<其乃三>


 桶狭間合戦に向けて時間遡行を果たした先の天候は、酷い豪雨だった。
 無論そのことを、宗三左文字はよく知っていた。
「相っ変わらず、とんでもねぇ雨だぜ」
 部隊長の和泉守兼定が天幕の中で、長い髪を鬱陶しそうに跳ね上げて、空を見ながらそう零した。
 和泉守兼定の服装は縁戚とも言われる歌仙兼定に一見似ているが、艶々とした長い黒髪や耳飾りの所為か、印象は瀟洒というよりもかなり気障めいて見える。だがひとたび動くと、その性分は外見を裏切るほどに荒っぽく、そのくせ、妙に人好きのする懐こさも併せ持っていた。
「斥候が帰ってきたよ」
 大和守安定が和泉守兼定に報告する。
「おう。今回は随分と三河寄りに出たみてぇだな。……こっからだと、織田より今川の陣地のほうが近そうだ」
 和泉守兼定の、今川、という言葉に宗三左文字の体が無意識に反応する。
 確かに今川の本陣はここから遠からぬ場所にあるようだ。
 土砂降りの雨の中にも、前世で馴染んだ懐かしい気配を察知して、宗三左文字は落ち着かぬ気分になっていた。
 戦場の昂揚や緊張とは違う、もっと別のもの。
 強い磁力。
「戦国時代の野戦は苦手なんだよねー。市街夜戦とかのほうが得意なのに。沖田くんの戦法が殆ど使えないんだもん」
 戦の前だという緊張感など一切なく、大和守安定がゆるゆると喋る。加洲清光と昔の主を同じくするらしい大和守安定は、普段はおっとりした雰囲気でありながら、戦場では、別人のように殺気立った様相を見せる刀剣男士だという。
「安公、おめぇ、突出すんなよ」
 指揮慣れした和泉守兼定が如才なく大和守安定に釘を刺す。
「おめぇ今日は宗の字についててやれ」
 和泉守兼定が自分のことを言っている、と気づくのに、宗三左文字は少しの時間を要した。脇で大和守安定が不満の声を上げる。
「えぇっ! 宗三左文字くんの!? 別に必要ないでしょ! 僕より経験多いくらいだし、」
「馬っ鹿野郎、こいつは之定とくっついて歴戦だった宗の字じゃねぇんだ、三月前に城に居た一振目とは全くの別人だぞ。こっちの宗の字ぁ、本格的な戦場は今日が初めてっつうくらいだろう。だな?」
 和泉守兼定にいきなり振られて、宗三左文字は驚く。
「………、…ええ……そうなるでしょうね……」
 和泉守兼定の、あまりに砕けた言い回しにもやや動揺を感じながら、宗三左文字はかろうじてそう返答した。
「っつーわけだ。安公、経験の足りねえおめぇの更に後輩だ、きっちり面倒見てやれ。ただでさえこんな雨と泥ン中だ。気をつけてたって不慣れだとすぐに方向も敵味方も見失っちまう」
「はぁーい……ちぇっ。せっかく久しぶりの戦場で、血が沸くのに……。じゃ、宗三左文字くん。一緒に戦闘しようか」
 大和守安定は諦めたように溜め息をついたものの、すぐに気を取り直して宗三左文字に明るい面を向けてきた。
「ちょっと楽しみだな。宗三左文字くんは僕ら新撰組佩刀連中と違って、演舞みたいに綺麗に動くもんねぇ。鳥が空を舞うみたいにさ」
 にこにこと大和守安定に言われて宗三左文字は戸惑う。
「………、それは……、」
 大和守安定は自分が刀を取るところは見たことが無いはずだ。
 宗三左文字の当惑を解明したのは、大和守安定ではなく和泉守兼定のほうであった。
「だぁから、てめーが見てたのはそりゃ一振目のほうの宗の字だっつってんだろ! いいかげん二振目に慣れろ!」
「ああ、そっか……でも打ち筋自体は一振目も二振目も一緒なんじゃない? おんなじ刀剣なんだから」
「ンなこと其処の宗の字に聞いたってわかるか! 二振目と一振目は顕現期が重複してねーんだから比べようがねーだろ!」
「…………………」
 幕末志士の佩刀同士が喋り合う脇で、宗三左文字は沈黙する。
 一振目と二振目に違いは無い――昨日の修練場で、へし切長谷部もそれに類することを言っていた。
 無論そうなのだろう。何振目が顕現しようと宗三左文字は宗三左文字だ。
 だが自分は一振目のことは知らない。
 刀身だった前世より後の体験を、二振目の自分と一振目の彼とは同じくすることは一切出来ない。
