<其乃五>


「………………!」
 全身を汗でびっしょりと濡らして、歌仙兼定は寝床から飛び起きた。
 目を覚まして即座に確認したことは、自分が眠っていたこの場所が宗三左文字の寝所ではなく自分の寝室であること、自分の隣に肉体と精神の両方を手ひどく蹂躙した宗三左文字の姿が存在しないことだった。夢の中で、自分への屈従を肯んじない宗三左文字の細い腕を後ろ手に縛り上げ、その柔肌に血が滲む歯形を幾つもつけ、美しい顔を精で汚し、広がりきった後孔から血と白濁の混じった液体が滴るのも構わず更に屹立を突き立てて、夜明け近くまで宗三左文字を苛み犯していた。あまりの生々しさに、今もそれが夢だとは到底思えぬほどだ。
 歌仙兼定は記憶を慎重に思い返し、宗三左文字の寝室へ向かった記憶が実際に無いこと、戻ってきた記憶もないことを幾度も確認した。
 どうやら本当に、宗三左文字を強姦したのは夢の中での出来事だったようだ。
「………………………」
 歌仙兼定はようやく自分を納得させて、安堵と自己嫌悪の深い息を吐いた。
「……なんて夢を、見るんだろうね………」
 時刻はまだ丑三つ時のようだ。目覚める前の脳内の時刻と計算が合わないから、本当に、宗三左文字の操を奪ったのはただの夢だったに違いない。
 体中が汗で不快にじっとりと湿っている。特に下半身にべったりと肌着が貼りついているのは、眠っているうちに夢精してしまったからだろう。あんな夢を見て精を吐いてしまったことに気恥ずかしさを感じぬでもないが、実際に宗三左文字に無体をはたらくよりはよほどましだった。
 寝床の上に膝を立てて座ったまま、歌仙兼定は頭を抱えて、己を落ち着かせる為の深呼吸を幾度か繰り返した。
 自分に嗜虐の趣向があることは知っている。
 だが今まで、それは主に戦場に於いてのみ発揮されていた。歌仙兼定は戦場に立つことに疑義を持ったことはなく、敵を倒す際にも同情や憐憫を感じたことはない。刀を振り回し、敵の首を斬ることによって彼の嗜虐性は満たされ、それ故に、味方や親しみを感じる間柄に向けて冷酷さを発する機会も必要も今まで存在しなかった。嗜虐趣味を特別に隠す気遣いすら必要なく、和歌や茶道を嗜んでいる間は本当に、それで満足できていたのだ。
 宗三左文字が目の前に現れるまでは。
 あの夏の夕まぐれ、彼の心と体に触れ、つい昨日、彼のひとりごとを耳にしてしまうまでは。
「………………」
 歌仙兼定にとって、宗三左文字は、目の前に舞い降りてきているのに、捕らえて自分のものにすることのできない珍鳥だった。強いて捕らえようとすれば、あの鳥は、自分の手元から逃げ出すだけでは済まずに、弱って心破れて死んでしまうだろう。
『自由になり損ねた』
 昨日の夕刻、怪我をした宗三左文字はそう呟いた。
 霊魂が宗三左文字の体から飛び去るのは、宗三左文字にとってはむしろ望むところなのだ。
 宗三左文字が歌仙兼定に接吻を許すのは、彼が自分を好きだからではなく、宗三左文字にとって、己の体がどう傷つこうとどうでもいいからだ。死に憧れを抱く者が、振り向いて歌仙兼定を見る日は絶対に来るまい。
 それを理解した消沈と焦燥、欲求不満が、歌仙兼定にあんな夢を見せたに違いなかった。
 そう、たとえ宗三左文字が自分に体を許しても。
 それは彼が自分に接吻を許すのと同じ理由からでしかない。
 そうと知るのは歌仙兼定には辛いことだった。
 どうやっても、宗三左文字の心を獲得することができないと知ることは。
「心が無理なら体だけでも、ということか……」
