放たれた問い。 この子どもは思ったよりも目端が利く。歌仙兼定は眉根を寄せた。 歌仙兼定と宗三左文字の間に確実に何かが起こったことと、それを理由に宗三左文字が歌仙兼定を厭っていること、歌仙兼定のほうでは宗三左文字と距離を置くのを望んでいないこと。詳細はわからずとも、小夜左文字はある程度のことは把握していて、場合によっては歌仙兼定から弱った兄を護る構えを見せている。 「僕の心は決まっているよ。どうなるかは、宗三左文字どの次第だと思うが」 歌仙兼定はそう答えることしかできなかった。 小夜左文字は黙然と歌仙兼定を見上げている。 「……その鍋の中身は、兄君へのものかい」 「………そうです。台所で当番の者に粥を作ってもらいました。皆の食事の後だから時間はかかってしまうけど、僕は料理はできないので」 「宗三左文字どのが弱っているのは心配だね。きみも辛いだろう」 「…………はい」 そう答える小夜左文字の暗い青の目に、痛ましげな光がちらりと浮かんで、すぐに消えた。 今のはなんだろう、と歌仙兼定が訝るうちに、小夜左文字が顔を上げ、決意を込めたような声を発した。 「僕は。歌仙さんと兄さんの仲が悪いのも、二人が仲良くしているのも、どっちも辛いです。―――兄さんもたぶん、同じ気持ちなんだと思う」 「―――――」 歌仙兼定の逡巡はすぐに、攻撃的な探求欲に変わった。 言うだけ言って、小夜左文字は歌仙兼定から離れ、縁を抜けて居室に向かおうとする。歌仙兼定は、小夜左文字の腕を掴み上げてでも彼が知っていることを聞き出すべきか、そうすれば宗三左文字の過去の男の経緯が知れるのではないか、とまで咄嗟に思考が及んだが、結局は諦めて小夜左文字が去るのを見送った。 庭に下りて踏み石に脱ぎっぱなしだった自分の草履に足を入れる。一振目の歌仙兼定が宗三左文字の為に整えた庭を一瞥して、二振目は、宗三左文字の屋敷から歩き去った。 夕刻よりやや早く、燭台切光忠が台所に姿を現すと、そこには先客がいた。 「あれ、歌仙くん」 風に揺れる二藍の髪を頭上に纏め、襷がけまでして、二振目の歌仙兼定が小さな冊子に筆で何事かを書き付けながら厨房をうろうろしている。 燭台切光忠の声に歌仙兼定は振り向いた。 「きみが管轄する調理場に勝手に入り込んで申し訳ない。包丁を借りたよ」 「それは構わないが……」 燭台切光忠はやや困惑気味だ。 多人数の食事を賄う、という裏方仕事を厭った一振目の歌仙兼定に比して、二振目は、わりと気軽に台所にやってきては、献立を作り調理を采配する燭台切光忠の手伝いなどを快くしていた。茶人・忠興仕込みの料理の腕は一振目の歌仙兼定と同じほどに確かだが、古株の燭台切光忠に遠慮してか、二振目は自らが主体となって調理を為すことは無かった。 燭台切光忠の困惑を察したか、歌仙兼定は筆を走らせる手を止めて緑の目を燭台切光忠に振り向けた。 「本来はきみが夕食の準備を始める前に用事を終わらせるつもりだったんだが、少し長引いてしまったんだ。消化が良くて滋養のある食事の作り方と食材の選び方を、お小夜に教えておこうと思って」 「……………もしかして宗三くんの為かい」 燭台切光忠の声に歌仙兼定は眉を上げた。 「きみが宗三くんと仲良くしてるとは知らなかったな、歌仙くん」 『仲良く』とはいったいどんな仲を差すのか。歌仙兼定は燭台切光忠の言葉の意味を測り兼ねた。 常に笑みを絶やさない燭台切光忠は、しかし実のところ、笑顔の下の深い思考を人前に晒すことは殆ど無い。そのことを、調理場に幾度も来ている二振目の歌仙兼定は既に知っていた。 「……この間、宗三左文字どのを茶の湯に招いたんだよ。彼は痩せすぎだ。少しでも彼に栄養のあるものを食べてもらわないと。