<其乃四>


 長い時間を手入れ部屋で過ごし、手入れを終えて宗三左文字が部屋を出ると、控えの間には歌仙兼定が座して待っていた。
「歌仙兼定……」
 宗三左文字を待つ間に自身の手入れも済ませたのだろう。歌仙兼定も軽傷状態からは回復していた。
「……ずっと、そこで待っていたのですか……?」
 宗三左文字を迎えるように立ち上がった歌仙兼定に、宗三左文字が尋ねる。
「いや。つい先ほど来たばかりだよ。別の手入れ部屋に籠もっていたし、本丸にも赴いて、勝手に部隊を出してきみの元へ向かったことについて主から叱責を受けていたからね」
 宗三左文字は頬を赤らめて俯いた。
「……申し訳、ありません……僕の所為で……」
「きみが負担に思うことはないさ。そもそもは、きみに無茶な出陣の指示を出した主と、それを止められなかった僕に今回の責任があるんだからね」
「………ですが……」
 いたたまれない宗三左文字が少しだけ目線を上げると、歌仙兼定の緑の目と視線がぶつかった。
 歌仙兼定は宗三左文字に触れようとはしてこなかった。
「……もう日が変わったよ。今夜は寝んだほうがいい。……きみの部屋まで送るよ」
 宗三左文字が返答をする暇も無く、歌仙兼定はくるりと背を向けて、宗三左文字の部屋への道筋を辿り出した。
 無言で歩く歌仙兼定の背中を見ながら、宗三左文字はやはり無言で居室への渡り廊下を共に歩いていく。歌仙兼定の服に深く入った皺を眺めながら、来たばかりと言った彼の言葉は嘘だろうと宗三左文字は思った。歌仙兼定が手入れ部屋や本丸に赴いたにしても、宗三左文字の手入れが終わるまで、数時間あまりは控えの間で待っていた筈だ。
 歌仙兼定はもう自分に触れる気が無いのだろうか。宗三左文字は考える。敵兵の暴行から自分の身を救ってくれたとき、歌仙兼定に強く抱き締められてひどく安心した、その心地が、今も宗三左文字の身体を残り香のように包んでいる。帰途の馬上でずっと、歌仙兼定は宗三左文字の体を優しく抱きかかえていてくれた。手入れを終えた今、宗三左文字の身は疲弊しているが気分はまだ昂ぶっている。歌仙兼定の気配が自分から消えると、敵兵の乱暴な手や下卑た揶揄の記憶に再び心身が震え出しそうな気がして、宗三左文字は、歌仙兼定に自分の傍から離れて欲しくなかった。
「……さあ、着いたよ」
 居室の前の廊下で足を止めて歌仙兼定が宗三左文字に示す。
 そこから先に踏み入る気が歌仙兼定に無いのは明白だった。
「……寄っていきませんか」
 歌仙兼定に去られたくなくて宗三左文字は思わず尋ねる。歌仙兼定は少しだけ躊躇して、
「……いや。きみはすぐ休むべきだし、僕はもう戻るよ」
 身体を返そうとするのを、宗三左文字は更に引き止める。
「少しだけでも。……ぜひ」
 束の間考えて、やはり断ろうというように首を横に振りかけた歌仙兼定だったが、縋るような目で見つめてくる宗三左文字が気の毒になったか、結局は曖昧に首を縦に振ってきた。
「………じゃあ。少しの間だけ」


 行灯を灯した夜の薄闇の中に二人きりで座した途端に、流れる空気が変わった気配があった。
「……宗三左文字どの」
 静かな声で歌仙兼定が言う。
「……よく顔を見せてくれ。元通り、綺麗に傷が治ったかどうか、確かめたいんだ」
「……どうぞ」
 宗三左文字は座したまま歌仙兼定に近寄り、白い面を差し出す。歌仙兼定の器用で力強い手が頬に触れて、宗三左文字の顔にかかる前髪をそっとかき上げた。
 敵の血と、自身の鼻血、泥や擦り傷に汚れていた宗三左文字の顔は傷ひとつ無く元の容貌を取り戻し、気品と清楚さを再び漂わせている。暗い中では同じ黒色に輝く両の瞳だけが、未だひどく潤んでいて、宗三左文字の内面がなお動揺していることを示していた。歌仙兼定は両手を添えて、ゆっくりと宗三左文字の輪郭を辿り、僧衣を纏った両肩にまで手を触れ降ろしていく。歌仙兼定に撫でられることで、宗三左文字はやや緊張を解いたように深い息を吐いた。その息が、歌仙兼定の顔に触れる。