 如何なる強さだったか、如何なる恋仲だったか、如何なる性格だったのか。
 己の目の前で一振目のことが語られる都度。宗三左文字は、幾重もの薄皮を一枚ずつ剥がされていくように、自分の存在が少しずつ削られていくような心地がしていた。しかし自分が何故そう思うのかはわからず、この心地を他者にどう表現出来るとも思えず、故に誰にも、相談出来ぬままになっていた。
 種々の当惑はいつも一つの問いに流れ着く。
 自分は何の為にこの城に顕現したのだろうか。
 それは二振目の宗三左文字が常々、心の奥底で疑問に思っていることであった。
 城中には既に歴戦の刀剣男士たちが揃っていて、自分が戦場に出る機会は殆ど無い。二振目の自分が城中に在ることが無論主の意思に因るものだとして、主は一体何を思って役立たずの自分を城中に止め置くのだろう。
 喪われた一振目の縁として、その姿だけを、己に求めているのではないか。
 使われぬ刀、一振目の面影を負うただの収集物として、刀解せずに生かしているだけではないのか。
 刀であった頃も、刀剣男士である今も、自分が戦力ではなく某かの象徴として留め置かれていることに変わりはないのではないか。
 答えの出ぬその思考は、宗三左文字の心を沈ませた。
 誰が自分を自分として見るのだろう。
 自分の役割が、ただの一振目の形代であるなら―――二振目の自分ではなく、例えば三振目の宗三左文字がそれを担っても構わないのではないか?
「雲の厚みが薄れてきたな。雨が上がりそうだぜ」
 和泉守兼定が空を見上げてそう言っているのが宗三左文字の耳に届いた。
 今日は己の初陣だ。
 だが宗三左文字の心は晴れず、不安と気鬱の雨が身中に降り続けていた。


 大和守安定に補佐されながら敵を斃してゆくうちに、降雨は完全に止んだ。
 今頃今川の本陣では酒宴が催されていることだろう。太刀であった前世、自分はその場にいたのだ。
 目の前の戦以外のことに気を揉む宗三左文字の隣で、大和守安定は鬼神のごとき獰猛さを発揮して、敵を易々と屠っていく。
「あっははッ」
 浅黄色の法被と白い襟巻きに点々と敵の血を飛び散らせ、大和守安定は笑いながら刀を振るっていた。
「大和守安定。あまり猛進しては……」
 宗三左文字の窘める声も大和守安定の耳には届かぬようだ。
 宗三左文字にとってもそれほど苦になる敵ではないが、厚い雨雲の所為で周囲は暗く、何より泥がぬかるんで足場が悪い。
 部隊長である和泉守兼定の姿も見えない。いつの間にか部隊からかなり離れてしまったようだった。
「猪突すると、織田や今川の勢に見つかってしまう恐れもありますよ」
 背後から声をかけて、ようやく大和守安定が宗三左文字に振り向いた。顔に貼りついた笑みは悪鬼の如く、しかし無邪気な声で言葉が返ってくる。
「大丈夫だって。当代の連中とは滅多にかち合わない仕組みになってるから」
 それは宗三左文字には初耳の情報だった。
「……そうなのですか」
「何度も桶狭間に来てるけど、織田軍とも今川軍とも遭遇したことないもん。僕らの敵である時間遡行軍以外の相手と、鍔競り合ったことないよ。どっちかが望まない限り、向こうには僕らが見えないし、僕らも向こうを見つけられないみたい」
 大和守安定が言う『向こう』とは、戦国桶狭間に集う義元や信長配下の軍勢を指すのであろう。
「……何故そんなことが起こるのでしょう」
「さあ、ねえ」
 飛んできた弓矢を振り払い、敵脇差を一刀のもとに斬り捨てつつ大和守安定は言った。
 その間に宗三左文字も、敵打刀の一人に傷を負わせて泥の中に身を沈めさせている。
「石切丸くんが」
 敵短刀の髑髏を刃先で突き、大和守安定が考えつつ応答した。
「僕らの敵と同じく、時間を遡行した僕らもまた、当代人にとっては実体のない幽霊みたいなものなんじゃないか、って言ってたなぁ。意味はよくわかんなかったけど」
「幽霊……実体の無い……」