 夢によって、自分の中にある宗三左文字への劣情を赤裸々に形にされてしまい、歌仙兼定は自嘲するしかなかった。
 実際の宗三左文字に向けて、そんな残酷なことが為せるはずもない。
 それについては、歌仙兼定本人がいちばんよく知っていた。



 眠れぬまま幾ばくかを寝床に横たわって過ごし、夜明けより早く、歌仙兼定は起床した。
 この城は砂州の多い海近くの川縁の、小高い山の上に立っている。
 砂州で馬を走らせて朝の風に吹かれでもすれば、悪夢を見たことによって塞いだ気分もいくらかは風通しが良くなるに違いない。
 宵っ張りの主がまだ起きているかも知れないので、歌仙兼定は外出前に本丸に顔を出した。
 本丸には主はおらず、意外なことに宗三左文字がいた。
「……随分早いんですね。歌仙兼定」
 夢の中と同じ声で挨拶をされて、歌仙兼定の身体が少し強ばる。
 だがすぐに、あの夢は只の夢で、目の前にいる宗三左文字の実存感のほうがずっと強いこと、本物の宗三左文字は夢に見た彼より気品があり、清楚で、そして優しげであることを知った。ひ弱そうに見える宗三左文字の細い体の中に、余人には見えにくい一本の芯が通っていることにも、歌仙兼定はこのとき初めて気がついた。それも夢の中の宗三左文字とは違う部分だ。
 夢の中の彼と目の前の彼は結局、全然違っている。
 そのことに歌仙兼定は安堵した。
「…ああ、おはよう。少し夢見が悪くてね。早駆けでもすれば気が紛れると思ったんだが、その前に主に朝の挨拶をしたくて寄ったんだ」
「主は先ほど休みましたよ。今まで話し相手をしていました。もう下がるつもりでしたが、ここからの朝日は素晴らしいと主が言っていたので、それを見てからにしようかと」
「朝日か……それも風流だね。……きみは夜通し主の相手をしていたのかい?」
「……いえ。寝所で休んでいたのですが、奇妙に目が冴えてしまって。……僕も早起きの類なんです」
 宗三左文字が心なしか頬を赤らめ、歌仙兼定から視線を逸らした。
 目の前の彼の心が、死に向かって傾けられていると、どうして外から見えようか。
 いつもはにこやかな表情で話題を切らさない歌仙兼定が、今日は珍しく顔を曇らせて黙っているので、宗三左文字は視線を歌仙兼定に戻し、やや不思議そうに彼を見つめてきた。
 深い緑の目と暗い青の目が、射抜くと言うよりは包み込むように歌仙兼定を見る。
「歌仙兼定……?」
「………いや」
 どうしたのかと訝るような問いかけに、正直に答えることは歌仙兼定にはできなかった。
 ただ、これだけは宗三左文字に伝えたくて、歌仙兼定は口を開いた。
「……昨日……いや、もう一昨日だが。……きみが城に帰ってきてくれてよかったよ」
 言われて、宗三左文字は一、二度、髪と同じ淡紅色に烟る睫毛を瞬いた。
「……この城にしか、僕の帰る場所はありませんが……」
「……どこか遠くへ飛んで行ってしまいそうな気配だっただろう」
 遠回しに歌仙兼定が指摘する。
 それが何のことか、宗三左文字には通じたようだった。
「……………聞こえていたんですね」
 宗三左文字は緊張したように答えて、頬を紅潮させた。
「口をついて出た、ひとりごとですよ。特に意味はありません」
「だったらいいが」
 納得していない口調で歌仙兼定は告げる。
「僕を置いて、ひとりで飛び去るようなことはしないでくれ。くれぐれも」
 宗三左文字の色違いの両目が、本当に不思議そうに、歌仙兼定を見る。
「………僕の人生と、あなたとに、それほど深い関わりがあるでしょうか……?」