宗三左文字どののもとに、僕が自ら食事を作って持って行ってもいいんだが、……お小夜に僕の献立を覚えてもらったほうがいいだろうね。僕ではどうしても、宗三左文字どのを動揺させてしまうようだから」 歌仙兼定の言葉に、燭台切光忠は無言で隻眼を僅かに眇める。歌仙兼定は燭台切光忠の表情には拘泥せず、彼が台所に普段から置いている包丁を握って眺めていた。 「いい包丁を使っているね」 「そうかい」 「刃の減り具合が僕の手癖に馴染んで、随分と使いやすかったよ。……この包丁、途中で使用者が変わったのかな。最近の研ぎが刃にとって少し歪な気がしたから、研ぎ直しておいたが」 「さすが忠興公譲りの目利きだねえ。そう、その包丁は、少し前に僕が他の刀剣男士の物を貰ったんだよ。研ぎも今は僕が我流でやってる」 燭台切光忠が微笑した。歌仙兼定のほうは、しまった、という顔をする。 「……それは余計なことをしてしまったね。きみの手に合わせて研ぐほうが使いやすかっただろうに。申し訳ない」 「いやいや、気にしなくていいよ。そのうち馴染むだろうしね」 歌仙兼定はほかのことも気になったようだ。 「……きみにこの包丁を渡した刀剣男士は、今は別の刃物を使っているという訳かい」 「………いいや。彼はもうこの城にいないんだよ」 どこかで同じ話を聞いた、と歌仙兼定は緑の目を細める。 「その男。本丸の庭を造ったのと同じ刀剣男士かい」 「そうなるかな」 「宗三左文字どのの恋人だった?」 「……それは僕は知らないな。宗三くんから何か聞いたという訳でもないんだろう?」 「宗三左文字どのは検非違使を憎んでいると聞いた」 「検非違使を好きな奴などいないだろう。あんなに扱いにくい敵もそうはいないからね」 「それもそうだね」 燭台切光忠は歌仙兼定に情報をもたらすつもりは無いようだった。見切りを付けた歌仙兼定はあっさりと引き下がり、話を元に戻した。 「夕食の片づけを終えた後で、ここにお小夜を連れてきてもいいだろうか。宗三左文字どのの為に、お小夜に料理を教えたいんだ」 「構わないよ。台所では僕がおもに采配を振るっているが、ここが僕だけの為の場所という訳でもないからね」 「ありがたい」 二振目の歌仙兼定は嬉しそうに微笑んだ。 その表情は燭台切光忠ですらはっとするほど一振目に似ていた。 宗三くんにとっては、二振目の存在は、逢うも逢わぬも辛いことだろう、と燭台切光忠は独り思った。 二振目は一振目と同じように、宗三左文字に気持ちを傾けているようだが、事情を知らぬ二振目が他の刀剣男士に心惹かれることがあったら、それはそれで宗三左文字の心に苦悩を生むことになるだろう。 結局は宗三くんは、二振目の歌仙くんを受け入れるしかないんじゃないか。 燭台切光忠は人には言わず、そう感じていた。 「……これは、どなたの献立ですか」 翌日の午後、宗三左文字の居室で。 朝食にやはり手をつけなかった兄を案じて、小夜左文字が台所から運んできた小豆粥を一口食べた途端に、宗三左文字は顔色を変えた。 昨日の鍋と同様、目の前の小豆粥も、強いられて尚宗三左文字は食べたがらなかった。小夜左文字の、「僕が兄さんの為に作ったから」という一言に押されて、ようやっと匙の一掬いを口に入れたところだった。 宗三左文字はその一口をどうにか喉奥に飲み込み、すぐに匙を膳の上に置く。 「宗兄さん、」 小夜左文字が不安げに声をかけたが、宗三左文字は首を横に振った。 「あなたは食事の作り方は知らなかった筈ですね」 「台所にいた膳当番の刀剣男士に教わったんだよ。作ったのは僕だから、誰の献立であっても気にする必要は無いと、」 「僕が訝しんだらそう答えるように言われたのですか。相手は歌仙兼定でしょう」 「…………、」 言い当てられて即座には反応できず、小夜左文字は押し黙る。 