「だから、時間遡行先では、霊感が強くて勘の鋭い当代人か、特定の刀剣男士とよほど縁の強い人以外とは出逢わないんだろう、って。刀剣男士の僕らがどの時代に遡っても、当代人とは殆ど出逢わないからね」
「……それは。刀剣男士たる己が見いだせば、自分と縁の強い人間と、時間遡行先で出逢うことは出来るというわけですか」
「えぇー? そうなるのかな。どうなんだろ」
 気づけば周囲の敵は全て駆逐されている。
 大和守安定は血を払って刀を鞘に収め、宗三左文字を見た。
「そんなことした刀剣男士、聞いたことないけど。僕だって、隠れて遠目に生きてる沖田くんを見るならともかくも……、実際に顔を合わせたいとは思わないもん」
「……何故です」
「だって。辛くなっちゃうじゃん。僕じゃあのひとを救えないし」
「……………」
「沖田くんに惚れ込んで、沖田くんと同じ恰好でいる僕を見たら、沖田くんは笑ってくれるかも知れないけど。でも僕は、沖田くんが知らないあのひとの結末を知っちゃってるからさ。沖田くんに向かって笑いかけられる自信が無いよ。むしろ泣いちゃうかも」
 宗三左文字を見る大和守安定の青い瞳が潤んでいる。雨滴が当たっただけがその理由ではあるまい。年若い彼の頬についた敵の赤い血が、汗と混じり合い、血涙の如く顎へと滴っていくのを、宗三左文字は黙然と見つめていた。
 大和守安定の口角は笑う形に上がっている。若々しい無邪気と、歴史を知るが故の諦念が入り交じる、複雑な笑みだった。
「幕末に何度も時間遡行して、何度か新撰組の頓所の傍も通ってるけど……だから僕は、あまり昔の主のことはその場で考えないようにしてる。この桶狭間って、宗三左文字くんの昔の主が二人もいるところなんだっけ? 宗三左文字くんも、あんまり気にしないほうがいいと思うよ」
「……そうでしょうね。ありがとうございます」
 胸中の雨雲が晴れきったわけではないが、宗三左文字は大和守安定にそう礼を述べた。彼が心を伝えてくれたのは理解できたからだ。
 ……刀剣男士と呼ばれるこの連中や、今世の城の主に、己の心が添えたら。胸の曇りも薄れて消えてくれるのだろうか。宗三左文字は空を見上げた。雲は未だ重く空を覆っている。
 この空の下の何処かに、まだ生きている今川義元がいる。
 それを忘れることは、どうしても、二振目の宗三左文字にはできなかった。

 四半時ほどが過ぎた。
「大和守安定、」
 ふと気づいて呼ばわったが、返事はない。
 傍に味方の部隊員は一人もいなくなっていた。敵の姿も見えない。
 初陣の自分が部隊からはぐれていては元も子もない。戻らねば、と理性が訴えた。だが足は何故か先へと進んだ。雨と泥を吸った僧衣を風に翻し、視線を四方に向けて己を見つける者がいないことを確認する。
 大和守安定の言葉は正しいようだ。泥の中を小走りに進んでも、織田勢とも今川勢とも出遭わない。ところどころにはぐれ矢や幟旗、壊れた馬具や小手などが落ちていて、軍隊の気配は強く感じるのに。今の自分は彼らにとってまさしく幽鬼なのだ。そうと確信して、宗三左文字の足取りはさらにしっかりしたものになる。
「御屋形様……」
 今なら間に合うかも知れない。
 織田の総大将、魔王が、小軍勢を引き連れて今川の本陣に斬り込む直前の今なら。
 歴史は変わり、自分こそが歴史改変者として今の主から断罪されるかも知れない。
 だがそれでもいい。
 過ちの如く現代に生まれ落ちた、己の命の灯が『彼』の役に立てるのなら。
 腰にあった太刀の頃の如く、『彼』の身を護れるのなら。
 それこそがむしろ己の本分、己の本性、己の本望ではないだろうか。
「御屋形様!」
 脳をかつての記憶が鮮明に支配する。見覚えのある丘陵を上り下りして、宗三左文字は、今川の本陣に向けて迷い無く走った。
 気づけば足に履いていた草履は泥に取られて喪い、裸足になっている。
 己の矛盾に気づきもしなかった。
 太刀だった頃の己に足など無かったことに。
 目も、心も、記憶も。
 義元への思いも。
『刀剣男士』として生まれ落ちてから初めて獲得した、『現代』の己の心境に過ぎぬと。
