<其乃二>


「すっかり寝不足だね」
 翌朝、雨は上がっていた。
 朝靄の中で、歌仙兼定は、隣に立つ宗三左文字に冗談めかして笑いかける。
 目を赤く腫らした宗三左文字は、頬をも染めて俯いた。
「申し訳ありません、歌仙兼定……悪夢を見た僕の心が収まるのに、朝まで起きて付き合わせてしまって……」
「いや、きみが謝ることはないさ。きみに必要とされるのは僕の悦びだからね」
 歌仙兼定は恋人に柔和に微笑んで見せた。
 宗三左文字と同じく睡眠不足の筈だが、歌仙兼定の血色は宗三左文字よりずっと良く、傍目からそれと察することもできない。
 ふたりとも出陣の出で立ちで、主の城の城門の前に立っている。
「遠征……? ふたりきりで、ですか……?」
「お小夜も呼んだよ。少し用意するものがあるのでね」
 笑顔を崩さぬながらも歌仙兼定は、宗三左文字にそれ以上は言わなかった。
 宗三左文字は怪訝な顔をしたが、歌仙兼定の気の回しぶりはよく知っているので、そのままそこに立って、左文字の小さな弟が来るのを待った。
 やがて荷物を包んだ風呂敷を背負った小夜左文字と合流して、歌仙兼定と宗三左文字は江戸徳川の時代末頃に飛んだ。

「……ここは……」
 着くなりそこがなにか懐かしい場所のような気がして、宗三左文字は周囲を見渡した。
 街並みの向こう、北東にそびえる山を見違えようもない。霊峰富士だ。
「………府中……」
 思わず呟いた宗三左文字に、歌仙兼定は目配せをして見せた。
「そう、義元公ご在世の折には今川(やかた)のあった辺りだよ。この時代には駿府と呼ばれて、徳川の城が建っているが」
 歌仙兼定の指摘の通り、瓦屋根の奥に駿府城の天守が見えた。
 街道はきちんと整えられて、道沿いに松並木が続いている。
 程近くに海があるはずだ。
「お小夜、道はわかるかい」
 歌仙兼定の問いに小夜左文字は頷いて、海とは反対の山のほうへ向かって歩き出した。
 坂を上がり切った場所に、立派な山門が建っている。門の向こう、寺の敷地から大勢の僧侶の読経の声が聞こえた。
 問うように恋人を見ると、歌仙兼定は宗三左文字に向けて微笑した。
賎機山(しずはたやま)ふもとの臨済(りんざい)()……、義元公がお若いころに仏道修行をなさった場所だ。現代の主の時代まで続く今川家の菩提寺のひとつだよ。……今、僕たちは遠征の途中だが、材を集める合間に、少し寄るくらい構わないだろう」
 歌仙兼定が話している間に、こちらを見つけた寺男が門の脇から顔を出した。
 小夜左文字に持たせていた風呂敷から、歌仙兼定は反物を取り出した。宗三左文字の見たところ、僧衣の下衣に使う麻のようだった。
 歌仙兼定は小夜左文字と宗三左文字を置いて寺男に近寄り、挨拶をし、寺男に反物を手渡した。何事を話しているかは宗三左文字の耳には聞こえない距離だった。やがて歌仙兼定が振り向き、宗三左文字と小夜左文字に向かって手招きをする。
 寺男が通用門を開けて、刀剣男士三人は境内に入った。
 境内に入るなり、空気が変わったのを宗三左文字は認識した。
 懐かしい気配がする。
「………御屋形様………」
「うん」
 宗三左文字が呟く隣で歌仙兼定が頷いた。
「わかるだろう? ここには義元公の墓所があるんだよ」
「……………、」
 歌仙兼定の言葉を理解して、思わず涙が溢れそうになり、宗三左文字は唇を引き絞ってそれに堪えた。
 涙が湧いた理由は、夢の中でのような悲痛な喪失感ではなかった。
 深く穏やかな哀惜の情。
 今までそんな気持ちが自分の裡に存在するとも知らなかった感情だった。
「きみが見た悪夢は人の身ならではだし、僕たちは今、人の姿をしているのだから……人々がするように義元公を追悼すべきだろう」