上品な出汁の利いた京風の薄味。宗三左文字の舌に幾度も馴染んだ味付けだった。そんな味覚を持つ刀剣男士を、宗三左文字は一人しか知らない。 「小夜。……僕は、二振目の彼に面倒をかけるわけにはいかないのです」 膳を片手で己の体から遠くに押しやって、宗三左文字は静かにそう言った。 「僕には、彼の世話を受ける資格はありません」 「……でも、そんなの変だよ、」 二人の仲を取り持つつもりは無くとも、兄の身を案じるが故に歌仙兼定の献立に従って食事を作った小夜左文字は、宗三左文字に食事ごと拒否されて今にも泣きだしそうな顔をした。 「歌仙さんも僕も、兄さんがただ心配なだけなんだよ。資格とか恩とか、それ以前の問題なのに。なにか食べないと、兄さんの体が参っちゃう。歌仙さんは、自分の名は出さないようにと僕に言いつけたくらいなのに……」 宗三左文字は袖に入れた右掌の傷痕に左手で触れながら、傍らの小夜左文字を見下ろした。 「……そうですね。あなたたちは何も悪くないし、親切には感謝しているのです。小夜、あなたにも……二振目の歌仙兼定にも。……問題は……僕のほうにあるのでしょう」 宗三左文字は目を半眼に閉じて昨日のことを思い出していた。 歌仙兼定が帰ってすぐ、小夜左文字が寝室に姿を現した。入口から屏風越しに声を掛けられて、慌てて小袖の裾を整え、掛け布を被って、今しも横になって寝ていたふうを装った。弟の小夜には、二振目との肉体関係や確執を見顕されたくなかった。 それでも泣き腫らした顔は隠し遂せず、小夜左文字は目を見開いて暫くは黙然と宗三左文字を見下ろした。やがて鍋の乗った盆を脇に置き、小夜左文字は、宗三左文字の寝具の周りに散らばっている見覚えの無い小瓶や湯呑を拾い集め出した。 「歌仙さんと今そこですれ違ったよ」 弟から抑揚のない声でそう言われて宗三左文字の身はぎくりと強張った。 「か……歌仙兼定はなんと言っていましたか……?」 二振目の歌仙兼定が小夜左文字に何かよからぬことを喋ってはいないだろうか、と宗三左文字は危惧する。 「……兄さんは。ご飯は食べられなくても、歌仙さんの薬は飲めるんだね」 「……ど……、どういう意味ですか……?」 歌仙兼定の介抱を受けた自覚の無い宗三左文字には、小夜左文字の言葉が理解できない。 小夜左文字は、空になった湯呑を拾い上げて宗三左文字に示す。 「これ。歌仙さんが兄さんに葛湯を飲ませたって言ってた」 「……か、歌仙兼定が、ですか……?」 宗三左文字の困惑に、小夜左文字は兄が嘘を言っているのではないと気がついたようだった。 「憶えてないの?」 「……歌仙兼定が庭に入り込んできて、少し話をしているうちに、彼の前で気絶してしまったのです……その、後のことは……、」 宗三左文字は語尾を濁し、俯いて頬を赤らめる。歌仙兼定が去る直前に何が起こったかを小夜左文字に言うことはできなかった。歌仙兼定が自分に薬を飲ませたことは憶えていないが、言われてみればそのような夢を見ていた気がする。歌仙兼定の指に絡む水気に誘われて、彼の指先に自ら舌を絡めた夢を見ていた。あれがもし現実のことだったならば、意識を取り戻した途端に宗三左文字が見せた拒否心について、歌仙兼定が逆上したのにも理由があった、と得心がゆく。 「……………」 自分が二振目の歌仙兼定に酷なことをしていると、この日初めて宗三左文字は自覚した。 黙り込んだ宗三左文字をじっと見つめていた小夜左文字が、やがて息を吐いて身動きした。 「兄さんの部屋ではこの小瓶に見覚えが無いから、これは歌仙さんの持ち込んだものなんだよね。……歌仙さんの処に返してくる」 幾つかの薬瓶を示してそう言うのへ、宗三左文字は頷いた。 