「……足はどうだい?」
「……………」
 歌仙兼定の静かな問いかけに、宗三左文字は黙って正座を崩し、右の踝を歌仙兼定に向けて差し出してきた。そんな行動にさえ気品を感じさせる宗三左文字の所作に半ば感心しながら、歌仙兼定は宗三左文字の素足にそっと触れ、傷が治っていることを確かめる。
「……………」
 溜息をついたのは、今度は歌仙兼定のほうだった。
 足首から踝、踵、爪先に至るまで、抜けるように白い、上質の絹のような手触りの宗三左文字の足。歌仙兼定は両手で宗三左文字の足に触れ、陶然と撫で上げる。宗三左文字のほうは嫌がることもなく、歌仙兼定に触れられて弛緩すらしているかのような気配で、歌仙兼定の手指に己の足を任せている。
「……帰らなくては」
 宗三左文字の足に触れたまま、喉奥から絞り出すように歌仙兼定が声を出した。
「この時間に此処でこんなことをしていたら。きみに不埒な真似をはたらくのを自分で止められなくなってしまう」
 歌仙兼定の手つきを見下ろしていた宗三左文字が、視線を歌仙兼定の顔に上げた。
「……どういうことですか……? ……不埒とは……」
 歌仙兼定が目を上げる。
 宗三左文字の視線と歌仙兼定の視線が交差した。
「……もう知っているとは思うがね。僕はきみが欲しい」
 ぞくりと宗三左文字の背が粟立つ。瞬間湧き上がったのは嫌悪や恐怖ではなく、別の感情だった。
「きみを手の中に抱いて、きみの体中に接吻を浴びせて、その綺麗な唇から官能を帯びた声で僕の名を呼ばせたい。無垢なきみの身体を開いて、きみの奥深くを探り、きみと僕だけの深い関わりを構築して、そしてずっときみの傍にいて、二度と放さない。……僕がきみにしたい不埒とは、そういうことだよ、宗三左文字どの」
 宗三左文字は夜目にも明らかなほど頬を赤く染めて、息を飲み、瞬きもせずに歌仙兼定を見つめてきた。
 長い沈黙の後、
「……いつから…ですか………?」
 宗三左文字のかすかな声が歌仙兼定の耳に届いた。
「いつから…僕を……そのように……?」
「夏の日、きみを介抱したあとの夕方からだよ。……近頃は、自分の気持ちが抑えられなくなりかけていて、きみに触れることすらできなくなってしまった。……きみを無理矢理奪うことになってしまうのが怖くてね」
 歌仙兼定は宗三左文字の足から手を離し、衣服の裾を降ろしてその素足に着せかけた。
 宗三左文字のほうはそんな歌仙兼定の行動にはまったく意識が至らぬようだった。
「…どうして……ですか……?」
 宗三左文字の目は歌仙兼定の顔に据えられている。
 小さく開かれた薄い唇が、頼りなげに言葉を紡ぐ。
「あなたなら……今までの間に、僕をどうにでも、好きなようにできたのではないですか……? ……長い間、どうして………」
「簡単だよ。きみに幸福でいてほしいからだ」
 幸福。
 初めて聞いた知らない言葉ででもあるかのように、宗三左文字の唇がその口形をなぞるように動く。
 それを見た歌仙兼定の顔が、寂しそうに微笑する。
「……きみがそれを理解できない限り。僕はきみにさわれないな」
 歌仙兼定は体を起こして宗三左文字の前に座りなおす。
 次に口を開いたとき、歌仙兼定の声の色は変わっていた。
「本当はきみを戦場になんか行かせたくない。きみが怪我をしたり、あまつさえ今回のように、命やそれ以上の危機に晒されるような事態に陥ったりするのは言語道断だ。いつも安全な場所にいて、僕の目の届くところ、安心できるところにきみを置きたい。他の男の目にきみを触れさせたくないし、主の前にも出させたくない。僕だけがきみを見て、きみと話し、僕こそがきみにとっての世界そのもの、というくらい、きみを独り占めしたい。それくらい僕は欲が深いんだ。