「心配なんだよ。きみが」
 歌仙兼定はまっすぐ宗三左文字を見つめ返した。
「怪我をしやすいこともそうだが。……きみがそうやって、きみ自身について心配しないことも含めてね」
 そう言われた宗三左文字の顔が、淡紅色の髪よりも赤くなった。
「僕は……………、」
 何かを言いかけて、考え直したように。
「……いえ、そうですね。あなたの言うとおりです。………なるべく、怪我をしないように気をつけます」
 歌仙兼定の言葉を、宗三左文字は素直に受け入れた。
 歌仙兼定にとっては意外なことだった。
「そうしてくれると、助かるな」
 歌仙兼定の頬がようやくほころぶ。少しだけ。
 歌仙兼定の表情の変化を受けたか、宗三左文字が、歌仙兼定に向けて微笑んだ。大和絵に描かれる古風で優しげな貴婦人にも似た、桃源の夢のような微笑だった。
 歌仙兼定の中で、悪夢の記憶が溶けるように薄れていく。
「……もう出かけますか?」
 微笑んだままの宗三左文字に聞かれて、歌仙兼定は首を横に振った。
「いや。せっかくだから、きみと一緒に日の出を見てから城を出るよ」
「……いいんですか? 遅くなっても。厩で馬の用意をさせた後なのでしょう?」
「無粋を絵に描いたような主をも感動させるような風流だよ? それを見過ごすような真似はしたくないね。それにもう暁だよ。すぐに日は昇る。……どちらにせよ、馬を駆けさせるのは、日が出た後で構わないさ」
 日中を主が過ごす部屋の戸を開け放つと、東の空はすでに雲が明るくなり始めていた。
「……美しいですね」
 縁側に立ち尽くして、朝焼けを眺め、宗三左文字が呟く。
 長い時を蔵の中で過ごした宗三左文字は、空に対して、強い憧れがあるようだった。
「雲が随分高い。今日も良い天気になりそうだね」
 次第に明けていく空をそう評しながら、歌仙兼定は、朝の冴えた空気の中に身を晒す宗三左文字を見つめた。
 豪奢に舞い散る淡紅色の髪。紅梅色の衣装と袈裟。肌理の細かい白い肌と、色違いの両の瞳。
 朝日の中で、今は、宗三左文字の全身が燃えるような色に染まっている。
 歌仙兼定にとって、美しいのは空ではなく宗三左文字だった。
「……歌仙兼定」
 朝日に照らされながら、宗三左文字の視線が、ふとこちらを向いた。
 宗三左文字の顔に湛えられた柔らかな微笑は、歌仙兼定が初めて見る表情だった。
 これほどまでの親近感を持って宗三左文字に微笑まれた記憶は、歌仙兼定には無い。
「宗三左文字どの」
 あんな夢を見た直後なのに。宗三左文字に微笑まれた歌仙兼定は、意中の人から笑いかけられた年端もいかぬ子供のように心が躍り、全身に緊張が走るのを自覚する。
「……一昨日はありがとうございました。……僕は自分では、あまり、己の体調を顧みるのに慣れていなくて……」
 その先に何かを言いたげだったが、結局、宗三左文字はそのまま口を閉ざしてしまった。なんと表現すればいいのか、自分の心情を整理仕切れなかった様子だった。
 ただ、宗三左文字の口の端に、先ほどの微笑の名残はまだ湛えられていた。
 それが、悪夢の残滓を歌仙兼定のもとから完全に洗い去って心のひび割れを塞ぎ、それに代わるとても温かなもので身体の芯を潤した。
 ふたりで立って東の空に目を向け、火の色をした太陽が塀の向こうに現れるのを見つめる。
 新たな一日の始まりを宗三左文字と共有しながら、歌仙兼定は、黙って彼の傍に立ち尽くしていた。 



                                             (了)




後書