| 夢とこそいふべかりけれ |
| 2016/06/20 歌仙兼定×宗三左文字 梅雨・魔王命日(旧暦6月2日) |
| 人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如く也。ひとたび生を得て、滅せぬもののあるべきか。 ―――幸若舞「敦盛」 |
| あひしれりける人の、 夢とこそいふべかりけれ世の中に |
| 知己だった人が亡くなったとき詠んだ歌 (この世は全て夢と言うべきだったのだ。世の中に確かな現実が 存在すると思っていたことであったよ) |
今剣が修行に旅立って二日後。ここ数日は雨が止むことなく降り続き、今日も空は厚い雲に覆われていた。 正午少し前に、歌仙兼定は本丸に顔を出した。主は不在とのことだった。 今日はもう出陣はないと踏んで、歌仙兼定は引き返した。無聊を慰める相手はいつも決まっている。 渡り廊下を歩んでいくと、坪庭に紫陽花が咲いていた。ひと月近く咲き続けた花々はそろそろ退色が始まっている。見苦しくなる前に花を摘ませたほうがいいな、と歌仙兼定は思った。気温はぬるく、風もあまりなく、空気は随分と蒸しているが、梅雨は着実に終わりに近づいている。 歌仙兼定は足を止めずに宗三左文字の住まいする棟へと歩き続けた。 目的の場所へ近づくと、辺りに、嗅ぎ慣れぬ供養香の香りが漂っていた。 宗三左文字には珍しく、床の間で香が焚かれているようだ。開かれた障子から雨の庭へと煙がゆっくりと流れていくのが、縁を歩く歌仙兼定の目に見えた。 薄暗い居室の奥に宗三左文字は黙然と座り、ぼんやりとした様子で手にした数珠をつまぐっている。 「宗三どの」 歌仙兼定が呼びかけると、宗三左文字は視線を上げて此方を見つめてきた。 「歌仙……」 殆ど黒と紛うような色違いの両の瞳に、いつもとは違う表情が宿っている。 悄然とした宗三左文字の様子に、歌仙兼定は何があったかと思案を巡らした。やがて一つのことに思い当たる。 「……もしかして。今日は信長公の命日なのかい?」 「………ええ……」 それだけ答えて、宗三左文字は手にした数珠の上に視線を戻した。 歌仙兼定は黙って、慣れたふうで宗三左文字の脇に座る。 「…………魔王の命日であると思い出したからと言って、何と言うこともないのですが。……人間の真似事などして、香を焚いてみるくらいで」 やがてぽつりと、宗三左文字がそう漏らした。 「………どうりで、不動行光が普段より飲んだくれていたわけだ」 歌仙兼定が先ほど行き会った不動行光は、昼前なのに足元がおぼつかぬほど酒に酔っていた。 「彼は酒を飲む口実が欲しいだけでしょう。魔王は、酒を過ごして正体が無くなるような人間ではありませんでしたよ」 非難するふうでも無く宗三左文字が答えた。 ほんとうにただ思い出しているという様相だった。 「……甘酒でああも酔える体質というのも珍しいがね」 不動行光の話をしたが、宗三左文字は口の端を少し上げただけで、殆ど反応を返さない。 「宗三どのは近頃、信長公のことをよく思い出しているようだね」 「………そうですね」 以前はそれほどでもなかった、と歌仙兼定は思う。 「やはり、あれかな。短刀の子たちが極の為に過去の主のもとに修行に出始めたことと関係があるかい?」 「………そうかもしれません。恐らくは」 厚藤四郎は黒田如水のもとに、今剣は源義経のもとに修行に出ていると主への文にあった。 「主から修行を許されたら……、宗三どの、きみは、信長公のもとに行くことを選ぶのかい?」 「………そうでしょうね……いえ、どうでしょうか。その時にならないと、決められないとは思いますが。………ただ」 宗三左文字は歌仙兼定の耳にも聞こえぬほどかすかに、吐息を漏らした。 「極を許された子たちが、躊躇いも無く最もゆかりの強い過去の主の元へ向かうのを見て………、魔王のことを思い出すようになったというだけです。生きていた頃の彼の体温や、甲高い大きな声などを」 「……桶狭間から本能寺まで、二十年以上一緒だったのだから、刀剣男士となった今のきみの中にも彼の思い出が残っているのは当然だろう」 「人の血肉というのは不思議ですね。……心、というものも。魔王の声など、今まで綺麗に忘れていたのに」 宗三左文字が数珠を絡めた白い手を己の目の前に差し出して、しげしげと眺めた。 「魔王は神仏など信じてはいませんでした。人は死ねば無で、霊魂は転生もせずただ死んで滅びるのみと明言していました。……そんな彼に、香を捧げたところで何になるだろう、とは、自分でも思うのですが。………でも、今日、本能寺の炎を思い出すと、何故か、胸が苦しいのです」 「宗三どの」 悄然とする宗三左文字の肩を、歌仙兼定は寄り添うように抱いた。 「悼む気持ちをこらえる必要は無いんだよ………死者への鎮魂の儀式は、遺された者たちの為のものでもあるからね」 宗三左文字の潤んだ目が歌仙兼定を見た。 「………そう言っていただけると……少し気は楽になりますね」 宗三左文字を慰めるように歌仙兼定は微笑した。 「僕たちは刀剣ではあっても、身体や心は人間のものをなぞっているからね。月日を経るごとに、人間らしくなっていくものなんだろう。……僕の拵を作った三斎公が、本能寺の変から五十五年も経って、齢七十五で信長公の命日に墓参りをしたことがあったよ。どんなに年数を経ても、消えない気持ち、忘れられない気持ちというのはあるものさ」 「歌仙………」 「遺されるほうもそれはそれで辛いからね……三斎公はご長寿だったが、それ故に、大切な人に先立たれることも多かったよ」 「………あなたも……近頃、昔の主のことを思い出すようになったのですか………?」 「そうだね。否定しないよ。………僕たち打刀に主から極の許可が下りるのは、まだまだずっと先のことだろうが。それでも思うところがあるのは、修行に出た短刀の子たちの有りようを、自分の身の上に置き換えて考えるようになった、ということなんだろうね」 「……………」 宗三左文字は息を吐いて黙り込んだ。 歌仙兼定の肩に体を預け、そのまま、庭に流れていく香の煙を目で辿っていく。 緑濃くなった庭の木々の葉を、小降りの雨が叩く音がする。 「涙の雨に 雨に濡れた庭を眺めながら、歌仙兼定が、宗三左文字の知らぬ和歌を引いて、空模様と宗三左文字の心情を評すように呟いた。 宗三左文字は歌仙兼定の体温に触れながら、黙って物思いに沈んでいた。 やがて梅雨空が少し明るくなって、雲間から光が差し込んだ。 「ごらん。虹だ」 歌仙兼定の言葉どおり。宗三左文字が空に目を上げると、中空に虹が生まれ始めていた。 切れ切れに現れた七色の橋は、やがてくっきりとした弧を描いて、空を大きく彩る。 「……もうすぐ梅雨明けだね」 脇で歌仙兼定の優しい声が聞こえる。 「………ええ」 肩を抱かれ、己の淡紅色の髪をくすぐる歌仙兼定の呼気を肌に感じながら、宗三左文字は頷いた。 深い緑と青、色違いの両の瞳に中空の橋が映る。 香炉から漂う紫煙が、雨の上がりかけた庭にゆるやかに広がり、虹を追うように空へと立ち上っていった。 (了) |
| 後書 |