 隣で話す歌仙兼定の言葉は、取り立てて宗三左文字の返事を待つという風情でもなかった。
 宗三左文字は無言でそこに立っていた。
 ついに、色違いの両目から、こらえきれぬ涙が白い頬を伝った。
 二人の傍で小夜左文字が、打刀の兄を心配そうに見上げている。
「……大丈夫ですよ、小夜」
 宗三左文字は涙がちながら弟に向けて微笑んで見せた。
 宗三左文字が思い出していたのは桶狭間ではなく、自分が太刀だった時に義元に愛された記憶だった。
「僕たちは刀剣だから砕けたらそれで終わりだが。人の命の灯は、それが消えた後も別の形で残る。僕の昔の主の三斎公は、存命中幾度も奥方の追善供養をなさったよ。仏式と、禁教であるキリシタン式の双方でね。人はそうして亡くなった者を偲ぶんだ。人間の命は儚く短いものだが、ある意味では悠久でもある。死後もこうして、この世に何らかの跡が残るからね……道具である僕らとは違って。この菩提寺が残っているのも、今川家がこの徳川の世にも(こう)()として存在しているからだよ。その礎を築いたのはむろん義元公だ」
「………ええ……」
 僧衣の袖で涙を拭いながら、宗三左文字は歌仙兼定の言葉に頷いた。
 境内にゆるやかな風が吹き、宗三左文字の柔らかな淡紅色の髪を散らした。
「どんな生き方であれ人は亡くなる。亡くなっても消えぬ事績をひとつひとつ積み重ねて出来上がるのが歴史で、………『審神者』と呼ばれる今の主が、僕ら刀剣男士と共に護ろうとしているものはそれなんだ」
 歌仙兼定は人目のある公のこの場で宗三左文字に触れることはしなかったが、その広い肩が、添うように宗三左文字に寄せられた。
「………………わかっています」
 読経の声と、堂内で焚かれる白檀香の香りが風の中に舞っている。
 宗三左文字の記憶が悪夢以外のもので満たされ、その細い体から緊張が溶けるように消えていくのを、隣に立つ歌仙兼定は気配で感じ取っていた。



「………今日はありがとうございました」
 亥の刻ごろ。
 連夜ではあったが今日も歌仙兼定は宗三左文字の居室に留まっていた。
 夕刻に一度降った雨は止み、開け放った障子戸の外から、湿り気を帯びた風が回遊してくる。
 折敷の上に酒とつまみが置かれている。
 そのようにして歌仙兼定をもてなしながら、宗三左文字が礼を言ってきた。
 行灯の灯りの中に浮かび上がる宗三左文字の顔には血色が戻ってきている。
 昨夜と比べてずいぶん落ち着いたようだ、と歌仙兼定は恋人の様子に安堵する。
「役に立てたなら僥倖だよ」
 歌仙兼定は柔和な瞳で宗三左文字を見た。
 宗三左文字は恋人に微笑を返してきた。未だ弱々しくはあったが、それだけではない笑み。
「……あなたが府中に連れて行ってくださったお陰で……桶狭間以外のことを思い出しました。
桶狭間だけが、御屋形様……いえ、義元公と僕との関わりの全てというわけではないのですね」
「勿論そうだよ。史実に残らなくとも、昔の主と僕たちとは今も部分的に繋がっている」
「………ええ……」
 宗三左文字は感慨深げに頷いた。
「あの江戸の時代には、面影は既に残っていませんでしたけれど、義元公の頃、府中と呼ばれたあの場所が華やかに栄えていたことを思い出したのです。……義元公ご自身は漢籍がお得意でしたが、今川館では月初に必ず歌会があって、茶の湯や蹴鞠なども開かれて……。刀剣男士となった僕が、今、あなたに惹かれるのは、当時の風流を体現したかのようなあなたの有りようが、僕には懐かしく思えたからなのかも知れません」
「……それは光栄だな」
 素直に喜びを感じて、歌仙兼定は、頬を赤く染めて宗三左文字に微笑んだ。
 歌仙兼定を見つめて微笑み返す宗三左文字の顔が、ふっと翳る。
「……あの臨済寺で……あなたが寺男に反物を渡していましたが……」
「ああ」