 それを彼に教える者は誰もいなかった。

 軍勢がひしめき合っているはずの今川の本陣でさえ、宗三左文字は誰とも行き当たらなかった。
 己の目には全くの無人と見える本陣の中を走り抜けて総大将が座を構える幕を潜る。そこで初めて、宗三左文字は桶狭間合戦の当代人の姿を見つけた。
 床几に腰掛け、空になった漆の酒杯を手にしたまま、酒によって半ばまどろんでいるようだ。
 煌びやかな出陣衣裳。陣羽織に染められた今川の紋。
 間違いなく『彼』だった。
「御屋形様……」
 宗三左文字の心に、懐かしさと焦燥が押し寄せる。
 自分が行動を起こさなければ、すぐに悲嘆の情もそれに加わることとなろう。
 彼をこの場から逃がさなければ。
「御屋形様、」
 彼を起こそうと手を伸ばしかけたとき。
 一重の薄い瞼が開いて、今川義元が目を覚ました。

 己の傍に近しい者の気配がある。
 幽鬼のように、存在感の薄い僧形の者がそこに立っている。
 義元が目を上げると、その僧の悲しげな眼差しと視線が交差した。
 その薄い唇から思いもよらぬ言葉が紡がれる。
「軍を引いてください、御屋形様、」
 僧に見覚えはない。自分は酒に酔って夢でも見ているのか。
 訝る義元の目の前で、相手は焦れたように身を捩る。
「貴方に由縁のある者として、心から進言致します。今は御身の危機です。尾張守の魔手がすぐ其処まで迫っています。御屋形様だけでも、今すぐ駿河へお戻りください。織田に敗れて御身が滅ぼされた後は、今川家は大名として立ち行きません。どうか、ご決断を」
 何を言うか。
 義元は唸るように声を上げた。
 織田は寡兵、対する今川は大軍を仕立てて尾張まで進んできたのだ。今日しも織田の軍勢を破り、祝いの酒宴を催しているところである。この後に勝敗が逆転するなど考えもつかぬ。
「それが尾張守の策略なのです……御屋形様の油断を誘い、その首を取りにやってきます。織田はいずれ天下を取り、今川の権威は喪われてしまうでしょう」
 黙れ、と音声を上げて今川義元は立ち上がった。義元の怒りに僧形の者は身を揺らがせ、しかし退かない。
 守護大名たる名門、今川義元をまるで畏れず、むしろ懐かしげに、賢しげな進言をしてくるその存在に、義元ははたと心当たりを得る。
 だがそれは宗三左文字のまったく予期せぬ人名だった。
「貴様、恵探か」
「恵探?」
 義元にそう呼ばわれて宗三左文字のほうが当惑した。聞き覚えのある名ではあった。やがて宗三左文字は、それが義元と跡目争いを為した彼の同母兄であったと思い至る。
 玄広恵探。目の前の義元と同じく、僧形のまま相続争いに巻き込まれた、今川の嫡流だった。当時の今川当主であった長兄の氏輝と、次兄の恵探。この二人が同日突然に死亡したことによって、三男の義元は今川の当主の座を継いだのだ。
「恵探め。駿府や藤澤で儂の進軍の足を引っ張るだけでは飽き足らず、こんなところにまで姿を現したのか」
 相続争いを為した玄広恵探が、桶狭間合戦の直前に実弟義元の枕元に亡霊として姿を現した。それは桶狭間後に、駿河に流布した噂であった。
 己が身を滅ぼした仇ではあっても、今川の危機とあっては見捨てて置けず、進軍せぬよう義元に助言を為した、と。
「……違います、御屋形様。僕は玄広恵探様ではありません、」
 そう釈明しながら、宗三左文字は絶望に近い感情を味わっていた。
 僧の姿、幽鬼のような気配で彼の目の前に立ち、彼を説得せんと如何に試みようとも。
 義元が自分を仇敵と誤って認識しているなら、自分の言葉が彼に響くことは決してあるまい。
 歴史は軽々には変えられないのだ。
 それでも宗三左文字は諦め切れず、目の前に立つ昔の主に向かって言葉を紡ぎ続けた。
「お願いです、お急ぎください。貴方にとって僕は馴染みの無い者とお思いでしょうが、今川を思う心、あなたを思う心は誰よりも強い……」
「黙れ!」
 義元が激昂した。
「幽鬼め、儂の眼前から消え去れ! さもなくばこの場で、彷徨える幽魂を断ち切ってくれる」
 義元は宗三左文字に正対して腰の太刀に手をかけた。