 僕にとって、きみがこんなにも大切な存在じゃなかったら。
 きみの意思を無視して、僕は行動を起こしたかも知れないね。きみが最初嫌がっても、いずれ力ずく、体ずくで説得できると思い込んで。
 きみが以前言った通り。僕の中には確かに、きみを所有したいという欲望があるからね」
「……………」
 宗三左文字は黙って唇を引き結ぶ。目は怯えたように大きく見開き、頬は赤く染まり、しかし宗三左文字が何を考えているかは歌仙兼定には伺い知れない。
 歌仙兼定は微笑しながら宗三左文字を見つめた。いつもの明るい笑顔とは全く違う、苦く複雑な笑み。
「でもきみに無体ははたらきたくないんだよ。僕が傍にいることできみを不幸にしたくない」
「……不幸……ですか……?」
 意味を測りかねた宗三左文字に、歌仙兼定が告げた。
「きみには幸せでいて欲しいんだ。宗三左文字どの。『籠の鳥』と自らを卑下することなく、信長公の所有や支配の証についてあれこれ思い悩むこともなく、人生を肯定して、季節の移ろいを感じながら、日々を経るのを楽しく過ごしてほしい。だからきみの部屋に時季に合わせた諸々の品を誂えてるし、自分の気がかりを押さえ込んで、主にきみをもっと戦場に出すよう進言もしてる。今日はそれが裏目にでてしまったけどね。
 きみが微笑んでくれれば僕も嬉しいし、反対に、きみが自分の命や体にあまりに無執着なのはひどく心配なんだ。前にも言ったが、きみに、僕の目の前から飛び去ったりして欲しくないんだよ。
 きみにはまず、きみ自身をいちばん大切にして欲しい。
 僕はきみが好きだからね」
 宗三左文字の強ばっていた体がほんの少し揺らぐ。
 やがて宗三左文字は口を開き、
「……『すき』……とは……、」
「所有するかしないかというだけの単純な話じゃないよ。勿論」
 歌仙兼定はそう言って、言いたいことは言い切ろうというように深い息を吐いた。
「契りを結ぶには。僕からきみへの気持ちと、きみから僕への気持ちと、両方が通じ合っていなくては。……僕がきみを『好きなようにする』だけでは、きみにとって僕は信長公と変わらないだろう。僕は贅沢者だから、それは厭なんだ。きみの中で、僕だけが特別な者になりたいんだよ……信長公より、ずっと特別な者に」
「………歌仙兼定……」
 宗三左文字は目を瞠り、瞬きもせずに歌仙兼定を見つめたままだ。
 その形の良い唇が、やがて僅かに震える。
 潤んだ瞳がほんの少し感情の色を変えた。
「あなたが……僕に、触らない理由は……わかりました……。帰るという、その理由も……」
「…そうかい」
 歌仙兼定は微笑んだがその声は少し気落ちして聞こえた。
 だが、正座した膝の上に置かれた歌仙兼定の手に、宗三左文字は己の手をゆるゆると伸ばしてきた。
 白い手が歌仙兼定の体に触れて、歌仙兼定は思わぬことに瞠目する。
「…宗、」
「……僕は、あなたに帰って欲しくないんです」
「なんだって?」
 聞き間違えたかと思い、歌仙兼定が問い返す。
「歌仙兼定……、僕に、触れていて欲しいんです……」
 宗三左文字の手が弱々しく歌仙兼定の着物の袖を掴んだ。
「……あなたが僕を欲しても、不埒や無体にはなりませんから……ここにいてください……、お願いです」
 宗三左文字が己の欲求を歌仙兼定に伝えてきたことは今まで無い。その自覚があるのかないのか、宗三左文字は腰を半ば浮かせ、縋るように歌仙兼定を見つめた。
「手を離さないで、僕に触って、接吻をしてください……いつかみたいに……」
「宗三左文字どの」
 現実感がまるで無いといったような表情で呆然と宗三左文字の顔を見ていた歌仙兼定が、その手を宗三左文字の頬からうなじに伸ばす。