 どうということもないように歌仙兼定が言った。
「元禄の頃のいい麻を持ち込んで手渡したんだよ。こっそり境内に入れてもらうためにね」
「…………公儀に見とがめられはしないでしょうか。異なる時代の物品を、時を越えて所有したり、現地の者に与えたりするのは禁令の筈でしょう」
 宗三左文字が不安げに首を傾げるのへ、
「『公儀』って、主の言う政府のことかい? お上はこんな小さなことで、逐一目くじら立てたりしないさ。公になるのはまずいが、内々に済ます分にはとくに問題ないだろう。魚心あれば水心と言うし」
 それきり歌仙兼定は意味ありげに微笑しながら黙っている。
 納得できず不安を解消できない宗三左文字が顰めた眉を解かないので、歌仙兼定は表情を変えずに話を捕捉した。
「確かに厳格にすればお咎めを受ける状況ではあるんだが、どんなことにも抜け道はあるのさ。何事も厳しすぎるのもそれはそれでよろしくない。反物のことについては、特例として、主には許可をきちんと得たよ。無論内密にする前提でね。ほら、例の……『よきにはからえ』というやつだね」
「………僕には、よく……わかりません」
 宗三左文字は怪訝な顔を崩さない。
 歌仙兼定は破顔して、楽しげに宗三左文字の顔を覗き込んだ。
「宗三左文字どのはずっと為政者の所蔵刀だったから、その下に伺候する者たちの感覚は遠すぎてわからないのかも知れないね。とにかく今回の件は大丈夫。宗三左文字どのが心配することはないよ」
「……………そうでしょうか……?」
「結構ある話なんだよ。刀剣男士が遡行先で刀を振り回していたら、現代の世にまで現存している御仏の像を破損してしまったとか、特に幕末の京都市中あたりで旅館の柱を傷つけたとか、もっと酷い状況になると、遡行先の時代のならず者や武士に襲われてやむなく切り捨てたりなどもね。そんなときに禁令を厳格に適用して、いちいち刀剣男士を罰していたら、城から剣士がいなくなってしまう」
「………それは、そうでしょうけれど……」
「だからね。内々にお上に話を通せば、ある程度は融通がきくようになっているのさ。これは初期刀の僕だから知っていることだが。濫用されても示しがつかないから、主と図って、ほかの者たちには内証にしてある。だからきみも、この件に関しては言いふらさないでくれたまえ。お小夜もそう心得ている」
「…………………」
 宗三左文字は色違いの両目を瞠って歌仙兼定を見つめたが、やがて、
「…………わかりました……」
 宗三左文字なりに理解した、という風情で神妙に頷いた。
「僕には、よく呑み込めない事態ですが……、現実に即した対応というものがあるのですね」
「そういうことだね」
 宗三左文字の目が、淡紅色の睫毛で暗く翳った。
「……僕はまだ、刀剣男士としての経験が浅くて……。夢のこともそうですが、人の身を得たことによって起こる事どもにどう対処したら良いか、あなたほどにはわからないのです。……顕現した日数はそれほど違いが無い筈ですのに」
 やや不甲斐なさそうに宗三左文字が言うので、歌仙兼定は微笑んで宗三左文字に手を伸ばした。
 日中の寺の境内でのように、触れるのを躊躇う必要はもう無かった。
 歌仙兼定の器用な指が、宗三左文字の枝垂れ尾のような長い一房の髪をつまんで弄ぶ。
「僕ときみとを引き比べる必要はないんだよ……刀剣男士にも色々な者がいて、それぞれに差異がある。それを気に病むことは無いさ。……僕とは違う、きみの優美な部分をこそ僕は愛しているのだから」
 枝垂れ桜の花房のような淡紅色の髪に口づけながら、歌仙兼定は言った。
 柔らかな額髪の奥から、深い青と緑の目が歌仙兼定を見つめてきていた。
「………あなたも」
 宗三左文字のかすかな声が薄闇の中に響いた。