「御屋形様……!」
 宗三左文字は色違いの目を瞠って声を上げ、そして動かなかった。
 かつての主たる今川義元に斬られ、心の迷いごと、刀剣男士としての霊魂を断たれるならば―――それもまた、己の運命でもあろうか。そう受容しかけた宗三左文字は、直後、義元が手にしている太刀が『何』であるかに気がつき、はっと息を呑んだ。
 風雨を防ぐ革包の太刀。刀身の長さ、反り。
 見間違えようもない、左文字派の逸品。
 義元が下げている太刀は紛れもなく、
「―――宗三左文字……」
 魔王に奪われ、磨上を受けて打刀にされる以前の、未だ太刀である宗三左文字だった。
「………………」
 言葉を失って立ち尽くす僧形の宗三左文字に向けて、義元が太刀を鞘から引き抜く。
 宗三左文字は身じろぎもできなかった。
 心中では嵐が荒れ狂う。
 現世で刀剣男士として顕現した者が、時間遡行先で、同じ魂魄を共有する当代の刀剣に斬られたら――この身には、一体何が起こるのであろうか。
 動かぬ相手に義元が焦れた。
「――失せよ!」
 義元の大音声と共に、手にした刀が横様に払われる。
 太刀である宗三左文字の切っ先が、天幕の中の湿った重い空気を切り裂いた。
「宗三左文字くん何やってんの!」
 聞き覚えのある声が、緊迫を孕んで刀剣男士である宗三左文字の耳に響き、直後、体が回転して横身に衝撃が伝わった。
 刃傷の痛みではない。
 何者かが袖を強く掴んで、宗三左文字の体を地に引き倒していた。
「……大和守安定…、」
 自分を呼ばわった相手の名を呟く間に、今川義元の武将姿は陽炎のように揺らいで消え、幕内は無人となっている。
 当代人たる義元に代わって、宗三左文字の傍には、現世の同僚たる刀剣男士の姿があった。
 幕内の湿った土の上に宗三左文字は倒れ、僧服の袖を掴んだままの大和守安定が、仁王立ちで宗三左文字を見下ろしていた。
 大和守安定の若々しい相貌が、今は怒りで酷く歪んでいた。
「いったい何してんだよ! 戦もせずに禁忌を犯しやがって、」
「つッ」
 激昂した大和守安定に足蹴にされ、宗三左文字は呻く。
 大和守安定の怒りは止まず、更に二度、三度と宗三左文字を力任せに蹴ろうとする。
「やめろ、安公!」
 和泉守兼定が、垂れ幕を跳ね上げて幕内に走り入り、大和守安定に駆け寄ってその両肩を掴んだ。
「止めないでよ、兼定! こんな奴、僕がこの場で刀の錆にしてやる!」
 喚きながら腰の刀を抜こうとして、大和守安定が暴れる。和泉守兼定は彼を放さず、羽交い締めにしてその行動を阻止した。
「止せってんだ、安公! 軍紀違反を裁くのは主の仕事だ! 戦場で俺たちがそれをやるのはただの私刑になっちまう。私刑も軍紀違反だぞ!」
「くそぉ、離してよ! どうせ刀解処分だろ、だったら今この場で……」
「それを決めるのは刀剣男士の俺たちじゃねぇ!」
「くっそ……、離せってば、兼定ぁ!」
 荒く息を吐きながら泥の上に半身を起こして同僚二人を見上げ、宗三左文字は気づいた。
 顔を真っ赤に染め、本気で怒っている大和守安定の青い目から、滂沱の涙が溢れていた。
「遡行先で昔の主の死に直面するのはみんな一緒なのに! 誰だって、どの刀剣男士だって、おんなじだ! 気にしてないわけじゃない、仕方なく我慢してるんだ! 歴史を護る刀剣男士なのに、なんでそんなこともわかんないんだよ! 天下分け目を幾度も経験した、為政者の所有刀のくせに!」
 大和守安定の言葉に、宗三左文字は胸を突かれて息を止めた。
「僕や清光が……、どんな思いで幕末の洛中に何度も遡行するか、おまえにわかるかよ! 沖田くんが、あの時あの場所で、戦功も立てられずに、ただ病で弱って死んでいくのを見てるだけなんて……今の主くんが城に持ってる薬一つ、沖田くんに渡せたら……! 幕末には不治の病だった沖田くんの労咳が、治るかも知れないのにっ……!」
「安公、もういい、抑えろ」
「兼定の土方くんだってそうだよ! 箱館で生き延びられたら、その手前で近藤先生を護り切れたら! もっともっと活躍して、歴史だって全然違う結末になってるかも知れないのに!」