 宗三左文字がそれに引き寄せられるように歌仙兼定に顔を近づけると、歌仙兼定の唇が宗三左文字の口に吸いついてきて、久方ぶりに、二人は接吻を交わした。
「ふっ…ン……ぅ……、」
 記憶通りの宗三左文字の柔らかな唇の感触に、歌仙兼定は早くも陶然となる。おずおずといった風情で宗三左文字が歌仙兼定の身体にその身を添わせてきて、宗三左文字の腕が歌仙兼定の袖にそっと絡みついた。
 唇で唇を探ると、宗三左文字の両唇は蕾が開花するように開いて歌仙兼定の舌を受け入れた。
「ぁふっ…」
 自ら絡んでくる宗三左文字の舌に拒否感は一切無く、歌仙兼定は優しさは失わないものの、夢中になって宗三左文字の口内を貪る。歌仙兼定の手指が宗三左文字の肩を辿り、袖口から腕づたいに手を差し入れて宗三左文字の肘に触れた。
「っ…、ぅ、……」
 口づけられながら宗三左文字がかすかな呻きを歌仙兼定の口中に漏らす。歌仙兼定の手は更に宗三左文字の腕を辿って、二の腕を這い上がり、やがて脇腹や背、胸に到達した。
「ン、は、ぁふ……っ」
 宗三左文字の体が少しだけ強ばる。歌仙兼定の手は優しく宗三左文字の素肌を撫で下ろし、触れられることに宗三左文字を慣らしていく。
「っ、はっ……」
 宗三左文字の口から唇を離し、歌仙兼定は空いた手で宗三左文字の袈裟の紐を解く。袈裟はすぐに畳の上に滑り落ちた。
「……歌仙兼定……、」
 喘ぐように宗三左文字は名を呼んだ。昼のことが思い出され、脱がされることに若干の恐怖はあるが、歌仙兼定を拒否して自分の元を去って欲しくない。歌仙兼定が宗三左文字の腰帯を解いて服の襟が大きく開いても、宗三左文字は黙ってそれを許容した。
 歌仙兼定の手が前方から宗三左文字の剥き出しの胸に触れて、蝶の刺青に指が置かれる。
「……………、」
 吐息をついて宗三左文字は歌仙兼定の行為を受け入れた。
「宗三左文字どの」
 自分を見つめる緑色の目にははっきりとした情欲の熱が籠もっている。
 それが宗三左文字を怯えさせ、同時に、ほかの感覚をも湧出させる。
「……かせ、ン……っ」
 ふたたび歌仙兼定が宗三左文字に口づけてきて、食むように唇を舐られながら、歌仙兼定の手が、宗三左文字の肩から全ての服を滑り落とした。
「っ、ンん…っ」
 首にかけてあった数珠を手繰られて乳首の上で転がされ、その刺激に宗三左文字はぴくりと身を震わせる。
 やがて数珠を避けて、歌仙兼定の指が、宗三左文字の乳首に直に触れてきた。
「ふぅッ、ン、っ……」
 指先で乳首を優しく撫で上げられて、宗三左文字の体中に素早く熱が浸透していく。
 接吻を続け、片手で乳首を探りながら、歌仙兼定は、残る片手を宗三左文字の背に回し、その細い体を畳の上に横たえる。
 仰向けになった宗三左文字の裸身の上に歌仙兼定の上半身がのしかかってくる。肌に感じる熱や鼻から抜ける香の匂いは確かに歌仙兼定のものなのに、昼間敵兵に襲われたときの恐怖が蘇り、宗三左文字の体は無意識のうちに緊張して強ばった。
「っ…………、」
 歌仙兼定にそれを気取られないように怯えを押し殺したつもりだったのに。
 歌仙兼定は唐突に宗三左文字から手と唇を離し、後ろに引いた。
「………、は……、」
 なぜ、と目を半眼に開いて宗三左文字は歌仙兼定を見上げた。
 歌仙兼定は身を起こして宗三左文字の足元に正座していた。
 その顔を暗い陰が覆っている。
「宗三左文字どの」
 自分を見下ろす緑の目に、宗三左文字への飢えと憐憫、そして拒絶の光が宿っていた。
「…かせ……、」
「自分の身を大事にしてくれと言った筈だ」
 歌仙兼定の声は、怒りに似たものによって震えていた。
「僕を欲しいとも思っていないのに、僕に体を開くつもりなのか、きみは」
 歌仙兼定に何を言われているかがわからず、宗三左文字は困惑する。
「歌仙兼定、」