「あなたも辛い夢を見ることがあるのですか? ときどきは厭な夢も見ると、あなたは仰いましたが……」
「…………そうだね」
 宗三左文字から手を放して、歌仙兼定は恋人を見つめた。
「僕が見るのは、過去の記憶の夢じゃない。僕が見る不安とは、起こってほしくない未来の出来事だ」
「………そんなものまで、眠っている間に夢で見ることがあるのですか……?」
「性格や境遇に拠る、とは思うが。奥方やご子息の興秋公を死なせてしまった三斎公が、そのことをずっと悔み続けるのを、僕は見てきたからね」
「………あなたの悪夢とは………」
 歌仙兼定の緑の目に躊躇が浮かんだ。
 言おうか言うまいか逡巡し、やがて、思い切ったように歌仙兼定は口を開いた。
「僕にとって最大限に辛いことは。きみがいなくなることだ」
「―――――――」
 宗三左文字の色違いの両の目が、瞠られたまま動きを止めた。
 宗三左文字は貌から表情すら失って、黙したままでただ歌仙兼定を見つめた。
 歌仙兼定はその視線を受け止めて、真っ直ぐに宗三左文字を見返しながら言葉を続けた。
「僕の傍から、この城から、きみの存在が消えてしまう夢をたまに見る。朝、目を覚まして、幻でよかった、と安堵するような夢をね。現実では無論、きみは僕の傍にいる。それでも不安なんだよ……三斎公の奥方のように、僕の手を離れた隙に、二度と届かぬ場所へ飛び去って行ってしまうのではないかと。……きみは昔、破壊を『自由』と呼んでいたことがあるから……」
「………歌仙兼定、」
 震え声で名を呼ばれたので、歌仙兼定は黙った。
「……僕は……、」
 薄い唇が喉をつかえさせながらも言葉を紡ぐ。
「僕は、自分のことで手一杯で、あなたがそんなふうに考えていたことになど少しも気づかなくて、」
 歌仙兼定は知っているという風で頷いた。
「そうだろうね。でもそれでいいんだよ。過ぎた不安だと自分でもわかっているからね。益体もないものできみを煩わせるなど愚かしいことだから、今まで黙っていたんだ」
 宗三左文字の胸に焼けるような熱がちりりと走った。
 顕現などしなければよかった、刀剣のまま消えていればよかった、と歌仙兼定の胸で涙したのはほんの今朝方だった。
「……かせん………」
 泣きそうな顔で宗三左文字は恋人を見た。
「もしかして、僕は……知らぬ間に、あなたを傷つけていたのですか……? 夢を見て、僕が今朝話したことは……あなたを悲しませるつもりはなかったのです、僕は、あなたを辛い気持ちにさせたりなどしたくないんです、なのに、」
「宗三左文字どの」
 歌仙兼定が再び手を伸ばし、今度は宗三左文字の僧衣の袖に隠れた手を優しく握った。
 宗三左文字の冷えた肌に、歌仙兼定の熱がじわりと伝わる。
「気に病むことは無いんだよ……朝もきみに言ったが、夢はただの幻であって現実ではない。きみが辛い夢をただ夢としてわかっていてくれれば、僕の不安は本当にただの杞憂に過ぎなくなるんだから」
「………まぼろし……」
 潤んだ色違いの両目を見開き、必死の様相で宗三左文字は歌仙兼定を見つめた。
「人は眠れば夢を見る。いい夢も悪い夢も。でもそれは現実のものではなくて、……きみが見る夢も、過去の夢ではあってもそれだけではない筈だ。悪夢を見るのは止められなくても、それを現実の辛さと受け止めずに済めば……、きみが見る桶狭間の夢も、僕が見るきみのいない世界の夢も、現実とは縁のない空想の世界のものとして、笑ってやり過ごしていけるよ。僕はそれで幸福なんだよ……不安な夢を幾度見ようとも、現実に、きみが僕の傍で過ごしていてくれることこそがね。宗三左文字どの」
「……………」
 目を見開いたまま宗三左文字は口を閉じ、乾いた喉に唾をこくりと飲んだ。