「――安定。そのへんにしとけ」
 涙を流しながら怒りの言葉を喚き散らす大和守安定の声に被せるようにして、冷静だがよく響く声音で和泉守兼定が窘めた。
 和泉守兼定に羽交い締めにされたまま黙って身を震わせていた大和守安定だったが、頃合いと見て力を緩めた和泉守兼定の腕を振り払うと、再度宗三左文字を睨みつけ、深く息を吸い、直後に、大声を上げてわあわあと泣き出した。
「……………」
 成人した年頃の男が号泣するところを初めて見た宗三左文字は、呆気に取られて大和守安定をただ見上げていた。顔を天に向けて、表情を隠すことすらせずその場に突っ立って叫びながら泣いている大和守安定を、気遣うとも疎んじるとも取れる視線で和泉守兼定は見やって、宗三左文字に改めて向き直る。
「……おめえは誰からも聞いてなかったんだな、宗の字。刀剣男士はみんな、時間を遡行するたんびに思うところがねえ訳じゃねえ。どの時代に生まれた、どんな刀種の刀剣でもな。……ただ、俺たち刀剣男士の代まで歴史が定まっちまってる以上は、俺たちの昔の主への感情は全部、戦場の外に置いとかなきゃなんねえ。どんな歴史、どんな葛藤があろうが、俺たちの所有者は遡行前の城で待ってる主只一人だからな。今の主の歴史に沿うのが俺たち刀剣男士の存在意義だ」
「………………、…」
 宗三左文字は言葉も返せずに、青ざめた顔で唇を引き結んだ。
 大和守安定はまだ号泣している。泣き止む様子もなくしゃくり上げ、鼻水を袖で擦りながら幕を潜って、ふらふらと歩きながら、今川の幕の向こうへと立ち去ってしまった。
 大和守安定の鳴き声が遠ざかるのを聞きながら、ようやく、宗三左文字は己の間違いを思い知って、顔を俯けた。
「……申し訳、ありません………僕は…、」
 大和守安定の直截な悲嘆と、和泉守兼定の想外に理知的な諭しが、宗三左文字の胸を打った。
 今生、刀剣男士の姿を取った時点で、今川義元との縁は既に終わっているのだ。
 幾度時間を遡行しても。幾度義元に会い、彼の死を見届けることになろうとも。
 それが己に課せられた役割なのだ。
 正しい歴史を見守り、それをねじ曲げる輩を敵として屠ることが。
 二度と義元の刀には戻れない。今さっき彼の傍近くに立ち、肌が触れるほどの距離で、彼の香を嗅ぎ、呼気の熱を頬に感じたのに。
「確かに……、僕は、刀剣男士としては失格なのですね……」
 強さや能力の以前に、心構えの段階で。
 宗三左文字は己の立ち位置を見誤っていたのだ。
「――立ちな。戦はまだ終わっちゃいねえ」
 泥の上に座り込んだままの宗三左文字に和泉守兼定が声をかける。
「帰城したら主に諮って、おめえの処遇を決めなきゃなんねえが、それは後の話だ。未熟だって何だって、戦場に立つ間はおめえも大事な戦力だ。安公もそこは承知してらぁな。あいつはあいつで、おめえとは別方向に、刀剣男士としてまだ未熟なんだが……、それでも昔の主の伝で、仲間の大事さはよくわかってる」
「……帰還したら、大和守安定には詫びねばなりませんね……」
 震える息を吐きながら宗三左文字は立ち上がった。
「おうよ。今までの顛末は一旦忘れろ。今は戦って、生きて帰ることだけ考えとけ」
「………わかりました………」
 泥まみれの手で刀を握り直し、宗三左文字は頷く。
 先程まで義元と二人だけだった今川本陣の幕内には、今は刀剣男士しか立っていない。今川と縁の薄い大和守安定や和泉守兼定の登場で、宗三左文字と今川義元とを同じ場に立たせる力は失われてしまったもののようだった。
 さようなら、御屋形様。
 宗三左文字は口の中で寂しく呟く。
 和泉守兼定の手前、それを声に出すことはできなかった。
「……行くぜ」
 宗三左文字の心を知ってか知らずか、和泉守兼定が短く促す。
 敵を迎え撃つ為に、二人の刀剣男士は今川の本陣を後にした。






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