「なぜ厭だと言わないんだい?」
「……、どういう、意味……ですか……?」
「体をそんなに硬くして、怯えていながら、僕を拒まないのはなぜかと聞いたんだよ。宗三左文字どの」
「……………」
 歌仙兼定に指摘されてなお、己の心と行動の理由が自覚できず、宗三左文字は言葉を失って歌仙兼定を見上げていた。
 潤んだ二つの色の瞳に映る感情は混迷を極めていて、歌仙兼定は、相手に答えの出せない問いを投げかけてしまったことに気がついた。
 彼を抱くには早すぎるのだ。
 宗三左文字には未だに、歌仙兼定を受け入れる心の覚悟も体の準備も整ってはいない。
 今晩自分の傍にいて欲しいから、というだけの理由で、歌仙兼定に自分の身を投げ出すことを宗三左文字は決めてしまっている。
 それは歌仙兼定に彼を奪わせることと殆ど変わらないのに。
 宗三左文字の未熟な自意識が成長するのを待てない自分の焦燥感も歌仙兼定は自覚していて、それがいっそう歌仙兼定を不機嫌にさせていた。
 未熟なのは歌仙兼定も同じだった。昼間あんな目にあった宗三左文字に対し、半日後の今、彼の心の動揺が鎮まらぬうちに情交を仕掛けようとしている。本当は、宗三左文字をただ抱き締めてやって、宥めてやって、何もせずにここで夜明かしをしていってやるのが正しい行動だろう。それができないのは、昼間の事件が歌仙兼定の精神にも強い動揺を残していて、その所為で、宗三左文字にただ親切になることが難しくなってしまっているからだ。
 こんな状況で彼を抱いても、心に傷を負った宗三左文字に、優しい初夜を与えてやることができそうにもない。乱暴をはたらくなら、最終的に、自分は昼に宗三左文字を襲った下卑た男どもと変わらなくなってしまう。
 歌仙兼定は、それだけは避けたかった。
「……すまないが、やはり帰らせてもらうよ」
 そう言って歌仙兼定は素早く立ち上がり、宗三左文字の居室から出て行こうとする。
 これには宗三左文字のほうが驚いた。
「歌仙兼定……」
 上半身を露出させた姿のまま起き上がり、必死の声で歌仙兼定の名を呼ぶ。
 その声音に後ろ髪を引かれぬ訳ではなかったが、歌仙兼定には、この場にいて宗三左文字に手を出さずに済ませることのほうが遙かに難しかった。
「話はまた明日にしよう。今日は遅いから、ゆっくりお休み」
 服を整えながら、宗三左文字のほうを振り返ることも出来ず、言い捨てるようにして歌仙兼定は部屋から出て行く。
「ま……待って下さい、歌仙兼定……!」
 宗三左文字の制止が虚しく響き、居室から廊下へ至る襖はぴたりと閉ざされて、歌仙兼定の姿は宗三左文字の視界から消えてしまった。
 歌仙兼定に拒絶されて部屋に一人になった途端に。
 絶望にも似た強い孤独感が、疲労と共に、宗三左文字の背に重くのしかかった。
「………、う……」
 半裸身のまま、宗三左文字は顔を歪めてその場に突っ伏す。
 既に潤んでいた両の目から今は涙が溢れていたが、それがどうしてなのかも宗三左文字にはわからなかった。
 部屋にはまだ歌仙兼定の残り香が漂っている。
 その中に沈みながら。
 宗三左文字はついに自覚した。
 自分は歌仙兼定が欲しい。
 その欲求とは、歌仙兼定が自分に向けて持っていると告げてきたような情欲なのか、所有欲なのか、支配欲か、あるいはそれとは裏返しの被保護欲なのか。
 それはもうどうでもよかった。
 歌仙兼定を手に入れたい。
 宗三左文字にわかるのはそれだけだ。それだけで充分な驚きだった。思ったこともなかった。自分がこれほどまでに欲するものが世に存在するとは。
 数日前の加州清光の言葉が宗三左文字の脳裡に蘇る。
 歌仙兼定のことが好きなのか、と聞かれて、そのとき宗三左文字には答えられなかった。
 今なら簡単に返事ができる。
 ただ一言、「そうだ」と言えばよかったのだ。