「きみが僕をそんなにも気遣ってくれるなら。ずっと一緒にいてくれ。どこかへ飛び立ったりせずに、ずっと僕の傍に」
 歌仙兼定が宗三左文字の手を袖から出し、己の暖かな頬に触れさせた。
 ひくりと動く白い掌に、歌仙兼定が接吻する。
「……あ………、」
 宗三左文字の薄い唇が開いて、そしてわなないた。
「歌仙兼定……、」
「三斎公の奥方が人質になるのを拒んで自害したのは三斎公への愛情からだった。武門に生きる者として立派な御最期だったから、三斎公は却って本心を誰にも言えず独りで苦しんでおられた。僕は武士ではなくてただの刀剣だから、……きみには包み隠さず本心を言うよ。きみが僕の傍にいてくれることこそが、僕にとっての至上の幸せだ。きみが僕の隣で微笑んでいてくれれば、それに勝る幸福は無い。他の何を措いても。きみの苦しみも、僕の不安も、………きみの不在に比べれば些末なことだ。僕にとっては」
 歌仙兼定の緑の目が、強い熱を帯びて宗三左文字を見つめている。
「この世に在ってくれ。きみ自身の為に在るのが無理なら、ただこの僕の為に」
「……か、かせん、」
 色違いの両の目にうっすらと涙を滲ませ、宗三左文字は息を詰めて歌仙兼定を見ていた。
「僕を愛してくれるなら。僕の傍にいてくれ。頼む」
 歌仙兼定の目が己と同じほどに潤んでいることに、宗三左文字は気がついた。
 歌仙兼定の声は喉が細ってひび割れている。
「破壊を自由と望んだりせずに、僕に束縛されていてくれ。きみが幸福を感じられるように、きみの為になる事ならなんでもするから」
「歌仙兼定………、」
 体面を重んじる普段の態度もかなぐり捨てて、歌仙兼定は宗三左文字に懇願してきていた。
 唐突に。
 彼にとって自分が如何に大事なのかを理解して、宗三左文字は秀麗な顔をくしゃくしゃと歪ませた。
「…………………約束します」
 かすかな声で、それでもはっきりと、宗三左文字がそう告げるのを歌仙兼定は聞いた。
 宗三左文字の優美な手が、自らの意志を持って歌仙兼定の頬を撫でる。
「あなたの傍に、僕はずっといます……歌仙兼定」
 宗三左文字の右の目から、涙が一筋頬を伝っていく。
 宗三左文字の震える涙声の中に、誠実さがこもっている。
「大切な人を喪う気持ちを、僕は夢で知りました………あなたに、あの辛い思いを、現実で味わわせたりは致しません。……あなたを愛しているのです」
 歌仙兼定の、宗三左文字を見定めようとする瞳に、やがて安堵の光が宿った。
「………うん」
 何を肯定するとも知れず頷いて、歌仙兼定は目を潤ませたまま微笑んだ。
「僕もきみを愛しているよ、宗三左文字どの」
 語尾は衣裳の中にくぐもって消えた。
 歌仙兼定が宗三左文字を抱きしめて腕の裡に抱え込んだからだった。
「歌仙兼定………」
 服の裡で囁く声。
「あなたも、ずっと、僕の傍にいてください……辛い夢を見た時……、それが幻であって現実ではないと、いつも教えてください」
「……勿論だよ」
 暖かな掌で、宗三左文字の頭髪を撫でながら歌仙兼定は答えた。
「人の身を得て、僕たちがここに顕現しているのは。ふたりで幸福になる為だ」
「…………ええ……」
 宗三左文字は泣いていた。
 悪夢を見た今朝と同じように。
 今朝とは違う理由で。
 濡れた庭先から、一匹の蛍が部屋に入り込んできた。
 蛍は瞬きを繰り返しながら室内を迷い飛び、ふたりの傍を周遊する。
 やがて動かぬふたりを眺めるのに飽きたとでも言うように、蛍は庭へと飛び去っていった。
 蛍の去った庭から、雨音がし始める。
 暗い雨の中に座して、歌仙兼定と宗三左文字は黙して抱き合ったまま、人の身ならではの互いの熱を確かめ合っていた。



                                             (了)




後書