「……お願いします、小夜」 小夜左文字が立ち去るのを見送って、宗三左文字は溜息を吐き出した。 理性がひとたび薄れれば、一振目と二振目の区別がつけられなくなるのを、宗三左文字は自分で押し止めることができない。だが二振目は一振目と自分との経緯を知らないし、彼が他人に間違われて怒り狂うのは歌仙兼定の性格から言って当然とも言えた。二振目が僕を見放してくれれば、僕はこれ以上、彼と一振目を間違えずに済む。都合の良い考えであることは承知の上で、宗三左文字はそう願った。 それが昨日のことだ。 しかし今日、歌仙兼定は、己は一歩引いて、小夜左文字を通して、自分に昨日と同じ行動を取ってきた。彼は僕から離れるつもりは無いのだ、と宗三左文字は理解せざるを得なかった。 「……とにかくこれはいただけません。小夜、せっかく作ってくれたあなたには申し訳ないことですが」 小豆粥を指先で更に遠くに押しやって、宗三左文字は再び言った。 小夜左文字は眉を歪めて兄を見上げ、やがてぽつりと言った。 「……宗兄さんは、二振目の歌仙さんが嫌いなの」 想外のことを言われて、宗三左文字は色違いの目を瞠る。 「………き…、きらい……、ですか…………? 彼を………?」 体を結ぶ前、一振目と同じ仕草と思考で他人行儀だった二振目を苦手だと思っていたのは確かだ。 一振目との区別がつけられず、彼と体を重ねた時、彼は一振目と同等かそれ以上に宗三左文字に優しかった。 昨日、宗三左文字を酷く詰り、今にも犯そうとした二振目は、しかし結局は宗三左文字から手を引いた。宗三左文字が放つ拒否の言葉を受け入れて、宗三左文字の意志と尊厳を己の欲望より優先してくれたからのようだった。 そして今。歌仙兼定の名を出さぬよう、自らは宗三左文字に近づかぬようにして、二振目は小夜左文字に小豆粥を作らせてきた。小夜左文字の言う通り、他意ではなく、本当に宗三左文字の身を案じてのことなのだろう。 今はそれが、宗三左文字にとっては辛かった。 二振目の好意に自分が応えることはできない。 体を重ねた夜、二振目と一振目の区別がつかなかったのは、自分が喪った恋人である一振目しか知らず、二振目を一振目と勘違いしたからだった。 今、宗三左文字は、二振目が告白したとおり、彼の真心が如何なるものかを知っている。 そしてそれは、宗三左文字がよく知っている一振目にあまりにも似ていた。 二振目を知った今、自分を追ってくる彼を撥ね付けるのは難しい。心持も行動も愛し方も、二振目は一振目とそっくり同じだった。立場が違えばこそ区別できていた差異が、今、宗三左文字の中では殆ど判別がつかなくなりつつある。 自分が心を寄せるべきは一振目ただ一人で、二振目を同じように愛するべきではない。 右掌の傷痕を左手で撫でながら、宗三左文字はそう思い込む。 一振目は自分にとって特別な存在だ。二振目が現れようと三振目が現れようと、それが変わる日は来ないだろう。 「今の歌仙さんは。一振目とは違うけど、でもやっぱり歌仙兼定なんだよ。あのひとはあのひとなりに兄さんが大事で、兄さんを心配してる」 「…………」 二振目を嫌うことができれば、ずっと気は楽になるだろう。 二振目を嫌い切れない、そのことが、宗三左文字を苦しめていた。 二振目の歌仙兼定をどうにかして己から遠ざけなくてはならない。 「……………僕は。彼を好きになってはいけないのです」 ぽつりとそう呟いて、宗三左文字は黙った。 「………………」 小夜左文字もそれ以上口は開かず、右掌に触れ続ける兄を黙って見つめていた。 ふたりの左文字の隣で、顧みられぬ小豆粥が、ゆっくりと冷えていった。 |
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