 長い廊下を、己の居室への道を急ぎながら、歌仙兼定は何かに当たって怒鳴り散らし、暴れ出したい思いを必死で抑えていた。昼間だったら即座に本丸へ上がって主に出陣を申し出ていただろう。戦場で暴れ回って敵の首級を上げでもしない限り、気は晴れそうにない。
 怒っているのは宗三左文字へではなく、自分の不甲斐なさに対してだった。
 人に頼ることや欲しがることを知らない宗三左文字があんなにも、切羽詰まった様相で自分を頼ってきたのに、結果的にその頼みを冷たく撥ねつけて、彼を見捨てるようにして部屋を出てきてしまった。あんなことをすべきではなかった、と歌仙兼定は歯噛みする。そもそも宗三左文字に誘われたからといって彼の部屋に入るべきではなかった。宗三左文字は心に傷を負って疲弊し、歌仙兼定は焦燥に駈られて、どちらも平静ではいられなかった。そして、お互いが何を望んでいるにせよ、歌仙兼定が自分の欲を押し切ったときには、宗三左文字はもはや拒絶しないしできないということすら、彼の部屋に入る前に、思い至っておくべきだったのだ。
 あの様子では、宗三左文字が自分を欲する日など来ないかも知れない。
 そうでなくとも、いつの日か宗三左文字の心が自分を向くにせよ、歌仙兼定がそれを求めるには、今夜は最悪の時機だった。
 彼を居室に送るときに、それはわかっていたことの筈だったのに。
 歌仙兼定は廊下の真ん中で急に立ち止まり、自分の前方に広がる闇を睨みつける。
 宗三左文字の体だけなら、自分はいつでも手に入れられる。彼は奪われることに慣れきっていて元来無頓着だし、まして歌仙兼定を拒む理由は現在、宗三左文字の中から既に失われている。
 でもそれでは足りないのだ。
 宗三左文字の心が欲しい。
 自分の身は信長公に奪われて、己には意思も欲求もないと固く心に決め込んで、破壊だけが自由だと信じて止まない宗三左文字。空疎だと思い込んでいる彼自身の心の中には、豊かな情感と優しさと人恋しさが、本人には自覚がなくとも、確かにそこに存在しているのに。
 それを彼に気づかせて、その上で、自らの枷から自由になった宗三左文字に、自分を見て欲しかった。
 しかしそんな時は来ないかも知れない。宗三左文字の心が開かれて自分を見る日は来ないのかも知れない。そうなったら結局は、歌仙兼定は宗三左文字の体だけを手に入れて、それで満足するしかなくなるだろう。宗三左文字もそれに納得する筈だ。彼は彼の人生を、自分の意思に関係なく他者に「所有される」ことしか学んでいないのだから。
 だったら彼を犯せばよかった。もっと早くに。
 不穏な欲情が歌仙兼定の体内に湧き起こる。
 天下人の刀と呼ばれた宗三左文字を犯して言うことを聞かせ、独占することができたら、自分の中にある彼への支配欲は間違いなく満たされるだろう。
 宗三左文字への支配欲は歌仙兼定本人にも手がつけられないほど強力で、だから近頃は、宗三左文字に不用意に触れるのを避けねばならぬほどだった。
 そのような手法で彼を手に入れても、歌仙兼定が得られるのは宗三左文字の形骸だけだとよくわかっていた。宗三左文字の涙も屈服感も熱い吐息も愉楽も、あるいは慕情すら得られるだろう、だが宗三左文字の体の奥に隠れ潜む、彼自身の真情には、絶対に辿りつけなくなってしまう。
「……………」
 相変わらず暗闇を睨みつけながら、歌仙兼定は深く息を吐いた。
「戦場では、迷いを感じることなどないのにね……まったく、心というものは……」
 まして他者の心というものは。
 歌仙兼定は気を取り直して、再び居室へ向かって歩き出す。
 暫く宗三左文字に逢わないほうがいいだろう、と歌仙兼定は、胸中で考えていた。




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